ペインレコード3(終)
第四章
1
黒岩逮捕のニュースがテレビで伝えられた。会見に応じる荒濱のしたり顔が一瞬だけ画面に大写しになった。
黒岩は今、静岡県警中央署に護送され、そちらの三階留置場に収容されている。逃走時に持ち歩いていた所持品はすべて押収され、逃走の経緯について彼の証言と合わせて承認作業が進められている。傷害事件に使用したナイフは、静岡市内で捨てられていた。物証捜査斑が、彼の口述の下、これを追っている。
「そうですか、……逮捕されたんですね」
真希菜は無感動に言った。今日は、母親が側についている。しかしいつもよりも元気がない気がした。
「今日、お伺いしましたのは、そのことだけではないんです。……例の申し込みの件、どうするのか、訊いてみたいと思いましてね」
すると母親が吐息をついて、そそくさと病室を出て行った。説得していた一人に違いなかった。母親の説得でもってしても、彼女は首を縦に振ろうとしないらしい。
「駄目なようですね」
瀬藤が言うと、真希菜は口元に明るさを含んだ。
「これは、私が決めることですから」
「周りの話は聞くべきでしょう、園田さん」
蔭山が熱心に言った。彼女はちら、と彼を見るに留まった。
「はっきり言って下さい。もう、決められたのですね?」
瀬藤が詰め寄った。数拍の間の後、真希菜は首肯した。
蔭山がうんざりとした顔になった。
「まあいいでしょう。あなたが、そうしたいのならば」
蔭山からの非難の目を浴びたが、瀬藤は無視するしかなかった。
「刑事さんは、認めて下さるんですね」
「私は、もうあなたに言いたいことは言いましたので。それを踏まえてのその決断ならば、仕方がない」
「瀬藤さん、いま、言うべきでしょう。例のことを」
蔭山には、黒岩とのやり取りを伝えてある。それだけに、彼からの真希菜へのメッセージについて押さえている。
「なんて言われたのです?」
真希菜が興味を示した。口を開かない瀬藤に焦れて、蔭山が言った。
「そんなことをしてもらう必要はない――ということでした。もう、背負いたくないのだそうです」
「それは、甘えでしょう」
真希菜は淡々と突き返した。
「甘えですって? 何を言っているのです?」
「現実から目を逸らしてはいけません。真摯に受け止めるべきだと思うのです。そうでなければ、私もその人も苦しいだけです。逃げては結果などは生まれません。でも、私は待つ覚悟がある。その人が、現実に立ち向かっていく気になるまで」
「分からず屋、ですね、あなたは」
蔭山は珍しく、息を乱していた。
「あなたの身勝手な選択で苦しんでいる人もいるってなぜ、分からないのです。園田さん、あなたがいまやろうとしていることは、さらなるもう一つのひずみを作ろうとしていることでしかない」
真希菜は蔭山を見ない。自覚しているからだ。
「行きましょう、瀬藤さん。ここにいても、意味はありません」
蔭山は瀬藤に目顔で促しつつ、病室を出た。瀬藤は結局追い掛けなかった。二人きりになった病室に居留まった。彼女を見捨てて行くには、あまりに酷だった。
そんな瀬藤に、真希菜が笑いかける。
「あと、もう少しで包帯が取れます」
なぜ、そこで笑顔を見せるのか。
傷ついた自分を見ることに、恐れがないのか。
やはり、彼女の心は超越しているものがある、と思った。
「君は、その顔を見るに、楽しみにしている……?」
真希菜は微笑んだままだ。
癖のように、鼻先に手を当てる。形をなぞっていくその仕種を見る限り、傷の位置をしっかり把握しているのだろうと思われた。
「刑事さんも、私を拒否しますか?」
彼女は面と向かいながら言った。返事に窮した。だが、黙っていても仕方がなかった。
「私のことはどうでも良い。阿木くんは、なんて言っている?」
「もう、呆れて何も言えないと言ったところでしょうか。それでも、まだ説得を畳み掛けてきます。こないだは、看護士さんに注意されたほどです」
瀬藤はパイプ椅子を引き寄せ、彼女の側に座った。
「もう、その話はやめよう。水掛け論にしかならない」
「あの……包帯を取る日、刑事さんも付き合ってくれませんか?」
何を意図して、そう申し出てきたのだろう。彼女が考えていることは、分からない。
断る理由はなかった。それに、自分には付き添う義務があるはずだった。彼女が受けたその痛みを、自分の目で見届けなければいけない。
「いいだろう。来る。その顔を、見られても構わないなら」
「傷ついた私こそ、本当の私ですよ。どうぞ、見ていって下さい、という感じでしょうか」
傷痕にそって深く窪んだその箇所を目の辺りにしたとき、どんな気持ちになるのか。そして、その時、彼女になんと言ったらいいのか?
当然、ありがちな、綺麗という言葉は御法度だろう。
「何か、話したいことがあったんですね?」
彼女に呼び覚まされて、瀬藤はみじろぎした。
「捜査が進んでいる。その中身を少し、話そうと思ったんですよ」
捜査の進行に妨げがないよう核心部分は伏せて、黒岩が凶行に至るまでに精神がおかしくなっていった過程を話していった。あくまで、脅迫状の存在は明かさない。
黒岩は脅迫状の存在を、第三者の誰にも伝えていない。
つまり、この事実は犯人だけが知っている情報になるのだった。
「いったい、どうしてそんな状況になっていったのでしょう?」
真希菜は不思議そうに声を上擦らせて言った。
日を追うごとに歪んでいく黒岩の精神。それは、脅迫状の作用によるものだと伏せて説明すると、彼はただの思い込みの激しい気質を持った男となった。
「何が彼にあったのかは、これから先、じっくり見ていかなければいけません。再三にわたって家宅捜査をかけ、あらゆるものを洗っていくことになります」
彼に対して脅迫状を送りつけたのだというのならば、そこに文書が残っていることを怖れるだろう。しかし、彼女はこれといった反応は見せなかった。彼女は、予想通り無実であると確かめられた。
「私、気になることがあるんです」
それから彼女は言った。
「なんです」
「事故のことです。助かった女の子のこと……」
「ああ、赤穂宏美さん」
「彼女に、そのうち、会いに行きたいと思っているのです」
「なぜ?」
「おそらく、彼女もまた、事故の被害者だと思うからです。ずっと、傷を背負って、生きてきたはずなんです」
彼女の指摘は正しい。宏美は第三者が冷静に受け止めると、気の毒なほどに呪縛に掛かっている。事故があったその現場から、精神が繋ぎ止められてしまっている。宏美自身は、それは今は乗り越え、自分にとって悪くないことだというが、実際それが本当かどうかは、はっきりとはいえない。自己肯定をしているだけといえば、その節があった。
「会って、どうすると?」
「どうということはありません。お話がしたいだけです。察するに、そのお方は過去を思い出したりすることができない人ではないでしょうか?」
須永隆久に助けられたその日。
自分の命が延び、須永隆久は息を引き取った。
瀬藤は課員に依頼して取り寄せた実況見分調書の中に添付されていた写真サンプルのひとつを思いだしていた。
ハンドルグリップに、フリンジがついたキャラクター製の赤い自転車。車体は中央からねじ曲がって、二つに分断していた。
事故の壮絶さを物語る一枚であった。
あのひしゃげた自転車は、傷ついた彼女の心の形そのものに違いなかった。
「確かに、彼女は傷ついているはずだ。そういう話を聞いた。だが、深い所までは探っていない」
「私と、彼女は会うことの意味があるはずです」
「園田さん、これは、本気ですか」
彼女はくすりとする。
「私が手術を拒否することよりは、現実的な話じゃないでしょうか?」
もう、そのことを受け容れてしまっているように彼女は言う。瀬藤には笑えない話だった。
「刑事さん、よろしいですよね?」
瀬藤は息をついた。
「事件が解決してから、会えばいい。その時には、私から連れていってあげても構わない」
「私は、いつまでも病院にはいませんよ。早いうちに、そうして欲しいのです」
「やけに、急かしますね」
彼女は口元に手を当てた。あの、骨細の作り物のような手だ。
「あら、やだ。私ったら、欲張っちゃったみたい」
この時、瀬藤は引っ掛かるものを感じた。
真希菜が宏美に会いたいとする理由に、また別の理由があったりはしないか……?
彼女は、事故があったその場所に、献花していた。それは、事故のその場所に、事故の生存者となった宏美が来ているであろうことを予測しての接近行為だとしたら……?
