ペインレコード2
第二章
1
捜査会議にて新たな情報が捜査員に伝えられた。
名古屋の駅で黒岩と容貌が似た男を見たという目撃情報が何件か相次いだということであった。その手の情報は、以前からあったが、複数重複して届けられるのは初めてであった。その他、黒岩は南陽信用金庫に口座を持っていることが分かった。預金残高は、三十万弱ということだったが、これはすでに警察の要請で凍結されている。
「資金源はすべて断った。あいつが現地で日雇いの仕事を見つけない限り、投降は目前だ。懲りずにどんどん追い詰めていけ!」
荒濱は勢い余って、立ち上がっていた。
事件発生から三日目。いまが、辛抱時であった。それだけに、気力を捜査員にぶつけて士気を維持しなければいけないと彼は理解しているはずであった。
瀬藤の斑に報告番のお鉢が回ってきた。蔭山に託し、瀬藤は目を瞑って聞き入る。
殉職した父親の事に、施設と、黒岩家での黒岩謙吾の素行、経過、心証など、彼の過去に関してのすべてが語られていった。
「父親が殉職したことから人生が落ちぶれていったということだったが、これを今、掘り下げていく意味があるのかどうか?」
荒濱は呆れの含んだ眼差しを瀬藤に寄越していた。そちらに突っ込んでいくのは、捜査の方針から外れるお門違いな方向だとでも見ているのかもしれない。
「私はあると思っています」
瀬藤は強気で言った。
「動機がそこにあると?」
「そうです。何かしらの形で、事件と関係しているはずだと私は見ています。仮にそうでなくても、人格形成を掘り下げたとき、その部分は見過ごせない事実になるはずでしょう」
「そんなものは、事後にやればいいことだ」
荒濱は突っぱねた後、苛立たしげに咳払いをした。
「いいえ、今だからこそ、それをやる必要があるのです」
瀬藤は食って掛かった。
「貴様、俺に逆らうって言うのか?」
荒濱からぎろりとした威嚇の目が寄越されると、議場に不穏な気配が拡がった。やっかいなことを起こすなとでも、他の捜査員は気配で警告してくるようだ。
しかし、瀬藤は呑まれなかった。
「逆らう訳ではありません。必要性を、説明しましょう。蔭山の話にありましたとおり、黒岩が岡部町に留まることにしたのは、そこが彼の生まれ育った故郷だからです。彼の住まいは、隣町の藤枝市にあります、父親である須永隆久が殉職したその場所から十キロも離れていません。その場所に向かおうと思えば、いつでも可能な距離でしょう」
「お前は、何が言いたいんだ?」
「それだけ土地に愛着を覚えているということです。このことから導き出せるのは、彼はそう遠くに逃げていないということです」
会議室が色めき立った。一番顕著な反応を見せていたのは、荒濱だ。
「お前は、さっきまでの話を聞いていなかったのか? 名古屋駅にて似た男を見たという目撃情報が相次いだということだった。その発言は、それを無視したものだ」
「それは、きっと誤った情報のはずです」
「だったら、お前は、どこにいるというのだ?」
荒濱は奥歯をぎっと鳴らした。
「静岡市、岡部町、そして藤枝市のこの周辺界隈にいるはずでしょう。外れても県内であることは、間違いありません。無闇に捜査範囲を拡大し、他の県警に共助の要請をする必要はありません」
「もし、君の言うことが本当ならば、我々としてはそちらを選択したい意見ではある」
声を上げたのは、本部の管理官、恩村であった。
「管理官? この男の口車に乗せられてはなりませんぞ?」
荒濱は責め立てるように言った。が、管理官は彼に目を寄越すことはなかった。
「何事もそうだろう。手安く済む選択で良いのならば、それを選ぶはずだ。無闇に、捜査範囲を拡大しても時間と、金の無駄な消費にしかならない」
「おっしゃられるとおりです」
瀬藤は確かな口調で言った。
「それで、君のその発言に裏付けがあるのかね?」
「黒岩家の養子になったとき、彼は岐阜にある住まいへと連れて行かれました。以後、非行に走るようになるわけですが、たびたび元いた児童養護施設の方へと戻っています。その施設は、浜松市にあります。つまり、県内です。その時の彼の素行は施設長の話では特に変わり映えしないいつもの彼だったということでした」
「こう言いたいのだな、非行に走ったのはちゃんとした理由があったからだった、と――」
恩村は、報告書の束を手に取り、見入る。
「結局、施設の方に落ち着いたのだったっけ?」
「はい」
恩村は顔を上げる。
「そこでの素行は良くなったということだったが、施設の人間からもその話を聞いているのか?」
「話を伺っています。そちらに移って、すぐに高校受験だったわけですが、かなり危なかったようです。しかし、彼は勉強してなんとか難を乗り越えたようです。それまで、勉強らしい事をしてこなかった人間が、目標を果たすために勉学に励むようになったというのは、これはかなり大きな変化ではないでしょうか」
黒岩の人格を認めたらしく、ふむと恩村はうなずいた。
「ひとまず、捜査範囲拡大の路線は抑えておこう。君の意見を、採用してみることにする。しばらくは、界隈を中心に情報を求めて回る。それで行こう」
気負っていた荒濱はすっかり腰砕けになって、椅子に力なく座った。目が合うなり、怨みがましく瀬藤を睨み付ける。
「おい、瀬藤。でたらめだったら承知せんぞ。始末書レベルでは済むまない罰が待っていると思え、いいな?」
「はい、覚悟はできています。課長、その代わりと言って、頼みがあるのですが」
瀬藤の申し出に、荒濱の顔から怒りが消えた。
「なんだ?」
「赤穂宏美。それが、須永隆久が助けた少女の名前なのですが、彼女の所在を押さえる要員を至急用意していただきたい」
「そいつも事件に関係があるのか?」
「黒岩が次に狙っている人間がいるとすれば、彼女でしょう」
「護衛が必要ということか?」
「必ずしも、そうではありません。念のため、監視下に置いておく必要があるということです。もし、黒岩が自分の境遇を嘆いて例の事件を引き起こしたというのでしたならば、真っ先に狙うのは真希菜ではなく、赤穂の方です。しかし、現実には違うので、まったく無関係である可能性が高いといえます。が、注意が必要なのです」
「某かの、つながりがあるとみているんだな?」
瀬藤はうなずいて言った。
「須永隆久が殉職した日は、八月十四日です。それで、南陽信金にて事件が起こったのは、今日から三日前の、八月十六日。園田真希菜は、その二日前に実家に帰っています。その日は、八月十四日。つまり、須永隆久の命日です」
会議室がまたざわめきだしていた。
「なるほど、日にちのつながり……」
荒濱はひとしきり顎を撫でてから言った。
「だったら、園田と赤穂はつながっているんじゃないのか?」
「どう考えても、そう思ってしまうのですが、いまのところ何もつながりは見つけられていません。真希菜に聴取を掛けた時、彼女は実家に帰ったことを報告していますが、赤穂の件はもとより、須永の命日であったことなども話していません。つまり、彼女にとってそれだけのことでしかなかったということです」
「もう一度、園田に聴取を掛けてみたらどうだ?」
「直に、そうしたいと思っています」
「赤穂の件は、承諾した。すぐに、居場所を特定する。当時の旧住所が分かっているのだから、追っていけば行き着くだろう」
その担当者が、荒濱によって即座に決められた。地域課から召集された男であった。
「赤穂宏美くんか……」
恩村が独りごちた。また、書類に目をやっている。顔を上げると、感慨深げに指を組んだ。
「私も気になってきたよ。警察官に命を助けられ、九死に一生を得た少女。はたして、今日という日までどういう人生を歩んできたのか?」
その日から、十五年も経過している。
現在二十一歳になった赤穂宏美は、これまで須永隆久の分も生きていかなければいけない重圧を背負って生きてきたはずだ。いったい、どういう女性に育ったのか。瀬藤も気になってならなくなってきた。
恩村は続けた。
「やっかいなことに、事件の被疑者である黒岩は、列車事故の警官の一人息子だ。同じ事故つながりの彼女にその事実を伝えるのは、少しつらいものがある。いや、もう事件は外に明るみに出ているだけに、彼女は知っているのかもしれないな。だとしたら、名乗り出てこないあたり、まったく真希菜とは関係ないということになるか」
「県内にいない可能性もありましょう」
荒濱が言った。
「それは、どうでしょう?」
瀬藤が反論に掛かった。荒濱のきつい睨みが寄越されたが構わずに言った。
「これまた、彼女もこの地域に残っているんじゃないでしょうか」
「また、土地への愛着がどうこう御託を並べるのか?」
「今度はまた意味合いが違いますね。呪縛という言葉が、正しいかもしれません」
「また、重い言葉だ」
「私としても、使いたくはないのですが、しかし気持を推し量れば、それしか選ぶ言葉はありません」
「君がいう呪縛というのは、須永くんの存在を自分から断ち切れないという意味か?」
恩村が言った。瀬藤はうなずく。
「はい、そうです。事故の実況見分調書を読む限り、赤穂宏美は須永警部の飛び出しがなければ、間違いなく列車にはね飛ばされていました。軽症で済んだのは、もはや奇蹟としか言いようがない状況です。これは、調書を閲覧すれば、誰の目にも明らかでしょう。
この事実は、代わりにはねられて亡くなった須永の命を彼女が預かった――というべきではありませんか。そのことについて、何度も人から言い聞かされて彼女は今日まで育ってきたに違いありません」
呪縛――
時が何年経っても、それは解消されるものではない。まして、人の命が掛かっている場所というのならば、人はずっとその土地に囚われ続ける。
「なるほど、預かったままの命……。少なくとも、命日に花を添えるぐらいはしているのかもしれないな。遠くにはいけんということだ」
「自分は、現場を見てきたいと思っています」
瀬藤は背筋を伸ばして言った。その様子を見ていた恩村の目は優しげだった。
「行って来てみたらいい。どうなっていると、君は思う?」
「まったく、予想ができません。かれこれ、十五年前の事故ですから、かなりの風化が進んでいる可能性もあります」
恩村はため息をついた。
「たしかに、そうだ。十五年前……。けっこうな時間だ」
当時の光景から比すると、現場は一変している可能性がある。それでも、瀬藤はそこに須永隆久が生きた証しのようなものが残されているはずだ、と期待を寄せていた。
2
残暑がしぶとく居座り続ける夕刻だった。事務処理を終えた瀬藤たちは藤枝市まで出向いて、須永隆久が事故死した現場に足を踏み入れた。案の定、遮断機は新しくなっていて、過去を思わせるものは何ひとつとしてなかった。粗石混じりのコンクリートを踏み締めながら、遮断機の横手に位置する木柵下の献花を見る。
コーヒーの空き瓶を一輪挿しに、黄色いガザニアの花が生けられている。
「やはり、献花、ありましたね」
降りそそぐ日射の照りかえしに眩しそうにしながら蔭山が言う。
「そうだな」
瀬藤は踏切を眺めた。実況見分調書を思い出す限り、当時の様子とは模様が変わっている。それでも、事故が起こった場所を特定することはできた。
何の変哲もない、光景であった。車輪に表面を削られたレールが、熱波でふやける空を映している。渡り吹く風は、青臭かった。
ここで、須永隆久は一生を終えた。
どんな思いで、彼は赤穂宏美に飛び込んでいったのか。瀬藤は、思いを馳せる。だが、答えは出ない。命を省みず、飛び込んでいく勇気など、自分にはないような気がしてならない。
「蔭山」
と、瀬藤は呼ぶ。彼は依然、眩しそうにしていた。
「なんです?」
「お前なら、同じ状況に出くわしたとき、どうする?」
自分に自問自答していた質問だった。
蔭山は表情こそは変えていなかったが、内心では面食らっていたはずだ。
「分かりませんね」
彼はすげなくそう答えた。彼自身も答えが見出せないらしい。同じ気持ちのようだ、と瀬藤は察する。
「確かに、市民のために飛び出したことなのでしょうが、実況見分調書を読む限り、無鉄砲すぎる面もあったように思います」
「彼は落ち着いていたはずだ。子供たちに来るな、と叫んだ後、当時の遮断機の警報ボタンを押している」
蔭山は黙り込んでいる。瀬藤は続ける。
「ボタンを押すのと押さないのとでは、事後の対処法がまたちがってくる。少なくとも、それを意識するだけの余裕はあったんだ」
「でしたら、飛び出したのは?」
「必ずしも無鉄砲な行動だったとはいえないってことさ」
遮断機の警報が鳴り出した。数秒後、折りたたみ式のバーが降りる。通過していったのは、普通列車だった。遮断機があがるなり、向かい側に止まっていた車がレールを踏み締める音を立てながら通り過ぎていった。
「事故の状況、よくわからなくなってきましたね」
蔭山は踏切を見つめながら言った。
その顔はひどく汗ばんでいる。おそらく全身がそのような状態に違いなかった。自分たちがここを訪れる日に限って、気温が上昇するなんてどういう訳だろう、と瀬藤は思う。まるで、当時を再現するかのようだ。
それが意図的ならば、ここにはまだ須永の御霊が居座っている――、そう思わずにはいられない。
その時、瀬藤は背後から一人の女性が近づいてくるのに気付いた。にこにこしている。頬がぽってりとした、福々しい丸顔。肌は陶器を思わせるほどに白く、この暑さにも関わらず汗ばんだ兆候がない。
女性はぺこりと頭を下げた。
瀬藤はそれが自分に向けられたものだとは思わなかった。しかし、女性の後ろに立っていた男を見て、自分への御辞儀だと知った。そして、彼女の正体を理解した。
女性の後ろに立っていた男は、地域課から招集された捜査員だ。そして瀬藤の依頼を荒濱を介して、受けた男だ。
「瀬藤さん、彼女が赤穂宏美さんです」
捜査員が言った。
宏美はもう一度頭を下げた。よくみると、ある程度背丈のある女性だと分かった。会う前にイメージしていた彼女とはずいぶんと隔たりがあった。
「彼女、もう見つかったのですね?」
瀬藤は、捜査員に言った。
「探すまでもありませんでした。例の実況見分調書にあった、旧住所のままだったというわけです」
なるほど、と思った。それならば、探すまでもない。そうなると、彼女は事故以来ずっとこの地域に住んでいたということになる。
「あなたを探していたのですよ」
瀬藤は宏美に言った。
「知っています。後ろの刑事さんからお聞きしました」
「それで、昨今の事件のことはご存じで?」
「はい。テレビで確認しました」
彼女は曇りのない明朗な口調で応えていた。その口振りは、彼女の気質から生まれたもののはずだった。天性の明るさ。どんな職業に就いているのだろうか、と思わず意識してしまう。
「黒岩……いえ、あなたにしてみれば須永という言葉を使えば分かりやすいでしょうか。須永謙吾。彼は、須永隆久の息子です。しかし先日、静岡県内の信用金庫で傷害事件を起こしました。彼はいま、逃走をつづけています」
「ここで起こった事故と関連性があるなら、私の命も危ない……ということでしたね?」
宏美は機先を制する勢いで言う。
「でも、私は心配していません。そういうことはないでしょう。仮に、私の命を奪って、その人の荒んだ心が癒されるというのでしたら、それは本望ですよ。だって十五年前、私は本当はここで死んでいたのですから」
彼女は目を細め、踏切の一箇所を見つめる。まさに事故が起こった地点を見ているにちがいなかった。何度、彼女はここを訪れ、そのたびに煩悶を続けてきたのか。瀬藤にはその年輪の程が感じられる気がした。
「そう、投げ出さずに」
蔭山が言った。
「あなたに危害があれば、我々の失態になるのです。それに、あなたは須永隆久の命を請け負って――」
瀬藤が制した。目で抗議する彼に首を振る。
彼女が心で繰り返しただろう内容を、あえて反芻する必要などはない。それは、彼女への苦痛にしかならない。
「宏美さん、単刀直入にお聞きしたいのですがね?」
瀬藤はゆっくりと持ち掛けた。
「はい」
「園田真希菜という女性はご存じですか? 事件に巻き込まれた信金の子なのですが」
普段の捜査なら、ここで園田真希菜の顔写真を示していたはずだろう。瀬藤はそれを持っておらず、しかもいまだ彼女の顔を見ていないことに気付いた。包帯の巻かれていない目元や、口元だけで全体のイメージを想像していた。
「知りません」
と、宏美は言った。その目は、実直な気配だけがあった。
「そうですか、……まったくご存じない、と。学校の同級生だと思ったんですがね、違ったようです。あるいは学校外で、同じ何かのサークル仲間だったとか、そういうことは?」
宏美はやはりかぶりを振るのだった。
真希菜と宏美はまったく無関係――
彼女の口述でそれが明らかとなった。
これで、黒岩が真希菜に刃を振るった動機についてのこれまでの線が白紙に戻ることとなった。
何かしらの繋がりがなければいけないはずだったが、ない。これはどういうことなのだろうか。自分は間違った方向に道を進めているのだろうか。そうだとは思いたくない。必ず、ここから答えにたどり着けるはずだ。
「そういえば、赤穂さん。どうして、こんな所においでなさったのか?」
