ペインレコード1
プロローグ
出入金の管理は、常に一円単位の神経を注ぐ。これは、勤務心得にある、顧客に対して公平で忠実な姿勢に努めるべし、の教えに倣うものである。すなわち、一円のミスをも見逃さない気構えが銀行員として最大の誠意の表明なのだった。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
園田真希菜は、膝上に手をついて折り目正しく頭を下げる。弾んだ声に、弾んだ心。生来人と接することが好きだっただけに、窓口業務という仕事は向いていた。去っていく顧客の背中にも笑顔を降りそそぐことに、何のためらいも感じない。
南陽信用金庫は、静岡県内に十一つの支店を持つ、地方だけに特化した金融会社だ。きめ細やかなサービスを徹底することで大手とは差別化を図っている。無料でコーヒーが配られる待合所はアットホームな雰囲気で、ともすればビジネスライクに陥りやすい行員の声は、親和がこもっていて、年寄りにも優しい。配布するものといえば、見やすさ重視の大文字印刷が中心で、邪な広告やキャッチなどは一切載せたりはしない。
何かと背伸びしない等身大に生きる真希菜には、ぴったりの職場であった。勤続三年目。そのことを、いま肌で分かる程に実感していた。ここは、もうひとつの自分の家のようなところなのだ、と。
ここで頑張ることが、地域貢献にもつながる――
真希菜はそう考えていた。だからこそ自分のすべてを出し切ることにこれといった迷いはなかった。
その時、一人の男が、真希菜の前に立った。
屈託ない笑顔を顔に満たしたのは、ほぼ習慣の成せる業であった。
「いらっしゃいませ――」
ふと、不穏なことに気付いた。
男の様相がおかしいのである。獣じみた荒い息を吐き、射竦めるような眼光を飛ばしている。まるで真希菜に怨みをぶつけてくるようである。近くに立っていた先輩行員も作業の手を休め、その男を注視に掛かっていた。
男が突然言った。
「お前だなぁ? この野郎」
「え」
なぜ、目の前の男に怨みがましく言い立てられているのか、分からなかった。若い男であった。まだ、二十代中盤ぐらいであろう。顔に覚えはなかった。少なくともここ二三ヶ月のあいだに接した顧客の顔はすべて覚えているつもりであった。そのなかに、該当する顔ではない。
「お客様、何か私どもに、粗相がございましたのでしょうか?」
とりあえず、彼の興奮を鎮め、事情を聞いてみる必要がある。
だが立ち上がった真希菜に、男はいっそう剣幕を鋭くするだけであった。
「とぼけるんじゃねえッ!」
男は叫ぶなり、真希菜の顔を引っ掻くように腕を振り回した。手の先に光る物が見えたような気がした。直後、顔に電流のようなほとばしりがあった。生暖かいものがとろりと流れだし、真希菜の身体が傾いた。
顔を両手で押さえたのは、反射的な動きであった。
何?
何が起こったの……?
掌の中に、赤い液体が溜まっていく。溢れだしたものが、制服の裾をくぐって、腕に絡みついていくのが分かった。
建物内は水を打ったように静まり返っている。やがて、女子行員の悲鳴が上がった。真希菜よりも一個下の後輩である、栄美だ。人一倍気の弱い彼女ぐらいしかそんな金切り声をあげる行員はいない。有事が発生した場合、冷静に対処するようマニュアルが作成されているが、彼女はもう忘却の彼方だ。こうなっては台無しも同然だろう。客の一部が入口に駆け込んでいく雑踏が次に響いた。
「真希菜くん、大丈夫かッ?」
係長の阿木が真希菜に取りすがってきた。真希菜の意識はこの時、しっかりとしていた。カウンター台に前屈みになっていた身体をゆっくりと起こしていく。
顔から剥がした手を直視して、卒倒しそうになった。
血。
血だ。
自分の顔から、こんなに大量の血が溢れだして……
薄れゆく意識の最中、カウンターの向こうに、まだ男が立っているのを見た。歯噛みし、真っ赤に充血した目を一心に真希菜に注いでいる。その手には、真希菜の顔を切り裂いた折りたたみ式のナイフが握られている。
阿木は真希菜を支えながらも、その男を睨みつけていた。罵倒したい気持ちを何とか抑えているという具合だ。しかし、マニュアルには相手の男を刺激してはならないという一条があった。それがいまの彼をすんでのところで押さえている。
「これはな……お前が、悪いんだよ……そう、お前が……」
男の声は震えていた。血で黒ずんだナイフを握る手がぶるぶる震える。やたらと思い詰めている様子であった。明らかに理性を失っている。危険だった。また、凶行に走る恐れがある。
男のナイフを握る手がゆっくりと持ち上がっていく。切っ先が、真希菜たちのほうへと向けられる。
怖気が走る。
どくんどくんと心臓が苦しいぐらいに打っていた。いや、真希菜のそれよりもまだ激しく音を鳴らしている心臓が近くにあった。阿木だ。彼もまた、凶刃に掛かることに、恐れをなしているのだった。反面、くるならきてみやがれとばかりに、その顔には強がりが見られる。引くつもりはないようだ。意地だけでも貫き通すつもりだ。
「お前が悪いんだからな……、覚えておくんだな」
男が踵を返し、入口へと駆けだしていくのが分かった。居残っていた客たちを突き飛ばしての、猛然とした突っ走りであった。乱暴にドアが開閉される音。
男がいなくなった。安堵が胸に満ちる。その一方で、顔の痛みが尋常ではなくなっていく。出血がまだ止まらない。白いカウンターがワインボトルをひっくり返したかのように、赤い液体で染まっていた。
元通りにするには、手が掛かりそうだな……。
真希菜は意識が薄れゆく最中そんなどうでもいいことを考えながら、耳元で繰り返し叫ばれる自分の名前を聞いていた。
第一章
1
静岡県警中央署に南陽信用金庫に暴漢が浸入したと入電があったのは、八月十六日のその日の午後二時半過ぎ。事件発生からわずかに二分後のことであった。現場から逃げ出した客のひとりが通報者であった。
通信司令センター主導による緊急配備が敷かれた後、機動捜査隊と救急隊員が現場に派遣された。被害者が病院に搬送された十五分後、瀬藤勲は現場に駆けつけ、機捜の引き継ぎをしている刑事たちと合流した。
「すると、これは強盗犯じゃないということなんだな?」
聴取相手の男の話を要約すると、そういうことになった。阿木浩太。二十七歳。凶刃に掛かった被害者を最後まで守ろうとした男である。ワイシャツの胸元あたりに被害者が流した血の一部がこびり付いて、黒ずんでいる。
「そう……ですね。金銭的な要求はありませんでした」
「何も要求せずに切り掛かってくるというのは、これはおかしなことだ」
薬物中毒者か、精神異常者による犯行という見方もあり得なくはない。だとすれば、車を使って逃げている場合、怪しいハンドル捌きを理由に警ら隊の検問に引っ掛かるだろう。いや、案外平気で、何食わぬ顔で公共の乗り物を使って逃げているかもしれない。実際、男が逃げていった方向は、JR静岡駅のある南方面であった。
「何か、おかしなことを言っていました」
「おかしなこと、というのは?」
「お前が悪いんだ……というようなことを」
「それは、確かですか?」
「はい」
逆恨みだろうか。犯人の凶刃に掛かった被害者の名前は、園田真希菜。二十一歳。高校卒業後、南陽信用金庫に入行して三年目の女子行員。性格は明朗で、今回の事件に巻き込まれたのが気の毒に思われるほど善良で、素直な子だったという。それは、阿木の証言によるものだけではなかった。行員の誰もが口を揃えて言っていることであった。
「今回の目的が彼女ひとりというのならば、話は変わってきますがね。過去に、そういう怨みを買ったりするようなことがあったのかどうか」
阿木は首を振った。そんなことはまずあり得ないといった、強い否定だった。
「誓ってないはずです」
「そう」
その時、瀬藤の携帯電話が鳴った。二係の同僚からであった。彼は病院に搬送された真希菜のほうの安否の確認に向かっていた。瀬藤の指示である。
「そうか……わかった。引き続き、そっちのほう頼む」
情報だけ受けて携帯を切った。
阿木が瀬藤の様子を見ていた。園田の安否の連絡か、犯人確保の連絡のいずれだろうと見なしているにちがいなかった。その目には、強い好奇心があった。
「園田さんの件だ。命に別状はないということだった」
瀬藤はそう伝えた。
そうですか、と阿木が目を伏せた。遠く離れた背後の方で聞き耳を立てていた女子行員がわっと泣くのが分かった。他の年配女性行員が慰め役を買う。
瀬藤は彼女らに聞こえない程度に声をひそめて阿木に言った。
「だが、切られた傷は深い、ということだった。医師の話では、皮下組織にまで達していて、浅い層の静脈を傷つけているということだった。出血がひどかったのはそのためだ。神経さえも傷つけている恐れがあるため、今後、じっくりと検査をしていく必要があるらしい。そのためにも、最低でも一ヶ月の入院が必要とのこと」
阿木は硬直していた。顔を赤くしている。その目は、宙を睨み付けたまま動かない。
瀬藤はそれでようやく彼と園田の関係が分かった。
「おっと、私としたことが、あなたと園田さんの関係について、お訊ねするのを忘れたようだ」
阿木ははっとしたように我に返って、瀬藤をゆっくりと見た。怒りが顔に出ていたことに、少し気後れしているらしい。かさついた唇の先が、小さく震えていた。
聞くまでもない。答えは明らかであった。
「恋人同士ということで、いいね?」
わざと声を大きくして問うた。周囲の視線が阿木に注がれる。実直そうな彼の顔にさらなる硬さが入る。
「はい……その通りです。彼女と僕は、交際していました」
その答えに、周囲の空気がにわかに固まる。誰もが把握していない事実だったのだろう。行内恋愛というべきか。公私混同がタブー視される風潮がどこにでも残る日本では、あまり私事を公にしてはならないという雰囲気がそこはかとなく漂っている。
奥手に座ったままでいる課長である中津の反応が顕著であった。口元を細く尖らせ、阿木の顔を物珍しそうに見入っている。瀬藤の視線に気付くと、わざとらしく目を伏せた。
瀬藤はうつむきがちでいる阿木の肩をぽんと叩き、二人だけで話せる位置に、さり気なく誘導した。
彼の耳元でささやくように、
「関係、話せるところまで教えてもらえるね?」
「……はい」
交際一年のまだ、底の浅い付き合いだということが分かった。真希菜の三ヶ月と長きに亘る新人研修の際、ことあるごとに相談役を買ってでたのがふたりの交際の由縁であった。推するに、肉体関係があるというところまではなく、あくまで健全な付き合いのようだ。先輩後輩の上下関係をちゃんと保っている。
ある程度聴取に目処がついた頃、事務室のほうから同僚の何人かが出てくるのを見た。先頭に立っている男は押収用の小段ボールを顎で示しながら瀬藤に言った。
「瀬藤さん、防犯カメラに男がしっかりと写っていました」
その中には、防犯ビデオが記録した映像が入ったCDーRが入っているのだろう。事件発生から遡って一週間分。もし、そのあいだに犯人が下見をしていたのだとしたら、また話は変わってくる。
「ごくろうさん。さっそく本署に持ち帰って、解析だ。すぐに、割り出そう」
彼はうなずいて取り巻きとともに外に出ていった。
先程から出入りを繰り返していた鑑識班の課員も荷物をまとめて、帰り支度を整えている。あとは、似顔絵作成だけの仕事が残っているだけだ。犯人の人相について記憶の定かな目撃者が選び抜かれた後、じっくりと描きあげられていくはずだ。目撃者が多いだけに、それは正確なものとなるであろう。というのも、証言によれば犯人は捕まらないよう顔を隠すなど身を固める防衛策を採っていないのだった。