あり得ない話ではないが、しかしやはり彼女は嫌疑を掛ける対象ではないのだ。考えすぎだろう。どちらにせよ、これ以上宏美のことは、明かさない方が良いだろう。
「約束しますよ。近いうちに、必ず連れていくことを」
「ありがとう、刑事さん。楽しみにしていますわ」
屈託のない微笑。
あと少しで、彼女の顔貌のすべてが露わになる。
その時、何が起こるのか。まったく予想ができない。一先ず、瀬藤がするべきことは、心の準備であった。
2
赤穂宏美が勤めている幼稚園は、彼女が指摘するとおり、ゆるやかな高台の上にあった。真下に走る線路が気持ちが良いほどに、見渡せる。
甲高い子供のはしゃぎ声が一際大きくなった。
いつの間にか、ひとりの園児服をきた男の子が、蔭山のスラックスにしがみついていた。
「こらこら、敷地外に出たら、駄目だよう。もどろうね」
蔭山は意外と、子煩悩になる男らしかった。とはいえ、いまの彼は独身だ。
「ごめんなさーい」
男の子は反省の気もなしに、小走りに去っていった。風を感じながら遠くまで行くと、高らかに歌をうたい始める。聖夜に聞くような、清らかさのある響きを感じた。しかし、瀬藤としては歌の魅力よりも男の子が抱え持つ、その穢れなき世界観に惹かれた。園児はやはり、無邪気で憎むところは一点もない存在なのだ。
ふと、男の子が向かっていったその先に、眼鏡をつけた三十はとうに過ぎた草臥れた女性がいた。自前のジーンズエプロンが保育士仕様だ。敷地内に引き返し、何やら手招きで呼び寄せてひとりの女性を連れてくる。宏美だった。
プラタナスの日陰の中で三人は並んだ。斑の木漏れ日がシャワーのようだった。園児たちのはしゃぎ声は決して耳障りではない。夏蝉のそれよりは、涼しい。
「すいません、突然訪問して」
瀬藤の社交辞令に、宏美は額に掛かった前髪を横手にかき流す仕種をし、微笑みで返してきた。
「今日は、なんだったのでしょう」
「あなたに、聞きたいことがありましてね」
「はい」
彼女が一瞬見上げた空は、青々としていて、雲が清らかなほどに白さが映えていた。その青さは、宇宙の果てが群青だと想像してしまうほどである。
「あなた自身は、こちらにずっといる訳なのですが、献花をされていた事実は、ありましたか?」
彼女は眩しそうに目を眇めながら、首を振った。弱り切った風が迫り、それが途絶えた頃に草いきれが鼻先をなぶった。直後、音のない涼しい風がゆっくりと肌を這っていった。
「献花は、これまでに二度だけでしょうか。近くで働いていますから、いつでも祈れるんです。ですから、特にする必要がないかな、と思いまして……」
「それはそうだ」
つまるところ毎日、そういったことを意識しているということなのだ。彼女は心からの哀悼を送ることを重視している。献花は、表面的で形式的な祈りに過ぎない。それは、彼女には合わない。
無意識にながら、人差し指と親指の腹を擦り合わせている。何かを撚るような、仕種だ。そのうち、イネ科の雑草を手に取り、弄んだ。
「最初は、学生時代の時でした。須永さんの墓参りとは別に、自主的にここを訪れ、花を捧げたのです」
「前にも言ったことがありましたっけ? その時、ようやく事故と向き合えるようになったというようなことを。具体的にいえば、いつぐらいですか?」
「高校二年生だったと思います。そろそろ将来を……と意識するようになった頃でして、その日は何となくなんとかしなくちゃって、溜まっていたものを吐き出さなければいけない気がしたんです」
「その日、あなたは誰かと顔を合わせたりしました?」
「まったく、ないですね。実は、その日、雨だったです。良く覚えています。先に捧げられていた献花が雨に濡れて、寂しそうにしていました。須永さんの顔がちょっと浮かんで、ちゃんとしてあげないと駄目だって、ビニール傘片手に、整理したんです」
「花は、お小遣いで?」
宏美の顔が、ゆっくりと柔和になっていった。持ち前の福々しさが、倍加する。
「そうですね。ひどいことを言うと、お花屋さんに行きたかっただけだったのかもしれません」
「ひどくありませんよ」
瀬藤は言下にフォローする。
「一度、墓参りしているんですから、二度目の弔いですよね。そんなに、いらないですよ、普通。須永さんも困るでしょう」
彼女は嬉しそうに微笑んで、
「買ったのは、ポピーだったと思います。赤い花です。とにかく、目に留まったんです。理由はそれ以外にはありません」
「それで、二回目の献花は、その翌年?」
「いえ、地元の短大に入学したその年ですね。つまり、最初の献花から、翌々年ということになります」
「その時も、誰かと話をしたということはありませんでしたか?」
ここでも彼女はかぶりを振った。
「私、一人ですよ。誰もいません」
「その時、そこには他に献花があったかどうか、覚えていますか?」
瀬藤は立ち位置から見える、線路の光景を見やる。焦げ茶に塗られた木柵のその下に捧げられていたはずのガザニアは、一輪挿しの瓶だけを残して何もなくなっていた。
「献花はあったはずです」
彼女は記憶を手繰りながら答えた。
「白いキキョウです……そして、UCCのコーヒー缶とあと何かマスコットのようなものがおかれてありましたっけ」
「キキョウは、前にも言ってましたね」
「毎年、いらっしゃるようですよ。私が把握している限り、八年ほど前から」
「親族らしき人たちと、おっしゃっていましたが、どういう人だったか、覚えていますかね?」
「女性です。私と同じくらいか、少し上ぐらいのお方……。そして、その母親らしき人です」
「女性について、詳しくお願いできますか?」
蔭山が切り込んだ。しょわしょわと虫の啼き音が囁いた。
宏美は手振りを交えながら、
「引っ詰め髪のお方です。巻き毛を編み込みシニヨンにしてて、どこからみても可愛らしい感じを受ける人でした」
「全体といいますか、顔の雰囲気は?」
「はっきりいえば大人しそうな人です。でも、そこが可愛い人」
「母親のほうは?」
「痩せているお方でしたね。日傘を差していて、レースの手袋と、サングラスそして日除け帽をセットで身につけていました。どこかの貴婦人なのかもしれないって、印象に残りました。それは、娘さんの可愛さも含めての印象ですけれど」
「なぜ、二人が親子だと思ったんです? 顔が似ていたとか」
「寄り添った具合ですよ。娘さんが今にも日射病で倒れそうなお母さんにちゃんと寄り添っていましたね。ふつう他人ならくっついて歩かないですよ」
「なるほど、そうですね」
蔭山から寄越された視線を受け、瀬藤はうなずきを示した。
二人は、間違いなく黒岩家の親娘にちがいなかった。美絵子と、玲菜だろう。優衣は勝ち気な性格だ。だからこそ、大人しいというのは違う。
そういえば、二人は女性的なイメージが強い印象がある。献花にキキョウを選ぶのは、うなずける。
しかし、彼女たちが弔いに来たのは、黒岩謙吾の実の父親である、男だ。養子に引き取った後、うまくしつけられずに、泣く泣く手放さなければいけなくなった義理の息子。そんな彼に直截関わることだけに、そういった場所に赴こうと思わないのが普通ではないか。
宏美が、園長先生らしき人に呼ばれ、スニーカーの靴をならして離れていった。眩しい日射が容赦なく降りそそぐ。荒原の土肌は乾燥しきって滑りやすくなっていた。
「予想していたことですが、やはりキキョウは黒岩でしたね。なぜ、彼女たちはそこにきたのでしょう?」
「蔭山くんの答えを知りたい」
瀬藤は逆に突き返して問う。
「やはり、母親のほうに親族というつながりがあるからじゃないですか?」
「つながりがあるのは、奥さんの方だ。それならば、須永隆久の事故現場を見舞ったりはしないだろう」
「そうなりますか……」
「墓参りの代わり……というのは、どうだろう?」
蔭山が訝しそうに、瀬藤を見た。
「代わり?」
「黒岩謙吾に配慮して、あるいは避けるために、墓のほうを避けるその代わりに、その場所に献花をしていくというやり方だ」
「それなら、別に弔わなくてもいいんじゃないですかね?」
「人にはそれぞれ事情というやつがある。避ける選択は、彼女らにはなかったにちがいない」
「そういうものですか?」
「直截、訊いてみるのがいいだろう」
「いくんですね、あそこに」
熱波に力負けして汗だくの彼は、暑さに耐える表情で瀬藤をじっと見返していた。
3
黒岩の訪問には、二人の娘が揃わなければいけなかった。
瀬藤たちは、夕刻まで時間をつぶした。六時過ぎても、明るさは一向に衰えず、空は冴えた紫と、日焼けした水色の二層がはっきりと分離していた。星のまたたきが、清々しく情緒に溢れている。
「何? また来たんですの?」
框の向こうに現れた優衣が早速、突っ掛かってくる。部屋着なので、先日とは印象が少しちがう。
「それが、私らの仕事なんでね」
瀬藤は隙を見せたらそこで終わりだと思っていた。
優衣は最初に対応して来た母を押さえ、前に進み出てくる。積極的な女性だ。
「それで、何の用ですって?」
「話したいことがある」
「さっさと言いなさいよ」
「優衣」
母の制しを許さないとばかりに、優衣がぎろりと眼光を彼女に飛ばす。美絵子は目をうつむけていた。やはり彼女はこういう時、そうして黙ってしまう母のようだ。
「君……というよりも、妹さんの玲菜さんのほうにお聞きしたいんですがね」
優衣の面相に、僅かなひくつきがあった。
「あの子は駄目よ。気が弱いんだから。あなたと話しただけで、その日、ずっと動悸がどうこうとか言い出して、不眠を訴えるに違いないわ」
「でしたら、お母さん、あなたに訊きましょうか」
瀬藤に水を向けられて美絵子が追い詰められた顔つきになった。余計なことは訊いてくれるなと、恐々とした目を向けている。
内心の動揺隠しか、彼女は身体を傾けて間を埋めるように言った。
「中に入っていかれますか?」
「ここで、けっこう。あなたが正直に話していただければ、すぐに終わることですので」
それは間違いない、といった具合に瀬藤の横手でじっとしている蔭山にうなずきがあった。
「で、なんなのよ」
優衣が催促した。胸を誇張するような腕組みをして、不満そうな顔をしている。
「須永隆久さんの命日の日です」
瀬藤は振り返って、三和土の隅を埋める靴箱台の上をちらと見やる。そこには、幾筋ものスリット線が入った繊細な意匠が凝らされた硝子瓶がある。花は生けられていないが、水が入ったままであった。そして上澄みにしなった葉の一部が浮いていた。
「事件のあった踏切にてキキョウの花を献花していた二人連れを、私らの捜査で確認しています。その二人というのは、あなたともう一人、玲菜さんではありませんか?」
美絵子の動揺が一際強く表れだした。依然、瀬藤を見ようとしない。優衣は苛立ちと、不快を交互に去来させながら、母の出方を窺っている。
「どうなのです?」
瀬藤が詰め寄る。
美絵子が一瞬泣きそうな顔になった。
「そ、……そうです。私と、下の娘の玲菜です」
「どれくらい前から、献花をつづけているのでしょう。証言では、ここ最近、毎年のように見かける、ということでした」
「すいませんが、よく分かりません……」
「変な質問かもしれませんが、献花の理由を教えていただきたいんです」
「ホントに、変な質問ね」
優衣がからかう声を上げる。身体は瀬藤に対し、斜めになっている。