藤枝市の旧住所にずっと住み続けていたとはいえ、今日こうして顔を合わせるに至ったのは、偶然に過ぎるように思われた。
「実は、彼女の勤務先がこの近くなんですよ」
地域課の捜査員が答えた。彼は瀬藤がやってきた道をさかのぼる公道向こう側を示す。段になった野原に灌木が不揃いに並ぶ、空き地。その奥に、パステルカラーをふんだんにちりばめた幼稚園が見える。
「もしや、保育士さん?」
宏美は微笑んだ。丸い頬がいっそう膨らんだ。なるほど子供に好かれそうな顔立ちといっていいはずだった。
「赤穂さんの勤務先が、そこだと特定しましたとき、ふと、瀬藤さんたちがその近くに検分に行くことになっていたことを思い出しまして、タイミングを見て、彼女をここまでお連れしたというわけなんです」
この顔合わせは、彼が仕掛けたものだったということだ。
「それは、ありがたい配慮だ。だが、私たちがここにくるまで、彼女を大分待たせたりしたのではないか?」
「いえ、私は大丈夫です。それほど待ったりはしていませんので」
宏美が言った。
「いやしかし、それにしても驚いた。これは何のあれでしょうかね」
事故があったその場所から幼稚園まで五十メートルも離れていない。耳をすませば、幼稚園児たちのはしゃぎ声が聞こえてきそうなほどだ。そんなところで彼女は働いていたのだ。
「呪縛ですよ」
と、蔭山がぽつりとつぶやいた。瀬藤が彼に振り返ると、うなずきを見せた。
「これは、瀬藤さんの言っていた、呪縛……があった結果でしょう」
瀬藤はこれ以上の彼の発言を制し、宏美に振り返った。不思議そうな目で、彼女は二人を見ていた。
「気になさらないで下さい」
と、瀬藤は宏美に言うと、彼女はのろのろとかぶりを振りながら、「いいんです」と答えた。瀬戸たちが抱え持っている心証をそれとなく感じ取っているようであった。
そして愛嬌の良い微笑み顔を湛えつつ、ぽつりと言う。
「これは私自身、よくよく自覚していることですから」
「ここから、離れられないというわけですか?」
間を置いてから瀬藤が問うた。
「そういうわけではないと思うんです」
宏美は案に相違して、強い口調でそう言った。
「時間が経った今、誰に言い聞かされていることではないので、私自身、そこを離れようと思えば、それは可能なはずでしょう。……でも、なぜか、ここがいつも私の居場所になっていたりするんですよね」
彼女は遮断機横にあるガザニアの献花に寄り添い、屈み込んだ。
「事故のことは覚えていますか?」
蔭山が言った。時折、無神経な質問を寄越すきらいがある彼にある種の警戒心を抱いたが、宏美はやはり物怖じしない顔をしていて、強さのようなものを感じ取った。
「覚えています」
と、宏美は背中で言い、さらに言い継いだ。
「忘れられるはずがないでしょう」
何条かの風が横切っていった。幼稚園を覆い隠す青草たちが斜面に向かって波打っている。
「須永隆久さんは、私の誇りのようなものです」
彼女は立ち上がって言った。感傷の深い面差し。
「事故があってから数年間、私はひどく塞ぎ込んでいました。ひとりの警察官を犠牲にして生き延びた少女。その言葉だけを聞けば、都合の良い想像しか浮かんできません。でも、それは周囲の人の勝手なイメージでしかありません。
私は、ずっと苦しみ続けました。しばらく、人と言葉をかわせなかった時期があったほどです。自分のために、ひとりのお巡りさんが亡くなった。それはどういうことなのか、ゆっくりと時間をかけて受け容れていきました」
振り返った彼女の眼には、涙の光があった。事故から十五年たった今でも、彼女の心には傷がある。時間が経っても生乾きの状態が続いていたようだ。瘡蓋が剥がれればいつでも古傷が露わになる状態だ。
それにしても、初めに顔を合わせた時に見せた彼女の屈託のない明るさは何だったのだろうか。
「小学生時代、そのことを理由に友達からいじめられることもありました。ちょっと、明るく振る舞うと不謹慎だということになるわけです。まともに、人と話せるようになったのは、同じ小学生の高学年過ぎたあたりからでしょうか」
「そのあいだ、あなたはここにやってきていましたか?」
宏美は口元に弱々しい笑みを繕い、かぶりを振った。目の縁に残った涙の残滓が、反射で光った。
「やってこれるはずがありません。トラウマの場所です。足を踏み込むのも、遮断機の音も駄目。そういう状態でした。さいわい、小学校中学校は、ここから正反対方向にあってここを通らなくても良かったのです」
「しかし、まったく来なかったわけではないでしょう」
「そうですね。……命日の日に、父と母に連れられてここにきましたよ。私は、母にしがみつくだけで事を済ませていましたから、弔いの感情は、形だけでしかありませんでした」
「いまのあなたは、そんな感じではない」
瀬藤が彼女から受ける印象をありのままに、伝える。
「そうですか?」
と、宏美は嬉しそうに綻んだ。
福々しさが顔に満ちる。保育士がまさに天職であると思わせる、輝きが感じられた。
「高校生の中頃、自主的にここに来てから、須永さんに感謝する気持ちを持つようになりましたね。それから、私の心が豊になっていったんです。まるで、須永さんの分の心が私の中で拡がっていったかのように」
照れ笑いしつつ、彼女は道端のアスファルトの綻びを眺める。
「なぜ、その時、自主的にここを訪ねたんですかね?」
「それは、そういう時期が来たというだけのことです。それしか、言いようがないのですが……」
「それで、その献花は、あなたの?」
黄色い花を咲かせるガザニアの一輪挿し。熱波に負けじと、花弁の鮮やかさを見せつけている。
「これは、……私のではありません」
瀬藤はおやと思ったが、須永隆久の死を悼む人間は何も、彼女だけに限った話ではないと思い直した。
「失敬、違いましたか。てっきり、あなたではないか、と思ったのですが。なんとなく、花の趣味が若い女性風でしたので」
「これは、ここ最近見かけるようになった、花ですね」
宏美はまた献花に向かっていった。遠慮もなくガザニアに触れ、汗のかいた茎をするりと撫でる。
最近?
瀬藤は引っ掛かるものを覚える。
もしや、と思い、訊ねる。
「その花を生けている人に、心当たりがありますか?」
彼女は首を振った。
「私は、何も知りません。長い時間、ここに留まっていく人なら、毎年職場から確認できますから、だいたい押さえているはずなんですが、この花の人だけは分からないんです。おそらく、須永隆久さんとは、まったく関係ない人なんじゃないでしょうか?」
「どうして、そういうのです?」
「献花をする人が、必ずしも弔うその人に、関係があるとは限りませんよ。縁もゆかりもない人が、花を置いていく。そういう例もありましょう。そういう人は、さっと花を置いて、黙礼するだけで去っていきますから、近くにいる私の目にも留まらないというわけです。もし、そういう筋の人でしたら、この踏切をよく通っているという人なんでしょうね」
ここを頻繁に通る人間。
瀬藤は、はっとした。いくつかの事実について符号が合うものがあった。
園田真希菜は静岡にあるひとり住まいのアパートからそう遠くはない岡部町の実家に週一、二回程度の回数で帰っている。岡部町は静岡の西南に位置する隣町だが、山道が多いだけにあえて直通道路を通らず、二本のバイパスがある国道一号線を迂回路に使用する人が多い。
園田の実家は岡部町の北端にあるだけに、藤枝経由で行ったほうが、運転する人にとっては割合気が楽だろう。
「姿は見ていないですけれど、私は確信していますよ。刑事さんのおっしゃる通り、このお花を生けてくれているのは、女性でしょう。それも、私と年齢の近い人……」
間違いない、園田真希菜だ、と瀬藤は確信する。
彼女は実家に帰る道としてここを使っていた。きっと、そうだろう。
あとは、黒岩との接点を探し出せれば、完璧になる。
「つかぬ事を窺いますがね、本当に職場から献花の模様が見えるんですかね?」
「ええ、良く見えます。というのも、こちらからではよく分からないのでしょうが、幼稚園はちょっとした高台の上にあるんです。ですから、線路の景観ははっきりと見ることができますよ」
「でしたら、毎年献花に来る顔ぶれを押さえているんじゃないですか?」
「そうですね。たとえば須永さんの親類のお方たちは、白いキキョウの花を置いていきますよ」
「私が思いだしていただきたいのは、男性ですよ」
「男性……ですか?」
「ええ」
「もしかして、例の事件の男性のことを言っていらっしゃるのでしょうか?」
ずばり言い当てられて決まり悪くなった。もう少し、丁寧に問うべきだったかもしれない。しかし、ここで言い直すのも気が引けた。
「まあ、そうです。彼を中心に、男性ならば、どのような人間でも構わない。教えて欲しいのです」
宏美は困ったように、頬に手を当てた。柔らかな感触が目に伝わってくる程、血色の良い頬に指が埋まっている。
「刑事さんが望まれているような人はいないと思いますよ」
そう言った直後、あっと彼女は声を上げて、小さく手を打った。何かを思い出したらしい。
「男の人らしき人が乗っている、黒い車がずっと止まっていたのを見たんです」
彼女が線路すぐ側に面する道を示しながら言う。
「間違いなく、須永隆久の命日である十四日のことですね?」
「はい」
「午前でしたか? 午後でしたか?」
「午後の遅くなってからですよ。七時になってもまだ明るい頃ですから、時間の間隔が曖昧ですけれど、その日の仕事が終わって後片付けに入っていた頃だったので、五時かそのぐらいの時間だったと思います」
「車に乗っている男はどんな具合でしたか?」
「それが、職場から見下ろす感じですので天板が邪魔をして見えないのです。最初は、単なる路上駐車だとみなしていましたが、動きがあって男性らしき人が乗っていると確認しました。見えたのは頭部の天辺ぐらいでしょうか」
「それならば、車種だけでもお聞かせ願えませんか?」
蔭山が手帳を片手に進み出た。宏美はゆっくりと記憶を手繰り寄せながら、その模様を語っていく。トヨタ製の中型のセダン。年式は、推定九十年代。ウィンドウに青いスモークが掛かっている。ナンバーは不明。搭乗員は男一名だけ。献花が飾られたその場所から左手に折れた路上を少し進んでいった所にて、路肩に寄せる形で待機していた。
「その男は、何をしていたのでしょう? 様子見ということですか」
蔭山が訊ねた。
「そうですね、様子見……それで、いいんじゃないでしょうか」
「待機したのはどれぐらいの時間でしょうか?」
「目を凝らして見ていたわけではないんです。ですから、漠然とした答えになりますが、二時間はいたかもしれません」
彼女の記憶に残ったのは、その時間の長さゆえのことだろう。
その男が黒岩である、可能性。
五分五分だ、と瀬藤は思う。
「気がつくと、いつの間にかいなくなっていました。ですから、須永さんの事とはまったく無関係の人だったとその時は、思いました」
「いなくなった彼は、その時、誰かと合流したということは?」
蔭山が引き続き問う。
「それは、ないと思いますが、確かな事は言えません」
自信なさそうな口調だった。蔭山はペンを持ち上げて手を休める。
「よくよく思いだしていただきたいのですが、今あるこの献花は、彼が去っていった後に生けられたのではないでしょうか」
宏美は長々と沈思に耽った。
「黄色い花ですからね、薄暗くなっても目立ちます。もしかしたら、刑事さんのおっしゃるとおりかもしれません。その人が去っていった後に、この花が残されていたのかもしれません。後片付け前後には、まだ黄色い花はなかったはずですから。その時にあったのは、先に言ったキキョウの花だけです。これも、暗くなってから生けられたものだったはずです」
「話を戻します。黄色い花のことです。最近見かけるようになったということでしたが、最近というのは、いつぐらいからのことでしょう?」
「三年前から……でしょうか?」
三年前というと、園田真希菜が南陽信金に勤めだした頃と符合する。静岡に出向いていく際、この道を使うその見返りに、花を生けるようになった――そういうことではないだろうか。
あとは、本人に確認するしかない。
蔭山が矢継ぎ早に質問を浴びせるのを止め、瀬藤は彼に手帳を閉じさせた。これ以上の聴取は、意味をなさない。彼に目でそう伝えた。
熱波は小康になっていたが、やはり暑苦しさは続いていた。宏美は逆光の位置に立ち尽くしたまま、瀬藤を見ていた。
「事故から十五年経過しても、献花を置いていく人間がいることは、好ましいことです。そう思いませんか?」
瀬藤は、目に射し入ってきた光に目を細めながら感傷的に言った。
「そうですね。私もそう思います。私が須永さんの命日に限って、職場からことあるごとにその様子を見下ろしているのは、そういった人の優しさを目にしたいという欲の表れなのかもしれません。須永さんとまったく無関係の人でも、私はその人の優しさに強く感じ入ることができます」
それは、彼女の心の中に須永隆久の存在が強くあるからだろう。忘れてはならない、ひとりの大切な人間。彼女の中の傷そのもの。気に掛ける人がひとりいるだけで、優しさという膏薬で、その痛みは一時忘れられ、気持ちが和らげられる。
「須永さんのことは、どれほど知っていらっしゃる?」
吹いた風は、妙に懐かしい匂いがした。子供の頃、この匂いの後にお祭りがやってくると感覚で覚えていたものだ。童心が蘇り、感情が軽やかになっていく。
「色々な人に、訊ね回りましたよ。須永さんは、藤枝南交番の名物警察官だったそうです。気質からして大らかな人で、どんな小さな事でも親身になって相談を受けてくれたそうです。特に子供たちに良く好かれていたということでした」
職員録の中の須永の顔写真を思い出す。形式な写真だけに、その時は顔が引き締められていたが、微笑むとまた違った印象になったであろう人相であった。やはり、地域に愛されていた男だったのだ。いかにも、そういう雰囲気をまとっていた。
「彼があなたを助けたのは、きっと全力で守りたかったからなのでしょう」
宏美はうつむいた。
「……そうですね」
「その時、彼は冷静に判断できるだけの余裕があったというのが、私の見解です。決して、無鉄砲に飛び込んでいったというわけではなかったはずです」
宏美は何も返さない。
「平等に人を愛する力が彼にはあった。だから、あなたを何としてでも助けたかったのでしょう。僅かな望みに賭けたのです」
「四年ほど前、現場を見ていたという人に、出会いました」
宏美は泣きそうになって言う。
「その人から、同じようなことを聞いています。どうあっても、理不尽な対応であった、と」
「彼について、あなたはどう思いますか?」
「強い人……その言葉だけです。私には、とうてい真似ができない人。私は、この年齢になってもまだ小心者です。須永さんの大きさに、いつも打ちのめされます」
宏美は顔を上げて、瀬藤を見た。
「刑事さんたちは、みなそういう人ばかりなんですね?」
瀬藤ははっきりと首を振った。
「私にも、彼がしたようなことはできませんよ。そして、同じ状況に立たされたとき、同じようなことはおそらくできない。その程度の人間です。あなたが、打ちのめされているのは、小さいからではありません。彼が大きいからです」
ひくっと宏美の眉宇が神経質にうごめいた。
「私は、やはり……すごい人に、助けられたんですね」
目元が熱を帯びている。
「偉大な人だったと思います」
瀬藤は風に揺れる、ガザニアの花を見やる。
「彼がどうして、自分の命を顧みずにあなたを助けようとしたのか、その答えが見つかるまで、私も自問自答をつづけたい。須永隆久という人間の正体を知りたい」
「それは、私も同じです」
彼女の頬に涙が伝った。滴の光を目に留めるまでもない、瞬時のことだった。
「須永さんの本当のところが知りたいです。これまでにも、その努力をしてきましたが、まだ充分とは言えません。表面的なことを聞きかじってきた程度でしょう。もっと、深い所まで探る必要があると思うのです。私自身、それを切に望んでいます」
「私は思う。仮に、それを知る事が出来たとしても、あなたの傷は癒えないのではないか、と。むしろ、傷を深めてしまう恐れだってなくはない」
「けっこうです。受け容れたいのです。須永さんのことは、私の一部ですから、そうしなければいけないでしょう」
「背負うのはお止めなさい、と言っておきます。あなたは、もっと自分の意思で生きていくべきなのです。それに囚われ続け、翻弄されるのは間違っている」
「翻弄なんて、されていませんよ。どちらにせよ、私が、自由になれるのは、もっと先のことでしょう。もう少し、私の中で整理する時間が欲しいというだけなんです。これは、翻弄とは違います」
そうか、と瀬藤は思った。
やはり、これは自分が干渉できることなんかではないのだ。
彼女は、彼女のやり方で、自由を得ていけばいい。
宏美は続けた。
「それに、ここに留まっていることは、必ずしも私にとって悪いことではないんです。というのも、今現在の私を捉えているのは、須永さんの愛なのです」
「よく分からないが、彼をもっと知りたいということなのだろうか?」
「そうですね。もっと知って近づきたい。そして、あの人が持っていた強い愛情というやつを、みんなと共有し合いたい。私には、それをする義務があるんです」