いまのところ、強盗犯ではない可能性が濃厚だ。
――お前が悪いんだ……。
園田真希菜に男は執拗にそれを繰り返したという。
怨みがあるとしたら、それはどういう怨みなのか。個人に関することなのかもしれない。そうでなければ、他の誰かも傷ついていたはずだ。
恋愛だ。
彼女には、恋人がいた。
これは、痴情がらみの事件なのかもしれない。瀬藤は、その可能性について考えていた。
2
開かれた捜査会議にて、防犯ビデオからピックアップされた写真が、各々の捜査員に配られる。二十代半ばの若い男。外側に跳ねた髪は野暮ったく、衣服も陰気くさい雰囲気がある。むっつりとした顔貌は、頬がごっそり削げているために、狂犬じみて見える。
瀬藤は写真の中の男をじっと見つめた。そして最初に配布されていた似顔絵のコピーと比較した。
真希菜を終止睨み付けつづけたとする彼のうつろなその目は、孤独の色が重たく沈んでいるように感じられた。この男は、人付き合いが苦手で、実際長い期間疎遠な状態が続いているはずだ。
捜査員の報告が、連綿とつづいていた。
「現在、北東方面に向かって逃げていると思われますが、そちらの道を封じる検問斑からは、まだ連絡がありません。犯人は逃げていく道をあらかじめ確保していたように思えます」
彼はしずしずと腰掛け、手帳を閉じた。会議室内は、いたって落ち着いた雰囲気が拡がっていた。誰もが、これはあっさりと片付くと高を括っているらしい。
「おい瀬藤」
一課長の荒濱が大儀そうに身体をうごめかしながら呼び掛けてくる。瀬藤は顔を上げた。
「はい」
「お前からの報告を頼む」
顎での指示だ。瀬藤はさして気にせずに立ち上がった。
「会議の冒頭で明らかにされましたが、私の方からも重ねて報告します。今回の犯人は、強盗犯ではありませんでした。金銭の要求なし。その時間帯に乗り込んできたのは、その時、入店していた客の数からも三時の閉店間近を狙ったというわけではないようです」
「これは、個人の怨恨関係ということになるのか?」
「被害者園田真希菜は、極めて真面目で淳良な行員であったという証言をいくつも得ています。それだけを考慮すれば、怨まれる筋はありえないでしょう、といいたいところですが、彼女には交際している男性がいました」
ほう、と荒濱をはじめとする幹部席から感嘆が洩れた。
「阿木浩太。二十七歳。南陽信金の行員です。つまり、真希菜の先輩にあたります。交際歴は一年。さほど、深い仲ではないようですが、阿木は生真面目な男です。それぐらいの期間でも結婚間近であったと見なしても、おかしくはないでしょう」
「阿木に確認したのか?」
「はい。しかし結婚の件は、私の憶測になります」
「仮に、その筋で怨まれていたとするならば、真希菜と今回の犯人は通じていたということになるわけだが、お前はそう見なしているのか?」
「その辺は、被害者からの証言を得なければはっきりとしません」
真希菜はいまだ病院の関係者から隔離された状態にある。証言を求めるのは、病状の回復をまって明日以降にもつれ込む見通しとなっている。
「阿木の話によれば、そういう繋がりはないはずだということでした。阿木自身、まったくその男について見覚えがなかったわけですから、少なくとも身の回りにいた人間ではなかったということでしょう。関係があるとすれば、彼女の過去に觝触する人間か、もしくは外には明らかにされていないプライベートに絡む人間ということになりますか」
「なるほど、内の顔」
荒濱は指を組んだ。瀬藤は続けに入った。
「ただ、事件発生時近くにいた行員の証言によれば、真希菜は犯人の男と面識があったとはとても言い難い様子があったということでした」
「それを信用して良いなら、まったくの逆恨みということになるか。一方的に真希菜に懸想を寄せたが、実はそういう男がいると分かって、一気に凶行に走った――あり得ない話ではない」
「その筋でいくと、問題が一つ浮上してくるのです。それとは、真希菜が刺された時の事です。彼女がカウンターでうずくまっているあいだ、男に対峙したのは阿木でした。そのあいだ、男には阿木を攻撃する機会があったはずなのです。しかし、男は攻撃をするどころか、真希菜をずっと睨みつけつづけていたそうです」
「もしその男が交際相手だと知っていたなら、攻撃しない手はないかもしれん。確かに、矛盾があるな」
「続きがあります。犯人は真希菜に対し、こう言っていたそうです。〝お前が悪いんだ〟――と」
荒濱はうねった髪を苛立たしげに掻きむしった。
「奇っ怪な発言だ。意図がまったく見えん」
「犯人に精神耗弱の気がなければ、真希菜を意図的に攻撃していたということだけは確かな発言でしょう」
「やはり、真希菜を狙っての意図的な傷害か」
「結局、そういう見方に落ち着きますね」
「しかし、勤務中にこれをやるだなんて、理解に苦しむ」
荒濱は気難しそうな顔をして唸った。
彼の言うとおりであった。窓口業務の無防備な勤務中に、顔を切りつける。じつに理不尽なやり口だ。相手の事情などまったくお構いなしだ。
しかし、犯人には職場を襲撃することでしか選択肢がなかったという見方をしたらどうだろうか。
瀬藤はその疑問を自分にぶつけた時、はっとする解答を得た。
「もしかしたらそれは、信金で働いている一面の彼女しか知らなかった、ということになるのではないでしょうか」
「となると、仕事絡みの怨みだったということか」
「そうです」
「彼女が務めていたのは窓口業務だ。もし、重大な過失があったとすれば、その男の顔を覚えていないというのは、おかしなことになってくる」
これまた矛盾にぶつかることとなった。これは、根の深い事件なのかもしれなかった。
まあいい、と荒濱は引き取る。
「彼女の事情聴取役。お前に任せる。それで、明らかにしてくれ」
「分かりました。直に、接触を試みたいと思います」
瀬藤は言い、ゆっくりと腰掛けた。
3
園田真希菜が運び込まれた病院は、中央署から一丁進んでいった御幸通りの並びにある。徒歩で向かっても五分もかからないだけに、いつでも取り掛かる事が可能だったが、担当医師と連絡を取ると、まだ面会は無理だということであった。
そのあいだに犯人の身元が特定され、素性が割り出された。
黒岩謙吾 二十五歳。
静岡市から南方に位置する岡部町に住まいを置く、小さな工務店に勤める男であった。経歴に前科などの黒い影はなかった。
瀬藤は、静岡県警から出向してきた蔭山という男と組んで、黒岩の住まいに向かった。しかし当のアパートには黒岩の姿はなかった。
「昨晩から、人がいる気配はなかったように思いますねえ」
そう証言したのは、黒岩にアパートを貸す大家だ。トタン屋根の平屋は二世帯分のドアしかない。それが、三棟横一列に並んでいる。住宅街から外れにあり、裏手は林になっていた。
「事件の話は、聞いていますか?」
蔭山が訊ねる。大家はさも興味なさそうに首を振った。
「まったくです。今回、このような騒ぎになって驚きといったところですわ」
「それで、黒岩という男はどういう男なのでしょう?」
はて、と困ったように彼は頬に手を当てた。臨場が続く、黒岩の部屋を出入りする鑑識班の課員をそれとなく眺める。
「物言わない、何を考えているかよく分からない子でしたわな。自己表現が苦手な現代っ子という感じでいいんじゃないかな」
「彼の交際状況を教えていただきたい」
瀬藤が進み出た。大家の目が、瀬藤に移る。
「そういうのは、ちょっと分からないですね」
「出入りする人間の影をみているのかどうか。中身までは分からなくてけっこうですから」
しばらく彼は思案に暮れたが、結局首を振った。
「やっぱり見ていないですね。プライベートには干渉したくないほうですので……」
「そうですか」
「いや、はっきりと言いますとね、あの子は、そういう部屋に人を連れてぎゃあぎゃあ騒ぐような子じゃなかったと思いますよ。ですから、なかったといっていいんじゃないですか。断定はしませんけれども」
「最後に彼を見たのは?」
「一週間ほど前ぐらいですかね。朝、仕事に出る姿を見ていますよ」
「移動手段は?」
「車です」
「車種を教えていただきたい」
車のことには明るくないと見えて大家は難色を示していた。時間が掛かりそうだと思われたので蔭山に託し、瀬藤は鑑識課員が出入りする傍らで茫然と立ち尽くしている男に寄った。先程までには、姿がなかった男である。
工務店の作業衣をまとっていることから、黒岩の上司だと思われた。被っていた作業帽をくしゃくしゃに握りしめている。
「社長さんですか?」
「そうです」
瀬藤はスーツの懐から名刺を一枚抜きだし、彼に手渡した。
「昨晩信用金庫で事件を起こした人物がこちら。彼に間違いありませんね」
捜査員に配られた防犯ビデオの写真を彼に示す。名刺の上に被せるようにして、彼はそれに見入った。
「間違いありません、あいつです」
「事件は、昨晩の二時半ごろに起こっています。昨日の黒岩さんの出勤状況はどうでしたか、それを教えていただきたい」
「欠勤でした」
「無断ですか?」
「いえ、ちゃんと連絡がありました。なにやら、頭が痛いから病院に行くため休ませて欲しいということでした」
「過去に、そういうことは?」
「何度かありましたよ。いえ、頻繁にあることだといって差し支えないでしょうね。そもそも、勤務態度が真面目というほうではなかったので」
「どれくらいの頻度でお休みになるので?」
「一ヶ月に、一日あるかないかぐらいですが、毎月のように続けば、けっこうなもんですよね?」
一ヶ月に一日。勤勉を美徳にする日本にあって、それは不真面目すぎる勤務態度なのかもしれない。警察官である瀬藤からすれば、考えられないことだ。よく馘首にならないものだと関心さえする。
「あくまで、病欠という形なんですよね?」
「そうです。毎度休みを申し出てくるときは、頭痛という言葉を使ってきます」
「病気している事実は?」
彼は首を捻った。
「よく分かりませんよ、そんなこと。少なくとも、採用する際、提出してきた履歴書にはそういうことは書かれていなかった」
どこか小馬鹿にした調子があった。おそらく、仮病だと分かっているのかもしれない。そして、蔑む理由になっている。すでに会社では笑いの種かもしれない。
「その点について、深く追求しないのはどうしてです?」
彼の顔がやや虚を突かれた具合に、歪んだ。
「社員の健康問題の保証なんて請け負えないですからね、うちのような小さいところでは。勝手に休ませておくしかないんですよ」
のさばらしにするのは、それだけではないはずだ、と瀬藤は思う。会社の経営状況は常態的に左前なのだろう。いつでもそのことを理由に、馘首できるようにしているはずだ。その口実があるならば、一ヶ月一日の欠席は目をつむれる。前にも、似たようなひどい会社を見たことがあった。そこでも傷害事件が起こっていた。
「勤務中、頭痛が襲うというようなことがあったりしましたか?」
瀬藤はさらに切り込みに掛かる。
「何度か、ありましたね。いえ、彼については、珍しいことではなかったというべきか」
「それで?」
「いえ、うちは手作業が中心の仕事ですから、工具を扱うだけに危険ですから、そのたびに外しましたよ……」
「早退という扱いですか?」
いえ、と彼は一度首を振り、
「本人は、そうしたくないということで、少しの休憩で復帰しました」
「休憩中は、どのような感じですかね?」
「外に出て、資材の上にぼんやりと座って過ごしているだけですよ。とくに、何も考えていないという具合ですか」
「他の仲間は彼について、どう思っているのです?」