「私が言いたいのは、墓のほうではなく、……事故現場に献花を捧げた理由が知りたいのですよ。普通、するならば、墓だけか、あるいは両方を祀るはずでしょう。しかしあなたはそうではない」
美絵子はうつむいたきり、動かなくなった。
その時、居間に通じる出入り口に垂れ下がる玉暖簾がかき分けられる動きがあった。そっと遠慮がちに覗いていたのは、玲菜だ。平板な顔をしている分、洋人形を重ねてみてしまう。
彼女は廊下に身を乗り出し、美絵子のそばまで歩みだした。
「玲菜! あなたは、こなくていいの」
優衣が叱責混じりに言った。
玲菜の足は止まったが、顔は拒否を示していた。
「もう、……限界よ、お姉さん」
優衣の表情は歪んで、目が眇められていた。目下が、神経質にひくついている。
「何をいって……」
無視するように、玲菜は瀬藤たちに面と向かった。
「はっきりいえば、顔を合わせたくない人がいたからです。母の妹の弔い……、それができないことについて、母はずっと気に病んできました。私と、相談した結果、事故現場に献花をすることで、おじさんの分と一緒に、あわせて弔いをしようということになったのです」
「その顔を合わせたくない人というのは、あなたの義理の弟である、黒岩謙吾ですね?」
玲菜はうなずきを示したきり、うつむいたままになった。
「なぜ、顔を合わせたくないのか。それは、彼がこの家に馴染まずに、児童養護施設に出戻りしたことを思い出したくない……ということだけではないのではないでしょうか。つまり、彼はこの家を出たのではなく、追い出されたというのが、本当のところだったということです」
何も言えない玲菜に変わって、優衣が声をぶつけてきた。
「勝手なこと、いわないで頂戴!」
「勝手ではありませんよ。本当のことでしょう」
優衣ははっとした顔を見せた。
「まさか……あいつが、喋ったとでもいうの……?」
その事実はない。だが、瀬藤はあえて黙っていた。そして、頃合いを見て、促しに掛かる。
「あなたの口から、語ってもらう必要があるのです。ご協力下さい」
優衣がまた抵抗の兆しを見せだしたところで、美絵子がこれを制した。そして瀬藤に向かって言った。
「刑事さんのおっしゃったことは、事実です。追い出した……というのが、事実です。もっといえば、追い出さなければいけなかったといったところでしょう」
「ママ……」
優衣が半口を開け放って茫然としている。美絵子のその行動が、彼女には裏切りなのかもしれなかった。
しかし、母は毅然としていた。
「施設に戻りたいという気持ちが当初からすでに強く持っていたようです。そのうち、家族として過ごすうちに、それは消えていくと思っていましたが、そうはならず、あの子はずっとその希望を砦のように守っていました。それが現状では実現が難しいと分かると、暴力をするようになりました。そして……起こってはならないことが起こることとなったのです」
優衣がぺたんとくずおれた。身体が脱力している。近くにいた玲菜は、自らの感情を抑えるだけで精一杯のようで、彼女の肩に手を添えるに留まった。
美絵子は、膝元のスカートの皺をしがみつくように握っている。
彼女たちがそのことを封印していた理由が分かった。これは、封印せざるを得ない過去だったのだ。
「性的な暴行があったわけですね?」
美絵子の肩がぶるっと震えた。何もしてやれなかった不甲斐なさと、こうなってはどうしようもないやりきれなさが交錯しているに違いない。
いつしか、二人の姉妹は床に膝をついて、抱き合っていた。玲菜が優衣にしがみつく形に近い。
「そうです……娘に、あの子は手を出したんです」
蔭山は淡々とメモに走っている。
「どちらが? いえ、言えないのでしたら、けっこうですので」
美絵子の震える手がゆっくりと動き、玲菜を示した。
玲菜はいま、優衣の豊かな胸元で顔を埋め、思い出すだけでも恨めしい記憶に抗っている。
無理もない。
暴行が加えられたのは、彼女が中学生の頃だ。まさか、ほぼ同年代の弟にそんなことをされるだなど思ってもいなかったに違いない。そしてその瞬間、彼女の中のあらゆる夢が破れたはずだった。
「失礼ですが、そんなことがあって、あなたと玲菜さん。お二人が、須永隆久警部の命日に献花を捧げに行く理由が理解できませんね」
蔭山の手が止まった。水を打ったように静かな空間になった。背後にあるサッシから差し込む街灯は、ガス灯のように優しい光であった。
玲菜が急に、しゃくりあげる声を上げた。それがきっかけで、耐えていたものが切れてしまったらしい。堰を切ったように、わっと泣き出した。優衣が懸命になだめに掛かる。
瀬藤と、蔭山はその有様を黙って見守るしかなかった。
請じ入れられた応接間にて、瀬藤は美絵子と対座していた。彼女は、また一口ゆるりと紅茶で喉を潤した。玲菜は優衣に連れられて、部屋の奥手で休んでいる。そちらからはもうすすり泣きは聞こえてきていない。
「あの場所に献花をしに行くようになったのは、理由があります」
美絵子が気概をみせて言う。
「須永隆久さんです。あの人は、とても純朴な警察官でした。妹があの人に惚れ込んだのは、私自身納得と言ったところでしょうか。人当たりが良く、面倒見も良い人でした。警察官として、人間として尊敬できるお方でした」
「それが、先のことと何か関係あるのでしょうか?」
蔭山が問う。
「まあ、気長に聞いて下されば嬉しいです。私たちは、あの子からの暴行があってから、ひどく塞ぎ込む毎日を過ごしていました。救いがない日々……。家族は、ばらばらになりかけていました。玲菜は学校を休みがちになり、いやな噂が尾ひれをつけて出回るようになりました。その中には、真実をついたものもあったのです。それは、一番の被害者である玲菜には毒でした」
「引っ越しを繰り返した理由は、それだったのですね?」
瀬藤が言った。美絵子は静かにうなずいた。
「ですが、引っ越しの効果はありませんでした。どこに逃げても無駄でした。あの子の中のトラウマというのは、見逃すことなくついて回るのです。そうこうしているうちに、今の住所にたどりつきました。ここでは、比較的落ち着いた日々を過ごせるようになりましたが、それでも玲菜は不登校に近い生活を続けていました。優衣と一緒に、女子校を選んでいたので、脅える対象であった男は少ないはずでした。でも、駄目だったのです」
「そこで浮かんだのが、須永警部のことだったのですね? 思いついたのは、あなただ」
「はい。警察官として、命を投げ出してまでしてひとりの女の子を助けた素晴らしいお方……。その御霊は、私たちが思うそれよりもずっと尊く、きっと祀ることで恩恵があるはずだろうと思いました。守ってもらいたかったのです。確かな、心の寄る辺が欲しかったのです。それに、彼は謙吾の実の父親です。影響力があります。謙吾の荒れた心を鎮める人がいるとしたら、彼でしょう。彼しかいません。事故現場に献花し、彼の存在を謙吾に意識させることにはあらゆることに意味があったはずです」
「しかし玲菜さんには、荒療治だったのではないですか?」
自分を襲った人間と鉢合わせするかもしれない現場に、向かう。それは、彼女にとっては苦痛以上のものだったはずだ。
「最初、申し出たとき、玲菜は拒否しましたよ。先にあの子が言った会いたくない人がいた――というのは、まさにあの子の事情です。
でも、このままではいられないと、彼女は自覚していたようでした。ですから、自分に向き合う覚悟でついてきてくれました。効果はあったのです。須永さんの力が玲菜に宿ったのでしょう。あの子は、ちゃんと学校に通えるようになりました」
以来、ずっと献花を続けている。
リハビリのような感覚もあるに違いない。そして、それは直截妹の墓参りにはいけない美絵子にも彼女を弔うことができる、都合が良いことのはずであった。
「それで、今あなたに、戸籍上の息子さんである黒岩謙吾さんと会える覚悟はあるんですかね?」
「自分の息子ですから、私は会えますよ。玲菜も、あの時とは大分違います。暴行があったときは、彼もあの子もまだ幼かったですから、あれは若き過ちだったのです。いまは、さすがにあの頃と比べることはできないでしょう」
「会えば、ちがうと?」
「そうです」
美絵子の顔には自信があるが、強がっている部分が大半を占めている。彼女自身、実際どうなるかは分からないのだろう。もしかしたら、当時の雰囲気を再現する事態となってしまう可能性も彼女自身否定していないはずだった。
「私が今回、一番良く分かったのは、須永警部の存在の大きさです」
瀬藤が言うと、美絵子はそうですね、と相槌を打った。
「あなた方のすべての狂いを軌道修正する力がある存在――そう言って良いんですね?」
「それは、もう。……あの人は例の事故で、命を投げ出してしまいましたけれど、あれは、あの人らしい最期だったはずです。そういう状況に立たされたとき、あの人はそうせざるを得なかったのです。どこまでも、人に尽くす事に全力でのぞむお方でしたから……。いつか私に、職責をまっとうするためなら命を捨てるその覚悟は持っていると、口にしたことがありました」
「なんと……そんなことを」
蔭山が感嘆の息を吐いた。
彼を見て、美絵子はうなずく。浮かべた愛想笑いが本物の安堵にすり替わっていく。
「これは、事実です」
瀬藤は、実況見分調書の中身を思いだしていた。
警報ボタンを押す冷静さがありながら、彼は赤穂宏美に飛び込んでいる。赤穂宏美は、当時六才のまだ小さな子供だったとはいえ、自転車にまたがっていた。そんな彼女を押し出し、線路の向こうにまで逃がしてやるには、相当の力が必要だ。
須永が遮断機の中に入ったとき、快速列車の轟音が迫っていた。普通ならば、どう見ても無理な状況だった。仮に、助けにいっても二人とも死亡という最悪の事態をまねくだけだ。
それでも、須永は一縷の望みに賭けた。
その望みには、自分が助かることは含められていなかった。
飛び出し、宏美を突き飛ばして、彼女だけが助かることを願った。警報ボタンを押したのは、事後、補償問題に発展しないためだ。それは宏美のためではない。自分が犠牲になることを覚悟しての行動だったのだ。残していく家族に、迷惑を掛けないつもりだったのだろう。ボタンを押した場合とそうでない場合の事故は、結果が大きく違う。そのことを彼は知っていた。だからこそ、押した。
それにしても、警報ボタンを押したその時、彼はどんなことを思っていたのか。死を覚悟していたのは、疑いもないことだが、その横で考えていたことが知りたい。知りたくて溜まらない。
残していくひとり息子、謙吾――
――お前たち、ぜったい、おじさんの後を追い掛けるなよ?
彼が残した最後の言葉に、その答えがあった。
それは、子供たちばかりではなく、謙吾にも意識して伝えた言葉のはずだった。自分を犠牲にしてまで人を助けることは、必ずしも尊いとは言い難く、もしかすると愚かな行為かもしれないと自覚していた。
それでも、彼は飛び出さずにはいられなかった。
時間がなかった。
後は、何も考えるべきではなかった。
いま、やるべきこと――
それだけを意識していた。
謙吾、これはお父さんだけの仕事だからな――
瀬藤は、圧倒されていた。
須永隆久は、真の警察官だった。心まで、市民を守り抜く固い信念を持っていた。そして、それを身をもって貫いた。
かつてこんな警察官を見たことがあっただろうか……?