彼女は、自分がやるべきことを自覚して生きている。
それは、良いことなのかどうか、今の瀬藤にははっきりとしなかった。答えは、須永が真にどういう人間だったのかを知る事にあるはずだった。
3
園田真希菜の容態は安定している。傷口が埋まり、感染症の心配はなくなった。包帯が取れるその日が、二週間後に決まった。
「ガザニアの花を生けていたのは、あなたですね?」
ベッドの上で半身を起こした状態で静かに佇んでいる真希菜に、瀬藤がそっと問う。彼女はゆっくりと瀬藤を見るだけに留まった。
何のこと? 包帯の下の目は、そう惚けてさえ見える。
「ガザニアは、特徴的な花だ。いうなれば、ミニひまわりと、マーガレットを混ぜ合わせて二で割ったような花か。知っているならば、ガーベラ。それに近いかもしれない」
真希菜はゆっくりと下を向いた。
いま、病室は彼女と瀬藤と蔭山の三人しかいないだけに、沈黙は大きく響く。
「私ですね」
と、真希菜は言った。それから顔を上げ、言い足した。
「ここでの話ではありません。実家に帰ったときにすることです」
「須永隆久のことを、知っているのですね?」
彼女はおもむろにうなずいた。はっきりとした肯定とは言い難い、曖昧さを含んだ反応であった。
「詳しいわけではないのですが、だいたいの話は聞いています。十何年前に、その場所で殉職された警察官ですよね? 当時は、私たちのところにもその人の話が伝わってきたものです」
「なぜ、献花をするように?」
「本当のことをいうと、がっかりする解答になるのかもしれません。これまでに、そこに献花をしたことなどはありませんでした。今の職場に就職が決まり、そちらに住むようになってから、実家に帰る際の連絡路としてそこを通るようになったのです。最初に、献花したのは、三年前でしょうか」
「きっかけはあるのですか?」
彼女はうなずいて、
「列車通過を待っている際、献花を生けに来る人の姿を見てしまったのです。女の人ですよ。白いキキョウの花……。それを見て、妙に印象が残ってしまい、その日の勤め先で、そのことを話してしまったんです。すると、岡部町出身の人がいて、事情を教えてくれたんです。一人のお巡りさんが、殉職した場所だ、と。それで、ああここだったんだ、と幼い記憶と符合し、私もすべてを理解しました。その年、命日から少し遅れましたが、お花屋さんからガザニアを買って、生けました。それが始まりです」
「なぜ、ガザニアなんです?」
「勲章菊という異名があることを花屋さんから教わったからです。命を掛けて、人助けをしたお巡りさんです。ちょうど、良いのかもしれないと思いまして、それにしました。数が少ないのは、有り難みを考慮してのことです。勲章ですから、それをイメージしてできるだけ、大きく咲いた花を選んで、生けました」
勲章菊。
あのガザニアは、そういう由縁があったのだ。彼女からのささやかな勲章。あの献花の場所が違ったイメージに見えてきた。
「そういう異名があったとは、私も知りませんでしたね」
その時、蔭山が突然横合いから割り込んできた。
「ちょっと、話を止めて悪いんですが、その話を教えてくれた岡部町の人というのは……?」
ああ、と彼女は声を上げて、言った。
「栄美です。坪倉栄美。私よりも一個下の後輩なんですが、同郷のよしみということもあって、けっこう親しい間柄です」
「もしかして、同じ学校出身だったりとか?」
「そうですね。あそこは、学校の数がかなり限られていますから。でも、住んでいる所は正反対ですし、進学先もまったく違うので、職場にて顔を合わせた時、覚えている顔とかそういうわけではなかったです。それは、栄美も同じでした」
「それで、須永の話はどこまでご存じなんでしょうか?」
「概要だけですよ。献花をするようになったのは、あくまで義務的な感情からです。もし、そのことに不快な感情を感じていらっしゃるお方がいらっしゃるのでしたら、即座にやめるつもりです」
「逆ですよ」
瀬藤が言った。
「私たちが会ったその人は、真希菜さんのそのさりげない行動に感謝を示していました」
「でしたら、私は、献花を続けて良いのですね?」
真希菜の声は、微かに弾んでいた。
「それは、あなたの自由でしょう。しかし、義務で献花をするというのは、私には良く分からない行動だ」
真希菜の口元に軽やかな微笑みが浮かぶ。
「理屈抜きでいいんですよ。そういうのは。難しいことはなしです。その人がこれまで生きてきた感謝を示したいという気持ちだけで、私はやっているだけです」
つまるところ、彼女は幸せなのだろうと、瀬藤は思う。その気持ちの余剰分が、彼女にそういった義務を果たすよう仕向けさせている。恋愛の力が大きく関係しているはずだ、と瀬藤は見込む。彼女が阿木と出会ったのは働き出した三年前だ。その気は彼女にはなかったとしても、予感のような物がすでにあったのかもしれない。
「献花は自由です。しかし、あなたが今回傷害を負ってしまったのは、もしかしたら、この義務でやっていた行動が原因なのかもしれないのです。それは、言っておきましょう」
瀬藤は厳しい表情になって言った。
「え……」
真希菜の見開かれた目がぱちくりと瞬きを繰り返す。
「今年の命日も、かかさずに献花に向かいましたね」
「はい、……行きました」
「献花をしたのは、何時頃ですか?」
「仕事が終わり、まっすぐ花屋さんと洋菓子屋さんに寄って、それから向かいましたから、七時頃じゃないでしょうか」
宏美が証言した不審な車が待機していた時間と一致している。
「その時、近くに車が待機していませんでしたか?」
「いえ、……それは、分かりません。車を近くで幅寄せして止め、花を生けて黙祷してそれで終わりですから、留まったのはほんの一分にも満たないです。周囲を顧みる時間なんて、なかったです」
「その時、近くに車が待機していて、その中の人が、あなたを監視していた可能性があるのです。その車に乗っていたのは、黒岩だと私らは、見なしています。あなたと彼の接点は今のところ、そこだけです。つまり、その時、あなたに彼は目を付けたということです」
黒岩という言葉に、真希菜の目に怯えが走った。瞬きは完全に止まっていた。
「そんな……どうして?」
「運が悪かったというべきなのでしょうか? いえ、私らは、そこで黒岩が待機していた理由があるはずだと見なしています」
「その理由とは?」
彼女の問いに、瀬藤は言下に首を振った。
まだ押さえられていないということもあったが、彼女には伝えるべきことではなかった。これは、捜査上の秘密だ。
「それよりどうです? あの直後、あなたは誰かにつけられているという感じがありませんでしたか?」
蔭山が如才なく訊ねた。
沈黙に暮れた後、真希菜は否定を示した。
「まっすぐに実家のほうに帰りましたので、そのことばかりしか頭にありませんでした」
またうつむき、自分に問いかけるように彼女はつぶやいた。
「でも……どうして? どうしてだろう?」
答えを見出せずに煩悶する彼女を、瀬藤は見ていられなくなった。
「先程、献花で感謝をする人がいた――と私は言いましたが、軽率な言葉だったのかもしれません。あなたの言うとおり、不快に思う人間もやっぱりいて、黒岩もその一人だったことは指摘しておかなければいけません。しかし、私はその不快が今回の事件に至る衝動だったとまでは思っていません」
「そこで、彼が待機していたことと関係があるのですね? その人は、あそこで誰を待っていたのでしょう? 目をつけるのは、私じゃなくても、あり得たのでしょうか?」
なぜ、黒岩は真希菜を狙ったのか? 接点が少ないだけに、ほとんど無差別だったというようにも受け取れなくもない。
もし、その時、献花しにくるのが真希菜ではなかったら、その人が狙われたのだろうか……?
「その疑問を解消するために、ひとつ聞きたい」
真希菜の目に硬さが入った。
「はい」
「あなたがガザニアを献花したその時、他に花が献花されていましたか?」
「はい、献花がされていました。花束にして、二つほど。そのうちのひとつが、白いキキョウの花でした。遺族の方でしょう。去年も、一昨年も見かけているので、間違いありません」
ガザニアが生けられるその前後について、宏美が少しだけ語っていた。キキョウが生けられたのは、真希菜が献花した時間帯とかなり近かったはずだ。
黒岩は、キキョウの花束が献花されるその時、例の場所で監視を続けていたはずだ。それを見過ごし、真希菜の献花の際、彼は動いた――。
この事実から言えることは、ターゲットを選別しているということだ。つまり、真希菜を意図的に狙った可能性が高い。
「答えを教えて下さい、刑事さん」
真希菜が瀬藤の次なる言葉を待っていた。言うべきではないと、瀬藤は思っていた。これは、彼女にとって不利益でしかない情報だ。
「お嬢さん、すみませんが、私らは、適当なことは言えない職業だ。はっきりとするまで、言い伝えることはできない。いま得られた事柄をすべて揃えた上で、これから、いちから組み立て直す作業に取り掛かる。まだ、そういう段階ですよ」
「そうですか……」
真希菜はがっかりしたようにうつむいた。手元を見つめている。先端にいくほどに細くなる彼女の手は、造りもののように現実感がない。
「答えを出すときは迫っていますから、ご安心を」
蔭山がすかさず言った。愛想笑いを忘れないあたり、この男は無神経の塊なんかではないようだ。
「どういうお気持なのでしょうね」
彼女はぽつりと独りごちた。
「何がです?」
真希菜は蔭山を見た。まっすぐな眼差しであった。
「自分の父親が殉職し、置き去りにされたがために、人生が狂ってしまっただなんて……どういうお気持なのでしょう? そしてその現場を前にしたとき、どういうお気持でいたのでしょう? 私には、何も分からないのです」
「黒岩のこと……誰から聞いたんです?」
「阿木さんです。何のために言っておきますが、これは、私が教えて欲しいとお願いしたことなのです」
「どうして、知りたいという気持ちに?」
彼女の手が、顔の傷口があるであろう箇所を押さえた。
「これを負った今……、私はすべてを知る必要があると思うのです。彼の中に痛みがあったというのだったら、私は受け止めなければいけない」
彼女は気概を持って顔を上げる。蔭山の姿ばかりではなく、瀬藤も意識していた。
吸引力のある目だった。包帯で顔が隠されているだけに、その部分が特に強調されて感じられた。
うっかりすると、呑まれてしまいそうになる。それを回避するために、瀬藤は一旦目を逸らした。彼女はその行動を見逃すことはしなかった。
「刑事さん、どういう気持だったのでしょう、彼は?」
瀬藤はかぶりを振った。
「言うべきではないことだ」
言っているうちに、彼女を傷つける言葉のひとつふたつが混じってしまう恐れがある。
「いずれは、すべて明らかになることです。たんなる覚悟の問題でしょう。私はいま、その覚悟ができています。自分と対峙し続けた、四日間でしたから」
病室は、何もない空疎な空間だ。
それだけに、彼女に途方もない時間を与えていた。そのあいだ、彼女は自分と向き合う時間が作れたようだ。
黒岩が、あの事故現場に立った心境――
憎らしさが大半だったのか、それとも悔しさが大半だったのか。真希菜を傷つける事件を起こした以上、抱えていたのは負の感情であったことはもう、自明の理だ。
そんな中、真希菜が献花するその瞬間を待っていた。そうしたのは、彼女との接点を作るためだ。それまで、黒岩は真希菜のことは何も知らなかった。働いている場所はおろか、住んでいる所も、交友関係も、出自も名前も知らなかった。
真希菜がその場所を献花していたのは、些細なきっかけを元に、自主的にやっただけのことに過ぎない。
その行為が、どうしてあの凶行に至る理由になったのか。
彼があの場所で待ち伏せするにいたる前後、何かがあったにちがいない。
「黒岩はあの時、君が悪い……と言っていたんだったね」
「はい」
「それは、献花のことではないのだろう、と私は思う」
「それでしたら?」
蔭山が瀬藤に問うた。
「それ以前に、接点があったに違いない」
「私は、何も分かりません」
真希菜が即座に言った。
「三年に亘って、献花を続けたこと以外には……」
「献花中のそのあいだ、誰かに話しかけられたとか、そういうようなことは?」
蔭山の急ぎ足の問いに、真希菜は落ち着いてかぶりを振る。
「何も、なかったはずです。というのも、献花は単なる義務ですから。須永さんのことは、やはり何も知らないお方でしかないのです」
「十五年前の事故。それに君が関わっていたという事実があったりとか――」
よせ、と瀬藤が蔭山の言葉におっ被せるように言う。
「実況見分調書をみたではないか。あれがすべてだ。何処かに隠されている事実などはない。彼女は無関係でしかない立場の人間だ」
「何かしらの間接的なつながりがあるかもしれないじゃないですか」
蔭山は尻窄みに言って、それから口を噤んだ。
瀬藤は真希菜の目と対峙していた。
「いずれにせよ、黒岩は捕まえる。その時、すべてが明らかになる。推測だけで、ものを進めてもどうにもならない。現場についての彼の心証も含めて」
「思い詰めて自殺とか、そういうことがなければいいのですけれど……」
彼女が彼のことを気遣うなんて、いかにもおかしなことだった。思わず、彼女自身の心を覗き込みたくなった。
「怨んでいる感情はないのかね?」
「怨む?」
疑問調に言ってから、彼女は思い出したように鼻の中心を押さえた。傷。神経まで傷つけられた傷。それは、彼女の心にまで及んでいるもののはずだ。
彼女は疼痛に歪む顔を一瞬見せた。
「起こってしまったことを、怨んでもどうにもなりませんわ」
「本気で言っているのかね?」
はい、と彼女は素直にうなずく。
この強さは、なんだ、と瀬藤は内心で圧倒される気になっていた。
踏切を通り道に使うようになったというだけで、義務的に献花をするようになった素直な性格はやはりだてではなかった。今の彼女が持つ強さからの行いだろう。彼女の中には、推し量ることのできない未知の力が秘められている。
「言ってしまえば、この痛みはあの人の痛みそのものでしょう」
4
信じられないを何度繰り返したことだろう。
顔を傷つけられ、一時感情を喪失したにも関わらず、持ち直した途端、自分を傷つけた男の心の屈折を理解しようと努める――そんな被害者に、かつて会ったことがなかった。
パブリックスペースと共用の応接室に、座りこむ男の影があった。久し振りに見た阿木である。
瀬藤に気付くと、彼は立ち上がった。何やら、その顔は覇気がない。これは、どうしたことだろう。
傍に寄り、休憩がてら、彼の相談役を買ってでる。
真希菜は、阿木にも同じようなことを伝えたようだ。黒岩のことを、必要以上に案じている。
「これから、そいつが刑事裁判にかけられ、牢にぶちこまれるところを見届けなければいけないというのに、そんな気持でどうするって、言ってやったんです」
阿木は煮詰めきった焦りを顔に湛えていた。口調も、ややとげとげしい。
「彼女は、なんと?」
泣きそうに、首を振る。
「まったく、聞く耳持たずといったところでしょうか。僕の考えをはなから誤っているとでも思っているかのようで……」
悔しい、の言葉は彼の胸元で押し止められた。
せめての男の意地というやつだろうか。
瀬藤は、彼に同情する気になった。だが、だからといって真希菜の意思を否定する立場につくというわけではない。
「なぜ、加害者のほうに気持が寄っているのか、君は考えた?」
西向きの窓は、傾きつつある太陽を受け容れる空模様だけが拡がっている。
「頭がどうかしちゃったんですよ、あいつは」
悪態をついた後、瀬藤に畳み掛けるように言った。
「ほら、心理学的にそういうのあるじゃないですか。自分が被害者であることを忘れていつしか、そっちに同情的になってしまうってやつが。それと同じことですよ。あいつは度を超した痛みを受けすぎてしまったんですよ」
瀬藤の落ち着き振りに気付いて、阿木は決まり悪そうに居住まいを正した。
「すいません……」
「いや、私が君の立場なら、同じ態度を取っただろう」
「刑事さんにも、そういった過去があったりとか、したんでしょうか……?」
訊ねる阿木のその顔は、素に戻っていた。
「まあ、そうだ。若いときには、君と似たような壁とぶつかり続けてきた。結局、何もかも実らなかったがね」
「刑事さんって、独身だったんですか」
「恥ずかしい話、そうだよ。まあ、一人のほうが似合っている男さ。女心は、複雑すぎる。でも、今思えば、向こうのほうが正しいことばかりだった。私は生来、女性に対する理解という感情が足りていなかったようだ」
「あの、……今は……?」
瀬藤は自嘲めいた笑いを口元に含める。
「まだ、分かっていないところがあるのかもしれない。分かったと思った瞬間、相手はもう自分にとって女性でも何でもなくなってしまう。そんな気がするよ。分からない。そのままでいいのかもしれない。やるべきことは、せめて理解に努める。その態度を持つことに尽きる」
瀬藤は阿木の背中を叩いた。引き締まった身体の持ち主であった。
