心臓
「55日間を君はあの場所で過ごしてたのか?しかも一人で?」
崩れた外壁に身を潜めながら私の前を進むエプロン姿の男。体中に浴びた亡者達の血が干からびてドス黒くなっているけど、本人は全然気にしていないようだった。二つある水の入ったポリタンクのうちの一つを抱えながらの身のこなしとは思えない。その一つは私が持たされているのは納得いかないけど。
「すごいなぁ……食料とかどうしてたんだ?体も衣服も綺麗だし、最初は人形かと思ったよ」
水の入ったポリタンクを両手で持ちながら男の後ろをついて行く。すっかり伸びてしまった顔に掛かる金髪を邪魔そうに掻き上げながら。
「へぇ……近くのデパートのライフラインはまだ生きてたのか。それは幸いだったな。あとでチェックしておくか。この辺の人間は?」
茶色の髪に緑の瞳を持つゴリラみたいなお兄さん。その声を聞きつけた片腕の無い亡者が現れてお兄さんを襲う。溜息交じりに相手の腕と頭を掴んで、崩れた外壁に何度も打ち付けて頭を潰して活動を停止させる。暫く痙攣して動きは鈍くなったけど、尚もその青く変色した手を伸ばしてくる。
「へ?ゾンビなんだから頭を潰せば死ぬだろ?」
私はそっと目を瞑りながら頭を潰され、脳みそをぶちまけている亡者の心臓を指差す。
「心臓……?頭じゃなくて心臓なのか?」
私は目を瞑りながら首を横に振る。長い髪が頬に当たって少し痛いわ。魂は思考を司る脳に宿らず、心にその在り処を求めているのかも知れない。私が目を開けると半信半疑で引き抜いたリボルバーの引き金をその亡者の心臓に向けて引く。乾いた発砲音と共に一度体が痙攣した後、動かなくなる。
目を瞑りながら私は小さな膨らみを持つ自分の胸の前で手を組み、祈りを捧げる。彷徨う者に安らぎを。亡者の蒼く燃える霊魂が揺らぎながら消えていく。……私は違和感に気付く。彷徨う亡者にあってゴリラのお兄さんに無いものがあった。それは蒼く揺らめく魂の輝きだ。私がお兄さんに向かって生きているかどうかの質問をすると、彼は笑ってこう答えた。
「腹は空くし、何処かでゆっくり眠りたいとも思う。あとそこに美女のおまけが付いてりゃ尚更ラッキーだな」
何処からどうみても彼は生者。でも彼の霊魂は何故見えないのだろうか?やっぱりゴリラさん?
「ジョゼフだよ、肉屋のジョゼフ。ゴリラじゃねぇ。お嬢ちゃん、人形みたいに綺麗な顔してるのに言葉は辛辣だな。名前は?」
私は短く「ユニ」とだけ答えて大通りを東に進む。
「ユニちゃん、行き先は分かるのかい?」
私はとりあえずここから一番近い鉄の壁をポリタンクを引きずりながら目指して歩いている。
「確かに壁はそっちだが、俺の家に寄りたいんだ。装備も整えたいしね?」
お兄さんの体に鉈と銃が揃えられている。まだ足りないというのかしら?
「対化物装備はこれで充分だが……壁に行くなら対人装備が必要だ」
人?
「そっか……本当にここから動いて無いんだな。この原因不明のゾンビハザード……政府……いや、この世界はこの街の住人を誰一人ここから出すつもり何てないのさ。有効な対応策が見つかるまで誰一人な?相手は軍隊……しかも特殊部隊も居る。唯の肉屋が勝てると思うかい?」
私は一言、ゴリラならきっと大丈夫よ。とだけ答えた。呆れた顔をしながらも私の前に立ち、道案内役に回ってくれる。
「まずは腹ごしらえといこうか。肉屋自慢のフルコース、ご馳走するぜ?」
私達は石の家が連なる商店街へと一旦進路を変えて歩きだした。