「またか、といった具合じゃないですか? 事実、うちの会社は黒岩を含め七名の従業員がいますが、この六名は黒岩とは付き合いはないようです。交わす会話と言ったら、たいてい仕事のことだけじゃないでしょうか」
「あなたが仲介すればいいのでは?」
いやいや、と彼は帽子を握ったままの手を振った。
「そういうのを黒岩のほうから拒否しているといった具合があるんですよ。なんと言いますか、人を寄せ付けない目をしているというか……」
写真と似顔絵の黒岩の共通点といえば、光のないうつろな目であった。厭世観を抱え込んだ、人間を否定する眼差し。そういった負の力に満ちているのだった。その印象は、社長の証言で実際正しかったのだと裏打ちされることとなった。
「話を変えます。家族のことについて、聞いてみたいのですが」
割り出した身元照会の書類には、そういった過去の履歴がつづられていなかった。それだけに、この男からその事実を明かす必要があった。
「あいつには、家族はいませんよ」
思いも寄らぬ事を、彼は口にした。
「どういうことです?」
「あいつは、孤児なんですよ。つまり、児童養護施設を出ているというわけです」
「両親に何か、あったのですか?」
「何でも、事故死というらしいですが、詳しいことは分かりません。聞くのは、僕じゃない方が良いでしょう。黒岩は、僕にはそのことについて、語りたくないようなのです」
「そうでしたか。いえ、それだけ聞けば充分です。ありがとうございました」
瀬藤は慇懃に言い、丁重に頭を下げた。
臨場の終わった黒岩の部屋を、蔭山と見て回る。ワンルームは黒ずんだ畳部屋で、全体が古い木の臭いに満ちていた。家具はもらい受け品といった粗末なもので、所々に幼児の悪戯書きと、シールを剥がした痕が残っていた。
優等生といった面影が強い蔭山は机の棚に並べられたノートを一冊ずつ精査していた。まだ明るい時分なのに、磨り硝子から差し込む光は弱く、目が慣れない内はいちいち窓辺に光を求めなければいけなかった。
瀬藤はカラーボックスの上段にあった、小物入れを見る。そこに、病院の薬袋が何枚か押し込められていた。ひとつ取り上げると、中身の入っていたものが、何錠か吐き出され、棚の端に転がった。
説明書があり、そこにはトリアゾラムとあった。第三種向精神薬。わずかに四時間で効能が薄れる超短期型睡眠導入剤。
注目すべきは、そこではない。
この薬を提供した病院だ。静岡県内にある、精神科クリニックの名前が紙袋に刷られていた。
「黒岩は、精神疾患に罹っていたようですね」
いつの間にか蔭山が後ろに立っていた。
「そのようだな」
「となりますと、精神異常行為ということになりましょうか?」
被疑者に精神障害が認められた場合、検察官の要請により精神鑑定が行われる。心神喪失か、耗弱と認められた場合、法律によって保護の対象となる。措置入院か、強制入院の処置が待っているが、どちらも牢に閉じ込められるのと同じ程度に、監視生活を強いられる。
「まだ、それが確定したわけではないが、そういう可能性も出てきたということだ」
瀬藤は携帯電話を取り上げ、その中身を捜査本部に告げた。同時に、黒岩の戸籍謄本を取り寄せるよう、要求した。相手方からの情報は、園田真希菜の実家の住所が岡部町になっているというものであった。携帯をしまった後、瀬藤は蔭山にそのことを説明した。
「それでは、接点が明らかになったということでは?」
「被害者と、加害者が同じ町に住んでいたというのは、偶然ではない。必ず、どこかで接点があるはずだろう。だが、しいていえば、真希菜の実家はここからかなり離れているという点を見過ごしてはならない。つまり、簡単に結びつけるのは安易に過ぎるということだ」
真希菜の実家と、黒岩の住まいはそれぞれ東西に別れた場末に位置している。概算してその距離は、十キロは離れている。
「実家の方を訪問することになるのでしょうか?」
瀬藤は首を振った。
「そっちは、別の課員にやってもらおう。私らは、その前に行くところがある」
蔭山は手に持っていた薬袋を持ち上げる。
「クリニックですか」
「そっちも、係長に頼んで別の課員をあてる。私らが向かうのは、彼が育った児童養護施設だよ」
なるほど、と蔭山は独りごちてから言った。
「病持ちだったのは、彼の過去と関係があるのでしょうか?」
「それも、確かめなければはっきりしないことだが、私はあると見ている。いや、これは黒岩の過去が歪んだ形で外に出た事件だろう」
「彼の過去はいったいどういうものだったのでしょう」
「きっと、ここに過去を示す何かしらのものが残っているはずだ。もう少し、丹念に調べていこうか?」
「そうですね」
二人は、捜査を再開した。
瀬藤は特に、黒岩が使っていた机の中身に注目した。給与明細をクリップで束ねたものから、車を修理した際の明細書などが出てきた。おかしなことに、外部の人間と交流があったと認められる品はひとつも挙がらなかった。
「いつも、一人で過ごしていた男なんでしょうかね?」
またひとつ束ねられていた用紙を精査しながら、蔭山は言う。
「みたいだな」
「年賀状の一枚ぐらいは、あってもいいはずなんですが」
「捨てているかもしれん。明細書の類は取っておくが、そういうのは捨てるといった男を私は知っている」
ふと、自分で口にした捨てるという言葉に、瀬藤は引っ掛かった。
ゴミ箱だ、と思って机の足場に置かれてあったそれを漁ったが、特にこれといったものは認められなかった。
その時、ゴミ箱が置かれたさらなる奥の方に、黒い影があるのを見た。卓球の球程度の大きさだ。瀬藤は気になって、それに目を凝らすが、部屋の中はただでさえ暗いので、影が何であるかは顔を近づけてもはっきりとすることはなかった。
「どうしたのです?」
「おい、蔭山くん。あそこにあるもの、拾ってもらえないか。身体が細い君なら、きっと取れる」
蔭山は瀬藤が指差したほうを、覗き込む。そして影を認める。四つん這いになって、机の奥へともぐっていった。畳に顔をこすりつけながら手を伸ばし、何とか手に取った。それは、くしゃくしゃにされた紙切れであった。
「なんだ、それは?」
さあ、と蔭山は首を傾げる。顎で示すと、ゆっくりと開いていった。
二人は用紙の中身を見る。
印字された文字が用紙いっぱいに書き殴られた赤インキで読めなくなっている。その中央は、大きく破れて損失していた。
「なんて書いてあったのでしょう?」
生き残った印字の断片を拾い上げても、文章は完成しなかった。形式に並べられた文章であったことだけは読み取れたが、重要書類というようなものでもなさそうだ。それだけに、何が書かれてあったのか気になってならない。
「きっと、これが理由で発狂したのは間違いないだろう」
「それでは、これは証拠品に?」
瀬藤はうなずいた。
「持っていった方が良いだろう。押収袋に収めておけ」
ポケットから透明の袋を取りだし、蔭山は丁重に用紙をその中に収める。封をした後、ビニール越しにそれを眺めた。
「大部分が損失しているので、解析は不能でしょうね。破れた箇所を探しましょうか?」
「無駄だろう。見つからないと思う」
「なぜ、そう最初から匙を投げるのです?」
「机の上を見てみろ。そういう乱れが認められない。辺りを見てみても、そういう滓が落ちているわけでもない。この用紙はおそらく他にも何枚かきていて、人に見られたくないものだから、早々に処分しているはずなんだ」
「そのうちの一枚が、机の後ろに転がってしまった、と」
「そういうことだ」
「人に見られたくないから処分したというのは分かりますが、黒岩はそもそも人と交流が少ない人間だったので、この部屋に人がやってくるという心配がなかったのでは?」
「黒岩はこの部屋から出たきり、一夜明けた今日まで帰ってきたという気配がない。つまり、彼が家を出た瞬間、もう戻らないと覚悟を決めていたに他ならない。それは、例の事件が計画的だったということを示唆している。準備を整えた上での、逃走――。おそらく、用紙のすべてを処分したのは、私らがここにくるだろうことを見込んでのことだろう」
蔭山はこくりと喉を鳴らした。それから、ビニールに収めた用紙をもう一度見やる。
「かなり用意周到ですね。確かに、文字が判読できなくなるほどインキを塗りつぶしているというのは、意図的です。これは、もう立派な証拠隠滅でしょう。そうなると、精神障害があったとはほど遠いということになりましょうか」
「とりあえず、他にも残っていないか、確認していこう」
「はい」
二人は、破られた用紙の欠片をうの目たかの目で探し求めて回った。二時間あまり奮闘を続けたが、結局徒労となった。
黒岩の証拠隠滅は、一枚の用紙だけを残して後は手抜かりなく進められたようであった。
4
中央署に帰ってくる頃には、夜の帳が下りていた。
蛍光灯に照らされる室内の下、それぞれの課員が持ち込んできた報告がなされる。依然、黒岩は逃走を続け、その姿をくらましている。会見席を設け、黒岩の顔を世間に公表し、公開捜査に入ったが、有効な目撃情報は得られず、膠着が続いている。
「おい、瀬藤」
荒濱の呼び出しは、いつもにまして荒々しかった。檄を飛ばしても進展がみられないことに、苛立ち始めているのだ。
「なんでしょう」
「なんでしょうじゃない。園田はどうした?」
「病院が面会を許可してくれません。明日に延期になっております」
「だったら、黒岩の方の捜査は、しっかりとやってくれたんだな」
「はい」
瀬藤は立ち上がり、手帳を開いて今日の分の収穫を報告していった。黒岩の勤め先、翳りのある過去、精神科に掛かっていた事実、交友関係。さらには、検分した部屋の様子など、滞りなく伝えていった。
そして荒濱から、ひとまず静岡県内のクリニックに課員を派遣する約束を取り付けた。
「それと、収穫……ということだったが、提出してきたこれはなんだ?」
荒濱はビニールに収められた用紙を取り上げる。亀裂上に折れ目がついた一枚の藁半紙。中央は赤インキが書き殴られた上、大きく穴が空いている。堂々と提出するような証拠品ではなかったかもしれない、と瀬藤はその様をあらためて見てそう思った。
「黒岩の部屋の隅に落ちていたものです。処分し損ねた、今回の事件にまつわる一品です」
「処分し損ねた、というのは?」
「それと同じようなものが、何枚か黒岩に送りつけられた可能性があるということです。彼はそれを処分した後に、部屋を出ています」
「これは、いったい何なのだ?」
荒濱は目を瞬かせつつ、欠損著しい用紙を眺める。
「自分にも分かりません。事件と繋がる、何かであることは確かでしょう」
「黒岩を刺激する挑発文みたいなものか?」
「その可能性もありましょう」
議場内が、かすかにざわついた。おかしなものを持ち込んできやがったと、陰口を叩いているのだろう。荒濱はその流れに汲む顔つきをしていた。
「こんなもの、解析斑に回してもどうにもならないぞ。状態がひどすぎる。担当の人間を困らせるだけだ」
「それが黒岩の元にあったということが重要なのです。のちのち意味を持ってくる証拠品となることでしょう」
「かりに、これが元で黒岩の激憤が駆り立てられたというのならば、見過ごせない事実ではある。保管は約束しよう。問題は、誰がそれを黒岩に送りつけたのかということになるか」
「それが収められてあったであろう封書などは、部屋には確認できませんでした。すべてを処分したのだと思われます」
「送り主を知られたくなかったのか、それともそれが部屋にあることが許せなかったのか、どっちだ」
「自分は後者ではないか、と」
「普通に考えて、前者だがな。お前は、どうして後者だと?」