「君には、失敗してもらいたくない。だから、彼女のことを理解してあげて欲しい。受け容れてあげて欲しい。そのためには、自分は間違っていないとは、絶対に思わない方が良い」
阿木は息を呑んだ。
「いま、自分はまさにそう思っていたような気がします」
「そこから脱却すれば、苦しみからは解放されるだろう?」
「そうかもしれません」
彼は少し微笑んで言った。若者らしい溌剌とした明るさ。顔の半分には窓から差し込む屈折光が掛かっている。
「裁判は裁判だ。黒岩は、法廷で言い渡された罪を受け容れ、償わなければいけない」
「いま、彼はどうなっているのでしょう?」
「直に捕まるさ。いや、捕まえてみせる」
自販機に寄り掛かって立っていた蔭山と目が合うなり、彼はうなずきを示した。その様子を、阿木は見ていた。
「僕、思っていることがあるんです」
突然告白のように彼は言った。その顔は、どこか夢見るような輝きがあった。
「それは、彼女にしてあげたいことです」
「なんだろうか?」
瀬藤には思い当たる節がなかった。
阿木は勢いに任せて言った。
「整形手術です。傷ついた彼女の顔を、元に戻してやるんです。完璧に戻るかは分からないんですが……やってみる価値はあるはずでしょう。そのお金は全額僕が出してあげたい」
途中、彼は恥ずかしそうに、顔を伏せた。
勢いだけで言ってしまったそれは、これまで内心だけに留めていたことだったに違いない。
彼が今、どんなことを考えているのか、だいたい見えてくる気がした。
「だから、君は彼女に対して少し怒っていたんだね?」
「まあ、そうです。これを持ち掛ければ、真剣に苦しんでいる彼女を助けられるだろうと思ってたんです。ですが、まったく予想外のことを言い出して、ちょっと始末に困っていたんですよ」
「言ってあげればいいさ。それも、早いうちに」
阿木は虚を突かれたような顔になった。
「本気ですか?」
「私はそう思う。君の思いがこもったその申し出を受けて、嬉しくないはずがないだろう。それに、君はそのことを言うために、ここに来たんだろう?」
「まあ、そうですが……」
瀬藤は背中を二度目に叩いた。
「君は若い。だから、突き進むだけで良いはずだ。結果は、どうにでもなるはずだろう。でも、……いいのかね? その切り崩す貯金は、別のことに使うつもりだったんじゃないのかね?」
普通に考えれば、真希菜との将来の準備資金だったという見方ができる。真希菜のほうにも、彼に対する思慕を確認しているだけに、二人は直にそうなっていくはずだった。
「まあ、その……」
彼は目下を掻いた。
「そんなのは、いくらでも貯められますしね。いまは、非常事態というやつですよ。彼女のためにできること、まずそれからやってあげたい」
いきおいがついたらしい。彼は立ち上がっていた。
「刑事さん、途中で悪いですけれど、ちょっともう一度行って来ます!」
去っていく彼の背中は弾んだ顔が透けて見えるようだった。
取り残されたその場所で、蔭山と目が合った。
「良かったんですか?」
「充分、健康な男だろう? 男は勢いがなければ駄目なんだ」
「僕らも、勢い、つけますか?」
黒岩を追い詰めていく最終包囲網。
そちらも、手抜かりなく進行させなければいけない。
「最初から、そのつもりでやっているさ」
第三章
1
県内の磐田市に黒岩と似たような男がいるという通報があった。連日、しらみつぶしにその手の情報を追っている追跡斑の捜査員が確認に訪れたところ、黒岩と思しき男と遭遇。職務質問にかけようとしたが、男がいきなり逃げ出したので、これを追走。しかし男は裏路地に飛び込んだ後、鉄柵を器用に上って逃げ延びていった。逃げ道をあらかじめ、想定していたような、俊敏な身のこなしであった。
所轄に応援を要請した後、緊急配備が敷かれた。
捜査員はそののち、調査を進め、黒岩が滞在していたとする部屋を割り出した。瀬藤たちは要請を受けて、その部屋に向かうこととなった。
磐田市に出張滞在する労働者たちが、一週間単位で借りる鉄骨製のマンションであった。すべてが単身用の部屋なので、階層ごとにずらりと無味乾燥にドアが並ぶ。三階の、奥から四番目の部屋だった。
臨場斑が一通り処理し終えたところで、中に入る。三和土は、人ひとりがやっと立てるといったスペースしかなかった。中は薄暗く、六畳程度のワンルームが一室あるだけであった。部屋の角に小さな給湯スペースがあり、中央にカップ麺の食べさしが放置されてあった。その他、雑誌や脱ぎたての下着など、生活感に溢れたありさまが随所に残されていた。相当慌てて出て行ったといった具合の様相であった。
「この部屋は、中の住民だけいなくなったかのようだ」
瀬藤の感想は、その一言に尽きた。おそらく、誰もがそう思っていることだろう。
蔭山が白手袋を装着した手で、雑誌の一つを取り上げた。
「今週号ですね」
「近くに、コンビニがあったか?」
「こちらに来るとき、横手にセブンイレブンと、ファミリーマートを見かけています。あと、ちょっと離れたところに、ミニストップがあったはずです」
「だったら、そこに顔を出している可能性があるな。後で聴取に回るとしよう」
その時、開いたままのドアから一人の男が入ってきた。捜査一課長の、荒濱であった。
お疲れさまです、と蔭山が敬礼をした。荒濱は我が物顔の闊歩で、瀬藤の前に立った。部屋を一渡り見回す。
「ここの契約者は、黒岩である可能性が高いという情報を得た。本部の鑑識課が契約書のコピーを初見で精査したところ、大部分で書体が一致しているということだった」
「そうでしたか、では……?」
荒濱はうなずく。
「逃走を開始してからずっとここにいたということだ」
「なぜ、磐田市を選んだのでしょうね」
蔭山がのんびりとした口調で問うた。瀬藤が即座に答えた。
「それは、この市に、南陽信用金庫の支店があるからだろう」
「そういうことですか。つまり、口座からお金を下ろす機会を窺っていた、と」
「凍結されていることは、薄々気付いているのかもしれない。だから、どうしたらいいのか迷っていたのかもしれん」
「とりあえず、通帳が残されていないか、探してみろ」
荒濱の命に、瀬藤たちは従った。見ていくところは限られていたため、蔭山の担当分は、すぐにやることがなくなった。一方、瀬藤が取り掛かった備え付けの小さな机の引き出しに、ポーチベルトが残されていた。ジッパーを引き、中身を見てみると、健康保険証と南陽信用金庫の通帳がでてきた。その後ろには、ファーストフード店のサービス券が幾枚か入っていた。
「見せてみろ」
荒濱が通帳を取り上げた。中身を開く。電子記入された最後の頁を見る。その頁は、瀬藤の目にも見えていた。下ろされた記述は見当たらない。
「そのままだよ」
通帳を閉じ、蔭山に託す。
「押収品だ」
荒濱はそれから瀬藤を見た。
「これから磐田署に行ってくる。お前たちは、どうするか?」
「周辺界隈に聴取をかけて、黒岩のこれまでの生活を洗い出して見ようかと」
「けっこうだ。すぐに行動に移ってくれ。もしかしたら、周辺に協力者がいるのかもしれん。注意してその辺りを見ていってくれ」
「分かりました」
荒濱は慌ただしく出て行った。緊急配備が敷かれているだけに、経過を見守らなければいけないのだろう。黒岩を畳み掛け、一気に事件を解決していくつもりだ。
「協力者なんて、出てきますか?」
蔭山が瀬藤に訊ねてきた。いつしか、部屋の中は彼と二人だけになっていた。
「これまで通帳に手を付けていなかったことから言っているんだろう。金がなければ、どうにもならない。資金援助をしてくれる人間がどうしても必要だろう」
「もし、それがいるとしたら、女ですかね?」
「そうかもしれんな。もし、そうだったとしたら、黒岩の身近なところにいる人間ということになるか。さすがに、ここにきて協力者を作るというのは、ないはずだからな」
「瀬藤さんは、その線があると思いますか?」
首を傾げるしかなかった。
「分からん。とにかく、情報を求めて回るとしよう」
周辺の住民と、コンビニを訪ねて回り、黒岩のこれまでの軌跡を追った。借りていたマンションから二百メートル離れていったところにある四十近いコンビニの従業員が、黒岩の接客をしたことを覚えていた。昨晩の十時頃だったという。
「一人だけでしたよ。買い物は、カップ麺と、デザートだけみたいな。あと、ミネラルウォーターも買っていましたっけ。その辺はどうかな? 間違っているかもしれない」
「何か、言われたりとかしませんでしたか?」
蔭山が訊ねる。店員は首を振った。
「特に何も。買い物すまして、さっと帰る。それぐらいですが」
「どこかに寄っていったとか、そういうのは?」
「それは、分からないですね。特に注意深く見ているわけではありませんでしたから」
その後も、彼が有益な情報を口にすることはなかった。瀬藤たちは諦め、その店を出た。商店街の並びを歩いていると、南陽信用金庫の看板が見えてきた。蔭山も気付いたようで、顔を上げていた。
「街の中心にあるんですね」
「行ってみようか」
南陽信用金庫は静岡の本店に比べると、外観こそ一回り小さい店だったが、中はけっこうひろびろとした空間が拡がっていた。
「いらっしゃいませ」
対応して来たのは、引っ詰め髪の若い女性だ。性格からして柔らかそうな顔つきをしている。
瀬藤は身分証を示した。女の顔から、お仕着せの笑顔が抜けた。
「この男がこちらにいらしたかどうか、お訊ねしたい」
瀬藤は黒岩の顔写真を女性行員に示す。彼女はそれに触れようとせず、首を振った。彼女から後方奥手に腰掛けている支店長らしき男が近づいてきた。神経質そうな影が顔にある男である。
事情を聞き、彼は黒岩の顔写真を手に取った。その指の先が、瞬間凍り付くのが分かった。だが、彼からの返答は極めて落ち着いていた。
「うちには来ていないはずです」
横手の女性が同意めいた風に、うなずきを示す。その他寄り集まってきた行員にもそれを示したが、皆同じであった。一様に興奮した様子を見せているのは、黒岩のことを知っているからに他ならない。本部の行員が傷つけられた事件だ。彼等も決して無関係ではない。それだけに、黒岩の顔をこれまで意識してきたはずだった。
「玄関口にはATMがあるが、そのあたりをうろついていたりとかなかっただろうか?」
南陽信用金庫磐田支店は、自動ドアをくぐった先にまず出くわすのが、他行の銀行カードも扱えるATMだ。窓口とはさらにもう一枚の自動ドアで隔離されているため、その空間は従業員から見て完全に死角になっている。
「ATMだけの用で出て行かれるお客様はけっこうございますから、そういったことはあったかもしれません」
「私らが聞きたいのは、今日から数えて五日前までの期間だ。そのあいだに、男の不審な影があったのかどうか」
支店長は職員を一人ずつ顧みたが全員、黙って首を振るだけであった。
「一応、防犯カメラを設置していますので、本店からの許可を得られれば、そちらの記録をお渡しすることは可能だと思いますが、いかがでしょう?」
「だったら、それを頼みましょうか」
「分かりました。いま、その段取りをさせてもらいます。しかし、どれほど早く対応しても、すぐにお渡しできるというわけにはいかないと思います」
「私らではなく、磐田署の人間にそれを渡してくれれば、それでいいです。連絡があれば、職員が引き取りに向かいます」
「そうですか、わかりました」
支店長は事務室の奥へと消えていった。取り残された瀬藤は、最初に対応した女性行員がすぐ近くで途方に暮れているのに気付く。目が合うと、彼女は言った。
「この近くまできたんですね?」
その眼は脅えている。刃物を振り回し、行員に傷害を与えた男が周辺に出没したと聞いて、心が竦み上がっているにちがいなかった。その手の職業に就いている以上、意識せずにはいられない犯罪だ。
「近くに潜伏していたという情報があった。確認してみると、逗留していたとする痕跡があった。この店を訪れたかどうかは、さだかではない。これは、念のための訪問ですよ。そんなに神経質になる必要はないでしょう」
「でも、まだ捕まっていないのですよね?」
「もう、追い詰めていますよ。直に捕まるはずです。あとは、時間の問題というやつでしょう」
「本当に、大丈夫ですから。そんなに、思い詰めなくても良いんですよ」
蔭山の言い足しが入ったが、それでも行員の強張った顔は、解かれない。引き続き、蔭山が彼女をなだめに掛かる。そのあいだ、瀬藤はあたりを見回していた。すると、背後にあった一枚のポスターに目が留まった。
見覚えのある風景を前に、多くの行員たちが笑顔で映っている。おそらく、南陽信用金庫の行員全員ではないか。七十人ほどいる。彼等が集合しているのは、本店の玄関口だろう。見覚えのある、大理石の柱が二本並んでいるのが見えていた。
「あれは、何かね?」
瀬藤はまだ強張りが解けない行員に尋ねた。彼女はポスターを見やる。
「あれは、記念写真を、カレンダーにしたものです。今年は創立四十周年でしたので、それを広告に使うことになったのです」
彼女の言うとおり、紙面の上方に、赤文字で創立四十周年記念とあった。それを見て、瀬藤はなるほどと思った。カレンダーに歩み寄り、覗き込む。前列の中央に若い女性行員が集まっている。その中に、一際美しさが際立った女性がいることに気付いた。その目元の特徴を見て、はっとした。
吸引力のある、目――
園田真希菜に違いなかった。
鼻筋の通った、明瞭な顔立ちだった。肌の白さが楚々とした佇まいを強くしている。削げた頬の角度には切れ味があって、凛々しささえ感じられた。ここまで美しい女性とは思わなかった。これは、予想外のことであった。
「園田さんですね」
女性行員がつぶやいた。
瀬藤は振り返った。
「知っているのですか?」
「実は、同期入行です。研修期間中、いっしょに過ごす事もありました」
彼女の顔は、いつしか素に戻っていた。
「ここにいらしたことはございます?」
蔭山が問うた。行員は彼を見て、首を振った。
「それは、ございません」
「本部から、行員が派遣されることはあるんですよね?」
「輸送係の人はしょっちゅう来ていますし、関係課員が監査にいらしたりしますが」
「他には、どうでしょう?」
「他……ですか? 代理人のお方がいらしたり、することはありますが……それが、どうかしたのでしょう?」
「いや、聞いてみただけです。もう一つ良いでしょうか。代理人について、一般の行員に任されることはあったりしますか?」
「それは、用件にもよりますが……」
彼女は困ったように、他の行員に救いの目を向けていた。しかし、誰もそれに応じようとする気配がない。支店長もいつの間にか、掛かってきた電話の対処を機に、業務に明け暮れていた。
蔭山は、おそらく黒岩の支援者がいるとしたら、ここに勤める人間なのかもしれないと睨んでいるようだ。黒岩が磐田に滞在したのは、信金の近くだったことからも、その可能性はゼロではない。
瀬藤は、成り行きを見守ることにする。
「行員について、具体的な名前が言えますでしょうか?」
蔭山が、畳み掛けに入った。
「名前を覚えていない人もいまして……」
自信なさそうに小さくなりながら彼女は応えた。
「そうだ、あれ……借りて良いですか?」
蔭山が指差したのは、集合写真が印刷されたカレンダーであった。剥がし、カウンターにそれを広げる。
一人ずつ指差して虱潰しに確認する手荒いやり口で、行員の反応を窺っていく。彼女が気の毒だったが、しかしこちらには引けない事情があった。
蔭山の指が坪倉栄美を指した。
坪倉。彼女は、真希菜と同じ勤め先の同僚ということもあって、嫌疑の対象から外すことはできない位置にいた。黒岩と通じていて、影から支援をしている可能性。それは、決して低くはない。
「この人は、どうでしょう?」
蔭山が如才なく訊ねる。
「ありません」
あっさりと物言いであった。
「それでは、この方はどうでしょう」
彼女の顔色を窺ってから、蔭山はまた次なる人物に指を移動させた。どうも、彼が期待していることは、的外れのように思われた。それでも、全員分が終わるまで、待つしかなかった。
ふと、瀬藤は黒岩が今何をしているのか、気に掛かった。
2
県警本部からの協力要請を受けて黒岩の囲い込みをつづけている磐田署に、瀬藤たちも寄った。
荒濱が現地の課長に折檻を食らわせている途中であった。緊急配備の成果が出ず、黒岩は包囲網の外に逃れていったようだ。彼は瀬藤の姿を見るなり叱責をやめ、近づいてきた。待機室のほうに連れられることとなった。
「どちらにせよ、黒岩は磐田市内に残っている」
窓辺を苛立たしげにうろつきながら荒濱は言った。口振りに、ひどい興奮が感じられた。みすみす獲物を取り逃がしたことに、悔しさを押さえられないのだろう。
「それで、お前たちはどうだったんだ?」
荒濱は足を止めて、問うた。瀬藤は蔭山と交互に、聴取の成果を報告していった。外出を控えていなかった黒岩は、要約するといつも通りの日常を過ごしていたということになった。
「まるで我々を嘲笑うかのようじゃないか?」
自嘲気味に荒濱が言う。
「そうでもないと思われます。捜査員の姿を見かけ、職質に掛けられた途端、逃げ出していますから、緊張は常にしていたはずでしょう」