「あの人は、人を愛していました。市民を愛していました。子供たちを愛していました」
美絵子は目頭を押さえながら、強い口調で言う。
「その力が、あの行動に及んだのです」
「そんな……」
蔭山はうち震えている。衝撃が彼の身体と意識を貫いている。彼もまた、須永ほどの警察官をみた経験がなかったようだ。
瀬藤は息を呑んだ。そして、一呼吸整えて言った。
「あなたが言っていることは、おおよそ正しいでしょう。我々も、実況見分調書を確認していますから、彼が取った行動のすべてを、把握しています。自殺行為に等しい、救出だった。それが正しい行いかは、私らの見地からしてはっきり言うべきことではありませんが、素晴らしい警察官だった事だけは、間違いないでしょう」
美絵子は嬉しそうにした。削げた頬が、ふっくらと膨らんでいる。そんな彼女の顔を見て、瀬藤はさらに続けた。
「そして、あなたが彼からの恩恵があることを期待して、祀りにいくこともよく分かりました。須永警部。彼の存在さえあれば、恐いものなしでしょう。謙吾が更生していくきっかけになる天佑がもたらされるにちがいありません」
「ご理解下さって、我が事のように、嬉しいです。こういう時、あの人の存在が私たちには、必要だったのです。結果、私たちは強く生きられています。彼のお陰です」
須永の存在は、いまもなお、彼女の心を支えている。人に誠意を
尽くす彼の裏表のない心は、愛情を受けたその人の中でずっと生き延びられるのだ。同じように、玲菜の心にも、須永の存在があるに違いなかった。
「ひとつ、分からないことがあるのです」
蔭山が小首を傾げたままに、言った。
「彼が人を愛していたのは、分かりました。また、地域の人に愛されていた人だと言うことも分かりました。しかし、その愛が自分を犠牲にすることの理由になるでしょうか? もしかしたら、警察官としての義務感以外の感情を彼は抱えていたりしたんじゃないでしょうか?」
彼の死について、瀬藤はやはり完全に理解できたとまでは言えなかった。どうしても、何かがその他にあるはずだと物足りなさを感じていた。
「親族が集まってお酒を呷っていた時でしょうか、あの人から、こんな台詞を聞くことがありました」
美絵子は諭してくるかのように、落ち着いて言った。
「僕は、何ももたない男なんだ、と。学生時代、成績は不良で、かといって器用な方でもなく、引っ込み思案。それでも、地域に貢献したいという意思だけはあって、警察官採用試験を試しに受けてみると、受かってしまった。駄目な少年が、警察官になれてしまった。なってはいけない男が、運だけで警察官になれてしまった。彼が言うには、そういう事でした」
警察官を志願するものは、心身共に健康的な人間が多い。ところが正義漢が強く、自分に自信を持っている人間が必ずしも、この職に就ける訳ではない。
彼がそれに従事する機会を得たとき、どんな喜びを示したのだろう。瀬藤には想像がつかなかった。
「それは、彼にとって人生で一番に嬉しいことだったのでしょう。だからこそ、いっそう全力で地域を守りたいという気概を持つに至ったのです。それは、採用してくれた警察組織への恩返しでもありましょうか。私は、そう思います」
縁がレース編みのハンカチを取りだし、美絵子は目に当てた。
「そういうことだったのですね」
瀬藤が相槌を打った。
「そんな恩返しなんて……あっていいんでしょうか」
蔭山は納得いかなさそうだ。だが、直に彼はそれを受け容れ、須永を尊敬できる存在に見直すことだろう。瀬藤にはそれが分かる。
「実際、あの現場には、須永さんがまだいるのでしょう」
瀬藤のその一言に、美絵子は顔をあげた。
「そうですか?」
瀬藤はうなずく。
「はい。実は、今年も献花されたと思うのですが、その時に、近くに黒岩謙吾がいたのです。線路沿いの道から少し離れた路肩に車を止めて、現場を見張っていました。例年どおり、キキョウを持って現れたあなたがた二人を、彼は見届けたはずです。八月十四日の、午後五時から、七時までのあいだです」
「私たちがそこに行ったのは、玲菜が帰ってきてからですから、六時過ぎです。……そこに、あの子がいたのですね?」
彼女は気付いていなかったようだ。目は驚きを示している。
「彼はその時、精神的に追い詰められていたのです。脅迫状が頻繁に届けられていました。彼に死を促す内容です。その送り主は不明。なおかつ、その手紙は、彼の父親である須永隆久に成りすましていました。これが、死んだ父からではないと我に返ると、彼は送り主を許せなくなりました。そこで、献花にくる人間を物色に入ったのです」
「刑事さんは、こうおっしゃるのですね? その時、あの子が私たちが、やったと見なさなかったのは……須永さんという英霊の恩恵があったからだ、と?」
「そうです。あなたがこれを送りつけたとするなら、動機という点で矛盾がない。だが、さすがにその日事故現場にいたということもあって、父の存在を意識したはずでしょう。そして、あなたがやったと決めつけるにはまだ早いと、冷静になれていた」
「園田さんが、献花に入ったのは、すぐその後でした」
いつしか素に戻っていた蔭山が言った。
「もやついた感情がつづくそのあいだに現れた彼女――。実は、その顔を彼は知っていたんです。それで、彼女だ、と確信に至ったということなのです」
「なんということ……」
美絵子は嘆かわしげに唸った。状況を引き取って瀬藤が言った。
「問題の脅迫状なのですが……」
美絵子は口にハンカチを押し当て、瀬藤を緊張の面差しで見ている。
「あなたが、何かしらの事情を知っているはずですよね? 最初にこの家に私らが足を運んだ時、けんもほろろな応対で突き返されました。この家に知られたくない過去があったからです。それは分かるのですが、今回傷害事件が起こった以上、そのことを隠すべきではなかったはずです。隠したのは……、私には言えない理由があったからでしょう」
彼女は硬直したまま、目だけを泳がせた。
本当は、うまいことやり過ごして言い逃れをするつもりでいたはずだ。しかし情に囚われてしまった今、彼女は引っ込みがつかなくないところまでに踏み込んでしまっていた。
こうなると、もう彼女には逃げ道はない。
陥落は間近だ。
美絵子は答えず、背を丸め咳き込むような仕種を見せる。自分の口から言えるようになるには、時間を置かなければいけないようだ。
その時、優衣が応接間の出入り口に現れた。
「私よ。私が、やったことなの」
4
美絵子の隣に座った優衣は、迷いを断ったらしく、堂々としていた。玲菜は自室で眠ったそうだ。彼女が寝息を確認するまで付き添った。
「なぜ、脅迫状を……?」
蔭山が問いを向ける。回りくどいことを避けるため、瀬藤が言い足しに掛かる。
「推するに、お母さんと玲菜さんの献花について、あなたは納得していなかったのでしょうね?」
優衣は素直にうなずいて認めた。
「さすがは、刑事さんね。その通りですわ。納得なんか、できなかった。だからこそ、私は彼に送りつけてやったの」
言葉に怒りが濃くなっていくのが分かった。
「だって、そうでしょ? あの子のせいで、玲菜はあんな風になっちゃったわけだし、家族の引っ越しを繰り返さなければいけなくなったの。あの子のせいで、すべてが狂っちゃったのよ。父親とはいえ、あいつにつながるものを祀ろうとする態度が理解できなかった」
「あしかけ三年にわたって、手紙が届けられている。その中身も、彼が記憶をひとつひとつ辿ることで、明らかにされている。最初に送られたそれと、最後の方に送られたそれは、ずいぶんと隔たりがあった。そもそも語られる文体が違っていた。これは?」
「私です」
美絵子が畏まって言った。
「あんなことがあって離れることになってしまったわけですけれど、彼はまだ、私の義理の息子であることには違いありません。彼のことを、案じずにはいられませんでした。しかし、私から手紙を送っても、迷惑なだけでしょう。そういう追い出しをしたわけですから、そういう資格もありません」
「なるほど、そこで須永さんに成りすました」
須永からの言い聞かせと思い込ませれば、黒岩謙吾に影響力を発揮することができる。親としての諭しなどをそこに籠め、せめての義務を果たしていたのだろう。
「文体が変わったのは、今年に入ってからだったと思います。その時、交代があったのですね?」
蔭山が手帳を開きながら言った。
「優衣に、ふとしたことからばれてしまったのです。そして、もう二度と送るなと言いつけられました。それ以来、私は送っていなかったのですが……」
美絵子の視線を受けて、優衣が嘆息を洩らす。
「私が引き継いだのよ。ここまで説明すれば、もうお分かりでしょ?本当は、そんなつもりはなかった。でも、ママがあいつに手紙を送っている事実に気付いたのは、あそこに捧げる献花の準備をしていたことがきっかけだったの。分かる? 私、いっぺんにこれまで二人が隠してやってきたことを報されて、狂いそうになったの」
優衣は憤懣やるかたない顔で、何度も姿勢を変える。美絵子は小さくなっている。
「なんとか、懲らしめてやりたい感情を処理しなければいけなかった。そこで、私はこれまでのママの手紙を取り上げ、すべてを読んだ上で、あいつを追い詰めてやったのよ」
「送った手紙の内容はどうやって知った?」
「筆跡を隠すために、ママはパソコンの文書作成ソフトで手紙を作っていた。だから、そこにこれまでのデータが残っていたわよ」
「君は淡々と言っているけれど、自分でしたことを理解しているのだろうか?」
瀬藤は詰め寄った。優衣は無愛想なまま、反省の気を示さない。
「黒岩謙吾を追い詰めた結果、園田真希菜さんという信金の行員まで傷害を負うに至った。これは、君が間接的にやったようなものだろう。同じ女性として、気持ちが通じる部分があるはずだ。彼女は、顔に傷を負った」
「知っているわよ。でも、今医学も進歩しているから、整形手術をやれば、簡単に消せるんでしょう?」
彼女は強気を崩さない。
「それなんだが、彼女はそれを希望していない」
「うそ……」
優衣は顔に手を当てた。
「どうして?」
「黒岩謙吾は、父の死で不遇な人生を強いられた。心に拭いようのない闇を育てるに至った。彼女は、傷を残すことでこの闇に寄り添おうとしている、立ち向かおうとしている」
「そんな……、やめてッ」
優衣は身体を揺すった。一気に脆さが露呈していく。瀬藤は見ていられなかった。彼女は強がっていただけだったのだ。
「なんで……分からないわ。なんで……」
「言うなれば、ここにもまた、須永さんがひとりの少女を助けたように、自分を犠牲にしてでも、人を助けたいという人がいたということだ」
「ねえ、彼女を説得してよ……、そんなの残すと、辛いの私だけじゃない……?」
醜く瀬藤に取りすがろうとする彼女を美絵子が押さえる。今度は母に向かって掴み掛かりはじめた。
「説得はしたよ。二度もね」
瀬藤は言った。
「それで……?」
「駄目だった。彼女の意思は固かった」
「もっともっと、その人に働き掛ける必要があるはずよ。私からも手紙を書いてもいいわ。なんでもするから。ねえお願い、止めて。その人に手術を受けさせて!」
「彼女の傷は、あなたが脅迫状で持ってして黒岩謙吾の心をなぶった結果だろう。つまり、彼女が負った深い傷と、同程度の傷を黒岩謙吾が負ったということだ。そのことに、なぜ、あなたは気付かないのか?」
瀬藤はかぶりを振りながら言った。苛立ちを感じていた。
優衣の涙腺が決壊した。溢れ出る涙と悲哀を惜しみなく吐き出しながら、
「そんなこと言ったら、私たちの傷ついた心はどうなるのさッ! あいつに滅茶苦茶にされたのよ。刑事さんは、それを無視して言っているでしょう? 時間が経ったからって、平気でいられると思う? 私は、まだ苦しい。ずっと苦しんできた。きっと、これからも苦しむと思う。ねえ、そんなことってあり得る?」
瀬藤と蔭山は立ちつくしかなかった。
返す言葉などはない。これは、彼女の本音だ。彼女もまた、被害者なのだった。
そのことを、いま痛感した。
「どうして……? どうして、私だけが、私だけがこんなに……」
彼女は手に顔を突っ伏し、自分の境遇を呪い続けた。すすり泣きが滑稽なほどに、室内に響く。美絵子は彼女の背中に寄り添って、しがみついている。
また、この有り様だ。
どうして、このような結果になってしまうのか。抜けられない泥沼にはまった気分だ。
原点を辿れば、須永隆久の死が発端にちがいなかった。
彼が選んだ選択は、間違っていたのだろうか、と思ってしまう。
もし、少女を助けずに彼が生き延びていたならば、黒岩家も、黒岩謙吾も、園田真希菜も不遇な運命に巻き込まれることはなかっただろうか……?