「その用紙を見て分かります通り、尋常ではない負の力が叩きつけられています。これは、証拠隠滅行為という範疇を超えていると自分は考えます。内容は、かなり黒岩の精神を翻弄し、侮辱するものだったのでしょう。処分するだけなら簡単で、ある程度破って、ゴミに投げるだけで済むはずでしょう」
さらに瀬藤は黒岩が精神クリニックに掛かっていた事実を再度取り上げて、処分する際、錯乱状態に陥ったのではないか、と自分の見解を語っていった。ゴミ箱から逸れて一枚の紙屑が机の奥手に転がっていったのは、そのためだという見方だ。
「お前の話を聞いていると、ますますこれが何だったのか、気になってならなくなってきた」
「自分も、同じ気分です」
「冷静に考えれば、処分後に凶行に走ったことを考えれば、今回の事件の被害者が、それを送りつけたという見方ができる」
園田真希菜と、黒岩の関係――
「いまのところ彼女と黒岩の接点は、確認できていません。彼女の実家が岡部町にあるということでしたが、黒岩のアパートからはかなり離れています」
「園田の実家にも、聴取を掛ける必要があろう」
「私らではない、課員にお願いできますか」
言いつけられるその前に、瀬藤は先手を打った。
「真希菜のほうに、集中したいということか?」
「はい」
思案に暮れたのはわずかに数拍だった。荒濱は承諾し、別の斑にこれを申し付けた。
荒濱の視線が瀬藤に帰ってきた。
「明朝、一番で出ろ。医師に拒絶されても、食い下がるんだ」
それだけ、真希菜の証言に期待しているということだ。事態が進展しないことほど、指揮官にとって腹立たしいことはない。現状打破。いまや真希菜は充分、それに応えてくれるだけの存在となっている。
「分かりました、朝一番に真希菜に接触したいと思います」
5
荒濱の言いつけ通り、朝一番に瀬藤は病院に駆けつけた。担当医師が不在だっただけに出足から待ち惚けを食うはめとなった。が、これは想定内の話であった。
二十分後、大儀そうな面持ちで担当医が現れた。蔭山が彼と話し込み、面会を取り付けるに至った。
真希菜はあえて消毒をしない湿潤療法で顔を縫った後、包帯で顔を覆い尽くした状態で安静している。バイタルサインは比較的安定しているが、精神の凋落がひどいということであった。額から鼻を抜けて、右頬までざっくり切り裂かれたのだ。それは当然であろう。顔は、女性の命である。
だが、そのことと捜査は別に考えなければいけなかった。瀬藤は心を鬼にして、面会に臨んだ。
必要なもの以外はすべて排除された空疎な個室。そこに、真希菜はぼんやりと気味に横たわっていた。
感情の抜けきった目を見ると、さすがに瀬藤も胸が掻きむしられる気分に陥った。
「気分はどうですかね?」
努めて落ち着いた声で言った。変に相手を気遣っても、うっとうしいだけだ。
「普通です」
応えたその声は、意外と力強かった。瀬藤はベッドの傍に立った。蔭山は横手に並ばない。二人の男が並ぶと、さすがに圧迫感を与えてしまう。彼の配慮は正しかった。
「事件のこと、語れますかね?」
ちら、とレースの掛かった窓辺を気に掛け、
「少しだけなら……」
と、余所事のように彼女は応えた。付き添いの医師が、眉を険しそうに寄せあげている。
「あなたに襲い掛かった男が特定されました」
おもむろに真希菜が瀬藤に振り返る。だが、口は開かない。恐怖や好奇心は、皆無であった。
瀬藤は一枚の写真を取りだし、彼女に突き出した。
「君に危害を加えた男だ。身に覚えは?」
真希菜の目がじっと黒岩を見つめる。硝子細工のように精緻な眼は、光を失っていても美しさのほどが伝わってくる造りをしていた。この目から、慈愛の力が南陽信金にやってくる顧客に対し、分け隔て無く注がれていたのだ。
真希菜は首を振った。
「まったく、知らないお方です」
「ずっと過去を遡ってみて下さい。あなたが物心ついた時まで含みます。それでも、この男は知らないと言えますか?」
「はい」
「あなたの知り合いではなくてもけっこうです。回りに、彼と似たような人間がいなかったのかどうか」
「それもありません」
言葉を切ってから、彼女は軽く唇を舐めた。
「私は、記憶力がいいほうですから。人の顔は、一度見たら、ずっと覚えています」
窓口業務についていたことについて、ある種の誇りを持っているにちがいなかった。一度きた客は、忘れない。まして接した客は、生涯の付き合いだと親身に臨む。時には、家族のように扱いさえするかもしれない。
瀬藤は写真をポケットにしまった。
「あなたは、最近、人に怨みがましいことを言いつけられたようなことがありますか。それをされるにいたる、思い当たる節がありますか?」
真希菜は枕の上でゆっくりとかぶりを振った。
「まったく、ありません」
「本当に?」
「はい、まったく」
きっぱりとした口調だった。
彼女は自分で言った。
黒岩とつながりはない、と――。
それが正しいのならば、例の奇文書を黒岩に送りつけたのは、彼女ではないということでもある。
「それでは、質問を変えましょう。あなたの実家は岡部町ですね?」
「はい」
「実家にたびたび帰られるんでしょうか?」
「時々……帰ります。車で行けば、すぐですから。母が、喜んで夕食を用意してくれるんです。ですから、私も甘えて……帰ってしまうのです」
「時々というのは、どれくらいの頻度で?」
「多い日は、一週間に二日。少ない日は、三週間ぶりにとか、まちまちです」
「最近帰ったのは、いつです?」
「三日前です」
事件発生の二日前ということだ。これは、近い数字だとみていいのだろうか。黒岩は自宅を飛び出すその前に、部屋の中にあったであろう文書を処分するなど、下準備をしていた可能性があった。二日間をそのことに費やしていたとするなら、一応ブランクは説明がつくことになるのだった。
「その時、おかしな車がついてきたりとかありましたか?」
「それは、分かりません。まったく、意識していませんでしたので」
「些細なことでもけっこうですよ」
蔭山がフォローに掛かる。
しかし、真希菜の弱々しい表情は変わることはなかった。
「すいませんが……」
「覚えていないのでしたら、深くは追求しません。それでけっこうですよ。あと、ひとつ聞いてみたいんですがね、職場のことですよ。あなたに対し、特に攻撃的な人間がいるとかそういうことはありませんか?」
まったくおかしな質問だという具合に、真希菜は首を振った。
「その逆はあるんじゃないでしょうかね?」
瀬藤は調子を上げて言った。
「逆、といいますと」
「あなたに好意的な人ということです」
瀬藤の意図が読めたらしく、真希菜は目を伏せた。会社内では公表していなかった事実だけに、彼女自身もそれは大っぴらにしたくないことのはずだった。
「阿木さんと、交際をなされていますね?」
「はい……」
否定するつもりはないようだ。恥じらいは目元にあったが、やがてそれは消え、無表情にすり替わっていった。自分の負った傷のことでも思い過ぎり、暗い思想に駆られたのかもしれない。
傷つけられた顔。
結婚前の夢見る女性がおった運命はあまりにも重苦しく残酷だ。彼女が思い詰めるあまり、自殺行為に走ったとしても、それはおかしなことではない。
「彼との馴れ初めをおしえていただけますか?」
「あの……、そのことが事件と関係があるのでしょうか?」
「心配なさらずに。黒岩という男は、あなたの知らない外側にいる男だということがはっきりとしています。それだけに、あなたに関するあらゆる事を知る必要があるというだけのことです」
「そうですか」
真希菜は胸を撫で下ろす仕種をする。
それから訥々とながら身の上話を口にしていった。新人研修中、彼等は接近した。しかしその時の会話はほとんど仕事の内容ばかりであった。とはいえ真希菜はそのことを愉しんでいた。接客業の基本から、社会人としてのマナー、会社の決算表の見方、金融業員として必須の模造紙幣を使用した算用術など、多岐にわたる技術を学んだ。
「阿木さんは、丁寧に教えてくれましたので、頼れる先輩だったのです」
「その時から阿木は、あなたに思慕を寄せていたのかもしれませんな」
「いえ、それはないです。彼からそういう申し込みがあったのは、もっとずっと後ですから……」
真希菜が南陽信金に入行したのは、三年前だ。阿木の証言によれば、交際が始まったのは、僅かに一年前なのだから、新人研修が終わってから二年ほどのブランクがある。そのあいだ、ずっと先輩後輩の悶々とした関係が続いていたにちがいない。
「事件当時の阿木の様子を、私らは押さえています。危機に瀕しているにもかかわらず、あなたの傍に立ち、黒岩に面と向かっていったようですね。凶器を持った人間を前にして、身をていしていけるのは、あなたを守らなければいけないという強い感情があったからです」
真希菜を勇気づけるためにその言葉を選んでいたが、予想に反して彼女はうつむいていた。
ごめんなさい、と彼女が力なくつぶやく。
受け付けない言葉だったようだ。
「思い出すのが、まだつらかったようだね」
瀬藤は内心で反省した。
「整理がついていないのは、事実です。でも、ゆっくりとそのことは自分の中で認識していきたいと思っています。阿木さんには、感謝をしていますから」
彼女は両腕を布団からそっとだしたと思うと、掌を感傷的に眺めだした。握ったり開いたりをゆっくり繰り返す。
やがてその手は、頭にイメージを描きながら、何かしらの挙動をみせはじめた。
「私の手は、とても不器用なのです」
彼女は言った。手の動きはまだつづいている。左手は扇を抱えるような仕種。右手は中指と人差し指、そして親指を箏を弾くような手つきで、それぞれ擦り合わせる指を変えていきながら左手の扇を移動していく。
「それは、紙幣の数え方だね?」
彼女の手の動きが止まった。
「分かりますか?」
「行員の専売特許だ。その手つきは、いかにもって感じだったよ」
「これには、二種類あるんです。タテ数え、ヨコ数えの二種類です。二回数えて、ちゃんと符合しているかを見るわけです。私、これがすごく苦手だったんです。研修を受けるまで、ずっとまともにお金を数えたことがなくて、その分、この技術を覚えるまで大変苦労しました」
「阿木が、丁寧に教えてくれたというのは、それだったんだね」
「はい」
包帯の下の口元にくすりとした笑みが浮かぶ。
「できないことが悔しくて何度も練習を繰り返しました。それでも、数が合わなかったり、もたついたりしてしまうんです。訓練用の模造紙幣は持ち出し禁止です。ですから、自宅で新聞紙を切って練習したりしました。でも、指ってデリケートな感覚でできているんですね。本番になると、やっぱり駄目になってしまうんです」
阿木の監視の下で練習を繰り返す彼女の模様が目に浮かぶ。真希菜は頑張り屋さんだ。懸命に苦手を克服しようとする彼女を、阿木は微笑ましい思いで見ていたはずだろう。それが、いつしか懸想の念にすり替わっていった。そういうことに違いない。
「最終的に、それを取得するのに、どれぐらい掛かったのでしょう?」
「一応、研修期間内にできるようになりました。でも、気分的にできると思えるようになったのは、半年以上経った頃です」
いつしか、その手つきが癖になってしまったらしい。彼女はまた紙幣を数える動きを見せ始めた。一種の職業病だろう。
行員として勤勉に努める意思が表出した結果とも受け取れる。真面目な気質の人間にありがちな傾向だ。
そんな彼女を黒岩は傷をつけ、どん底に突き落とした。そうしなければいけなかった理由とは何だったのだろうか。
精神障害による異常行動だったのか、それとも彼女の恵まれた境遇をねたんでの凶行だったのか。
ますます分からなくなってきた。
瀬藤は手帳を閉じ、懐にそっとしまい入れた。
6
