青に捧ぐ唄
まず視界に飛び込んできたのは、水だった。
見渡す限りのぞっとするほど透き通った水。そこから、ひどく傾いた灰色の建物がうっそりと生えていた。
「は?え、なにこれ」
思わず後ずさった背中に荒れたコンクリートの壁があたる。へたり込んだ膝の近くで、柔らかそうなぺんぺん草がふらふらと揺れた。さっきまでわたしがいた場所には、透明で分厚い壁のおおきな箱が沈んでいる。
廃墟だ、と思った。
ファンタジーゲームの舞台のような、廃墟。ううんようなじゃなくて、きっと舞台。わたしは夢を見ているんだ。
部屋着を着たままだったから、だから太ももにあたる苔の感触がすごく気持ち悪い。
立ち上がろうにも力が抜けたまま、緩慢にしか動かない足。
訳も分からないまま流れ始めた涙だけが変にいつも通りで、空を仰いで、目を瞑って、滴る液体をそのままに、息さえもゆっくりと止めた。
さっきまで、さっきまでわたし、自分の部屋にいたよ。
六畳もない狭い部屋だった。梅雨だからあんまり布団は干せないし、窓も大きく開けられないし、みたいなことで悩んでいたんだ。
申し訳程度についていた扇風機。カーテンはおかあさんと選んだパステルオレンジの水玉模様で、夏はしまうけど、似たような色合いのカーペットだってあった。わたしなりの、好きで飾り付けた部屋だった。
大学生になって、流石に遠すぎるからって一人暮らしを始めて、やっと慣れ始めたばかりだった。
水越しに這い上がってくる冷気に背筋が震えた。
あんなに暖かかった六月の熱気は気が付けば少しづつほどけてしまって、たぶん今は水面の上に流れるように浮かんでいる。
こんなの、わたし、知らない。
きっとこれは夢で、だからすぐに目が覚めて、きれいさっぱりすべてを忘れてしまうんだ
……でも、夢じゃなかったら?
水に濡れた手で、震える身体を掻き抱く。
身体のふちからにじみ出るように、かすかな波が水面を滑っていく。
わたしはどこにでもいる、ちょっと友達作りが苦手なだけの学生で。
狭い自室に帰れば部屋の隅にはパジャマとか脱ぎ捨ててあって。
だから、だから、こんなところにいるような、いていいような人間じゃない。
わたしは、主人公じゃない。
足に何か触れたような気がして、ふと足元を見た。
「ひ、」
ひきつるような音がのどから零れ落ちる。
むき出しの足元に生えたぺんぺん草、その間から、青く透き通った魚が顔を出していた。
動く宝石のように、ほんのりと降る日光を浴びて、ひかる。
「や、やだ、やめて」
必死に壁に背中を押し付けながら、反射的に立ち上がろうとして体制を崩した。
ばしゃん、と手をついたまま、情けなくて情けなくて歯を食いしばった。
大粒の涙が水面に溶ける。ふいに顔に影を感じて、わたしは空を振り仰いだ。
どこまでもずっと、きっと有名な画家が描いた絵のように。ただひたすらに青い、青い、空。
その真ん中に、しろい少女がいた。
とんでる。
そうわたしの脳が認識するとともに、少女の白い素足が水面に付く。ゆっくりと広がっていく波紋を追いかけるように、また青い魚が舞う。ばしゃん。
「あなた」
綺麗な声だな、とまず思った。
それから、綺麗な足だな、とも。
すべてがぜんぶ細くて、足首とか膝あたりがさらにきゅっと締まっていて、そんな足が白いワンピースから生えていた。
ゆっくりと少女の動きを追うその服はおそらくエナメルでできていて、軍服を模している。
わたしは、ゆっくりと彼女を見上げた。
どこもかしこも細くて、あと、髪がすごく長かった。しかも髪一本一本が宝石でできたみたいに光っている。それだけじゃなくて、青。深い深い濃紺だ。
すごくきれいな少女だった。
彼女は何の衒いもなくこちらに歩み寄り、静かだった湖面は波紋まみれになってしまう。
彼女はぽかんと口を開けるばかりのわたしをはちみつのような色合いの目で見て、軽く何かをつぶやいた。
「な、なんですか……?ここ、どこですか?なんでわたしこんなところに」
早口でまくし立てるわたしの唇を、白い指が止める。無造作にしゃがみこんで目線を同じくした彼女は、水に広がる髪を気にすることもなく、そっと口を開いた。
「おはよう。コールドスリーパー」
「私たちは、あなたを歓迎する」
じっとわたしを見る美しい瞳の奥に、歯車が見えた気がした。
数百、あるいは千年先の世界にたどり着いてしまった『わたし』は、最後の人類となってしまったことを告げられる。
しかしあきらめかけた矢先に告げられた、失われていたはずの人類の情報。荒れ果てた火星で見つけた家族の痕跡。彼女は何を選ぶのか――――
―――みたいな話の序章です。見たいなって人がいたら続きも書きたいな~~~~みたいなふんわりした感じで書きました。