どちらにせよ、この結果は、須永自身も想定していなかったことのはずだ。悪い方向に転がったすべての要素にひずみが生まれている。
諦めてはいけない。苦しんでいる人間を救い出す、解決策があるはずだ。まず悪循環を食い止めなければいけない、瀬藤はそのことを決意した。
5
静岡中央署は、義弟に対して複数の脅迫まがいの手紙を送りつけたとして、黒岩優衣に任意同行を求めた。任意提出という形で、預かったパソコンを解析した結果、黒岩謙吾に対しそれらの手紙を送っている事実が確認された。
しかし、自殺教唆罪は立件できるかどうかは、あやうい所であった。未遂でも充分成り立つ罪であったが、乱暴な言葉は書かれておらず、内容も想定していたよりもずっと控えめであった。立件は見送られる可能性が濃厚ということであった。
瀬藤は、優衣が訴えた、彼女の本音の言葉が耳に付いて離れない。法にも裁かれないだろう彼女は、何かしらの救いが必要なはずだった。
「痛くはないですか?」
看護士の問いにいいえ、とおっとりした声で真希菜が答える。包帯を解いていく作業が続けられる。今日は、彼女の顔がお目見えする日であった。一般の立会人は、瀬藤の他に蔭山と阿木、そして真希菜の両親。みな、複雑な心持ちでいるようだ。表情が硬い。
包帯の密度が薄くなっていく。包帯に膿汁の痕が大きくなっていく。茶色く濁っていて、血が混じっているようだった。
包帯がするりと解けた。
傷口を直截押さえるガーゼが残っていた。
看護士がそれを剥がしに掛かったところで、阿木がよろめきつつ、真希菜に寄っていく。
「駄目ですよ、阿木さん」
蔭山がたしなめたが、彼はまるで聞いていなかった。
臭ってきそうなほどに膿汁が染み入ったガーゼが剥がされる。
「あぁ……」
阿木が呻いた。
真希菜の顔が露わになっていた。彫像のように、目鼻がすっきりとした顔立ち。病み上がりということもあってか皮膚に病的な気配が強く、それがむしろ彼女の神秘性を高めている。写真で見たとおり、目を見張ってしまう美しさであった。いや、今の彼女は写真のそれよりも、生身の躍動感があった。
傷は、顔に跨がる形で大きくのし掛かっていた。
それは、繊細できめ細やかな肌をほとんど台無しにするような痕であった。額から鼻筋、そして右頬に掛けて綺麗に走る窪み。彼女の顔には、不必要な要素でしかない違和感がありありとあった。
深い沈黙。
母親は、さめざめと泣いている。
しかし、真希菜は強かった。惜しみない微笑みを湛え、鏡を求めた。自分の傷に触れる。生々しさの残るその傷痕の表面をおそるおそる撫でる。その手つきは、癖がついてしまった鼻を撫でる仕種そのものであった。
「これが、私……ね」
「真希菜……」
阿木が傍にいた。震える身体は、今にもバラバラになってしまいそうな危うさがあった。
「ねえ……どう?」
彼女は阿木に問うた。母の嗚咽が低く響いている。真希菜にそれが届いていないはずがない。なのに、なぜ少女のように無邪気なのか。蔭山は唇を噛んでいた。血が滲み出そうな勢いだ。
「どう?」
阿木はぎこちなく笑っていた。完全な作り笑いだ。そんな質問など、愚問に決まっている。
「綺麗だ……君は、やっぱり綺麗だよ」
阿木は目を充血させながら言った。辛い感情が移ってきそうだ。真希菜もそうだが、彼もまた何という男だろう、と瀬藤は思った。二人は事件を乗り越えようとしている。愛情だ。すべて、それだけを抱え込んで二人はいま、見つめ合っているのだ。
「ありがとう」
真希菜の声は、可愛らしく弾んでいた。切なさが胸に染みる。医師は苦い顔をしている。父親は為す術なく立ち尽くしている。
「私を触って……」
阿木の手を取り、真希菜が自分の傷口に持っていこうとする。止めようとしたのだろう。だが、医師は病室内に立ちこめている緊迫感に、押し潰されていた。制止の声はあがらなかった。
阿木の大きく震える手が、真希菜の傷口に触れる。冷たい雪にでも触れたかのように、指先がびくっと跳ね上がった。
それから頬に手の額が吸い付いていった。
「いつもの君さ……変わらない」
阿木は涙を流していた。どんな感情が去来しているのかは、瀬藤にも読めない。清く澄んだ心を持っていることだけは確かだ。この状況に追いやられて、彼の心は苦しみ悶えながら、研磨されていったのだろう。
「好きだよ」
阿木がつぶやいた。彼女に触れる手に怖れが無くなっている。傷を、受け容れたのだ。闇に付き添う覚悟ができたのだ。
二人は、一緒に生きていけるだろうと、瀬藤は思った。
「ありがとう」
彼女は短く言い、阿木の甲に、自分の手を重ねた。少し首が傾いだ分、くすぐったそうな仕種に見える。
真希菜は瀬藤に顔を向けた。微笑んでいる。幸せそうだ。彼女が幸福すぎると自分で言ったのは、本当なのかもしれなかった。そして、どういうことか、それは傷を負った今でも続いている。この先に待っていることなど、まるで怖れていない。
「刑事さん、事件が終わったようですね」
沈鬱な空気をまるで無視したその問いに、瀬藤は二三秒間、戸惑った。
「いや……まだ、終わっていない。事件の概要がすべて明らかになったというだけに過ぎない。これからだよ。まだ、突き詰めていかなければいけないことがある」
「脅迫状、女の人……だったんですね」
「そうだ、謙吾を引き取った姉妹のひとりが、謙吾を追い詰めていった」
「教えて下さい。その人が、そうするに至った理由を。一緒に暮らしていた時、何かあったんですね」
「それは、教えられない」
瀬藤はきっぱりと言った。が、真希菜は諦めない。
「だいたい、分かります。だって、同じ女性ですもの。きっと、ひどい仕打ちをされたに違いないの。それを怨んでの行動だったはずだわ。その人も、傷ついていたんですね……?」
優衣の悲痛な訴えがここで思い出される。
真希菜が傷を背負って生きていくことは、自分にとって辛いだけでしかないことだ、と彼女は言った。そして、そのことを真希菜に伝えたいということだった。
「君の言うとおりだ。彼女は傷ついている。具体的なことは言わないが、それは君が思っていることとは違った傷だ。だが、事件の間接的な被害者の一人であることは間違いない。毎日のように苦しんでいる。これ以上、事件を引きずりたくない……ということだった。この意味、分かるね?」
「私の傷について、彼女は心を痛めている?」
「そういうことだ。必ずしも、あなたがやろうとしていることは、良い結果をもたらすというわけではなくなった」
「その人に会って話がしたいわ。苦しみを解いてあげたい」
瀬藤はかぶりを振った。
「あなたの傷は、彼女の古傷の象徴でもありましょう。目にした瞬間、どうなるかは分かりません。追い詰められるとヒステリックになってしまうところがあって、あなたとの対面でも、まともに会話ができるとは思えないですね」
「どうしようもないんですか?」
「あなたが傷を治したら、会えるでしょうか」
「刑事さんは、やっぱりそれを薦めるのですね?」
「姉妹の件にしても、あなたの件にしても、すべては黒岩謙吾がやったことです。ですが、一連のことはその裏でつながっているのです。黒岩謙吾の闇が生み出した事件は、別の闇を生み出し、それが彼に跳ね返っていった結果、あなたの所に行き着いたのです。そして、あなたはその意図がないにせよ、その闇を跳ね返そうとしている」
「悪循環を止めるべきだ、と」
彼女は賢さも合わせ持っている女性だ。全身から発される魅力は、知性も関係しているはずだろう。
「そのとおりです。ここで食い止めなければ、また闇はどこかで跳ね返ってしまうのです。そして、この連鎖が続くことは、須永隆久警部の死を貶める結果になります。これ以上、栄誉ある殉職を冒涜してはなりません。須永さんは立派なお方ですから、彼がやったことは無責任であったという結果を残してはならないのです」
「傷を消すことで、……すべて解消するのですね?」
「それは、分かりません。ただ、はっきりと言えますのは、黒岩の姉妹がそれを受けて、気持が安らぐことは確かです。彼女が落ち着けば、周囲の人間も自ずと、恩恵を受けることでしょう。そうして悪循環は解決する――」
真希菜は沈思に耽りだした。
何度も大きな呼気を吐き出す。そんな彼女に取りすがったのは、阿木だ。
「どんな選択をしても、僕は受け容れるさ。真希菜が決めることだ。だから、自分の選択を選べばいい。顔に傷があるぐらいで、君への思いは変わらない」
真希菜は彼に微笑んだ。
「ありがとう……でも、私は、手術を受けた方が良いみたい」