「だったら、一箇所に留まったのは、金銭的に余裕がなかったからというわけか?」
「単純に考えれば、そうなりましょう」
「支援者の影は?」
まだ結論が出せない質問であった。
「いまのところはなしです」
「もし、ないなら、所持金はそんなにないはずだ。いつまでも逃げていられないだろう」
言い終えるなり、「くそっ」と、宙に向かって忌々しそうに罵った。
「さっさと投降すればよいものを」
「課長、私らは本部に戻ります」
荒濱は瀬藤を見た。
「そうか、俺は、まだ事態の収拾ができていない。ここに残ることになる。管理官には連絡するが、関係者に俺を求めるものがいたら、ここにいると伝えておいてくれ」
「分かりました」
「お前も、用が済めばここに戻ってくるんだぞ。黒岩は磐田に残っている。彼を捕まえるのは、本部の人間なくてはならない。もし、所轄の人間がこれを押さえれば、おいしいところは全部向こうに持って行かれることになるからな」
彼が躍起になっているのは、名誉の取り分がもっぱらのようだ。黒岩が次なる事件を起こす心配など、あまり頭にないように思える。
「すぐにでも、合流できるよう、努力いたします」
荒濱への回答はいつしかビジネスライクな調子になった。
静岡市に戻った瀬藤は中央署には立ち寄らず、南陽信用金庫の本店に向かった。午後の三時を過ぎていたので、窓口の一部は業務終了の看板が立てられていた。
瀬藤たちの姿を見て、まっさきにカウンターにやってきたのは、課長の中津であった。アポなしの訪問ということもあって、やや面倒臭そうな態度を見せている。
「事件の跡は、すっかりなくなったようですね」
瀬藤は真希菜が担当していた窓口の周辺を気に掛けながら言った。事件当日、乾いた血で赤く染まっていたカウンターだったが、いまはもう綺麗になっていて、文具や備品も丁寧に整頓されてあった。
「今日は、何の御用でいらしたのでしょう?」
まだ仕事が残っているといわんばかりの口調であった。早々に応じる必要があった。
「黒岩が磐田市にいたことが判明しました。その報告に、と思いましてね」
「磐田市に? なぜ、そんなところに……」
静岡から見れば磐田はそう遠い距離ではないが、近いというわけでもない。一直線に結んでも四十キロの距離がある。彼としては、まだ市内に居留まっているとでも思っていたのかもしれない。
「逗留していた場所は、磐田にある信金から近い場所でした。彼は、もしかしたら通帳から現金を引き出す機会を窺っていたのかもしれない」
信金磐田支店の防犯ビデオの回収の件は、所轄署員に申し付けておいた。関係課員がデータだけを確認し、必要分だけを抽出した上で捜査本部関係者に送信する手筈になっている。
「最近、磐田のほうと連絡を取った事実はありますか?」
瀬藤はそれとなく問いを向けた。彼に対して一応猜疑の目を向けているだなんてことは悟られてはならなかった。
中津はやや緊張気味であった。いまにも額とこめかみに汗が噴き出しそうだ。
「磐田とはやり取りしますよ。顧客が多い支店ですからね」
「最近では、いつ?」
「二日前にこちらから掛けましたよ」
「内容は?」
中津が睨み付けてきた。
「業務内容にまで踏み込んでくるのですか?」
「何か、まずいことでもあるのでしょうか。もし、そうだというのでしたら、言わなくてもけっこうですよ。ただし、その分我々の足を運ぶ回数が増えることになるということをお忘れなく」
中津の顔が奇妙に歪んだ。真に受けやすい性格のようだ。電話の内容を一部を控えた上で話した。支店の新規顧客開拓に関する話であった。磐田ではなかなかうまくいっていないということであった。
その時、事務所の奥手から一人の男が出てくるのを見た。阿木であった。瀬藤の姿に気付くと、動きを止めたが、軽く会釈して横手にあるコンピューター室に入っていった。公共債の売買を請け負う、ディーリング業務を担当しているのだろう。その部屋は、一般の行員が入るところではないはずだった。
それにしても、前回に会ったときの彼とずいぶんと雰囲気が違うような気がした。そして先の彼は、無愛想な対応だったと言える。何かがあったに違いなかった。
「彼とちょっと話したいんですが、貸してもらって構わないですかね?」
瀬藤が阿木が入っていった部屋を示して頼み出ると、中津は面食らった顔になった。
「彼、ですか? お話ししたことがあれば、どうぞ。今日の業務はあらかた終わったはずですから、時間はあるはずでしょう。私からも許可をいたします」
カウンター前に残した蔭山を中津の対応役に当て、瀬藤は阿木を呼び出した上で、応接室に二人してなだれ込んだ。喫煙ルームが近いので、ヤニ臭い匂いがそこには立ちこめていた。
「なにやら、暗い顔をしていらっしゃる」
瀬藤が先に口を切った。阿木は目を伏せた。
「そういうのが、顔に出ていますか?」
「真希菜さんと、何かあったのですね?」
「ええ」
と、生返事を返してから、彼は顔を上げた。
「実は、断られたんですよ」
「手術の件ですか?」
「そうです。熱心に説明したつもりなんですが、そういうのはいい、ということでした」
カレンダーの中の真希菜の容貌が思い出された。はっとさせられるほどに、美しさが際立った彼女。しかし、そのことを自覚できていないのか、顔の傷を消す手術を拒んだという。
いったい、彼女は何を考えているのか……?
「どんなに、説得しても聞く耳をもたないんですよ。困りました……」
阿木は背を丸くしてうつむく。一瞬泣いているように思えたが、そうではなかった。だが、気持はもう泣きつきたいようなところまで落ち込んでいるはずだ。
「どうして、断ったのでしょう。理由は?」
「先日に口にしたとおりですよ。痛みを受け止める必要があると言っているんです。つまり、顔にそれを残すことで、彼の中にある痛みを共有しようと思っているのでしょう。とても、ばかげたことです」
黒岩の出自を聞かされたとき、彼女は胸に感じるものがあったのではないか。おおよそ、幸福とは言い難い人生。挫折は、父親の死からはじまった。そこからは、転げ落ちていくだけの坂道だけが待っていた。反面、真希菜は幸福の階段を一段ずつ上りつめ、いまその絶頂に達しようとしていたところだった。
境遇の違い。
それを傷を負うことで、請負い、共有しようとしているのではないか。
これは、彼女の優しさの表現なのだろう。
「君は、耐えられないのだろうか」
彼は顔を跳ね上げた。
「そんなのは、当たり前でしょう。何を言っているのです? 傷ついたままの彼女を受け容れろとでも言うのですか?」
いまにも突き飛ばしてきそうな剣幕であった。瀬藤はしばらく彼の言いたいままにさせた。
「刑事さんならば、傷ついた彼女を受け容れられるんですか?」
最後に向けられたその質問は、哲学の難題というほどに、重いものであった。
しかし、瀬藤はじっくりと考えずに返した。
「受け容れることには、強い抵抗があるかもしれない。君と同じだ」
「普通に言えば、そうですよ。その傷を見る度に、事件を思いだしてしまう。そうなると、トラウマが甦ってしまう……。女性は顔ではありませんよ。僕は、そう思っていますが、しかしこれは――」
彼の言葉が詰まった。
何と苦しい胸のうちを説明して良いのか、分からなくなったようだ。今彼が呪っているのは、自分の語彙の足り無さだろう。瀬藤も同意できる苦しみであった。確かにこれは、難しい問題だ。言葉を尽くしても、言い足りないもどかしさに駆られることだろう。
「治せるものなら、治してあげたいんですよ」
阿木が毅然と言った。
「顔を元通りにすることは、女性として誇りに関わる、大切なことでしょう。それを放棄するというのは……納得できません」
「察するに受けた傷も含めて、私である、と彼女はそう言いたいに違いない」
阿木は目を瞑って、かぶりを振った。
「仮に僕が受け容れても、ですよ。周囲の人間は避けるかもしれません。いえ、避けるでしょう。顔に残った深い傷痕。それをみて普通に接することができるはずがないんです。治療することは、彼女の今後の人生のためにも大切なことです。魅力が損なわれるとか、そういう問題ではないのです」
「その思いを、ぶつけたのかね。そのまま、彼女に?」
「病室ですから、これよりは控えめですけれども、同じようなことをぶつけていますよ。でも、彼女には通じませんでした」
深刻な壁に彼はぶつかって、身動きが取れなくなっているといったところだろう。
これは、二人が離れていくきっかけにもなるかもしれない。愛情の問題ではなく、価値感のすれ違いだ。二人が見据えている未来は、若干ながら異なり始めている。
自分は手助けすべきだろうか……?
瀬藤は迷った。これは、あくまで当事者の問題というやつだろう。深部まで干渉しても、その縁がなければ、結局のところ二人は結びつくことはない。だが、事件と関係している事案なだけに、瀬藤としても破局して欲しくなかった。
「私からも、説得してみましょうか」
瀬藤は言った。
阿木の深刻な顔が、救いを得た表情になった。
「本当ですか」
「彼女の強さはよく分かった。私から見れば、とんでもない力を持っている女性のように思える。痛みを受け容れる。それは、並大抵の人間の精神力ではできない。まして、顔の傷を残したままというのは、女性の命をも削る行為だろう」
「僕も、それだけは認めていますよ。真希菜の精神は、尊敬に値するものです。いえ、尊敬という言葉では、言い表し足りません。しかし、彼女の将来を代償にするには、あまりにも重たすぎるやり方ではないでしょうか。彼女は、もっとちがったやり方を選択するべきでしょう」
「聞きたいことがある」
と、瀬藤は話の腰を折る。
「なんですか?」
「阿木くんが、その話を持ってきたときの、彼女の様子だよ」
「ですから、断られたのですから、素っ気なかった……というべきじゃないですか?」
「しっかりと、機微をみていたのだろうか?」
阿木の動きが止まった。
夢中で相談を持ち掛けただけに、注意してみることはなかったのかもしれなかった。
「正直、彼女は喜んだと思うんだ。まったく、嬉しくない話だったとは思わない。その喜びの表れを君は見ていたのだろうか?」
阿木は困ったように首を振った。後悔が顔に満ちていく。
「もしかしたら、その一方的な言い方が駄目だったのかもしれない。君は、もっと彼女の変化に配慮するべきだったと思う。それでも、彼女が肯定したとは言えないだろうが、しかしそれにしても配慮が足りなかった」
阿木は完全にうつむいていた。
「刑事さんの言う通りかもしれません。喜んで当然だ、と頭ごなしに思って持ち掛けたところがありました。そこは、反省します」
素直に謝るのは、阿木がそれだけ真希菜を想っているからだろう。瀬藤はその心意気に打たれた。
「阿木くんの気持ちは分かった。しっかりと自分を省みるだけの冷静はある。力になってあげたい」
時計を見た。病院の面会できる時間が狭まっている。いくなら、今すぐだろう、と思った。
「早速、出るとしようか」
「僕もいきます」
「いや、ここは、君が一緒じゃない方が良い。私一人でいい」
そうですか、と起こし掛けた腰を彼は下ろした。そんな彼をみていて、瀬藤は聞かなければいけない質問があったのを思いだした。
「突然で悪いが、事件のことに話を移す」
阿木は目を瞬かせた。
「この会社でのことだよ。事件来態度がよそよそしくなった行員はいないだろうか?」
「また、突飛な質問ですね」
彼はそれでも律儀に考え始めた。
「いないと思います。また、強盗まがいの男が襲ってくるんじゃないかと、脅えている子ならいますが」
「誰かね?」
「坪倉さんです。といっても、事件とは何も関係ありませんよ、彼女は。元来、小心者なんです」
「彼女が頻繁に携帯をやり取りしている姿を見たことなどは?」
「携帯? それは、ないですね。僕が知る限りでは」
「それだけ聞けば、充分だ」
瀬藤が部屋を出ると、阿木も追ってきた。蔭山がまだ行員の一人に、聴取をかけているところだった。
坪倉栄美の姿を、カウンターの一番向こうに見つけた。下手なソバージュの掛かった、行内で一番小柄な体躯をした女性だ。瀬藤が挙動を見守っているうちに、その視線に気付いて、彼女は動きを止めた。
「あなたが、坪倉さんですね?」
「はい……」
「これから、園田さんの元へと向かいます。あなたも、ご一緒しませんか? いえ、あなたの力が必要なのです」
きょろきょろ落ち着きない動きで彼女はあたりを見回しに入った。最終的にその視線が留まったのは中津だった。うなずきを受け、許可が出る。瀬藤の威圧は、まだ有効だったようだ。
しかし、坪倉は瀬藤を遠慮がちに見ていた。同行することに、強い抵抗があるようだ。
瀬藤は蔭山に顎で指示を入れてから、彼女を見返した。
「さあ、出ましょう。来てくれるだけで、いいのです。あなたがいるだけで、大分ちがうと思いますから」
3
真希菜は瀬藤たちの訪問に、顔色のひとつも変えないで迎え入れた。坪倉が付き添っていることには、少し意外そうな反応を見せた。
「どうしたのでしょう」
真希菜の声はしっかりとしていた。相変わらずだ。
「説得に来たんですよ、私らは」
瀬藤が答える。事情をまだ知らない蔭山と坪倉は途方に暮れがちだ。
「説得とは?」
また、惚けるような目が瀬藤に寄越されていた。
「なんでも、手術の件、断ったそうで」
蔭山の肩が上下した。
「瀬藤さん、そんなことを話していたんですね、阿木さんと……」
阿木という名を耳にして真希菜が顔を伏せた。蔭山と坪倉は硬直したきり動かない。
「どうして、断ったんですか?」
瀬藤が問う。真希菜は反応しない。
「あなたにとって、良い申し出だったはずだ。顔に傷を残したまま、この先、ずっと生きていくつもりですか?」
彼女は深く頭を垂れていた。
自分が選択しようとしていることの重大さだけは理解しているようだった。
「女とは、顔ですか?」
彼女は言った。
次に瀬藤を見た彼女は、迫ってくるような激しさがあった。
「私は、そのことにこだわりません。こういったら、多くの女性に軽蔑されるでしょうか?」
「軽蔑はされない。むしろ、尊敬されるだろう。君の精神力、それは一般人のはるか上をいっている。試すわけではないが、言っていることが本当ならね」
「本当ですよ。私は本気です」
そっと、包帯の巻かれた鼻に手を当てる。何度もそうしているらしく、その部分だけに癖がついていた。
「だが、共感はされない」
瀬藤はきびしく言った。真希菜の目が一瞬泳いだ。
「それは、君だけの孤独な闘いにしかならないだろう。加害者の人生の闇に寄り添おうという態度は、彼等を捕まえ検察に送りつける司法警察の職にある私らからみれば、背筋が伸びる思いだ。しかし、彼等が追っている闇というのは、人には共有できないものでしかないのだ。あなたが苦しむのは、筋違いだと言える」
「私は……それでも、手術は受けません」
彼女は断固として言った。
「なぜ?」
唇を舐めた後、彼女はぶるっと身震いをした。
「刑事さんの言うとおりに、すべてを断ちきってしまったら、その先には何もないからです。私には、私のやり方で、その人たちが抱える闇に寄り添ってあげたい……。私は、幸福すぎる女なのです」
顔に手を当てて、彼女はわっと泣いた。すすり泣きが蒼白い病室に響く。レース向こうの窓の光は色がなく、冷たさだけを呈していた。
彼女は、自分の中の幸福を素直に受け容れられなくなってしまったようだ。負った傷は、闇に付き添おうとする彼女の意思を満たす一方で、それを中和する役目を果たすとでも思っているのだろう。
「仮に、あなたが手術を受けても、痛みは残ります」
瀬藤は言った。
彼女のすすり泣きが止まる。上がった顔はそれでも、くしゃくしゃだった。目元が哀れになるほど、赤く腫れて濡れている。
「心に残る……とでもおっしゃりたいのでしょう? そういうのは、受け容れられないことです。いつかは油断し、私の中でなくなっていくはずです」
「心ではない。顔に、だよ」
彼女はぴたりと動きを止める。
「今回、顔面神経にまで達するほど君は深い傷を負った。神経だけは、再生することはできない。だから、整形手術を受けても、結局は痛みが残るだろう。つまり、君が傷を顔から消しても消さなくても同じということだ」
また彼女は鼻に触れた。まだ包帯が巻かれて、外に形を顕すことができない鼻。一度彼女の顔写真を見た瀬藤には、その形が見えている気がしていた。
「私は……どうすればいいの?」
「手術を受けなさい。素直に」
「でも……」
「その抵抗は、いったい何に起因するものなのか?」
「刑事さん、教えて欲しいんです」
彼女は面とむかって言った。
「構わない。言いなさい」
「加害者さんたちの闇には寄り添えない……ということでしたが、よく分からないのです。私が抵触するべきことではないのでしょうか?」
「たとえば、親の愛を受けずに育った子供は、愛情という感覚に欠落がある。人を好きになるという感覚に、歪みがある。あなたの好き、という感覚とは、同一にできないんだ。分かるかね? そもそもが、歪んでいるんだよ。これは、認識からの問題だ」
「私が、もっと不幸になれば、理解できるかもしれないじゃないですか?」
瀬藤は否定を強く示す。
