誘拐犯とランチ
浴場を出た私に用意されていた衣服はロシアの民族衣装、サラファンと呼ばれるものでシンプルな黒生地をベースに胸元とワンピーススカートの裾に淡い蒼色の生地があしらわれていた。馴染みのあるサラファンのイメージは赤のイメージだけど。蒼と黒のシンプルなワンピーススカートの横には白いルパシカが置かれ、腰で結ぶ為の紺色の紐が丁寧に折り重なっていた。私の着ていた衣服は誘拐犯に取られたみたいね。何に使うのかしら?下着も無い。よほど青色が好きなのか新しく用意された上下の下着の色まで淡い……そこは割愛させて貰うわ。軽く首を振り、誘拐犯に肩口で切り揃えられた髪の水滴を振り落とす。腰を折り、身を屈めて籠に入れられた水色の下着に脚を通す。あっ、言っちゃった。そのサイズもまるで測った様にぴったりで私の慎ましやかすぎる胸部を覆う布もよく体に馴染んでいる。
「なんだかいい匂い」
浴室に流れ込んでくるキノコスープの匂いにつられて乾ききっていた口の中に唾液が分泌されていく。ロシア人はスープとパンケーキが大好きなのよ。手早く黒いサラファンを着込むとスープの匂いを頼りに薄暗い屋敷の廊下を歩いていく。その壁には歴代のロシア皇帝の自画像が金色の額に納められている。電気は通っていないのか壁掛けの燭台が道標の様に食堂まで続いていた。
その部屋の扉を開くと私を裸にし、その体を弄んだ誘拐犯がこちらを見つめている。机に両肘を着け血走ったその眼がこちらに向く。
「熱いうちに召し上がれ。可憐な淑女」
対面に腰かけた私にニッコリと微笑みをつくるとその伸ばし放題の黒髪が僅かに揺れる。
「他人の髪を切る前に自分のをどうにかしたら?」
細めた目元の奥底で赤く煌めく相手の双眸の紅眼が私の沈んだ碧眼を覗き込む。
「ボサボサの黒い髪に襤褸切れを繋ぎ合せただけの乞食の様な黒い衣装。深く落込んだ眼窩。潤いを忘れた肌にボロボロの唇。貴女は亡者?」
眼の下に深く刻まれた隈に血走った目が彷徨う様に揺らぎ、首を傾げる。その不気味な容姿に相反する静かだが抑揚の効いた心地よい声触りがなんだか腹立つわ。
「亡者?小さなお嬢さんからそんな言葉が聞けるとは思わなかったわ。残念だけど、皆、私の事をゾンビ女って呼ぶわ。お嬢ちゃんは仏教徒《ブッヂーズム》?」
興味津津と言った感じに見開かれた紅い眼だけが異様に爛々と輝く。私と会話をするのが相当嬉しい様だ。
「私はロシア正教よ。ちょっとだけ日本という島国に興味があるに過ぎないわ」
「日本ね……私も半分日本人よ」
私はゾンビ女に不覚にも興味を抱いてしまう。
「あら、不機嫌そうな顔が少し輝いたわね?私に興味が出て来たのかしら?」
言われてみればその女の体は女性のそれだが、私の周りに居た女性達と比べると圧倒的に背が低く、顔付も同年代の女達に比べてどこか幼さが強く残っている。けれど亡者の様に痩せ細った体はどこまでも不健康そうに見えて死んだ様にしか見えない。けど、お風呂場で見た彼女の体は綺麗で柔かかった。照明の所為だろうか。襤褸切れを纏う身体に浮かぶ二つの膨らみも私とは比べ物にならない程張りがあって大きい。形もツンとして綺麗だし、やっぱり腹立つわ。その異様さだけが先行して目立つものの、きちんとした身なりと健康状態を整えれば恐らく可愛い系の美人だろう。
「貴女じゃない。日本って国に興味があるのよ。本でしか知らなくて」
私はなるべく自然な動作に見える様に手を合わせ、日本式のイタダキマスをした後、眼を瞑りながら十字を切って祈りを捧げる。あの肉屋のジョゼフと同じ様に彼女の心臓に蒼い魂の揺らめきは見られ無かった。私の周りを浮遊する両親と兄の魂がその女を警戒する様に震え、私に警告を放っている。
「綺麗な十字切ね。そうね……容姿も違うし、お酒も弱いけど、貴女達ロシア人に似ている所もあるわ。すごく慎み深いのよ。スープ、冷めないうちにどうぞ?」
私は目を瞑りながら彼女に返事をする。
「そうなのね。えぇ、キノコのスープは好物なの。慎ましやかに頂くわ」