「何だって……?」
病室の雰囲気ががらりと変わる。誰もが目を見開いている。真希菜だけが微笑んでいる。
「須永さんは素晴らしい人だと思う。多くの人に愛されたお巡りさん……私は、この人を、冒涜するようなことをしてはいけない」
「そうか、須永さんのために……」
「もっと、知らなければいけないと思う。そしてその人のために、傷を消したことについて、満足したい。傷を残すことが、多くの人の闇に寄り添う手段だと思ったけれど、もしかしたら、お巡りさんは、その闇に立ち向かっていった結果、そんなことになったのかもしれない。だから、その人を否定するようなことをしてはいけないと思うの。私には、受け止める義務があるような気がするわ」
「君が請け負おうとしたことは、十五年前のあの瞬間に、お巡りさんがすでに請け負って死んでいったということか」
「それは、正しいだろう」
瀬藤が割り込んで言った。
「実は、彼はあの時、無鉄砲に飛び込んで行ったわけではないんだ。ちゃんと、考えるだけの時間があって、踏切に飛び込んでいったんだ。自殺行為じゃない。自殺に近い。だが、彼はそんなつもりで行ったわけではない。園田くんの言うとおり、闇に立ち向かっていったんだ。赤穂宏美を呑み込もうとした闇に」
「私は、お巡りさんを越えることはできない。だから……受け容れなければいけない。そう思う」
「本気……なんだね?」
「うん」
嬉しそうに綻ぶ彼女は、感情を溜め込んだ表情でいる。その一方で、口元は悔しそうだった。
阿木は真希菜の手を掴んで言った。
「だったら、傷を消せばいい」
彼は真希菜に向かって、健気に微笑む。
「そして、須永さんの勇気に感謝を示そう。寄り添おう」
「そうね、私が今、必要なのは須永さんが見ていた世界……それだと思う」
「手術を受けることは、もう決めたのだね?」
瀬藤は確信して言った。
はい、と明るい返事が返ってくる。微笑ましい気分になった。
「それで……傷、疼くのだろうか?」
彼女は鼻先に手を当てたが、結局傷には触れなかった。
「疼きはしません、感触があるだけです」
「充分だ。君は、それだけで祈りを強く持って生きていける。傷が消えても、祈りを続けられるだろう」
「もちろん、そうです。それだけは、譲れません」
彼女は、決意を見せて言う。
阿木もその顔を見て、独りでにうなずいていた。
「彼の見えていた世界、それを知ることには意味がある。多くの人に愛されていた人だ。闇に寄り添うために必要なものが、彼は見えていたはずだ」
瀬藤は真希菜に言った。
「じつは、身近なところに、答えがあったんですね……」
「私も、先日まで分からなかったよ。須永警部を少し誤解していた部分があった。難しい問題への挑み方を知っている人間が、必ずしも有識者であるとは限らない。これから彼のことをもっと知っていく必要がある、お互い。後悔は絶対にない。私が保証するよ」
「刑事さんも、須永さんをもう認めてらっしゃるのですね」
瀬藤は、自信を持ってうなずいた。
「彼は、疑いもなく本物だった。君も好きになっていけるはずだ」
「そうですね、それは何となく確信しています」
真希菜の笑顔から、清新な涙が零れ落ちた。
6
黒岩は検察に身柄を引き渡した上で、留置場内での勾留が続いている。リミット期間は、勾留請求が認可されたその日から十日間。それでも決着がつかない場合は、追加でもう十日間の延長を検察が裁判所に申し出ることになる。
捜査書類作成に彼は協力的であった。脅迫状の再現の中身は、黒岩家から提出された手紙データの内容とほぼ一致している事が分かっている。そのことからも、彼のあらゆる口述は信頼できるもののはずだった。
「君に浮上した新たな罪だが、先方はその意思はないということだった。つまり、君はこの件について、罪に問われないということだ。時間が経ちすぎているということもあるが、そこではない。彼女たちの意思によって、これは取り下げられたのだ」
黒岩はややぽかんとしている。そして、そうか、と呟いてうつむいた。そんな彼を、瀬藤は容赦なしに見ていた。
彼に浮上した新たな罪とは、黒岩玲菜に対する、性的暴行罪だ。強制わいせつや、強姦罪はいわゆる親告罪であった。被害届けなどの告訴がない限り、公訴を提起することはできない。法廷では欠陥事案として棄却するしかないのである。
「だが、君はそのことについて、語る必要があると思う」
瀬藤は迫った。
黒岩は自分の膝元を見たままに、うなずいた。
「あの時、何があったのかね?」
「そのままです。義理の姉である玲菜さんの部屋に侵入して、ベッドで寝ていた彼女に襲い掛かりました」
「君は、その時、家族に反発していた。どうしても、施設に帰りたいと思っていた。だから、非行に走った振りをしていた。これは、君の一種の作戦だったはずだろう。私は、そう思っている。つまり、非行は本物ではなく、演技のようなものであったということだ。その暴行は、最後までやったわけではないのだろう?」
黒岩は目も合わせずにうなずいた。
「言ってしまえばそうです。彼女の上にのしかかり、抱きついたぐらいでしょうか。しかし、強引に顔にキスをしたりとか、しましたよ。そういうことをしたというのが、大事だったのです。恐怖を植え付けさせ、一緒にいられないと思わせることが必要でした」
「なるほど、そういうことか。結局、キス……だけで、留めたんだね? しつこいようだけど、そこははっきりとさせておきたい」
「キスだけですよ。あと、抱きつく際、彼女は暴れていますから、あちこち身体を触ったということもあるでしょうか? それ以上は、どうあっても無理です。部屋は、そう広くないですからね。それに隣の部屋に、優衣さんがいました。仕切りは襖一枚ですから、ものの一分もしないうちに、彼女は飛び込んできましたよ」
「彼女には、何と……?」
「出て行きなさいの一点張りです。完全に、暴力があったと信じ込んでいる様子でした。最後までヒステリックに叫んでいました。母さえもそういったことがあったと信じたのは、彼女の反応からでしょう。優衣さんのあの様子を見るに、どうも、溺愛していたところがあったように思えます」
「溺愛……そういうこともあったのか」
「二人は、仲の良い姉妹だったみたいです。実は、あそこの両親はあんまり仲が良くないんです。会話がほとんどない家庭ですよ。冷戦というやつですか? よく分かりませんが。そういうのが事あるごとに起こっていたので、二人は慰め合っていたのでしょう。それは、性的な意味ではなく、精神的な意味ですが」
痩せこけた母は、腺病質な有り様だった。神経が細い女性。あれは、棘のある日常に苦しめられていた証左に他ならない。
黒岩が言っていることは正しいと思われた。直に、美絵子の顔を見た瀬藤にはある種の確信が沸いていた。
「君は、その仲の良さに付け入ったというわけか」
「付け入った……というのは、違いますけれど、結局、そうなったのでしょう。俺としては、そうするしか選択肢はなかったということです。勘違いした優衣さんに、誤解を解く必要もありませんでした」
児童養護施設に出戻りし、自分が生まれた故郷に戻る。その地に直截足をつける。彼はそのことだけを強く希望していた。嫌われても、そうしたかったのだ。
彼の目には、父親しか映っていなかった。
十歳まで生きた記憶が、彼のすべてだった――
「そうまでして、君はお父さんと過ごした土地にこだわりたかったんだな」
「恥ずかしい話ですが、まあ、そうです。親父の所に、いたかったんです」
少年っぽい表情を見せていた。しかし、それはすぐに彼の顔からたち消えた。
「あの家の人たちには、我が儘を通したことで、ずいぶんと迷惑を掛けました。引っ越しを繰り返し、追われるような生活をした……。いま、すべての結果を聞いて、ああいう仕打ちを受けても、自分は仕方が無かったと思います。それだけ、あの家を滅茶苦茶にしたわけですから……」
優衣が自殺をそれとなく唆してきた一連の工作を許すつもりでいる。彼には、強く反省する心があるということだ。事件は、法廷で円滑に収められることだろう、と瀬藤は思った。先の見通しは明るい。瀬藤にも光が見え始めてきた。
「しかし黒岩家は、極端な行動を取る人たちだ。玲菜さんは、強制わいせつ行為を受けたとはいえ、結果的には無事だったのだから、引っ越しを繰り返すなど、やり過ぎではなかったか?」
「先にも言いましたけれど、両親の仲がおかしいところでしたからね。俺がやったことで、一気に空中分解したんじゃないですか?
