Nephilim
雪空の下、砂煙が舞う崩落した聖堂の瓦礫の中で僕は眼を覚ました。
荘厳だった聖堂の壁もシャンデリアも跡形もなく崩れ去り、所々に蒼い色をした炎がまるで鬼火の様に燻り続けている。
「お目覚め?王子様?」
女性の声がする。殺人鬼のポゥ=グィズィーさんが僕の顔を見て目を輝かせていた。左右で結んでいた黒髪が解け、力無くその長髪が肩にかかっている。僕のお腹に顔を埋める様な形でお姉さんは僕に覆い被さって埃塗れになっている。きっと崩落する建物の瓦礫から身を呈して助けてくれたんだと思う。
「ポゥさんも無事で良かった。あの黒い幽霊は?」
ポゥさんがその体勢を変えようともせずそのまま僕との会話を続ける。丁度、僕の下腹部にポゥさんの大きくて柔らかい胸の部分が押しつけられて恥ずかしいのだけど。でも、名残惜しいので特に言及はしない。
「あんまり無事とは言えないけど……君に取憑いていた幽霊の正体を知りたい?」
「うん。あと、お姉さんの正体も。だって、僕の体は軍隊の全兵力を以てしても傷つけられなかったんだよ?それを貴女は意図も簡単に、しかもあんな短い刀で軽々と僕の体を両断していった。もう訳が分からないよ」
お姉さんが這いずる様に僕に顔を近づけ、その紅い瞳を揺らめかせながら囁くように語りだしてくれた。
「そうね……あなたはロシア正教?」
「うん。洗礼は済ましてる」
「そう……それなら少し理解しにくいと思うけど、人は死んだらどこに逝くと思う?」
「天国……かその中にある地獄でしょ?」
「私に信仰上の死生観をとやかく言うつもりは無いのだけど、仮説のつもりで聞いて頂戴?」
「うん。分かった」
「いい子ね。こっちの君も元気そうだしね」
「それは言わないでよ。お姉さんが体を退けてくれたら万事解決するんだけどね」
「フフッ……楽になりたかったらいつでも言ってね?」
僕はため息をつきながらもそのままの体勢を受け入れる事にする。
「この世界はね、決して交わる事の無い二つの世界が背中合わせに成り立っている……そう考えてみて?」
もう一つの世界が隣り合わせ?さっきまでの話を鑑みると……。
「もしかして、生者の国と死者の国?」
「あら、察しがいいのね。私達の組織では物質界たる生者の国を「陽ノ國」精神世界である使者の国を「陰ノ國」とかって呼んでるわ。私は簡単にあの世とこの世って呼んでるけどね?」
「じゃあ……もしかして、このサンクト・ペテルブルクで起きたゾンビ化現象って……」
「ロシア連邦の実験、その招いた結果により両者の境界線は曖昧になってしまった。報道ではバイオハザードとして扱われているけどね。陰ノ國の力を利用しようとしたのよ。ま、日本側が止めたにも関わらず、計画を断行したロシア連邦の性ね。失敗した訳だけど」
「でも向こう側の世界は精神世界で利用できるものなんて無いんじゃ?」
そっとポゥさんがその指を僕の心臓に推し当てる。
「望む形では無かったとはいえ、君の体に傷付ける事が出来た兵器がこの世にあったかしら?」
僕はあの鉄の壁が隆起してから戦い続けた133日間を思い出す。
「そっか。確かにあの力を利用出来れば……決して撃ち落とされない戦闘機や戦車、戦艦を造る事が出来る。しかも攻撃面に於いても一撃で戦闘ヘリを撃ち落とすレベルのエネルギー弾も撃てるし。無尽蔵に湧いてくるエネルギーの利用とかも色々……あれ?でもお姉さんの短刀には叶わなかったよね?なんで?」
お姉さんが微笑みながら上体を起こすと、近くに転がっていた短刀の片割れを右手で拾い上げる。彼女の意思に反応する様にその光り輝く刀身が仄かに紅く変色して震えている様な気がする。そして僕はとんでもない事に気付く。
「お姉さん!左腕が!」
長く垂らされた黒髪に隠れていたけど、お姉さんの左腕が見当たらず、肩口から夥しい量の血が流れていた。左の脇腹も負傷しているようで痛々しい。
「君が気にする事じゃないわ」
「そんな!だって、僕を庇って……」
「きちんと刀で防いだんだけど、少し間に合わなくてね。君の可愛い顔に見惚れて余所見した結果よ。まぁ、君に取り憑いてた奴は床に磔にしたけどね」
お姉さんのすぐ近くに白銀の短刀が床に突き立てられ、その刃先に身体を縫いつけられた黒い影が暴れていた。お姉さんが力無く、膝を床に着いて倒れそうになるのを僕は慌てて抱き止める。
「早く病院に……って、病院は軍に壊されたんだ。とりあえず、止血を……」
慌てる僕にお姉さんがそっと血塗れになった唇を重ねる。僕の初めてのキスの味は血の味がした。って、なんで?!