黒岩が入っていた児童養護施設は、静岡市から大きく南に下っていった浜松市にあった。遠州灘が見渡せる丘の上にいくつかの木立と共にぽつんと立つその建物は決して寂しげではなく、海風に立ち向かっていくような堂々たる振る舞いを見せているかのようであった。
施設長の高梨は、優しさと厳しさの両方を併せ持った、七十がらみの老婆であった。瀬藤たちの来意を知ると、子供たちの騒ぎ声がひっきりなしに聞こえる、手狭な応接室に請じ入れられた。
「あの子が……そんな事件を」
高梨は声を震わせ、しばらく物思いに耽る。会話を中断させるわけにはいかなかった。彼女が黙っているあいだに、蔭山に指示してこれまでのあらましを淀みなく、ほぼ一方的に聞かせていく。
「両親のこと、お聞かせ願えますか?」
瀬藤が問うと、
「はい……」
と、彼女は顔を上げた。目に力を込め、活力を顔に満たす。涙を堪える仕種でもあったはずだ。
「あの子の父親は、不幸にも事故に遭われたのです。それが不幸の始まりだったのでしょう。死を受け容れられなかった母親も後を追うようにして病死されました。死因は、脳梗塞だったと思いますが、つまるところ気病をこじらせて、その結果になったはずでしょう。うちにあの子が連れ去られてきたときには、そういう説明を受けました」
「その父親の事故死というのは?」
「なんでも、勤務中に亡くなられたということでしたが、詳しい話は聞いてないのですよ。というのも、ここにやって来る子供たちに対して偏見を持ちたくないからです。この施設では、あらゆる子供たちに対し、平等に接することが私の信条なのです」
「なるほど、でしたら、その辺りの事情も詳しくない、と。一応、黒岩の戸籍謄本をこちらで押さえています。が、どうにも不透明な部分が多く、はっきりとしないのです。謄本だけの情報で言えば、彼は養子に入っているということになっていましたが?」
「そうなりますね。黒岩家の養子です」
「そのあたり、詳しくお願いできますか?」
「両親の死後、謙吾を巡って、誰が引き取るかという話し合いが遺族のあいだで行われたようです。結局まとまらず、あの子はうちのところにやってきたというわけなんです。その時、あの子はまだ小学生で、十歳だったと思います」
子供たちの屈託ないはしゃぎ声はまだ続いている。彼等のいずれもに黒岩と同じような暗い境遇があるのだと思うと、何とも言えない気持ちに駆られる。
「そのまま、うちに二年ほど過ごしたのですが、その後、突然引き取りたいと名乗る家族が現れたのです」
「それが、いまの彼の書類上の両親ですね?」
「そうです、謙吾の亡くなった母親の姉に当たる夫婦です。父親の方の遺族が引き取らないことを受けて、彼等が引き取りたいと申し出たわけです。とはいえ、子供がすでに二人いる家庭でして、必ずしもそこに引き取られていくことが好条件だったとは言い難い申し出でした」
「それでも、仲介役の児童相談所は承諾されたのですね」
「はい。まあ、施設にいるよりはましでしょうということになったのです。ここでは、支援できる範囲は限られますから。施設には支援対象条件というのがありまして、十八歳未満の学生でなければいけないんです。つまり、義務教育を終えた後、高校にいかないということになると、資格を失ってしまうのです。資格を失った子は、どうなると思います? 強制退去しかないんですよ」
過去にそういう不遇な目に遭った子がこの施設から出たことがあったのだろう。彼女の眉間には気の毒になるほどに皺が寄せ集まっていた。
我が子のように育てた子が、強制退去。それほど、ひどい仕打ちはないのかもしれない。施設は公的機関から支援を受けている見返りに、常に制約に苦しめられている現状があるようだ。
「黒岩は引き取られた後、どうなったのです」
ああ、そうですねと、高梨はのんびりと返した。
「岐阜にあります、黒岩の家に彼は連れて行かれましたよ。まだ、十二歳のみぎりですから、あの子はとても悲しんだものです。施設の仲間はおろか、学校の友達とも離れなければいけませんでしたから、それは当然だったでしょうよ」
「それからはずっと、黒岩の家で?」
「いいえ」
と、高梨は首を振った。その顔つきはやや硬さがあった。
「うちのほうに、帰ってきたのです。引き取られてから、わずかに二年後のことですよ」
「それは、なぜ?」
彼女は証言したくないとばかりに、ひどく曇った表情で首を振った。
「のちのち調べられることになりますから、是非にあなたの口から話してもらいたく思います」
蔭山が身を乗り出して言った。高梨はしばらく首を垂れていたが、言わなければいけないと覚悟したらしく、うなずきをみせた。
「謙吾は、向こうで非行を繰り返した挙げ句、家を飛び出したのです。謙吾としては出てやったという形になるのでしょうか……」
「どういうことなのです?」
瀬藤が前のめりになって問う。
「言ってしまえば、向こうの家族と反りが合わなかったようです。あの子にしてみれば、両親の死後二年目に引き取りを名乗り出たその遅れが気にくわなかったのでしょう。歓迎されていないとでも受け止めていたに違いありません。諍いを起こす度にこの施設に戻ってくるようになり、とうとう向こうも諦めて、こちらに預けるという選択を採らざるを得なくなったようです」
「それでも二年間は、向こうにいたことになるわけですが、そのあいだに、こちらに帰ってきた回数は?」
彼女はため息をついて、
「もう、分かりませんね。最低でも十回は帰ってきたんじゃないでしょうか。最後に帰ってきた日のことを、覚えていますよ。ひどく興奮していて、向こうと罵り合いにまでなったと口にしていましたっけ」
「帰ってきた彼に、あなたはどうしたのです?」
「まさか、突き返すわけにはいかないでしょう。一晩ぐらいなら、泊める余裕はあります。時間を掛けて、あの子に付き添いましたよ。最終的には向こうに落ち着くよう説得をしました。でも、納得いかなさそうに、あの子は黙り込むのです」
環境が合わない家庭に肩身せまい思いをして過ごすことのストレスというのは、どれほどのものなのだろうか。まして、その時の彼は普通の子なら反抗期に差し掛かる、精神的な面でも不安定な時期なのだった。
これは、当人にしか分からない苦しみというやつだろう。
「結局、彼が施設に戻ってくるきっかけとなったのは?」
「自分で、そうしたいと向こうの家に訴えたそうですよ。向こうの親御さんは、私に会いに来たとき、妙に沈んでいましたね。かなり自分たちの不甲斐なさを呪っていたに違いありません。引き取る際は、意気込んでいらっしゃいましたからね……」
「施設にもどったのはいいんですが、彼は今も養子のままである……というのは、これはどういうことです?」
「そこが、複雑なところでして……」
彼女は気を滅入らせた顔つきになって言った。
「ご指摘の通り、離縁届はだしていないんですよ。児童相談所と相談した結果、そういう形を取らないで、一時的に預かる――という結論をだしたのです。彼の希望だけを満たしてやる形で当面の所やっていこう、と――」
「それでは、両親は彼を手放したくないと思っていたんですね?」
「そうだったみたいです。でも、関係は破綻していて、どうにもならなかったようです。普通、施設に子供を預けるというのは、審査が必要なんです。黒岩の両親に養育環境に問題がなければ、これは認められません」
「通ったのは、これまでの経緯を考慮して、ということだったのでは? それに、やむを得ず離縁なんてことになると、孤児に逆戻りですよ。結局、施設に戻らなければいけなくなる。猶予期間というのは、関係修復を期待してのことだったと思います」
「おっしゃられるとおりです。児童相談所もかなり頭を悩めた結果の、その処置だったようです」
「しかし、皮肉なものですね。結局、黒岩は家に帰ることはなかった。……そうですね?」
彼女はうなずいた。
「あの子は、こちらに戻ってから、ずっとここにいるつもりのようでした。かなり勉強が遅れていましたが、高校には何とか執念で入ってくれました。よっぽど、帰りたくなかったのでしょう。そして、満期まで留まり、就職してうちから出て行ったのです」
児童相談所の期待は破れ、見込み違いな結果で終わったということだ。瀬藤としても、この事案は難しかっただろうと思う。だが、一度居心地の良さを覚えたその場所に帰り、巣立っていった黒岩のことを思えば、この結果で良かったはずだとも思う。
「親御さんとは、その後どうなっているんでしょうか?」
彼女はため息を軽くついた。
「会っていないようですよ。自分の意思で飛び出したきり、あの子の拒絶はずっとつづきました。こちらに、親御さんが訪ねてきても、ずっと迷惑そうに突き返していました。相談所の人との仲介も経て、経過をみていたんですが、無駄でした。
二人きりになったその時、もう来るなとでも、きついことを言ったのでしょう。ある日を境に、向こうも諦めたように来なくなりました」
「いまも、疎遠……なのでしょうかね?」
「だと思いますよ。というより、最近、あの子はこちらにも帰ってきていませんねえ」
おや、と瀬藤は思った。
ここが好きで帰ってきたならば、頻繁に帰ってきても良いはずだろう。
「最近帰ってきたのは、いつでしょう?」
「半年ぐらい前でしょうか。その時、会社からでた資材の欠片を集めて、ホームセンターで買った金具と組み合わせて、机を作ってくれたんですよ」
あれがそうです、と彼女は応接室につながる、広間の壁に立て掛けられている家具を指差す。足が折りたたみ式の一畳サイズの机。食事の際、使用するものなのだろう。変形木材をプレス機で繋げ合わせ、加工した、市場ではまず見られない手作り感のある仕様。サクラ材に、ヒノキに、ウォールナットの色違いの組み合わせが面白い。子供たちには喜ばれただろう。
「触って良いですかね」
瀬藤が立ち上がって言った。
「ええ、どうぞ」
机に向かい、表面を撫でる。使用感がすでにあったが、できたての感触はまだ表面に残っていた。触れるほどに職人の息づかいが感じられる。さぞや時間を掛けて研磨をつづけたことだろう。その優しい感触がこの机には残っている。
黒岩は、必ずしも悪人ではない。
瀬藤は肌触りを感じながらそう思った。彼がこれを作り上げたのは、子供たちを思いやる気持があったからだろう。あるいは、恵まれなかった自分の幼少期を慰める目的もあっただろうか。いずれにせよ、彼には人を思いやる心が人並みに、あるいはそれ以上にあるはずだった。
瀬藤は満足したところで、席に戻った。
「どうです? 謙吾の作品は?」
「けっこうなものです。良い職人ですよ、彼は」
「私は、思うのです」
高梨は内にこもって言った。口元に悔しそうな色が感じられる。
「あの子が、そんな事件を起こしたのは、何かの間違いだ、と」
それは、親心も混じった発言だ。残酷なことをいえば、黒岩が事件を起こしたことは事実だ。妙齢の女性の顔を傷つけ、将来を暗いものに貶めた。その罪は、許されない。彼女としては、信じたくない事実のはずだ。しかしここでは、そのことは追求しない方が良いだろう。
「私も、間違いだと信じたいです。気になるのは、黒岩の今の両親でしょうか。養子のつながりを残したまま、放ったからしにしているというのは、どうにも納得できません」
「私は以後、黒岩さんが、あの子と連絡のやり取りをかわしていないとは思っていません。何かしらの、接触があると思いますよ。会うことはなくても、手紙くらいは……送っていたでしょうよ? 実際、うちのほうにもお詫びと感謝の手紙が何度もきています。黒岩のご婦人は、そういう筆まめなお方なんです」
瀬藤はここで、黒岩の自宅から押収された謎めいた破れ紙を思いだした。あの紙切れが、黒岩の両親からの手紙だったとしたら……?
