初めに、神が神ゲーを作られた
男は産業医にインフルエンザの可能性があると診断され、高熱と至福の中でふらふらと帰途へ向かっていた。
インフルエンザ。なんという甘美な響き。
それは『一週間会社に来てはいけない』という神の啓示である。
仕事をしたくない、というわけではない。むしろ夢だった職業についている。
しかし、この職は九十九パーセントの確率でブラックなのだ。
同業他社の友人をあたっても有給全消化や定時帰りなんて都市伝説の類いである。
そのかわり、納品前は三週間缶詰だった話、真冬にビルの空調を切られたのでほのかに暖かいコピー機の横で寝た話、格安で充実した設備のカプセルホテルの争奪戦の話などはよく聞く。
ゲームディレクター。
それが彼の職業である。
ゲームが子供の頃から大好きだったという理由だけでここまで来てしまったし、後悔はしていないつもりだったのだが、それでも明るいうちに家に帰ることが数年来の珍事になってしまっていることに驚きを禁じ得ない。
夕日を見ながら歩いている自分が未だに信じられなかった。
熱のせいなのか、何気ない風景がいつもとはまるで違って見えた。
全てが鮮やかで、素晴らしい解像度だった。画素数は無限、色数も無限。
普段は滅多にお目にかかれない制服姿の学生達が駅へ向かって歩いている。
ちょうど下校時刻なのだ。
熱で節々が痛いのも忘れ、男は感慨深くその夕景を眺めた。
どこまでも続く果てのないオープンワールド。
霞んだ山を背景に、一つの計算狂いもなく並ぶマンションや一戸建ての住宅地。
手前になるにつれて細部が描写される空気感の演出も完璧だ。
一つ一つのオブジェクトは決して色違いなどではなく、同じように見えるマンションの群れさえも個々の窓や汚れに至るまで妥協せず変化がついている。
車に至っては、何台も連なってものすごいスピードで道路を走り抜けるのだ。
同じ車種が続くことはまずない。
もし普通のゲームだったなら、カラーバリエーションで誤魔化した数種類の車種が一分おきにやってくることになるだろう。
横断歩道を渡り、近道の緑地公園をつっきった。
いつもは真っ暗に外灯がぽつぽつと灯るだけの殺風景な道が、きらきらと夕日を受けて輝いている。
さっと風が吹いて、木々の葉がいっせいになびいた。
素晴らしい物理演算だ。
どんなハイエンド機器をもってしても、ここまで風を計算尽くした動きは出せない。
そして、さわさわという葉ずれのサウンドも、絶妙のタイミングで聞こえてくる。
木々のテクスチャの正確さはどうだ。
いいや、テクスチャの誤魔化しではなく、複雑なポリゴンの凹凸がテクスチャに見えているだけなのだ。
そっと幹に手を触れてみた。
この木だけで、何億のポリゴン数が使われているのだろう。
一つのオブジェクトに、しかも何の目的もない木に、どうしてここまでの情熱を持って作業にあたることができるのだろう。
そして無数にいる人間たち。
彼らはNPCではない。全ての人間が意志を持ち、行動している。
ホームで粛々と電車に乗り込み、最寄り駅できちんと降り、彼の目が届かない場所であったとしても確かに生活を営んでいるのだ。それも世界中で。
ジョブは一万種以上、アイテム数はそれこそ兆や京を越えるだろう。
人間だけでも恐ろしい情報量なのに、世界中の動物、植物、昆虫から宇宙に至るまで動きがデザインされ、法則にのっとって全てのものが変化し続けている。
特筆すべきは、この膨大で複雑で緻密な世界が0.01秒も処理落ちせずにたえず動いている事実だ。
バグも存在せず、どこにもロード中なんて表示されない。
この世界を作ったプログラマーは神に違いない。
神は神ゲーを作られた。
人生に一度でいい、俺だってこんな素晴らしいゲームを作ることができたならどんなに嬉しいか。
楽しい妄想をしながら帰った男は、家に入ったとたん、廊下に寝転がった。
六畳一間の安アパートだが、散らかしたベッドの上を片づける気力が残っていないのだ。
廊下の隅には毛布も常備して、最近は大抵ここで寝ることにしている。
慣れればどうということもない、と男は毛布をかぶって目をつぶった。
「目覚めよ……目覚めるのじゃ……」
次に目が覚めたとき、男は真っ白い空間にいた。
白髪をぼうぼうにはやし、髭も長く伸びた老人が寝ている彼を見下ろしている。
白いだぶだぶした布を全身にまとった、奇妙な服をきていた。
「あんただれ?」
「わしは神じゃ」
老人は自信満々に言ったので、彼は何となく納得してしまった。
たしかにそれっぽい格好はしている。
起き上がって回りを見渡したが、やはり自分の部屋は消え失せていて、真っ白な空間がどこまでも続いていた。
神が重々しく言った。
「これ、おまえ。先ほどおまえは素晴らしい世界を作りたいと願ったな」
彼は頷いた。
世界がきらきらと輝いている感じをまだ覚えていた。
「それはもう」
「よかった。わしももう歳じゃから、後継ぎを探していたんじゃ。
おまえならば、地球にひけをとらない世界を作ってくれることじゃろう」
神はだぶだぶした服の袖をごそごそとあさって書類を取り出し、どこにでもありそうなボールペンと一緒に手渡してきた。
「さあ、この契約書にサインを。
そうすれば、おまえもわたしと同じように、素晴らしい世界をつくることができる」
彼は期待に胸を膨らませて、契約書を受け取った。
そして数行読んだ後——
怒りにまかせ、その紙をくしゃくしゃに丸めて地面に叩きつけた。
「ふざけるな! 開発期間が六日しかないじゃないか!」