それに玲菜さんは引っ込み思案の大人しい人です。事件の詳細について、家族にそのことの本当のところを話さなかったに違いありません。そのことが、間接的に拍車を掛けたのかもしれません」
おかしいな、と瀬藤は独りごちる。
「普通、養子を受け容れる家庭というのは、審査を受けることになっている。関係が不仲だったり、素行に問題があったりすると、児童相談所のほうがこれを拒否する。彼等は、一応パスしていることを考えると、必ずしもそうではなかったはずだよ」
「いくらでも、その点はなんとかなりますよ。外面だけは最高に良い人って、けっこういますよね?」
「彼等は、そうだった?」
黒岩の口元に、苦笑いがあった。
「……だと思います。体裁ばかり気にしているからこそ、逃げ回っていたのでしょう」
なるほど、と思った。
あいだを置いて、彼は言った。
「もう、……無理ですから。養子離縁届の手続をしてもらいたい、と先方に言ってもらえますか?」
「あそこに戻ることはないということか」
「ええ、家族として見れていないですから、無理でしょう。向こうも、同じ気持ちのはずです」
双方合意ならば、協議離縁という形になるだろう。二者の印鑑が押捺された書類を、本籍がある市町村役場の窓口に届け出ればいい。受理されれば、もう関係は事切れる。びっくりするほど呆気ない縁切れだ。
だが、まだ話し合いに持っていく余地はあるはずだ。
瀬藤は巻き返し策を控えていた。
「君には報告していないが、母親の美絵子は、君に手紙を送り続けていた。三年前からだ。須永隆久を騙った、内容――あれが、豹変していくその前は、優衣ではなく、美絵子夫人が書いていたのだよ」
「そうだったんですか……?」
「途中で、優衣に奪い上げられ、彼女の思うままにさせられてしまったが、一年前から以降の内容は、すべて君に寄り添う、優しいものだったはずだ」
「本当に、親身になってくれる内容だったから、俺は信用したんですよ」
「途中で、入れ替わったことが、分からなかったかい?」
「いや……もう、なんていうか、取り憑かれたようになっていましたからね。無理だったでしょう」
本当に須永隆久からだったと、思い込んでいたようだ。それで、彼は自分を慰めていた。父の影響が及ぶところがあるのは、彼が自らそう認めているとおり、それだけ父親を愛しているということなのだ。
「一年前以降の手紙の内容について、私も押さえている。だが、それについての君の心証は押さえていない。それを教えて欲しいんだ」
手紙は、慈愛に満ちていた。須永隆久の名を騙っていることをのぞけば、母親の務めを果たしたいとする、意思が籠められていた。謙吾の将来を憂えて、親身な意見をとうとうと述べていた。謙虚さもあったそれは、まったくの他人からだと疑いを挟む余地はないはずだった。彼がまんまと信じ込んで、悩んでしまうのも分かる。
「別の人の聴取で打ち明けていますけれど、手紙に折り畳まれたお金が入っていたときもありました。仕送り金……というやつです。本当に天から見守られているようで、怖いような頼もしいようなそんな気持になりましたっけ」
その時に折り込まれていたのは、一万円札であったはずだ。調書にはそうあった。これは、パソコンデータからは分からなかったことである。
「彼女は、君のことをささやかながら思っていたのだろう」
黒岩に反応はない。
ただ、じっと見返しているだけだ。
「君が、ずっと施設に帰りたがっていることに、強いジレンマを感じていたのだと思う。何としてでも、自分たちになびかせたい、そう思っていた。しかし、君が仕掛けた事件で、とうとう君を家に置くことが難しくなった。姉妹たちの強い拒絶。それを優先させなければいけなかった。施設に戻すときは、泣く泣くそうしたはずだ」
「でも……」
瀬藤は彼が何かを言いかけたのに構わず畳み掛ける。
「まだ、君が黒岩の養子のままでいる理由。それは、美絵子夫人がこだわり続けた結果だと思う。これだけは、という信念が彼女にはあった」
「普通なら、こうなると、もう事切れていますか……?」
彼は無表情で訊いてきた。
「そうだね、普通ならもう切れている。そういう話は、ざらにあるよ。なにぶん、養子というのは結局のところ赤の他人だからね。それに、子供からすれば、よその家で家族にならなければいけないという強いストレスを強制される。うまくいくのは、本当に情愛に溢れている家族だけだろう。君が最初に出迎えられたとき、彼等の愛情はどうだった?」
「夫婦仲は冷えだしていたけれど、でも、愛っていうやつは、あの家にはあった……と思います」
やはり、そうだったのだ。
彼を迎え入れたその時は、黒岩家は明るかった。いつの日か、美絵子が見せてくれた写真はそれを証明していた。当時から不仲の気配があった夫婦もまだ良好で、新しく迎え入れることとなった謙吾の存在を理由に、家庭が変わっていく可能性を秘めていた。両親は、そのことに期待していたかもしれない。だからこそ、二年物ブランクの後、謙吾を受け容れようと決めたのだ。
「君は、その愛を拒否した。黒岩家としては、現実を思い知らされるようなショックだったことだろう。そういうことは、やはり拒絶してはならないことなのだよ。君は、理由の如何を問わず、素直に応じるべきだった」
黒岩は眉根を寄せあげて、いかにも納得いかなさそうに瀬藤を見ていた。
「刑事さんは、何が言いたいんですか? 俺に、養子離縁を取り下げたいとかいうんじゃないでしょうね? そうだとしたら、無理だって言っておきますよ。俺は、もう取り返しのつかないことをしたわけですから……、あそこの敷地内に入ることだって許されないはずです」
「美絵子夫人は努力をしてきたのだと思う。君が帰ってこれる環境を作るための努力だ。君の実のお父さんの献花をする際、娘の玲菜を連れている。美絵子夫人の話では、妹を弔うため……ということだったが、実は違うだろう。徐々に、君の存在を玲菜に受け容れてもらうことにこそ、本当の狙いがあったのだと思う」
その根拠は、施設長が口にした、台詞にある。
黒岩謙吾を自分の手から手放したくない――。
それは、美絵子たちが、ちゃんとその意思を施設長に伝えていたことからの発言だったはずだ。美絵子にはそういう意思があったということだ。それは、瀬藤も彼女の口から直截聞いている。親子としての愛情を持っている、と。
「俺……その、献花をするところ、見てます」
瀬藤は、知っている、と受け返す。
「以前にもそういう証言をしてもらった。しかし、その明細について、まだ語るべき部分があったりするのではないか?」
「分かるんですか?」
「すべてをお見通しというわけにはいかないが、いまの顔はそう訴えているよ」
彼は若干ながら鼻白んだ気配を見せた。そして言った。
「あの時、献花の際、俺は目が合っています……玲菜さんとです」
「母のほうは?」
かぶりを振った。
「気付いていないようでした。そもそも視力は良くないほうですから、距離的に見えなかったはずです」
「玲菜さんは、君がそこにいることを知って、どういう反応をしていた?」
「堂々としていましたよ。踏切をゆっくりと母と一緒に歩いて、献花するその場所まで真っ直ぐに向かいました。挑んでくるようなそんな、強い視線すら感じましたね。まるで、もう過去は清算したとでもいいたげな、強さでした」
「もしかしたら、美絵子夫人は玲菜さんには、もうある程度君に心があることを伝えていたのかもしれない。でなければ、そういう態度は取れないのではないか……? そして、献花には堂々と訪れられないのではないか?」
黒岩は考えている。
「どうでしょう……?」
「彼女は、はっきり言ってまだ虚弱な精神の持ち主だ。それは、ひた隠していた黒岩家が抱える過去が明らかになったとき、はっきりと外に出た。彼女は、母親の気質を受け継いでいるところがある。それを考えれば、堂々としていたとする君の証言は、まるで別人の彼女だろう」
「嘘じゃないですよ、俺は本当に――」
「信用しているさ。君は、捜査書類に絡む証言について、ここまで嘘一つも言っていないはずだから。別人のような玲奈。それもまた、彼女の本当の顔だろう。君の兄妹であるという気構えが固まっていたとするなら、そういう顔になるのかもしれない」
「まさか……刑事さん?」
彼の眉根が吊り上がった。
「本当のことだよ、きっと。玲菜さんも、君を迎え入れる準備をしていた。だからこそ、その時、あてつけのように毅然とした態度でいたのだろう。君の所に寄り、声を掛けなかったのは、まだ優衣が君を受け容れようとしていないからだ。これについて、玲菜さんは受け容れようと、威圧を掛けていった。これは、ここ数ヶ月の話だよ。その結果、優衣が送りつける脅迫状に、苛立ちがこもっていく結果となったんだ。優衣さんは受け付けなかったということだ」
威圧を掛けにいくきっかけは、一年前、美絵子から手紙を取り上げた事実を押さえたことからだ。悪意のある手紙の一部を、彼女は見てしまった。
だからこそ、最初に顔をあわせたその時、彼女はそれを隠すために後ろ暗い態度を取っていたのだ。一方、優衣は自分がやったことを知られたくなかったため、攻撃的に出るしかなかった。
「おかしいです。俺は、玲菜さんにあんなことをしたんだから……その……向こうからそんな感情を持つだなんて――」
彼はまだ納得がいかないらしい。
「彼女も怨んだはずだ。貞操を奪われたというまでではなかったが、君の理不尽な行動に人格さえ疑ったはずだ、当時は。しかし、時間が経つ毎に、彼女は受け容れずにはいられなかったはずだ。君は、本当の両親を失ったいわゆる、孤児だ。埋められない心の闇があるんだと、理論で理解したと思う。そしてお互いその時は若かったのだと、考えをあらためるに至った。実際、その時、君は何才だったのか?」
「じゅ……十四才ですかね?」
「もう少し、年が上だったら、きっぱり切り捨てられていただろう。十四歳ならば、まだ純情の範囲内だ。玲菜さんは、ある程度君がやったことは、工作ではなかったのかと気付いたのだと思う」
「信じませんよ」
黒岩は上擦った声で言った。
「それ、信じちゃったら、俺……手の内で転がされていたようで、惨めなことこの上ないですから。それに、やっぱり復縁はないですよ。もう、……もう、俺は、第三者に傷害を与える事件を起こしてしまったのです。立派な犯罪者になってしまったのです」
「元々、それは、姉である優衣さんが君を追い詰めたことが理由で、起こってしまったことだ。彼女たちは、各々責任を感じている。特に、優衣さんの落ち込みがひどい。これは、君だけの問題ではないのだ。一度、彼女たちと話してみたらどうだろう」
「まさか、受け付けてくれるはず……ないですよ」
あり得ないといった決めつけで、彼は勢いよく首を振る。
「わからんだろう。そういう遠慮が、互いを駄目にしたのでは? 事件の中身が明らかになった今、彼女たちはこれまでの彼女たちとはまったく違った雰囲気になっている。優衣も大人しくなった」
「俺の意思ってやつがあるでしょう? 俺は、どうあっても離縁するつもりです。だから、話し合いなんて、意味がない」
離縁。
証明書という形式張った紙切れ一枚で繋がった縁。それを断ち切るのは、実に簡単だ。
絆を維持し続けることの方が、圧倒的に難しいのだ。
「優衣さんが、心を入れ替えるようになったのは、事件への関与だけが理由ではない。君には分かるだろうか?」
「何か、あったんですか、他に?」
「園田さんだ。彼女の傷つけられた顔……。いま、整形手術が行われ、綺麗に消えようとしている。彼女は、そのことを案じていたんだ。心配ごとが消えたんだよ」
「あ……」
ぽかんとする彼に、瀬藤は笑いかける。彼にも、喜ばしいことのニュースのはずだった。しかし、彼は次に申し訳なさそうにうつむいた。
「俺が……反応して良いことではありませんでした」
「いいはずだよ。少なくとも優衣の心は、それで解放されたんだ。自分が間接的に園田さんを傷つけたと自覚している分、彼女の喜びは大きかったはずだ。そして、いま彼女は償おうとしている。あの子にしては、目覚ましい進歩というやつだろう」