充分あり得る話だ、と思った。
「すみませんが、高梨さんからはどうでしょう? 黒岩……謙吾に手紙を送ったとかそういう事実はありますか?」
蔭山のその問いは、やや興奮が入っていた。
「私ですか? 手紙は……ないですけれど、年賀状ぐらいなら、あります」
黒岩の部屋からは、その類のものはなくなっていた。つまり、処分されていたのだ。交友関係がなかったのではなく、黒岩が意図的にそれを消したということが、これではっきりと明らかになった。
瀬藤は蔭山と目を合わせ、うなずきあった。二人は立ち上がった。
7
黒岩の逃走はまだつづいている。
追跡斑が、荒濱にたっぷりと絞られたところで、ここぞとばかりに他の捜査員が自分たちの成果報告を読み上げていった。真希菜の実家訪問で、彼女が三日前に家に帰っていた事実が確かめられ、黒岩が静岡市内の心療内科がある、クリニックに掛かっていることが確かめられた。しかし後者にはまだ続きがあった。
「黒岩がクリニックに掛かっていたのは、慢性的な不眠症からです。ずいぶんと以前から悩まされていた持病のようで、市内のクリニックにまで相談しにきて以来、薬をもらいに通い詰めているということでした」
「おかしい」
と、荒濱が突っぱねるように言う。
「あいつには、精神病の気があったんじゃなかったのか?」
「医師からは、そのような事実は語られませんでした」
「つまり、精神異常の気はない、と」
「はい」
「そうなると、刑事事件として立件を目指せる。黒岩は、自分の意思で真希菜に傷害行為を加えた、ということだ。間違いないな」
「はい」
捜査員が座るのを見て、荒濱の目が瀬藤に寄越された。
「おい、お前、黒岩の勤務態度について、報告に挙げていたよな?」
「はい。頭痛を理由に、たびたび休んでいるという報告を工務店の社長から聞きつけています」
「今回、その気がなかったというのなら、その頭痛も、仮病だったということになるんじゃないのか?」
「どうでしょう。不眠症が、鬱病の小さな症状だというのでしたら、頭痛もまたその流れを汲むものという見方ができますが」
一度座った捜査員が立ち上がって言った。
「実は、頭痛のことについても医者のほうに、伝えました」
「ほう、それで?」
荒濱が催促に掛かった。
「やはり、そちらの相談はなかったそうです。あくまで、クリニックには不眠症を治すために掛かっていたということでした。鬱病と、頭痛の関係なんですが、これは実際、繋がりがある場合もあるということです。脳の検査を掛けても、異状がまったくないのですが、緊張型頭痛に似た症状が慢性的に続く……というような症状が一般的なパターンと説明を受けています」
「脳の内部の疾患ということか」
「神経伝達物質であるセロトニンが大きく関係しているようです。これが極端に少なくなって、感情をうまく統制できなくなった人がいわゆる一般に言う鬱病患者ですが、慢性的にそうでなくても、急激に減ったりすると、頭痛が起こるようです」
「急激に減る理由は?」
「極度の緊張状態による、精神的ストレスがもっぱらの原因ということでしたが?」
ふぅむと、荒濱は唸った。
「黒岩は自覚していない鬱病だったのか? いや、頭痛がたびたび繰り返されているなら、そちらも医師に相談しているはずだろう。不眠症で取り掛かるぐらいなのだから、なぜそうしなかったのか?やはり、頭痛は仮病だったとみるべきなのか」
「私は、彼はかなり悩んでいたのではないか、と見なしています」
瀬藤は隙を見て言った。
「つまり、軽度の鬱であったということか?」
「はい」
「なぜ、そういうんだ」
「先に提出しました、例の証拠物件のひとつであります、手紙で追い詰められていたからだと考えているからです」
瀬藤は、他にも大量の郵便物が届いていた可能性があり、黒岩がそれを処分しているであろう事を話していった。
「いったい、誰からその通知を受けて、黒岩は悩んでいたんだ? 被害者真希菜との繋がりは?」
「自分もそれが分からなくて、困っています」
荒濱が吐息をついたのを見てから、瀬藤は続けざまに言った。
「黒岩は不遇の人生を送ってきました。彼の実際の両親は早くに亡くなり、引き取りに入った次の両親と養子縁組したものの、うまくいかず、施設に出戻りしています。単純に考えると、二番目の両親となにがしかのやり取りがあったのではないかという見方ができますが」
「話は戻るが、黒岩は現在何歳だったか?」
「二十五歳です」
「あいつを一度手放した親が、手紙でコンタクトを取り続けていただなんて、厚かましい話だな。それを送りつけるようになったのが、ごく最近のことだったなら、なおさらだよ」
彼は荒い息を吐いて、顔をしかめた。
「しかしまあ、それが事実なら、黒岩を憤らせる充分な相手なのかもしれない。それで、その両親と接触している斑は?」
初老の捜査員が立ち上がった。蓄えた口髭まで白いものが混じっている男だ。
「私です」
「黒岩について、なんと?」
「そうなっても仕方が無いというような、口振りでした。黒岩が家にいたときは、さんざん悪さをして近所の評判を落とし、何度も引っ越しをせざるを得なくなったということでした」
「いま、瀬藤がコンタクトを取っている可能性がある、と指摘しているが?」
初老の捜査員が瀬藤を横目で気に掛けつつ、
「それはない、ということでした」
きっぱりとした物言いであった。
瀬藤としても、言い返さずにはいられない気持ちに駆られる。
「おかしいですね。ちゃんと、本当のところを引き出せなかったのじゃないでしょうか?」
「事実だ。引き取ったことを後悔しているとまで、口にしたぐらいだ。この両親は、黒岩謙吾を忌み嫌っている」
「後悔? これまた、おかしなことだ。私の話では、両親は謙吾を手放したくないということでしたが?」
「ならば、瀬藤くん。君が、直截黒岩家を訪ねてみるといい」
「自分がですか?」
「聞き出したことを疑ってくるぐらいだ。何処が間違っているのか、確かめてみる必要があるだろう」
瀬藤は荒濱を見た。彼は二人のやり取りを固唾を呑んで見守っていたところだった。
「荒濱課長」
「いいさ、行ってこい」
「よろしいのですか?」
「黒岩はまだ捕まりそうにない。追跡斑は、ごらんのように手をもてあましている。お前が自由に動ける時間はあるはずだ」
それは追跡斑への皮肉のはずだった。瀬藤はおそらく苛立っているであろう彼等に振り返ることなく、うなずいた。
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黒岩家が何度も引っ越しを繰り返していたという事実は本当であった。現在の住まいを探し当てるまでに、いくつかの七面倒な行程を踏むこととなった。
最終的にたどり着いた住所は、予想されていた岐阜ではなく、愛知県の三河湾に面する蒲都市であった。何度も家主が変わった履歴を持っていそうな古びた屋敷。入口を封鎖する鉄柵はアプローチから伸びる野ばらの蔦が絡みついて定着し、みすぼらしい様相を呈していた。
「あの子のことは、もう触れて欲しくないんです」
いきなり謙吾の母親である美絵子から鋭い声が飛んできた。
どういう状況なのかは、分からなかったが、親子の縁は良い方向にはないということが、これではっきりとした。
頭を切り換える必要があった。一先ず、施設で得られた証言は白紙にしなければならなかった。
「まあ、そういわずに。できるだけ、手っ取り早く済ませますから」
瀬藤は軽く言って、彼女を一先ずなだめに掛かった。
「それで、何の用でしたんですか?」
「まずお聞きしたいのは、黒岩謙吾さんとあなたが連絡のやり取りしていたかどうかの有無です」
彼女は病弱そうにのろのろ首を振った。よくみると、手足は細く、首も痩せていた。このまま年を取ると、枯れ木とか言われそうな勢いだ。
「そういうことはありません」
「彼の生い立ちが我々のなかで明らかになっています。十一年前になるんでしょうか、あなたはその時、施設に彼を手放しました。一度、養子縁組をしておきながらの手放しです。施設にいられるのは高校卒業までと決まっています。その後、彼が社会人となって世に出て行くのは分かっていたことのはずです。十一年間、何も連絡なしというのは、あり得ないはずです」
「連絡はしていません」
「どうしてです? あなたと彼は、親子関係が続いていたんですよ。施設を出た瞬間、彼は帰属先があなたの所以外、なくなります。連絡を取っていないはずがないのです」
「本当に、ないんです」
没交渉を続けていることに、良心の呵責でもあるのだろうか。彼女の声は、消え入りそうに小さい。
「これまでに、一度もないんですか?」
「……はい」
困ったものだ、と瀬藤は息をついた。何か、彼女は隠しているのかもしれないと思うも、心を開こうとしない彼女からは、それを探ることは無理のように思われた。蔭山は無表情で筆記に励んでいる。
「それでは、質問を変えましょう。あなたはなぜ、謙吾を引き取ろうと思ったのです」
彼女は泣きそうな顔になって、上擦った声を上げた。
「それは、前の刑事さんにちゃんと説明したはずです。なんども、同じようなことを説明させないで下さい」
「その人と、私は別物の質問と考えて下さい。彼の境遇を哀れんでの、引き受けということでいいんですね?」
美絵子の顎が引っ込む。
「はい」
「しかし、一度引き受けした以上は、簡単に施設に引き戻す選択をするべきではなかったのでは?」
「私も、そう思っていましたよ。でも、あまりにも、非行が行き過ぎていて……、手に追えない状態になっていました。その時はもう限界だったのです。家族がバラバラになるところまで落ち込みました。説得すれば違うだろう、と周りは言いますけれど、やはり駄目なものは駄目なのです。うちの主人の説得も、駄目です。どうあってもあの子には通じなかったのです」
思い詰めたように小さくなり彼女は顔を覆った。すすり泣きに近い、嗚咽が口から洩れる。
話し合いに応じようとしない、黒岩。
彼の心は、その時、固く閉ざされていたのだろう。施設にあった手作りの机。あれは、彼の優しさの結晶から生まれたものだ。それに対し、美絵子夫人をここまで追い詰めた一連の事実。両極端というまでの、この落差。どちらも彼だ。二面性ができてしまうほど、ひどいストレスを抱え込んでいたということだ。
その時、黒岩は十四歳だった。
自分の十四歳は、どんな風だっただろうと、瀬藤は記憶を手繰り寄せる。両親は当たり前にいて、疲れて帰ってくれば当たり前に夕食が用意されている。
もし、それが当たり前ではなかったら……?