眼を開き、木のスプーンで静かにスープを口に運ぶ。久しく味わえてない手作りスープの味に悔しいけど妙な懐かしさが込み上げてくる。顔には絶対に出さないけど。黒髪の女が何かの異変を感じとったのか血走ったその紅い目を頻りに左右に動かしている。
「物音?客人……かしら?フフッ、顔が綻んでるわよ?口に合ったみたいね。まだお代わりあるからたくさん……食べ……て?爆音?」
屋敷の外、遠く離れた所から何かが破裂した様な音が聞こえ、屋敷全体がビリビリとその振動で揺れ動く。
「あらあら、私の仕掛けた罠にゾンビが引っ掛かったみたいね」
「罠?」
「罠を仕掛けるのは当たり前でしょ?女性の1人暮らしは色々と物騒なのよ」
黒髪の女が席から立ち上がると、その両脇に提げられた焦茶色の筒が眼に入る。机に腰掛けてこちらからは見えなかったけど、既に武装している状態だったようだ。脇に紐で提げられた焦茶色の筒の中身が銃である可能性は低い。恐らく刃物類が仕込まれていそうね。
「その腰に提げた筒は何?」
「日本製の短刀よ」
「タントウ?」
「ニンジャソード」
「ニンジャ!」
黒髪の女が急に体勢を屈め、その手を短刀の持ち手に添える。
「おかしいわね。私の仕掛けた地雷が爆発してからまだ数分も経っていない。屋敷内に誰かが侵入してきたようね……ここを狙っている?そんなはずは無いか。だって、奴ら(ゾンビ)は意思を持たずに徘徊するだけの存在……」
「最後に聞いていいかしら?」
女の不気味な顔に初めて怪訝な表情が生まれる。
「最後?」
私も立席するとその指先を彼女に真っ直ぐ伸ばす。
「食べるのと食べられるの。どっちが好き?」
「もちろん……食べる方よ」
「ごめんなさいね。その要望、私には叶えてあげられないわ」
「何言ってるの?美味しそうなお嬢ちゃんは私に殺される。この運命は避けられない」
地響きにも似た震動が徐々に私達に近付いてくる。
「地震?いや足音……?」
女の紅い瞳が見開かれて揺れ動く。
私は食堂と通路を隔てるたった一枚の木製扉を指差す。
「チェックメイトよ。共食いでもしてなさいな。ゾンビ女」
木製扉が床に薙ぎ倒されると同時に大量の亡者達が食堂に流れ込んでくる。中には私に抱きついて来る亡者や暴れ回る奴も混じっているけど、その大多数が目の前で口を開けたままの黒髪の女に傾れ込んでいく。その亡者達の行進に巻き込まれた女が叫び声すらあげられずにその大流に飲み込まれていく。私に抱きついてきた数人の「変態紳士」に対して、ゴルフクラブや鉄パイプ、金属バットを手にした3人の「凶器さん」がそれらを振り降ろして撲殺してくれる。
「ありがとう。ゴーゴリ(ゴルフクラブ)、ツルゲーネフ(鉄パイプ)、ドフトエフスキー(金属バット)。貴方達のお陰で腐臭が衣服に移らなくて済んだわ」
3人の亡者が手にした凶器を嬉しそうに掲げて踊り出す。約30人もの亡者達が次々と飛びかかり、紅眼の女の上に乗り上げていく。
「貴方達もありがとう。このロリコンども」
私がロリコン戦士と名付けた亡者達が歓喜の叫び声を上げながら私の言葉に反応する。私の舌から零れ落ちた罵声も彼等にとっては御褒美らしい。
「噂では日本人の多くもこよなく萌えという文化を愛する人民らしい。少し気持ち悪いけど、それはそれで利用出来そうね。フフッ……さて、ゴリラハウスへと帰るわよ?」
団子状になって重なるロリコン戦士達が一斉にこちらを向くけど、私はそれに首を横に振って強く否定する。
「私と帰るのはこっちの3人(凶器さん達)だけよ」
死んだはずの彼等の表情がどこかしょんぼりしたように見えたのもきっと気の性に違いない。私は近くの帽子掛けに掛けられていた蒼いココーシュニクを手に取り、それを頭に被る。私の着る蒼いサラファンと合せるかの様に用意されたそれはゾンビ女のセンスにしてはなかなかね。
「デザインもいいし有り難く頂いておくわ……名前も知らない誘拐犯さん」
私が食堂から出ようと一歩を踏み出すと、背後から声をかけられる。
「ポゥ=グィズィー……それが私の名前だよ。お嬢さん」
私が振り返ると白銀色の短刀を両手に構えたゾンビ女が嬉しそうにこちらを見据えていた。
「さすがゾンビ女ね。死に方を忘れたのなら私が教えて差し上げましょうか?」




