痕跡
肉屋の裏口前に戻ると底部がやたらと傷付いているポリタンクが転がっていた。扉は開け放たれた状態で室内が冷たくなっている。
「淑女を怒らせちまったかな」
室内を覗きこむと、もう一つのポリタンクは室内に在り、その近くで子豚のベーブがヒクヒクと鼻を鳴らしてぐるぐる歩き回っていた。寝室の扉が半開きになっている事からユニが扉を開けてベーブを発見したらしい。近くの椅子には彼女の紺色の毛皮コートが掛けられたままになっている。どこ行った?俺はゾンビどもが入って来ないようにポリタンクとベーブを抱えるとそれを冷蔵庫近くまで持って行く。
魂を覗き見る少女ユニ。
彼女の力は恐らく本物だ。
その有用性が軍に漏れたとしたら、恐らく彼女は標的にされるだろう。しかし、彼女はあの場から動いてはいない。人と出会ったのが55日振りと言っていた。恐らく軍との接触も無かったはずだ。軍属の人間に拐われた可能性は低い。彼女の言葉を思い出す。俺の魂は見えないと言っていた。
俺に近い何かに誘拐されたと考えるのが妥当か?ここは肉屋だ。食料ならいくらでもある。連れ去った奴はユニの姿を見て意図的に連れ去った可能性がある。
混乱に乗じて犯罪を犯す者はいる。目的は恐らく幼い少女に己の欲望を吐き出す輩だろう。彼女の人形の様な容姿は美少女と言って差し支えないだろうし、年齢的には恐らく12歳ぐらいか。
脳裏にこの街に潜伏するとある人物の顔が浮かぶ。児童性愛者の変わり者殺人鬼。そいつには借りがあるがこうなった以上は関係ない。誘拐されてから20分ほどは経っているだろう。もってあと二時間というところか。オーク製の大きな机上に広げられた地図を指でなぞり、大体の目星をつける。恐らく爆撃地域を潜伏先に選ぶ馬鹿ではない。
そこまでこの肉屋からは遠く離れていないだろう。奴とはこの閉じられた箱庭の中で需要と供給の関係をそれなりに保てていたと思う。今日も恐らく食料と水をたかりに来たのだろう。そこへユニが居合わせた。目の前に白金色に輝く髪を垂らした少女を奴は発見した。奴にとってそれはどんな高級食材にも勝る至高の食料。手を出さずにはいられないはずだ。
消耗した弾薬をホルダーに詰め込み、小型の鉈をキッチンに戻すと、武器庫の扉を開け、中型のサバイバルナイフを手にする。
「やっぱこっちの方が手に馴染むな」
顔にこびり付いたどす黒い血を濡らした布で拭き取り、ドライソーセージを口に放り込んで出ようとすると、足元に子豚のベーブがやって来る。
「おっと、お前は大人しくしとけよ?」
子豚のベーブに手を伸ばすが、嫌がる様にその手を避け、ユニの青い毛皮コートをしきりに嗅いでいる。俺もそのコートを掲げて匂いを嗅いでみるが薔薇の甘い匂いに包まれていて変なところはない。いや、幼女の服の匂いを嗅ぐのは変態極まりないか。そのコートを壁に戻そうとしてその偏った重みに違和感を感じ、ポケットの中から記入用のペン数本の他、「チェブラーシカ」の日記帳と「マーシャとくま」のメモ帳が出てくる。恐らく潜伏していたとされるデパートから拝借してきたものだろう。もしかしたら……デパートに住んでいる方が彼女は幸せだったのかも知れないな。俺と出会わなければ拐われる事も無かったはずだ。
「日記の方を読んだら多分、殺されるな……」
子豚のベーブが俺を置いてどんどんと歩き出し、扉の外へと出てしまう。俺は慌ててメモ帳だけを腰の鞄に仕舞うとその後ろを着いていく。
子豚のベーブは「プイッ!」と嬉しそうに鳴き声を上げるとゾンビが俳諧する街を何の恐れも無く小さな足でどんどん進んでいく。ゾンビは獣を襲わないらしい。その頭上を跨いでどんどんこちらに駆けてくる。マズイな、慌てて撃っちまったが、その発砲音を聞きつけたゾンビ達が更に集まって来る。なるべくユニを誘拐した犯人の為に弾はとっておきたいんだけどな。俺とベーブは一緒に街を駆けていく。這い寄るゾンビ共を蹴散らしながら(主に俺が)。