「あなたが手に追えなかったということは、よく分かりました。ですが、引き取ったばかりの黒岩はそうではなかったはずでしょう」
美絵子は顔を上げ、目の縁に残った涙を拭った。
「そうですね」
「その時の段階で、彼にあなたがたの思いをぶつけるべきだったのではないでしょうか。一緒にいるうちに、自分たちと溶け込めあえるというのは違う。もっと、強くぶつかっていくべきだった。どういう理由であれ、その子の親になるということは、そういうことではないだろうか」
「そうですね……色々と、後悔していることがあります。でも、いまさらそう言われても、もうどうにもならないのですよ。そしてあの子が、今回このようなことを犯したのは、私たちの責任でもありましょう。そのことだけは、認めなければいけません」
「あなたは、彼の話はしたくないと言った。しかし、彼への思いがあるのは本当なんですね?」
「それは、もう……親子だと思っていますから」
一瞬見せた顔は、苦労を多く積んだ親の顔そのものであった。しかし、それはうつむいた瞬間、すぐに消え入った。
「私は、それだけ聞けば充分ですよ」
「え……」
と、美絵子は不思議そうな顔をする。
「あなた方が情のない、とんでもない親だとばかり思っていたのですが、まったくそうではないと聞いて、良かったです」
美絵子はきょとんとしていた。
それから、ちょっと待って下さい、と美絵子は突然立ち上がり、部屋の奥手の寝室に入っていった。何かを取りに出たようだ。蔭山と瀬藤は目を見合わせたが、結局言葉をかわすことはせず、じっと待った。
帰ってきた美絵子は、写真の束を抱えていた。センターテーブルの上に敷かれてあるナイロンのレースの上に、それをそっと置く。
「これを見て下さい」
突き出されたLサイズの写真は、濡れ縁前に集まった家族の写真であった。中央に座っている美絵子と忠義夫婦を中心に、二人の娘、そして謙吾が映っていた。中学生ほどの娘たちは浴衣をまとっていることから、夏に撮られたことが分かる。
「これは、いつの?」
「あの子が、来たばかりの頃の写真です」
十三年ほど前ということだ。
十二歳前後の黒岩はまだ小さく、仮に親のいうことに反抗があったとしてもそれは可愛い程度でしかない。この二年後には、彼が黒岩家をどん底に突き落とす非行に走り出すとは、瀬藤にも想像がつかない。
だが、取っつきにくい暗い影のようなものが写真の中の彼にはあるのだった。美絵子の言うとおり、家族に馴染まない意思を持っていたというのは、本当なのかもしれない。
「それにしても、家族写真というのはいいものですね」
瀬藤は調子を上げて言った。すると、蔭山が写真の中の二人の娘を指差して美絵子を見た。
「この子たちは?」
「私たち夫婦の、実の娘たちです。優衣と、玲菜」
「二人とも、よく似てますね。いや、お姉さんのほうが、少しお父さんに似ているのか?」
どちらも美人といっていい。白地に大振りな花柄が配された浴衣がよく似合っている。和風というよりも、目鼻立ちがしっかりとし過ぎて、やや洋風な美人という雰囲気がある。いずれにせよ典型的な現代っ子といった具合だろう。
「二人は、いま?」
「働いていますよ」
「この家に、いるということですか」
「そうですね」
結婚はしていないということだ。写真から推するに、一人は黒岩とひとつ上ぐらいで、もう片方は三歳ぐらい年上といったところだろうか。
蔭山がさらに何かを言いかけたところで、美絵子がさっと写真を取り上げ、それを見つめながら言った。
「この頃は、良かったのです」
感慨深い表情だった。
「もしや、そこは岐阜の住まいですか?」
瀬藤が訊いた。美絵子の目が微かにながら見開かれた。
「よく、ご存じで」
「黒岩の謄本では、そちらが登録されていましたよ。彼はそこに馴染めなかったようですが、あなた方は愛着があった場所なのではないでしょうか?」
「この一軒家は、ずっと住むつもりで買ったのですけれどもね……。そういうわけにはいかなくなったのです」
目元に悲しそうな色が浮かんでいる。よく見ると、写真の表面にはいくつもの傷と手垢がついていた。何度もことあるごとに、それを眺めていたのだろう。彼女が大切にしているものだ。それを瀬藤たちに見せる気になったのは、親としての心が彼女の中で甦ったからだろう。瀬藤がそれを認めたことが、発端だ。
「そういえば、黒岩の本当の両親について、訊いていませんでしたね」
蔭山が思い立ったように瀬藤に言った。
「そうだったな。それも忘れてはならないことだ」
視線をやることで、美絵子に水を向ける。彼女は写真を膝元において、瀬藤たちの前から隠した。
「あの子の両親は、本当に不遇な死に方だったと思います。特に、母の方は、私の妹に当たる訳なんですが、義弟が亡くなってからひどく塞ぎ込む日が続いて、そのまま後を追うように病死してしまいました」
「脳梗塞ということでしたが?」
「はい、脳梗塞です」
「まだ、若かったはずでは?」
「三十八歳でした。若年性脳梗塞というのがあるのです。高齢者のそれとは違って、特殊な病が元で寒栓ができてしまう病です。あの子は、それに罹って、脳の血管が詰まってしまったのです」
「気病だったと私らは聞いていますが、特殊な病というのは、それでいいんですね?」
「そうですね。旦那さんの死の影響があったのは、私たちの目からすれば当然といったところでしょう。しかし医学的にはそう結論づけられないのは、刑事さんたちもお分かりのことだと思います」
「それで、旦那さんのほうの死は?」
美絵子は軽く生唾を飲んだ。
「事故死です。列車に轢かれたのです」
「列車に?」
脳天を硬いもので思い切り殴りつけられたような衝撃だった。
良からぬことが頭の中で巡る。
「もしや、自殺だったのでは?」
瀬藤が口に出せないでいることを蔭山が言った。美絵子は首を振った。
「違います。自殺ではありません。殉職という扱いでしたので、これは名誉ある死というやつではないでしょうか?」
殉職?
思わず瀬藤は蔭山と目を見合わせた。
その言葉が当てはまる職業はだいたい限られる。公的な役職に就いているのは言うまでもない。
「その人の職業は、警察官ですか?」
瀬藤が訊いた。
「はい、そうです。同じ県警の人間ですよね? 須永隆久。この名前を聞いたことはありませんか?」
須永というのが、養子に出される前の黒岩の旧姓だ。それは、瀬藤も押さえていた。戸籍の欄に出生届から記載された須永謙吾という名前が書かれてあった。
「亡くなったのは、いつですか?」
「いまから、数えますと……十五年前になりますか」
その時、瀬藤は静岡県警に採用されて入庁したばかりであった。蔭山に至ってはまだ学生時代だったにちがいなく、首を振るしかないようだ。
十五年前の、殉職警察官――
須永隆久。
ちっとも覚えがなかったが、じっくりと考えるに、どこかで見聞きしたことがあるような気がしてきた。少なくとも、その時の模様を県警の情報管理課が監視する資料室で探ってみる必要がある。
「まさか、黒岩の父親が警察官だったとは……」
蔭山も予想だにしていなかったらしく、その口は喘ぐようにぱくぱくさせていた。
その時、玄関口から物音が聞こえてきた。誰かが帰ってきたようだ。スーツ姿の、女性が玉暖簾の向こうに現れる。
姉妹の一人だ。
「誰なの?」
いかにも不機嫌な口調で、彼女は美絵子に言う。
「刑事さんよ」
答えたその声は、脅えが入っていた。
「追い出してよ! そんなやつ、家に入れることないでしょう!」
険の満ちた顔で突っ掛かるその様は、強い嫌悪感がありありとあった。きつい睨みが、瀬藤たちにも寄越される。矢を突き立てられた気分だった。
「何ですの、貴方たち?」
「お嬢さん、落ち着いて」
蔭山が進み出た。その口調は、努めて和やかだ。しかしそれは彼女には、感情を逆撫でする態度としてしか受け取れなかったようだ。くわっと顔に怒気を満たした次には、肩から提げていたハンドバッグを蔭山目掛けて投げつけた。
バッグはいきおいよく蔭山の胸に当たって、足元に落ちていった。中から飛び出したリップクリームのスティックが楕円を描いて回る。
彼女は肩で息を繰り返していた。
憎々しげな眼差しが、蔭山に注がれている。悪かったという意思は微塵にもない。それだけ、自分たちを目の仇にしているのだろうと瀬藤は思った。刑事という存在が許せないのだ。
「優衣ッ! なんてことをするの。刑事さんに、謝りなさいッ!」
美絵子がやっとまともな声を上げたが、それはもはや何の意味のなさない叫びでしかない。
「あなたが、優衣さんですね」
瀬藤が歩み寄って言った。
「来ないでよッ」
半歩身を引いて、拒否の手を彼女は瀬藤に突き出した。足を止めざるを得なかった。回転していたリップクリームは、フローリングの継ぎ目で止まっていた。
瀬藤はふと、優衣の後方向こう、廊下に小さくなっている人影があることに気付いた。優衣と似た相貌だが、優衣よりも頭一つ分背丈が小さく、この状況に縮み上がっているようだ。まるで優衣と対照的な性格だ。彼女が、妹に当たる玲菜なのだろう。
「お姉ちゃん、やめなよ。向こうに、行こう」
玲菜が言った。姉の睨みは、妹に寄越された。
「駄目よ。こういう人たちは、がつんって言っておかないと、のこのこと何度も足を運んでくるのよ」
ねえ、と挑発まじりの上擦った声を上げ、優衣が瀬藤に迫ってくる。胸ぐらを掴み、直截に威嚇を突きつけてくる。やり方はもうヤクザのそれに近い。だが、優衣は顔から怒りさえ取り除けば、鼻筋の通った美人だ。瀬藤には可愛い抵抗でしかない。先に美絵子から見せてもらった写真の中の彼女から見て、さらに美しさに磨きが掛かっている。それを感じ取るだけの、余裕がいま瀬藤にはあった。
「お嬢さん、落ち着いて」
瀬藤は感情を排して言った。いつしか、優衣の背中に玲菜が回っていた。彼女の腕を弱々しくながらも掴んでいる。
「お姉ちゃん、駄目」
と、真摯に訴える。姉は、納得いかなさそうに首を振って、玲菜の手を強引にふりほどいた。また、まなじりを決して瀬藤に向き合う。
「それで、今日はどういう要件ですの?」
「たんなる、四方山話ですよ。たいしたことではありません」
この勢いで黒岩のことを訊ねようと思ったが、どう考えても悪い結果しか生まれないような気がしてならない。ここは、何も聞かないでおくほうが良いだろう。
「お姉ちゃん、行こう」
玲菜は諦めずに、姉に説得を繰り返す。彼女もまたスーツ姿で肩からハンドバッグを提げている。姉と一緒に帰宅したにちがいなかった。もしかしたら、同じ職場かもしれない。
ふん、と優衣が鼻を鳴らしてまたひと睨み瀬藤にくれると、踵を返して廊下の向こうに消えていった。取り残された玲菜が申し訳なさそうに瀬藤を見ていたが、結局何も言わず、姉の後を追って二階へと駆けていった。
居残った三人は、沈黙に身を任せていた。
「刑事さん、本当にすいません」
蒼白気味の美絵子が平身低頭で謝ってきた。家庭ではいつも気弱な存在なのだろう。これは、黒岩の非行を止められなかったという後遺症ゆえのことだろうか、それとも元々の気質なのだろうか。少なくとも、先の写真の中にみた明るい美絵子と今の彼女は大分隔たりがあるように思えた。
「気になさらないで下さいよ」
蔭山が言い、足元に横たわったままのハンドバッグを持ち上げ、その斜交いに転がっていたリップクリームを横ポケットに無理にねじ込んだ。そしてテーブルにそっとおく。
「我々は、慣れていますから」
蔭山が同意を求めるかのように、瀬藤に一瞥くれる。瀬藤はうなずいた。
「彼の言うとおりです。これは、いつものことです。気になさらずに」