「だからといって、俺たちがうまく会話できるようになったとは、思えないです」
「少しずつ、接近していく形で良いはずだよ。そういう心構えが向こうにはある。最初の一歩は、君のお父さんが亡くなったその場所で、だろう」
須永隆久がすべてを解決してくれる。
瀬藤は、そう信じていた。
いま、必要なのは彼の力しかないのだ。
「罪を償ったら……、献花に行きなさい。そして、あの子たちに墓参りにも来てもらえるよう、誘ってみなさい。突き放されて元々だ、という考えでいけば失うものは無いだろう。それは、君には無理なことなのか?」
黒岩の目はぼんやりとそぞろになっていた。
「親父……」
つぶやいた途端、彼の肩がわななく。
一気に感情が決壊した。
取調室に悲哀が満ちる。
「そうしたら……そうしたら、まるで親父にすべて助けてもらうみたいじゃないですか……」
人一倍、正義漢が強かった須永隆久。彼に協力を請えば、叶わないことはない。彼は一人息子だ。だからこそ、そのことをよく知っている。
「そんなの、ないですよ。こんな年齢になっても、……親父に助けられるだなんて……あり得ない」
咽びながら、かすれかすれに彼は言った。
「年齢なんて関係ないさ。君が生きている以上は、須永警部は、ずっと父親で居続ける。助けられて当然だろう。私だって、父親は大きな存在だ。その例外ではない」
「刑事さんが、父親に助けられるなんて、まずないじゃないですか」
「何を言っている。私も、まだまだだ。精神的な意味で父の依存から抜け出せてはいない。これは、みんな同じものだろう。父というのは、偉大なのだよ。それは生涯塗り替えられない。
君のお父さんは、ただでさえ素晴らしいお方だ。私も認める。今回は遠慮なく、その力を借りなさい」
彼は目頭を押さえて、胸に満ちる感情を抑えようとしている。
「そうします……、俺には、もうそうするしか選択がないんです。親父の力を借りるしか……ないんです」
いつしか、離縁のことは棚上げになっている。
可能性にかけたい、ということなのだろう。
仮に復縁しても、すこし遠慮が入った特殊な親子関係になる。それでも、黒岩には帰るべき家族が残る結果となるのだった。
「私は、上手く行くと思う」
根拠などない。
だが、確信があった。
須永隆久の影響力が及ぶその場所で、邂逅した彼等が敵対するだろうか。無条件で、これまでの確執が封じられる。そして、歩み寄りが始まるのだ。
その姿を、須永隆久が見守っているとしたら、どんな顔をしているのだろう。同じく彼岸に旅だった妻と共に、此岸にひとり残してしまった謙吾の姿を優しい顔で見守っているに違いない。
強く生きるんだ――
彼ならば、心でそう念じることだろう。
そして、歩み寄る彼等の様子をときおり厳しい顔を覗かせながら、固唾を呑んで見入るに違いない。
怨みのすべてを許し、封印することは難しい。いくつもの精神的な壁を越えていかなけばいけない。彼等が直面している課題は、あまりにも多すぎる。そして深刻だ。それでも、最終的に彼等は乗り越えてくれる。
そこは、須永隆久が勇気を奮った場所なのだ。その気概に、彼等は向かっていく。解れかけた絆が、撚り合わさっていく。
その時、彼等の時間が巻き戻される。
お互いが離れていた喪われていた時間に、直面する。
ゆっくりと差し出されるその手が、瀬藤には思い浮かぶ。それは、どちらのほうの手が先だろうか。
最後に、重ねられる光に満ちた手は、須永隆久と妻のものだろう。
そして須永隆久の身を洗うような微笑み。
その日は、彼が散っていった十五年前の八月十四日よりもずっと、まぶしく暑い日のはずだろう。
黒岩は背中を震わせていた。
「お、……俺は、早くに罪をつぐないますッ……」
すすり泣きは、嗚咽に変わった。
エピローグ
藤枝市のその踏切は、今日も人通りが絶えない。買い物に徒歩で向かう主婦に、私用を足しに向かう自転車の老人、ベビーカーを押す、主婦。通り過ぎていく人は様々だ。
真希菜は、木柵の前に座りこんでいた。献花場所の前だ。近所の人間が生けたのであろう枯れた花を一輪挿しから抜き、事前に買っていたガザニアの数輪を一本ずつ、器用に生けていく。
瀬藤が、彼女をここに連れてきた。この日を、彼女はずっと楽しみにしてきた。外に出歩けるようになっても、瀬藤との約束を優先して、あえて彼女はここに足を運ばなかった。とても律儀で義理堅い。そこに、彼女の誠実な心の神髄がある。
生けられたばかりの勲章菊が、凛と背筋を伸ばしていた。花弁のオレンジは殺風景な場所に彩りを与えるほどの鮮やかさを誇っていた。
勲章と名がつくだけのことはあった。
これは、須永に相応しい花に違いなかった。
真希菜は立ち上がった。
自分の仕事ぶりを気持ちよさそうに眺めている。その顔には、もう傷の跡はない。手術で完全に消えた。医学の脅威的な成果であった。だが、傷による痛みはまだ彼女に残っている。感情を顔に満たしたとき、不意にうずき出す。
その時、彼女は感情を顔から締めだし、祈る顔を見せる。闇に寄り添う気持は、嘘偽りなく、誠意を持って続けられるはずだ。事件を受けて、彼女もまた変わった一人なのだった。
「瀬藤さん、どうです?」
真希菜は自信たっぷりに、ガザニアを示して言う。
「とてもいいじゃないか。うん、センスある」
「そんな、センスだなんて……」
薄く微笑むその仕種も、可憐だ。煌めきがある。それは、彼女が婚約した事と関係があるにちがいなかった。阿木からの手術の申し入れを受けた瞬間、彼女はもうそのことを心に決めていた。あとは、阿木が一押しするだけで、良かった。
結果二人は、将来を誓った恋人の間柄となった。
阿木は、瀬藤に笑いながら言った。これからも、時間を切り詰めて許す限り彼女に付き合っていく、と。彼女の本当の傷を癒すのは、自分でありたいということであった。
「あの、……ひとつ、聞いて良いですか?」
真希菜が遠慮がちに言った。
「なんだろう」
「黒岩さんのことです。まだずっと先のことだと思うんですが、彼が世間に出てきたとき、行き場のない彼はどうなるんだろうって思いまして」
被害者の中心である彼女が問うことではない。だが、割り切っているあたり、真希菜らしいというべきなのかもしれなかった。彼女は特殊なのだ。
「本当に、ずっと先のことだ。いまから、そんな心配をするのは、少しおかしいぐらいに」
黒岩謙吾は、まだ法廷に立たされている。二回目の公判が終わり、まもなく判決が下される予定だ。
彼は反省を示し、真摯に罪に服す潔い態度を見せているため、言い渡される懲役は検察の要求よりもずっと小さいものになるだろう。また結果がどうであれ、控訴は真希菜の意思を汲んでされない見通しとなっている。
「だが、心配しなくて良いはずだ」
瀬藤は気概を持って言う。
「こないだ、私のところに、黒岩の母が会いに来た。美絵子夫人だ。彼女は、黒岩のことを案じて、どうなるのか、と聞きに来た。話を聞いたところ、面会に行きたいということだった。いまの彼は検察が拘置所にて身柄拘束している状態にある。手続さえ済ませれば、接見は可能だろう……が、そこまで彼等は信頼関係ができているわけではない。それに、黒岩も気持ちの整理がついていない頃だろう」
「判決が出て刑務所に移されるその時まで、待ちなさいと刑事さんはおっしゃられたのですね?」
「そういうこと。彼等は、たがいに時間が必要なんだ。すべてが済んでからの方が良いに決まっている。すると、彼女はそうします、と納得して帰っていったよ。必ず、面会にいくということだった」
「それじゃ……」
「うん、彼等は歩み寄っていけるんじゃないかな。時間を掛けて」
真希菜は良かった、と胸を撫で下ろした。
「出てきても、また一人……ということになると、可哀想だってずっと思っていたんです」
「正直なことを言うと、彼等のあいだの絆が断ち切れそうになっていたんだ。縁切りの話が上がっていた。長らくそうだったけど、事件がとどめだった。だが、最終的に彼等は持ち直してくれた。須永隆久警部が繋ぎ止めてくれたんだ。そしてそのきっかけを作ってくれたのは園田くん、君だよ」
彼女は鼻先に手を当てた。
久し振りに目にした彼女の癖となった手つきであった。
「悪循環は、断ち切れたのですね……?」
「そうだ、断ち切れた。すべては君のお陰さ」
「そんなこと……」
その時、踏切待ちで蓄えられた人並みが捌けていったその向こうに、二つの影が現れた。彼等は瀬藤たちに向かってくる。蔭山と、赤穂宏美だ。
蔭山が正面向かいのある地点で足を止めると、赤穂がその前に立つ形で止まった。
例によって、福々しい顔を、見せている。
「君の、望みの赤穂宏美さんだ」
瀬藤は彼女を示して、真希菜に紹介する。彼女は慇懃に頭を垂れ、宏美に礼を尽くした。宏美も応じる。
二人は見つめ合った。
「初めまして、お会いしたかったです」
真希菜が口を切った。
「私もです。真希菜さんですよね?」
「はい、そうです」
「お顔、……綺麗になりましたね」
「ありがとうございます。須永さんのために、受けることにしたんです。これは私が、背負うべきことではないって……最終的に、須永さんに負かされたんです」
宏美は屈託なく微笑んだ。保育士として鍛えられたそれは、純粋培養の微笑みであった。
「須永さんも、喜んでいることでしょう。 ありがとう、と私からも言いたいです。決意されたことは、納得できると思いますよ。須永さんは、それだけのお方ですから……」
「教えて下さい、須永さんのすべてを。これまでに、たくさんのお話を聞いて回ったと言うことでした。どういう人だったのか、……すべてを知る事が、今の私の、義務なんです」
宏美はやはり微笑んでいた。
「なんだか、あなたに会うために、私は今日まで生きてきたような気がします」
微笑む彼女は愛くるしさに満ちている。それから宏美の滔々とした語りがはじまった。いつしか、反動的に足が前に出ていた。真希菜と並び、ふたりで献花前に立つ。
須永が結びつけた、奇妙な縁であった。
ふたりの共通点は、お互いそれぞれの傷を負っているということ。
二人を包んでいる雰囲気は、良かった。彼女たちは、これからも付き合いを続けていくのだろう。彼女たちのあいだで埋められていく時間は、ふたりにとって大きな意味のあるものになるはずだ。特に、宏美の方の呪縛が解かれ、彼女が完全なる自由を得ることに期待が持てた。
宏美がまた一つの挿話を言いかけたその時、温い風に乗って、歌声が耳をかすめてきた。園児たちの甲高い合唱だった。宏美が勤める幼稚園からである。
「これは……?」
真希菜が宏美に問うた。
「賛美歌のようなものですよ。定期的に歌わせているんです。そこの園長先生も、須永さんのことを良く知っていた人だったんです。ですから、子供たちにそこにいた一人のお巡りさんのことを知ってもらうために、賛美歌を簡単にアレンジしたものを、音楽に詳しい保育士さんに見てもらって作ったんです」
園児たちの高らかな歌声は、澄んでいて伸びやかだ。迷いがない。それだけに、清浄に満ちている。蔭山は感じ入ったのか、鼻を啜っている。
「それでは……?」
真希菜が問う。
「子供たちは、みんな須永さんのことを知っていますよ。私が、最後に出て教えてあげるんです。助けてもらったその少女が、私だ、と。まだ、何のことかよく分からないって顔をしてる子が多いですけれど、そのうち分かることでしょう。子供たちに知ってもらうことには、意味があることなのです」
瀬藤は幼稚園の敷地内に入ったとき、見かけた男の子を思い出した。彼があの時、口ずさんでいたのは、いままさに歌われている曲に違いなかった。ずっと、覚えていて欲しいと願った。彼等の今の幸福の一端を、願った人へ送る曲なのだから。
須永隆久は、ずっと語り継がれていく。
子供たちの歌にそよいで生きていく。
踏切を行き来する雑踏は、絶えない。賛美歌は、福音のように辺りに充ちる。今日も、そこは日向がいっぱいに満ちている。
ガザニアの花が、風に揺れていた。