「ちょ、お姉さん?!」
「最後のお願い聞いてくれる?これはその依頼料よ」
僕は必死にお姉さんから流れる血を止めようと上着を脱いで彼女の体に巻きつける。
「助ける、僕が絶対に助けるから!」
「君が気を失ってる間、私の仲間から連絡があったの。この町に核が撃ち込まれるって」
「核?全部無かった事にするつもり!?」
「生存者の9割は壁の外に出られたらしいわ。あとは……身動きの取れない人達がスモーリヌイ修道院でゾンビ達に守られてるわ。それでも恐らく核の放射線からは逃げられない」
「僕にどうしろって言うの?!」
血塗れの指をそっと床に縫い付けられている影法師に向ける。
「ロシア政府は君を失敗作として消しにかかったけど、これだけの期間、黒霊に取り憑かれて自我を保てていた人間は稀よ。君はもしかしたら適合者かも知れない」
「適合者?」
「簡単に説明すると、黒霊は生者の狂気に取り憑いてこっちの世界に干渉しようとするの。憑かれた人間は大抵その憎しみに飲まれて自我を失う。そうなったら最後、私達専門家が直々に出向いて人知れず暗殺を行なうの。《《君も》》その対象者だった」
「僕も?他にも居たの?」
「えぇ。けど、君と一緒で理性を保ったままだったし、何より、彼女の事は気に入っちゃったしね。組織に報告せずに生かしておいた」
僕は傍らで必死に突き立てられた短刀から逃れようと暴れている黒霊を見つめる。
「組織って?」
「あの隆起した壁は……擬似的に日本のとある地域を模倣し、建設された。その地域は「陰陽樹」と呼ばれる神霊樹に四方を囲まれているのよ。その環境下で偶発的に引き起こされる現象……それが生者の狂気に黒霊が干渉し、怪物化させる。それを私達は影落ち《ブラックアウト》と呼称しているわ。そして私達の組織はその怪物達を人知れず始末している特殊部隊……日本警察警視庁特殊犯捜査(SIT)の系列に並ぶ公式には存在していない第5係よ。私は通称「Nephilim《ネフィリム》」と呼ばれるその組織の人間なの」
「ネフィリム、確か天使と人間との間に生まれた巨人って聞いた事が……ってそれより警察の人なの?!殺人鬼なのに!?」
呆れた様に首を振るポゥさん。
「言ったでしょ?正式には存在していない部隊よ。記録上、私は既に死刑で死んでるしね。警察と言っても実力主義だからゴロツキばっかりよ?さすがに天使と人間との間に生まれた巨人は居ないけど……あっ、確か隊長は半天使だっけ?まぁ、個性的な人間ばっかり雇われてるわ。殺人鬼から暗殺者、変な妖術使い、君みたいな銀髪の魔女まで居るわ。いや、彼女は隊長の友達だっけ?」
「す、すごいんですね。え?銀髪?僕は金髪だけど?あれ?銀色だ」
「あぁ……それ、多分黒霊に干渉された影響よ。特に干渉力が強い個体に憑かれると肉体的変異が起こるの」
「そうだったんですね……銀髪変じゃないですか?」
「そうね、コスプレみたいだけど格好いいわよ」
「へへっ、そう言われると照れるなぁ。あっ、さっき言った干渉力って?」
お姉さんが雪空を見上げながら呟く。
「私もよく分からないんだけど、世界に影響を及ぼす力、運命に干渉する力の事を差すみたいで……その力が高まるとあっちの世界の住人でもこちらの世界に干渉する事が出来るのよ。逆もしかりだけど」
「それと、お姉さんの短刀がどう繋がるの?」