「根本から感覚が欠如している人間と、途中から感覚がねじ曲がった人間は、これまた意味合いが違う。君は、間違ったものになろうとしているんだ。どうあっても、不幸な境遇で育った子の感情は、私らには理解することはできない。これは、強く言い切れる」
口先で何かを呟き掛けた彼女はそれは言葉にならずに、泡となって消えた。
「だが、寄り添うことはできる。君が今、その意思を示しているとおりに。そして、それにさらなる認識が必要だ。闇はぜったいに理解できない深いものであるという認識だ」
「私……」
彼女は呟いた直後、大きく息を吸い込んだ。またしても、言葉は発せられなかった。
何とか、胸のうちでもやった感情を収拾させようとしている。その努力が手に取るように分かる。
瀬藤は努めて声を柔らかくして言った。
「言いたいことは、私は伝えたよ。後は、君がじっくり考えて決めればいい」
「どうあっても、闇には……近づけないんですね?」
「たいてい、闇というのは人間の精神と人格を破壊する。そういったものを人は喜んでは受け容れない。親の愛情を受けないなど、不幸な境遇で育ってきた人は、そういうことを受け容れさせられてきた人ばかりだ。本当は、普通に生きていきたい。それができないからこそ、闇が生まれ、同時にそれを膨らませながら同居していくんだ。望んで、近づいていくというのは、筋違いだ」
まだ納得いかなそうにしている彼女を見て、瀬藤は微笑みかける。
「それにしても、君は強い。自分を犠牲にして、そちらに向かっていこうなど、警察官でも見倣いたい意思だ」
「私は、普通です」
「そこが、すごいんだよ。たいてい、何かをやろうとするとき、人は打算に走りがちになる。君にはそういう裏がない」
どこからそんな感情が湧いて出るのだろう。
彼女は、それだけで出会って良かった思える女性だ。本心から尊敬できる。
「もし、最終的に刑事さんの忠告を守らず、手術を拒否したら、刑事さんはどう思います? 馬鹿な女だと思いますか?」
「それはない。君の選択を尊重するよ。これだけの説得を周囲から受けているんだ。君は気質からして、そうせざるを得ない人間だった、と見なす。それだけのことだ」
あとは、彼女にすべてを委ねよう。
自分が果たす役割はここまでだ。瀬藤はそう思った。
「あの……」
と、消え入りそうな声が病室に響いた。坪倉だ。もどかしそうに、何度も生唾を飲んでいる。
「どうしたんですかね、坪倉さん」
瀬藤が水を向ける。彼女は真希菜を見ていた。
「私からも、お願いします。手術を受けて下さい……先輩」
「栄美ちゃん……」
「先輩がやろうとしていることの意味は分かります。でも、……それは、阿木さんのためにはなりません。あの人は、苦しんでいます。いつも、悩み深そうに過ごしています。ここ最近、人相が変わってしまうほどです」
坪倉は半歩踏みだし、さらに捲し立てた。
「私は、阿木さんのことが好きだからこそ、分かるのです。あの人の苦しみが自分の中に入り込んでしまうのです。あの人の苦しみは……私の苦しみのようなものです」
病室は水を打ったように静まり返っていた。瀬藤としても、それは予想のしない発言であった。
阿木に懸想を寄せていた事を告白した、坪倉。今の彼女は、頼りなさを払拭して、力強い存在になっている。
いままで、ずっと胸に溜め込んでいたのだろう。今の彼女の勢いは、その思いの強さが出た結果だ。
「真希菜さんなら、仕方がないと思ってずっと遠慮してきました。お二人は悔しいぐらいに、お似合いだと思います。だからこそ、真希菜さんには幸せになって欲しいんです。真希菜さんなら、怨みはありません。これは、正直な思いです。阿木さんの優しさを素直に受け取って下さい」
本心の言葉のはずだった。思慕を寄せる対象者を他者に譲り、その人が幸せになることを願う。これまた勇気ある感情だ。彼女を見直すだけの気持になった。
真希菜は困惑気味に、顎を引いて彼女を見ていた。
「ありがとう、栄美ちゃん」
彼女はそっと言ってから、口元を引き締め直した。
「でも、最終的にそれを決めるのは、私だから。ううん、あなたの気持を踏みにじりたいとかそういうことでは決してない。これは、私の中の問題なの」
「阿木さんのことを、どう思っているんですか?」
上擦りながらの坪倉のその問いは、こちらも息が詰まってしまいそうなものであった。
「好きよ」
さらりと彼女は言う。
「その一言では、片付けられないけれども」
「だったら――」
「私はもう、あなたの知っている私ではない。顔に傷を負った、園田真希菜よ。事件があったその向こうに、私はいるの。そして私の中に外からやってきたあらゆる闇がいま、突きつけられている――」
「それは、真希菜先輩が立ち向かう事じゃないですッ」
彼女の眼から、涙が伝った。涙腺がかなり緩んでいると思うほどの軽やかな滴りだった。
そんな坪倉を見つめながら真希菜が言った。
「ねえ、刑事さんにも聞いた言葉だけど、女って、顔なのかしら?あなたは、どう思っている? そこのところ、詳しく教えて欲しい。私は、いま自分に迷子になっているの。答えが分からない。でも、今自分がやろうとしていることは、きっと正しいと思っている」
「そんなこと……私に聞かれても困ります」
「そうだよね……。私、勝手なことを訊いちゃったみたい。ごめんなさい」
「先輩、いま痛み……あるんですか?」
坪倉がおそるおそる訊ねる。真希菜は緩く相好を崩した。
「感触だけよ。それは、今のこの瞬間も感じている。時折、傷口が疼くの。じくじく、と。中で何かが這っているかのように……」
その痛みを想像したのか、坪倉はさむけを堪える仕種を見せた。
「私はもう、傷を負った女……。だから、これからはずっと、園田真希菜は、そういう女であり続けるの。……きっと、そう。たとえ、これを消しても、同じだわ。過去を消すことはできない。許されないの」
「真希菜先輩……」
悔しそうに坪倉は歯噛みする。
真希菜は窓辺に顔を向け、もう対峙する意思をみせない。潮時だった。瀬藤は、行こうと、二人を促し、ロビーに向かっていった。途中鼻を打ってきた薬品の匂いが、妙に鼻先について回った。
坪倉は打ちのめされたのか、すべてを出し切ったのか、ひどく虚脱している。瀬藤を見ると、怨みがましそうに突っ掛かってきた。
「なぜ、私を連れてきたんですか?」
「後悔しているのかね? ここにきたことに」
彼女は唇を噛んだ。
瀬藤は続けた。
「君が必要だったんだよ。説得するのに、私らだけでは限界があった。まさか、ああいう展開になるとは思っていなかったが、君は案の定、一役買ってくれた」
「効果はなかったと思います」
「私は、そう思わないが。かりに、駄目だったとしても、今回のこれが無駄だったとは思わない。君も、気持がある程度すっきりしているはずだろう」
突き当たり向こうの廊下に家族連れが通り過ぎていった。悲壮感が漂っていた。不幸があったのかもしれない。病院だ。何があってもおかしくはない。自分たちは、どうなるだろうか、と瀬藤は思いを寄せた。
「いつから、阿木くんに思いを?」
彼女は瀬藤を睨んでいた。
「去年からです……」
「彼と園田が付き合っていた事実は、最初から知っていたね? まさか、事件を契機に知ったとかはないだろうね」
「入社したばかりのとき、自分で気付きました。何か、打ち合わせのようなことを二人でしていたりしたんです」
「それを見ていながらも、君は阿木くんを想いを寄せていたのかね?」
「駄目ですか?」
実はしっかりと反抗的な態度を取る人らしい。第一印象の大人しそうな雰囲気というのは、こちら側の勝手なイメージでしかなかった。
「駄目じゃない。プライドがあるのは良いことだ。だが、それが君を苦しめることになるのは、もう自分で分かっているよね」
もし、彼女に阿木への思慕がもうなかったとしたら、先程のように真希菜を責め立てることはしなかっただろう。
「真希菜先輩は、どうなっちゃうんですか?」
「分からない。それは、彼女が決めることだ。私らが思っているよりも、ずっと意思が強い女性のようだ」
もし、真希菜が最終的に受け入れを拒否したら、阿木も坪倉も苦しい立場に追いやられることになる。そして、真希菜もその代償を負うことになる。
「彼女は、昔からそういう人だった?」
坪倉は曖昧に首を傾げた。
「今回、初めてはっきりとしたことではないでしょうか。私の印象は、明るい人であるけれども、控えめといった具合です」
彼女は不安げな表情で、沈思に耽りだした。それを見て、蔭山が瀬藤を離れたところに呼び寄せてきた。
「彼女をここに呼び寄せた理由を聞いていませんでした。なぜ、連れてきたのでしょう?」
「園田を前にして、やり取りしているそのあいだ、彼女の表情について観察していた。目的はずばりそれだよ」
「それで、どうだったんです」
「変化はなしだ。彼女は、真希菜に同情的な立場を取っているのは、事実だろう」
「それでは、彼女はシロということで?」
「現時点で簡単にそうだと決められるわけではないが、その可能性が濃厚だ」
「しかし、彼女が犯人だったとすれば、一応、動機は成立することにはなるんです」
「そうだったな、しかし、一部始終を見ての通り、彼女はそんな裏のある女ではない。連れてきた結果、それが明らかになった。第三者を介して真希菜を攻撃することはしないだろう」
「では、黒岩はやはり単独犯なのですか?」
「接点がないということは、そうだろう。そういえば、南陽信用金庫の支店というのは、何店あったか?」
蔭山は手帳を繰った。
「十一店でしたね」
「岡部町にはあったか?」
「そこはありませんが、藤枝市ならあります」
「なるほど……そういうことか」
蔭山は顔を上げた。
「何か、あったんですか」
「接点は、住んでいた街近くの信金だったのだろう。カレンダーだ。それを見て、黒岩は彼女の勤務先を特定したに違いない」
須永隆久の命日のその日、黒岩は献花を置いていく人間を観察していた。キキョウの花を置いた親族と思われる人間をあえてやり過ごし、その後献花した真希菜を尾行に掛かったのだと思われたが、実は二人とも見過ごししていた可能性が高くなった。
「しかし、カレンダーに彼女が映っていたとしても、七十名ですよ。そこから、割り出せますかね?」
「私が彼を最初に見たとき、すぐに園田真希菜の姿が目についた。前列中央にいるから目につきやすい。それに彼女は――」
「目の覚めるような、美人でしたものね。まさか、あそこまでとは、僕も思いませんでした。あれほどだったら、まあたくさん人がいても目立つんでしょうね。対人心理学という言葉がありますが、これはつまるところ人の印象というやつは、第一印象がすべてというやつでした。どうしても、美しい人が目立つということです」
「しかし目立つというのは、必ずしも得ではないらしい。彼女は結果、それで狙いをつけられることになったからだ。この件、裏を取るためにも、藤枝市にある信金に確認する必要があるな」
「そこの人たち、黒岩の顔、覚えていますかね?」
「それは、君自身の胸に訊けば分かることさ。彼の人相について、蔭山くんの印象は?」
彼は少し考えて、
「野暮ったい、ちょっと近寄りにくい男でしょうか」
「それは、印象の濃い人相だったということだ。つまり、君が言った心理学には、付け足さなければいけない部分があるようだ。目立つ人というやつは、良い印象ばかりではなく、負の印象の方もあって、人に強い何かしらの感情を与える存在なのだってね」
4
藤枝市の南陽信金は、国道一号線沿いに面する、市の中央から西側にあった。下調べによれば、南陽信金のなかでは一番規模が小さく、従業員はわずかに四人しかいない。
出向いた瀬藤たちに対応したのは、中年の小太りの女性だ。
「この男です」
瀬藤が、黒岩の写真を手っ取り早く示す。あえて渡すまでもなく、女性は最初からうなずいていた。
「間違いありません、ここには来ていないです」
一応、カレンダーはこの支店にも貼られてあるのを確認した。そちらの壁まで距離があったが、瀬藤の立ち位置からでも真希菜だと分かる人影がはっきりと見えていた。
「良く思いだしてみて欲しい。記憶の片隅に、彼の記憶があるかもしれない」
行員は無愛想に顔をしかめた。
「ないですよ、そういうことは覚えている方ですから」
どうやら勇み足だったようだ。ここには、黒岩は来ていなかった。立てた仮説は、一向に筋が通らない。どこかで何かが抜けているかのようだ。
信金を出た後、蔭山は納得いかなさそうに、天を振り仰いだ。曇り空なのに、妙に眩しい日だった。
「これはあれですか、瀬藤さん。かなり以前から、黒岩は園田のことを知っていたということでしょうか」
「例の配布品ができあがったのは、カレンダー付だから、去年の十二月頃だろう。その日からずっと、各支店、そして本店に飾られ、あるいはお得意さんに配って歩いたはずだ」
「瀬藤さん、工務店にカレンダーを配るなんて、あり得ますかね?」
「黒岩の勤めていた先か?」
「そうです」
「小さいところだから、あるのかもしれん。いや、そっちのほうが可能性が高いのかもしれない」
「ちょっと、もう一度、行って来ます」
勢い付いた蔭山は踵を返し、出たばかりの店に入っていった。対応した女性がうんざりとする顔が浮かんだが、蔭山はそんなことなどお構いなしに、質問を捲し立てることだろう。
瀬藤はブラインド越しに見える店内の模様をそれとなく見ていた。カレンダーを指差し、それを示しているところだった。行員に期待できる反応があった。きっと、黒岩の勤めていた工務店は信用金庫に入っているのだろう。
考えてみれば、信用金庫というのは地域繁栄に寄与するために立ち上げられた協同組織なのだった。加盟店が小さい所でも丁寧に対応をする、非営利企業。小さな工務店は、銀行よりそちらに加入するほうがきめ細やかな対応という点で、多くの恩恵が受けられる。この二社のつながりは、地方ならでは予測できたことのはずだった。
その時、瀬藤の携帯電話が鳴った。捜査本部からだった。
慌ただしい声が、一気に瀬藤の耳に吹き込まれていく。
非常召集だった。
集合が掛けられたその場所が告げられる。瀬藤は、携帯を切った後、まだ蔭山が戻ってきていないことに地団駄を踏んだ。
自動ドアが開いた。蔭山は瀬藤の意などまるで介さずといった、満面の笑みである。
「やはりそうでした。瀬藤さん、ビンゴです。黒岩の勤めていた工務店はお得意先で、カレンダーが渡されていたということでした。支店長の話によりますと、工務店の事務室に掛けられているのを見たということでした――」
「おい、蔭山くん。非常召集だ。お呼びが掛かった」
瀬藤は携帯を示して言った。蔭山の顔が一気に曇る。
「まさか」
「黒岩の居場所をキャッチしたそうだ。磐田市に出戻りだ」
5
磐田市の天竜川にほど近い、ビジネスホテルであった。何回かオーナーが変わったらしいそこは、何度もその度に外観が変えられたはずだった。妙に外装がちぐはぐで、建物にしっくりあっていないのだ。元々は、ホテルでさえなかったのかもしれない。
瀬藤は息を潜めて、ドア前に待機していた。六階の、七号室。廊下に出ると斜交いに階段があり、そちらに逃げ出さないよう、あらかじめ封じる必要があった。応援の部隊は、磐田署から派遣してもらった。
いま、あらゆるポイントに、磐田署の制服警察官が身構えて、その時を待っている。
瀬藤は指揮官の男に目をやった。彼は、ゆっくりとうなずいた。準備はできているということだ。周辺の定住者には部屋を出ないよう警告してある。
大丈夫だ。
自分は、いける。
瀬藤は、ドアをノックした。
「黒岩さん、出てきて下さい。警察です」
予想通り反応がなかったので、立て続けにノックをした。
「黒岩さん、開けて下さい。警察です。入りますよ!」
立て付けの悪いサッシュを開ける音が瀬藤の耳をかすめた。逃げるつもりだ。外にも要員が配置されているためそちらに駆けつける必要はなかったが、瀬藤の周囲を固めていた何人かがそちらに向かっていった。
瀬藤はオーナーから許可を得て、借りた合鍵を鍵穴に差し込む。ドアロックは、解錠された。瀬藤は飛び込んでいく。
日当たり良好の明るい部屋が飛び込んでくる。日向にふやけた畳部屋。そこには、人の影がなかった。突き当たり向こうのベランダ窓が開いていて、帯が取れたカーテンが揺らいでいた。
「外に逃げたぞッ! 追えッ!」
飛び込んだ磐田署の刑事たちがほぼ同時に叫んだ。ざっと、警察官の塊がうごめく音がほうぼうから聞こえた。
瀬藤がベランダ窓に向かった所で、キッチン台の物陰から黒い影が飛び込んできた。その影こそ、黒岩であった。もつれ合うように倒れ、瀬藤は背中と後頭部をしたたかに打ち付けた。畳だった分、ショックは小さい。
瀬藤の上にのしかかっていた黒岩はばたばた身体を起こし、近くにいた蔭山をも突き飛ばして、玄関に逃げていく。
「黒岩、待てッ!」
瀬藤が叫んだ。
急ぎ足で飛び込んだ黒岩はつまずいて、たたらを踏む。そのあいだに差を詰めた瀬藤が、腕を伸ばし、彼の肩を掴む。器用に身体をくねらせて回避に掛かってきた。掴む位置がずれ、身体から手が離れる。が、離すまいという執念が、彼のTシャツの襟ぐりを掴んだ。繊維が引き裂ける音。楕円の面積が拡がった。
離すものか!
内心で叫んだその時、黒岩が振り返って、拳を打ってきた。鼻に当たる。きな臭い感触が広がって、目先に生理的な涙がにじんだ。それでも手は離さなかった。
黒岩の二度目の拳が襲い掛かってくる。左手で受け止め、彼と力比べに入る。
「逃げてどうする? 大人しく投降しろ」
「俺は、捕まるつもりはない!」
まなじりを決したその目は、おそらく凶行に走ったその時の再現のはずだった。立ち竦んでしまうほどに、負の力に満ちている。真希菜が彼のその目に慈愛を注ぎたくなるのが分かる。
「俺は、捕まる気はないからなぁッ!」
「なぜ、そこまでして、抵抗する?」
黒岩は、Tシャツのスリーブを引き千切り、瀬藤の拘束から自由になった。力を溜めていた蹴りが腹部に襲う。急所に入った。視界がぶれる。まともに、黒岩を見られない。
黒岩は隙を逃さず、戸口に飛び込んでいった。
スクラムを組んだ警察官の壁がドアの向こうにあった。黒岩は構わず身体ごと突進に掛かっていった。しかしあえなくネットのように弾かれた。
バランスを崩しかけた黒岩は、その後動きが止まった。
観念したらしい。
逃げ場は、完全に封鎖されている。
瀬藤は痛む腹部を押さえながら立ち往生する黒岩にゆっくりと向かっていった。鼻血が拭っても拭っても滴ってくる。
「おい、黒岩。もうお前は逃げられない。分かっているな?」
ちくしょう、と涎を垂らしながら、彼は叫んだ。半泣きの目だ。どうしても、逃げたかったらしい。
逃走犯を追い詰めるのは瀬藤にとっては初めてではない。これまでの犯人も、彼と同じようにやたらと悔しがったものだ。人は逃げようと思った時、本能が絡んでくるらしい。
瀬藤はアルミ合金製の黒手錠を取りだした。
それを見るなり、黒岩が脅えた顔で向き合ってきた。後ろを囲う警察官が身体を押さえに掛かる。彼は暴れ狂った。
「見苦しいことはよせ。お前がやったことは、重大なことなんだ。罪を償う必要がある」
彼の腕を捕まえようとしても、なかなか思うようにさせてくれない。ばたばたさせる蹴りの一撃が、瀬藤の脛を襲った。
「俺は、何も悪くない。悪くないんだよ」
その台詞に、瀬藤はいらっとした。
「何を言っている、お前は、園田真希菜の顔に傷つけただろう? あの子がいま、どんな思いで入院しているのか、知っているのか?」
「しらねえよ、そんなこと。俺の、知ったことかッ」
瀬藤は怒りを抑えきれず、黒岩に詰め寄った。
「彼女は、結婚間近だったんだよ。これから、幸せになる人だった。お前は、それを不意にしたんだ。やっていること、分かっているのかッ!」
怒りで頭に血が上っていく。堪えられる感情には限界がある。だが、自分は警察官なのだ。黒岩に罰をくらわせる立場にはない。
「うるせえッ」
黒岩の抗いが一際激しくなった。
警察官の押さえを振り払う。得た勢いで、瀬藤に殴りかかってきた。横腹と、側頭部に立て続けに拳が叩き込まれる。止まっていた鼻血がまた出てきた。拭っている暇もない。瀬藤はしばらく黒岩の攻撃を甘んじて受け止める。
周囲に逃げ道はないだけに、彼は必死だった。
いま、頭にあるのは手錠を掛けられてなるものか、という執念だけだろう。
黒岩の体重を掛けた右ストレートが迫ってきた。瀬藤は落ち着いていた。腕で顔を守った体勢で機動力を発揮し、やり過ごす。
接近した黒岩の腹部に突き上げるような、拳をねじ込む。
ずしんと重たい衝撃が入った。
決まった。
黒岩の目が揺れ、数秒膝が揺れた後、折れた。横倒しに倒れる。周囲の警察官が、押さえこみに掛かろうとするのを、瀬藤は止めた。
「私が、やる」
彼等の動きが止まる。
黒岩は粗目のコンクリートに伏したまま動かない。瀬藤に拳を打ち込まれた箇所を押さえ、丸くなっている。
「おい、大丈夫か」
顔を覗くと、黒岩は泣いていた。痛みからではない。身の破滅を呪ってのことだ。やはり、捕まりたくなかったようだ。だが、見逃す選択などあり得ない。自分は彼に手錠を掛けるのが仕事だ。情など、捨てなければいけない。いや、手錠を掛け、彼に罰を与えることが、最大の情けなのだ。
瀬藤は、黒岩の手を強引に引き寄せ、手錠を掛けた。かちりと無味乾燥な音が廊下内に響く。遠く向こうから携帯受令機を繰る警察官のやり取りが聞こえてきた。
黒岩の涙は止まらない。
ちくしょう、を無意識に繰り返している。涙が鼻汁に混じって網目を作るその顔は、実にみっともないほどだ。これまで逃走生活を繰り返してきたことが台無しになったことの無念というのは、それほどのものか、と思ってしまう。きっと、今日まで神経を削りながら過ごしてきたのだろう。
「連れていってくれ」
立ち尽くしていた警察官たちが、命を受けて動く。黒岩を立ち上がらせ、足腰を立てようとさえしない彼を引きずるように連れていく。
瀬藤はその背中を見守っていた。頭を強く打ったらしい蔭山も、傍にいた。
姿が消えても、黒岩のすすり泣きは長々と耳に響いた。
6
パトカーに乗せられて黒岩は一旦磐田署に護送されていく。その姿を、早速逮捕の情報を嗅ぎつけた報道陣が大挙して押し寄せ、フラッシュを焚いた。
瀬藤は蔭山を病院に送った後、荒濱が待機している磐田署の議場へと向かった。
「よくやってくれた。君の、健闘は聞き及んでいるよ」
彼は浮き足立っていた。磐田署に留まって黒岩確保に専念してきただけに、喜びもひとしおといったところだろう。
「私は、何もしていません。所轄署が、懸命に対応してくれました。事実、あやうく黒岩を逃すところだったのです」
荒濱は聞いていなかったように瀬藤の肩を掴んで、微笑みかける。
「そんなのは、結果論だけで良いんだ。君が手錠を掛けた。それが、一番大切なことだ。期待に応えてくれて、俺は嬉しい」
「蔭山のことですが」
「ああ、うん」
「特に、問題はないようです。が、職務遂行上、念のため検査を受けるということでした。夕刻頃には、帰ってくるでしょう」
「そうか、大事に至らず、良かったよ」
ほとんど生返事に近かった。そのことよりも役職上、今後の推移について考えているにちがいなかった。
「黒岩は、いま?」
瀬藤は問う。すすり泣きながら、連れ去られていったのは、二時間前のことだ。まだ、気分は塞いでいるにちがいない。
「取調室にて、現地の署員とともに休んでいるよ。いまはまだ何も話せない状態だ。これから、本格的に聴取を掛けていくことになる。俺は、あれだよ。本部のほうに戻って、広報課と打ち合わせした後、会見に臨まなければいけない」
これから忙しくなる、と彼は嬉々として言う。こういった時に、我こそはと動き出す男であった。
「瀬藤にも、本部に帰ってもらうことになる」
彼は言った。瀬藤は立ち尽くした。
「いえ、ここに留まらせてもらえませんか?」
「黒岩の聴取役を希望か?」
「はい」
「近いうちに、中央署のほうに護送される予定だ。何もここで調書作りに焦る必要はないだろうに」
「今だからこそ、語ってくれることがあるはずです。というよりも、私自身、彼に向き合っていかなければいけないことが多くありますので」
荒濱は瀬藤の目の色を窺い見ていた。奥にある思いを計っているかのようである。
「園田の件か」
と、彼は言った。
瀬藤の考えていることなど、お見通しだということだ。やはりかなわない部分があるようだった。
「はい、そうです」
「彼女はいま、どうなっているのか?」
瀬藤はこれまでのことを話していった。阿木が彼女の傷ついた顔を治す整形手術を用意していることから始まり、彼女がそれを断り、瀬藤が説得に掛かったところまでの経緯だ。あくまで捜査外のことなので、必要のない情報だ。だが、被害者のその後を案じないほど、警察は情のない組織ではない。
すべてを聞きつけて、なるほど、と彼は独りごちた。
「そんなことがあったんだな」
そして彼は改まって言った。
「彼女がそれを受ける可能性は?」
「分かりません。五分五分でしょうか。いえ、承諾する可能性の方が少ないのかもしれません。と言いますのも、彼女のなかの決意が非常に固いと見受けられるからです」
「困ったものだな」
荒濱はため息を一つつく。
「課長は、反対なんですね」
「そんなのは、当たり前だろう。闇に寄り添う? ばかげたことだ。それは、自分の首を絞める結果しか生まないはずだ。お前は、そう思っていないのか?」
「基本、同じ考えです、課長。しかし彼女がその意思を示しているところは、尊敬に値すると考えています」
けっ、と荒濱は吐き捨てた。
「世の中に存在する不条理にいちいち同情がかき立てられて、そうしていたら、顔中傷だらけになってしまうわ。それに、女性として好ましい行為ではない。お前が、きつく制するんだ。意思の尊重?そんなのは、認めてはならない。手術して、綺麗になって、時間が経てば、俺の言っていることが分かるようになるはずだ」
ぎろり、と荒濱は射竦めてくる。浮き足立っていた感情がすっかり冷めたことに、胸が悪くなっているらしい。
「二度言うぞ。彼女の言うことなど、聞かんでもいい。強引に押していくんだ。いいな?」
瀬藤は容易にうなずきたくはなかったが、彼の顔を潰してはならないと思っていた。
「分かりました、再度説得してみます」
7
刑事部屋の真下に位置する取調室は、四畳半程度の狭い空間だ。黒岩は、肩を落とした様子で、じっとしていた。
瀬藤の入室に気付くと、顔を上げた。目が合っても、その顔に覇気が宿ることはなかった。
瀬藤は対面席に腰掛けた。彼と面と向かう。
「私が誰だか、分かるか? あんたを捕まえた男だ」
彼は分かっているとばかりに、こくりと首を垂れた。
「怨んでもらって構わない。感情をぶつけてくれるほうが、こちらとしてはやりやすいからな」
黒岩にこれといった変化はなかった。捕まってしまったことで、あらゆる気概を喪失してしまったらしい。目がややうつろであった。口元がだらしない形に歪んでいる。
瀬藤は書記係の男を横目で気に掛け、黒岩に言った。
「聞きたいことがある」
黒岩はじっと見返しているだけだった。口を開く兆候はない。
「なぜ、園田真希菜に凶行を働いたのか?」
事件の一番の要であった。まだ、動機は解明されていない。彼の口から語ってもらうしかなかった。
「君は、被害者園田真希菜に、〝お前が悪いだからな〟――というようなことを言いつけたということだった。捜査書類には、しっかりとその記述がある。多くの目撃者がその言葉を耳にしている」
黒岩の反応を待った。依然、うつつの最中にある。なんとかして、目覚めさせたいところだが、その手掛かりがまるでない。彼自身の中の良心に期待するしかない。
「園田真希菜を知っていたのだろう? 彼女を意図的に狙った。傷つけるほど、彼女が憎かった。そうではないか……?」
数秒の沈黙の後、黒岩がうなずきを示した。そして、かさつく唇を押し広げて、舌足らずな声を連ねだした。
「憎かった……そうです、憎かったんです。俺の、存在を脅かした女です」
唇の先が震えている。
「存在を脅かしたというのは? 何か、されたということか?」
「そう。あいつは、この俺に、大量の脅迫状を送って来やがったんだ。大量の脅迫状を……!」
いまにも、精神が破綻しそうに、彼の面状に怒気が満ちていく。瀬藤は立ち上がって、正面から手を差し伸べてなだめに掛かる。書記係が筆記を中断して室外に出、応援を連れてきた。制服警察官が、黒岩の後ろで身体を支える役に回る。
彼が言う脅迫状に、瀬藤は覚えがあった。
あの、赤インキが書き殴られた用紙だ。乱暴に書き殴りすぎて、中央が破れ、内容のほとんどを消失していた。
あれが、やはりすべての原因だったのだ。
「その脅迫状、というのは?」
「親父だ。俺の親父に成りすまして、この俺を追い詰めてきたんだ」
須永隆久。
彼の父親は、少女を救うために命を投げ出し、殉職している。その勇猛さは、心底恐れ入るほどであった。
その彼に、成りすます人間がいたという。
これは、どういうことなのか。
「もっと、詳しく教えてもらえないか」
すると黒岩は頭を抱え、唸った。苦しそうにしている。決して演技ではない。脂汗が浮かびそうだ。
待機していた警察官が、彼に取りすがる。
「大丈夫なのか? おいっ」
抱えようとしても、机にしがみつくだけであった。それきり、黒岩は動きを止めた。警官は困ったように、瀬藤に目をくれ、去就を求める。
彼が赤インキで書き殴って例の手紙をめちゃくちゃにしたのは、証拠隠滅なんかではなかった。彼の苛立ちを掻き立てるそれを、そばに置いておきたくなかったに違いなかった。
黒岩は荒い息を繰り返している。瀬藤は、静まるのを待った。対処に困っている警察官は瀬藤の顔色だけを気にしていた。
数分が経った。
黒岩の上体が、ひくっとうごめく。それから、彼は顔を伏せたまま机から起き上がる。
「ひどく、追い詰められていたんだな?」
瀬藤の問いに、黒岩が目も合わせずにうなずく。
「脅迫状の内容は、いまは思い出さなくて良い。記憶をたぐることに、苦痛を伴うらしいからな。だが、その後のことだけはいま、語ってもらわなければいけない。黒岩くんのその苦しみよりも、まだ苦しい痛みを味わわされている人がいるのだから」
黒岩は腕で顔を拭った。少し、動物じみた仕種であった。
「君は、その脅迫状を送りつけた相手について、園田真希菜だと見当をつけた。そして、彼女を襲う気になった。そういうことではないか?」
黒岩が背もたれに寄り掛かったまま首肯するのが分かった。
「そうです……」
「彼女が送り主だと決めつけるに至った理由は?」
「その……」
鼻先を掻く。彼は、喘ぐように口をひくつかせ、唇を舐める行為を繰り返す。うまく説明できないようだ。
「君のお父さんの事故死した場所だな? 命日の日、君はそこで待機していた。そういう姿を確認している。証言者がみたとする車と、陸運局の君の自動車登録証明書の車が一致している。トヨタのマークⅡ、黒。九十二年式だ。それに乗って、献花にくる人間を観察していた。間違いないな?」
「はい、……そうです」
「最後にやってきた人間が、園田真希菜だった。信金の職員だ。君が勤める工務店は、南陽信金に加入していて、給与もそこから引き出されることになっていた。だが、早合点だったようだな。彼女が君に脅迫状を送りつけただなんていう根拠は、どこにもない」