「黒霊に取り憑かれた君が既存の兵器で太刀打ち出来なかったのは、つまり、異なる空間に存在しているからよ。既存の兵器で異空間の物質は破壊出来ない。けど、この短刀の刃先はあっちの世界の物質で形造られている特別性。異空間同士だと干渉力が無い限りは触れ合う事が出来ない。けど、同じ空間なら干渉出来るわよね?その短刀は向こう側の力をこちら側に具現化出来る銀髪の魔女の「魔女創作」による産物よ。それが私達組織の人間に渡されているの。この物質はね、人の意思にも反応するの……君は私の強い意思、干渉力に負けたって訳」
「にわかに信じられないけど、近代兵器とタイマンで渡りあえてた僕が言う資格はないね」
「そう……かもね。これは賭けなの。その短刀と、そして、あそこに磔にされている黒霊の力を使って、あれを撃ち落とせないかしら?ここを日本の二の舞いにはさせたく無いのよ」
上を見上げていたポゥさんが指を差したその遥か上空に、煙を吐きながら近付いて来る一筋の流星が見えた。
「あれって……隕石じゃないよね?ロシアに隕石が降って来たって話を聞いた事も……あるし」
「残念だけど、国際連合国が合意の上で衛星軌道上から発射された核ミサイルよ……」
「……これが本当に最後の戦いだね」
僕はお姉さんを優しくその場に寝かすと、僕に取り憑いていた黒霊に近付き、その刀を引き抜く。黒い霧の様な塊の顔が不思議そうにこちらを眺めてくる。
「僕の狂気に反応して君は力を貸してくれた。僕が死ぬ間際に強く願った思いは、1人の女の子を守りたいって事だ。お前もそうなんだろ?」
黒霊が喜ぶように震えると、再び僕の身体を包み込む。今度は僕の体に合せる様にその外郭を形成し、意識を完全に僕に委ねてくれている。きっと君も、この町を救いたいと願い、滅びて行った同士だ。救おう二人で。両手にお姉さんの短刀を握ると不思議と力が湧いて来るようだった。干渉力。それは世界と運命に触れる為の力。二振りの刀が蒼い光を纏いながら西洋の直剣へと姿を変える。僕の体もフルフェイスの黒い鎧を纏っているみたいだった。干渉する力か……僕は二振りの蒼い直剣を地面に突き立て、お姉さんに近寄る。空へと飛び立つ前に試しておきたい事があったからだ。
「黒霊、君の干渉する力を貸してほしい」
僕が力を込めると、黒い靄がお姉さんのズタズタになった左脇腹を侵食し、そこから彼女の体を覆う様に黒い影が彼女の引きちぎられた左腕を模倣し、形成していく。
「何を?」
「これで、止血の代わりになればいいけど……」
「その力を止血に使った人間は初めてよ」
「人の心にこいつが反応するなら、きっとお姉さんの心にも反応するはずでしょ?」
「……でもそれじゃあ、私、半分怪物よ?自分で自分を殺せと?」
「僕とそのもう一人の女の子は殺さなかったんでしょ?」
「そうだけど」
「そこにもう一人、自分を加えても誰にもバレないよ」
お姉さんが、傷の痛みと身体を侵食されていく感覚に眉を顰める。
「その黒霊君の神経系感覚のフィードバック、すごく繊細ね。私の神経系接続も卒無くこなしているわ。すごく痛い」
「痛みが快楽になるんじゃなかったの?」
「……これはならないわね」
「ハハッ、僕が帰るまで無事で居てね?」
「えぇ。君もね……」
僕はお姉さんから手を離すと、蒼く光続けている剣を両手に構え、空を仰ぐ。この町を、核の炎に焼かせはしない。
「あっ、もしかして勘違いしてるかもだから言っておくけど、黒霊は生者に干渉してくるの。君、死んで無いからね?」
僕、ゾンビじゃなかったみたいです。