黒岩は生唾を呑み込んだ。前のめりになって、瀬藤に訴えに掛かる。
「あいつに決まっているんです。あいつしかいないんですよ」
「どうしてそう言いきれる?」
「あの時、あいつの姿を見て、はっとしたんですよ。なぜ、そこにそいつが来るんだって……! 胸騒ぎがしました。そして直感が訴えてきたんです。あいつが、俺を監視しているんだって」
「つまるところ、極端な思い込みだ。君は、どうやらまともにものを考える能力が失われていたらしい」
瀬藤は黒岩に対し、自らの頭を押さえて示す。
「頭痛。だいぶん、長く苦しめられていたのではないか?」
彼は目を不自然にしばたたかせた。
「そこまで知って……たんですね」
「君のことは、すべて調べている。勤務態度から、部屋の模様まで、ありとあらゆることを押さえている。もしかしたら、君よりも詳しい部分があるのかもしれない。それで頭痛は、どれぐらい前から……?」
「ここ最近、ひどくなったというだけのことです。そんなに、前じゃないです」
「君の上司さんは、ことあるごとに中抜けさせていたということだった。推するに、ここ一年の話ではなかったはずだ」
「三年ほど前から兆候はあったかもしれません」
「クリニックには、不眠症を相談しているということだった。それは、ほぼ兆候が現れた出した時期から通っているね?」
通院歴も、調べ済みだ。彼の不眠症は、慢性的な疾患のようだった。
「そういえば、そうかもしれません」
黒岩は宙に目をやりながら答える。
「頭痛と、不眠症の関係、君はつながりがあると、自覚がないのだろうか」
「そんなに、ひどかったというわけではなかったから」
「おそらく、脅迫状が届いたのは、身体に異変が起こり出す三年前からではないだろうか」
黒岩は小さくなった。
「それぐらいですね」
「頻繁に届けられていたようだね。数にしてどれくらい」
首を振った。
口元に苦味が含められている。
「長い時間を掛けて……けっこうな数が届きましたよ」
「君の神経が尖っていくここ最近、それは激しさを増した。そういう事で良いんだね?」
黒岩に変調の兆しが膨れあがっていく。がくがく膝を震わせ出した。警察官の押さえがまた入る。それに抗いながら、彼は荒ぶった声を吐き出した。
「あいつなんだ……あいつが、そうしたんだよ。献花を飾り付ける振りをして、俺を陥れようと――」
園田真希菜への憎しみは、まだ引きずっていた。瀬藤が勘違いだと指摘しても、妄執に侵された彼を目覚めさせることはできないようだ。
「しっかりと座れッ」
警察官の押さえには本気が入っていた。揉み合う反動で、彼の制帽の庇が殴られ、頭から落ちていった。
警察官の押さえに腰が入った。結局、黒岩は椅子に押さえつけられるに至った。
瀬藤は黙って見ていた。
「聴取を取り下げようか? それとも、続けられる?」
黒岩は居住まいを正した。
「付き合いますよ。話さないと、心が穏やかになれないんで」
「はっきり言おう。園田さんがあそこに献花しに行ったのは、君を挑発するためなんかではない。義務の感情だ」
「義務?」
と、不可解な表情をする。
「私も、君と同じ気持ちだよ。彼女がした行動は、人の理解を超えている部分がある。だが、人には思いやりという感情がある。身の回りにある悲しい出来事に対して、共感し、哀悼を示す感情を抱くのは、決しておかしな話ではない。彼女があそこに献花したのは、人として、故人を尊敬しようという念から取った行動のはずだ」
「ちがうッ」
と、黒岩は血相を変えて、瀬藤を睨んできた。
「そんな感情など、認めない。あいつは、この俺をからかうことを愉しんで、のうのうと生きてきたんだッ」
「実際、彼女に会って話したことがあるのか?」
「あるわけがないだろう」
「だったら、彼女について何も知らないという他はない。教えておこう。彼女は、とても素直な子だ。淳良で、真っ直ぐに生きている。言ってしまえば、君とは違った人生を歩んできた人だ。君の人生のあらましを彼女に明かしたとき、彼女はどんな気持になったと思う? 君の中の闇に寄り添いたい――ということだった」
馬鹿な、と黒岩は身体を揺する。
瀬藤は気炎を上げる。
「事実、君に顔を傷つけられた彼女は、そのまま傷を背負っていきていくと、自分の口で言っている。傷を消す整形手術を拒んでいるんだ。君の闇を共有し、一歩でも近づきたいと彼女は言っていた」
「そんなことをして……何になるというのだ……?」
口の動きと声が空回りしていた。
黒岩は真希菜のやろうとしていることの、一片も理解できないようだった。
「何にもならない。君の言うとおりだろう。そして、それは周りも言っていることだ。私からも止めに入った。後は、彼女の意思に任せられている」
黒岩の目を見つめたまま、瀬藤は息継ぎをする。彼は次なる言葉を求めている。なぜ? を解消したい一心でいる。
「すべては、優しさなのだと思う。彼女は自分で言った。自分は幸福すぎるのだ、と。不幸の一部を負い、君のように不遇な環境で育ってきた人間と一緒に生きていくつもりでいる。そうして、彼女の中の幸福を君に注ごうとしている」
「優しさ……」
ぽつり、と黒岩が言う。その後の呟きは、彼の口元で消えていった。
「それを、分け与える必要などはないはずだ。君の不幸は、君だけのものだ。いまさらどうあっても彼女のものになど、ならない。しかし、彼女はそれでも、そうすることに意義があると思っている。それだけ、素直な人なのだよ。人を、根から信じている。君は、そんな人を傷つけたんだ」
「嘘だッ」
黒岩は頭を抱えた。
「お父さんのことを、どう思っているんだい?」
瀬藤は懲りずに、黒岩に問う。
おもむろにあがった彼の目は、彼に似合わず脅えていた。退行。事故を聞きつけた直後の彼の心がそこにある。
「尊敬していたんだろう。家族の大きな柱だった。須永隆久警部。君は彼のことが好きだった。きっと、今でも。私はそう思っている。だからこそ、彼に成りすましたその脅迫文に神経質に反応したんだ。許せないという気持ちと、本当かもしれないという感情が交錯して、気が変になっていった。それは、君の中の父親の存在の大きさを意味している。
いや、君だけではない、家族もそうだ。君のお母さん。お父さんが亡くなってから、すぐに追うように亡くなった。それだけ、その人から好かれていたということだろう。須永家は、君のお父さん中心で成り立っていたんだ」
しかし不慮の死で、その家族は崩壊した。
彼の死は、妻の死を導き、残された黒岩の人生を破壊した――
「親父は……」
彼の充血した目から、涙が剥がれ落ちる。
「親父がいた頃は、世界が明るかった。眩しかった……。でも、親父は死んだんだ。一人の少女を助けて」
「その少女を怨んでいるのか?」
かぶりを振った。手の額で、目元を拭う。
「怨んでなどいない。親父が助けたんだ。だから、生きていて欲しい……」
素直な感情がぽろりと出たのは、彼にも不意討ちだっただろうか。
「その気持ちと、園田真希菜さんのやろうとしていることの気持は同じようなものではないだろうか」
「え……」
瀬藤は口元に微笑みを湛える。
「同じだよ。その〝生きて欲しい〟は、君には何の恩恵もない言葉だろう。それは君の中の優しさに違いない。きっと、お父さんから受け継いだものではないか? 早くに亡くなったとはいえ、十歳までは傍にいたんだ。身体で覚えていることは、たくさんあるだろう」
黒岩の手が震えていた。落ち着きない動きと、乱れた呼吸。不意に身体を仰け反らしたとき、喉からぐっと音が鳴った。
「だったら……、あの脅迫状は……いったい?」
「無理に、思い出さなくて良いさ。君の精神を崩してはいけない」
「大丈夫です。俺はいま、言えます。あれには、……書かれてあったのです。父さんの後を追いなさい、と――」
事実だとしたら悪意のこもった文書だといえる。やはり、あれには、彼の精神が破綻する結果を生む破壊力が込められてあったのだ。
「最初は、そんな感じではなかったのです」
黒岩は神妙に言った。
「聞こう」
「優しく語りかけてくるような、文章でした。まるで、人生を諭してくるような、そんな感じ。親父だったら、言いそうなことが書いてあったわけです。まるで本当に親父がいて、天からこれを送っているのだと、思い込むようになりました」
「しかし、手紙が来始めたあたりから、君に変調が起こっている。必ずしも、その通知に肯定的だった訳ではないはずだろう」
「葛藤がありましたよ。これは嘘なのだ、と。誰かが俺をからかっているのだ、と。そうだとしたら、許せないという感情が後ろにありました」
彼が勤務中、頭痛を訴えて休むようになったのは、ずっとそのことばかりで悩んでいたからなのだろう。
「どんどん、君を狂わせていく文章になったんだね。徐々にゆっくりとそう仕掛けていくことで」
「……はい。具体的に言うと、ひどくなったのは一年前ぐらいからですが」
「一年前からね。それぐらい前から変調があっても、手紙についてまだ信じる部分があった。きっと、君はある種の洗脳に掛かっていたのだろう。狂っていく自分に気付いたとき、君はこれは第三者による計略だと理解した。抑えきれない怒りが、お父さんの命日のその日に、献花を捧げにくる人間を物色に向かわせたんだ。その中に、手紙の主がいるに違いない、と君は思っていた」
園田真希菜が運悪く、そこで彼に目撃されることとなる。そうしてあの事件に発展したのだ――
「園田さんの姿を見たとき、君は直感が訴えたと言った。それは、以前から彼女を知っていたということになるわけだが、直截顔を合わせたことはなかったはずだ。接点は現在の所見つかっていない」
「勤務先の事務所に、カレンダーが貼ってあります。信金から送られてきたものです。狭い事務所ですから、いやでもそれに目が入るわけです。彼女の姿をことあるごとに、見ていました」
やはり、カレンダーがきっかけだったのだ。
「彼女が前列の中央に映っている、集合写真だね」
「知っていましたか」
「どこの信金にも、飾ってある。園田は一番目立つ存在だった。君は、何度もそれを見ているうちに、彼女に思いを膨らませていたんじゃないか?」
「恋愛感情はないです。アイドルみたいな感じで見ていたと思いますよ」
「彼女が本店の人間だと、良く分かったね、それにしても」
「撮影場所は、本店だと知っていましたから、立ち位置でだいたい読めますよ。不慣れな位置にはつかないです」
それは彼の観察の結果だろう。それほど、頻繁に写真を見ていたということだ。人相を覚えイメージを膨らませていたその折、脅迫文に追い立てられた結末の果てに彼の目の前に、献花しに来た園田が現れた――
ほのかな幻想がねじれ、その歪みが彼の中の悪意を膨れあがらせた。真希菜が美人であった分、たちの悪い憎悪が黒い渦を巻いた。
献花に向かう彼女を見た時、彼はどれほどの衝撃があったのか。直感が訴えたという言葉を彼は使ったが、充分ではないだろう。電撃というぐらいではなかったのか。
「やっぱり、そうだと思う……」
彼は突然つぶやいた。
「何が、だね?」
「彼女ですよ。脅迫文を送ったのは、やはり彼女しかいないんだ。確信している」
「君に話したはずだ。彼女は天性の優しさを持っている女性だ、と。同じことを、繰り返させるのか?」
「もしちがったら、この俺は、その人にとんでもないことをしたということになる。俺は、そこまで馬鹿じゃない。ちゃんと、確信があって、やったことなんだよ」
真希菜が脅迫文を送った可能性は、ゼロだろう。
彼は自分が愚かなことをしたと、認めたくない自己肯定をしているにすぎない。そうでもしないと、自分が惨めで情けなくなるのかもしれない。
「彼女も合わせて、見ていくことになる。送りつけられた脅迫文は、全部処分してしまったんだね? 隠しているものがあったりとかは?」
僅かな望みに期待したが、黒岩は首を振った。
「あれがあるだけで、気が狂いそうになるんです。ひとつ残らず投げてやりましたよ。それでも、まだ落ち着かなかったですね」
脅迫文を送りつけた主を、探さなければいけない。
彼をゆっくりと籠絡し、自殺に追いやろうとした主。いったい、彼の何が許せなかったのだろうか。
「もし、脅迫文の送り主が、園田ではなかった場合、君はどうするのかね?」
あらかじめ、彼に受け容れる覚悟の余地を作っておく必要がある。これは、布石だ。
「もし……」
彼は戦慄いた。
「いや、そんなこと……」
「園田に言うべきことがあるはずだろう」
瀬藤は彼に威嚇の目を突きつける。彼の妄執をくずし、真に罪を償う感情を植え付けるには、必要なことだった。
「心から、彼女に謝るべきだ。いまだ手術を受けていない彼女は、まだ君に寄り添い続けているのだから――」
人は、なぜ、優しさを発揮できるのだろう。
園田真希菜は、黒岩の復帰を待っている。心から、願っている。彼女を奮い立たせているのは、人を根から愛しているからだ。そして人が持つあらゆる可能性を信じている。
その優しさの源はどこから……?
もし、それが彼女の天性の魅力から放たれたものだとするならば、もう彼女は天上人のような女性だ、そう言っていいだろう。
「今からでも言いますよ」
黒岩は思いつめた顔で言った。
「彼女に、そんなことはしなくてもいい、と。そんなことをしても、俺の乱された気持は癒えない――早いうちに、そう伝えてもらえませんか?」
「彼女の優しさを踏みにじるのか?」
「もう、辛いのです。背負いたくないのです……お願いします。尾を長く引いてもらいたくないのです」
精神がまたもや弱ったようだ。彼は手で顔を覆って、俯した。
このままでは、すべてが駄目な方向に行ってしまいそうだ。
真希菜がやろうとしていることは、彼には通じないようだ。これは結局、独善的なことでしかないのか……?
だとしたら、荒濱の言うとおり、止めるべき事だろう。結局、何の意味も成さないことでしかないのだ。
「後日、脅迫状の中身について、ゆっくりと再現してもらおう。我々には、時間がある。君と付き合う覚悟がある」
黒岩は顔を上げなかった。