美絵子は大腿の上で三つ指をつくって、ゆっくりと頭を下げた。それから瀬藤から目を伏せ、おどおどした動作で言い始めた。
「あの子たちは、いま神経質になってしまっているのです。普段から、ああいうような態度を取るわけではありません。お許しを願いたく思います」
「奥さん、分かっていますよ。あの子たちは、普段は家族思いの素直な子たちのはずです」
こくり、と美絵子は痩せこけた喉を鳴らす。それから彼女は言った。
「世間体を気にしているんだと思うんです。というのも、これまで何度も引っ越しを繰り返してきましたから……また、何か騒がれて、そういう目に遭うことをあの子たちは怖れているのです」
美絵子の写真は、岐阜にある一軒家で撮られたものだ。おそらく、その時が、黒岩家の幸せの絶頂だったと彼女は思い込んでいる。実際、彼女はその写真を眺め、これまで英気を養ってきた。写真の手垢はそのことを意味していたのだ。それはきっと彼女に限らず、二人の娘たちも同じ思いのはずだった。
黒岩の繰り返された非行の数々で世間体が悪くなり、その地を離れなければいけなくなった無念。それが、先程の優衣の爆発だ。
「なるほど、そういうことでしたか」
瀬藤は、一旦そう軽く受け流して、顔を引き締め直した。
「我々は、以後、あなたがたの心証を守るため、何度も頻繁に訪問しないことを約束しますよ」
ひとつ、と美絵子に瀬藤は人差し指を立てる。
「世間体を気にしすぎると、身体の毒であることは言っておきますよ。たしかに、周囲と付き合って生きていくことは、社会人として最低のマナーでしょうか。しかし、それにしてもあなたは彼等を気にしすぎているきらいがあるように思える。もっと、自由に生きて良いんですよ、奥さん。それだけは、言っておきたい。もっと楽に」
美絵子はきょとんとしていたが、やがて微笑んだ。
「ありがとうございます、刑事さん」
美絵子の笑顔には根の深い、安堵の色があった。硬くこびり付いていた険がいくつか剥がれ落ちたように思える。効果はあった。彼女に少しだけ勇気を授けることができた。瀬藤としては、満足であった。
「二人の娘さんたちにもよろしく」
瀬藤たちは黒岩家を出た。
9
須永隆久。
この男の素性を調べなければいけなかった。瀬藤たちは、県警本部に足を運び、情報管理課の許可を得て、名簿帳がずらりと並べられてある資料室を使用する許可を得た。ひとりの係員の立ち会いの下、全国警察職員録のファイルから抜粋した殉職職員名簿一覧をめくっていく。
須永隆久の頁はすぐに見つかった。その年の最初に亡くなった殉職警察官であった。添付された証明写真の彼は、丸顔の温厚そうな顔立ちで、歩いているだけで子供たちが話しかけてきそうな優しい目を持っている。
「こちらが、取り寄せておきました事故の実況見分調書の謄写です」
資料室を管理している情報管理課の男が、A4サイズの封筒を手渡してくる。中には、申し付け通り実況見分調書が入っていた。検察庁が保管している刑事記録の写しだ。事故を起こした列車を運転していた男の運転状況が事細やかに書かれている。写真のコピーまで入っていた。
「ごくろうさん。どうしても、必要な資料だったんでね」
資料は、列車に限らず、その日に起きたことのすべてが伝わってくるほどに濃密な内容であった。
瀬藤はじっくり読み込んでいく。
綴られた文字が編み出す音や映像が意識内で再現されて、一つの映像を作り上げていく――
静岡県警藤枝署藤枝南交番に勤務していた須永隆久は、当時三十九歳の巡査部長であった。
八月十四日の午前十一時過ぎ、いつも予定されているとおり、徒歩でパトロールに向かった。巡回路は三パターンあったが、その時間はそのうちの藤枝署管轄境に迫る回路を選択していた。幼稚園や保育園が密集している地帯である。近くにはJR東海道本線と、東海道新幹線が走っており、遮断機が設置された危険な箇所がいくつかあった。
須永は巡回中、子供たちの叫びのようなものを耳にして、そちらに走った。選りによって線路のある方向だった。
「どうした?」
息を切らしながら子供たちに言う。総勢六名ほどの子供たちが、異口同音にあそこと、叫びながら進路の向こうを指差す。幅の長い踏切だった。レールが四線分ある、距離にして十五メートルはあろう道。警報の音がかんかんと鳴っていた。その日は熱気が一際強い日だったため、その音がやけに耳障りに響く。
少女が、封鎖された遮断機に取り残されていた。彼女が抱え込んでいるのは、補助つきの自転車だ。レールの窪みに、補助輪がはまって動かせないようだった。
「逃げろ! ひろちゃん、はやく!」
子供たちが叫ぶ。
しかし、少女は半べそ顔で自転車を動かすことだけにしか頭が回らない。
須永は顔中に汗を噴出させながら、子供たちに怒ったように言った。
「お前たち、ぜったい、おじさんの後を追い掛けるなよ? いいな?」
須永は警報機のボタンを押してから、遮断機の中に入っていった。ゆるやかなカーブを曲がったばかりの快速列車が猛スピードで迫っていた。近くにはダイヤ調整のための待機列車の姿があった。接近していることに気付かなかったのは、それが死角になっていたからだ。
須永は走った。
少女はまだ自転車のハンドルにしがみついている。鉄塊の轟音がせまっていることも知らずに、自転車から手が離せない。どうしても手が離せないようだった。離す選択肢は、彼女の中にはない。
快速列車の長い警笛が鳴った。レールを引っ掻く甲高い金属音が悲鳴のように上がった。急ブレーキだ。車輪に火花が見える。しかしそれを掛けるにはあまりにも遅すぎた。列車のスピードは衰えることなく、踏切に向かっていく。
少女に追いついた須永が彼女目掛けて飛び込んだ。次の瞬間、列車が踏切を黒い風のように通り過ぎていった。ブレーキはほとんど意味がなかった。
現場を見ていた少年たちは、少女の自転車がはじけ飛ぶその姿が見えていた。
時間が止まったようだった。
警報機の音は続いていた。
舞い上がった破片が太陽と重なり、黒く染まった。太陽の熱波で、焼け焦げた欠片のようだった。
快速列車が踏切に跨がって停車したその向こうに、横たわる二つの影があるのを、子供たちは地面にはいつくばって見ていた。
「ひろちゃん!」
泣き出す子供が続出した。
上級生が、見るなと目を真っ赤にして小さな子を押さえつけた。
線路の向かい側に立っていた運送会社の男が物音を聞きつけて、現場に駆けつけた。そこには、二人の人間が倒れていた。子供と大人の二人だ。
顔中血塗れになった警察官と、その向こうで四肢をだらしなく広げた少女。
警察官はすでに事切れていた。顔中に血が絡みついている。見ていられなかった。動悸が激しくなった。
少女のほうに期待した。
こちらも顔が血で真っ赤だった。皮膚が擦り切れて、頬の一部がめくれあがっている。
しかし意識はあるようだった。陽炎でゆらぐ景色のそのさなか、彼女はぼんやりと警察官を眺めていた。
「お巡りさん……」
少女は、何とかそちらに手を伸ばそうとしていた。
「事故の一部始終を見ていたのは、六名の子供だったようです。そのうちの一名が、女の子。事故後のことは、大人たちによる供述ですが、事故までのあいだは、すべて子供たちによる証言です。思い出すだけでも、かなり残酷なことだったでしょう。事実、彼等には強い精神的凋落の気あり、と記録係は付記しています」
蔭山が書類を見つめながら、朗読するように言った。
供述調書の氏名欄は、確かに幼い子供たちばかりの名前で埋められていた。彼等は間接的な被害者のようなものだ。今も、そのことについて苦しんでいるに違いない。
蔭山は書類の下方を指で追う。
「須永は赤十字病院に運ばれましたが、多臓器損傷で一時間半後に死亡が確認されています。肋骨の何本かが複雑骨折、大腿骨も断裂骨折していました。少女の方は、肩鎖関節脱臼に、手足の打撲、あと全面的な顔の擦過傷ありということでしたが、これらは軽傷という診断です。もはや、奇蹟と言って良いでしょうね」
自分の命と引き替えに少女を助けた一名の警察官。
いまから十五年前の藤枝市でそんなことがあったのだ。
その日は、八月十四日と暦に見る終戦日前日で、三日連続で猛暑日を迎えていたという記録が残されていることから、列車を運転していた快速の車掌もさぞや気持に余裕がなかったことであろう。
瀬藤は、帳簿の中の少女の名前を見る。
赤穂 宏美(六才)
事故のあったその場所界隈に住んでいる子ではなく、知り合って意気投合した少年たちについて回っていた途中だったという。現場の踏切を渡るのは初めてのことだったようだ。
「いま、邪なことを考えついてしまいましたよ」
蔭山が何やら鼻白んだ顔で言う。
瀬藤は顔を上げる。
「邪なこと? なんだ?」
「この少女が、例の信金傷害事件の被害者、園田だとしたら、二つを一つに結びつけることができたかもしれないと気付いてしまったんですよ」
「ばかげたことを……」
口でそう悪態を付きつつも、瀬藤は内心で少し同意できる部分を感じていた。
たしかに赤穂が真希菜だとしたら、黒岩が彼女を意図的に傷つけたことの動機がはっきりと成り立つのだった。
「君が言いたいのは、こうだな。助けられた真希菜が幸福な人生を送っている姿を見て、亡くなった父に通じる黒岩のこれまでの人生と比較すると許せなくなり、黒岩は凶行に及んだ――と」
「おおざっぱにいえば、そうですね」
「充分、あり得る話ではある。だが、この少女は真希菜ではないのだ。関係がない」
どう目を凝らしてみても、欄に記述されているのは、赤穂宏美の名前だ。
検察が保管する、正式な手続を踏んだ刑事記録だ。そこに書かれてあることは、絶対であった。
「それでしたら、赤穂宏美と、園田真希菜の繋がりを洗うことになりましょうか?」
蔭山が瀬藤に問う。瀬藤は考えた。
どうも、その必要性はないように思える。十五年前に起こった列車事故。赤穂と園田が赤の他人だということが分かっているなら、園田に黒岩が危害を加えることの理由が成り立たない。
それとも、何かどこかでつながっている部分があるのだろうか。
「見ていく必要があるかもしれん」
「そうですか。それでは、一先ず、捜査本部のほうに戻りましょうか?」
その時、瀬藤は考え込むあまり動きを止めていた。
「瀬藤さん、何か気になる点でもあったのですか?」
蔭山が訝しそうに訊いてくる。
「いや、繋がりがあるとしたら、どういうのだろうと思ってね」
「親戚関係……あるいは、長らくの親友だったとか?」
「だとしたら、園田ばかりではなく、赤穂本人も同時にやられていることになるのではないか?」
蔭山ははっとしたような表情を見せた。
「そうですよね……。黒岩はまだ、逃走を続けています。この事故が黒岩の凶行にいたる動機だというのだったら、確かに赤穂が狙われていてもおかしくはない……」
「年齢」
ぽつり、と瀬藤は呟く。
え、と蔭山が反応する。
「年齢がどうかしたんですか?」
「赤穂がまだ健在ならば、いま何歳なのか?」
蔭山が尽かさず目算に入った。数字にあまり強くないと見えて、少し遅れて言った。
「二十歳……いえ、今年で二十一になるんじゃないでしょうか」
「真希菜も二十一歳だったか?」
「そうですね」
「そして、黒岩は?」
「四つ上の、二十五歳です」
強張っていく蔭山は、何か重たいことを考えているらしく、目の焦点が合っていなかった。やがて、手に握ったままでいた実況見分調書をのぞき込みに入った。
「証言者の中に、今回の事件に関わりのある人間が一人でもいたら、また違っていたんですがね……」
彼は証言者一覧を指で追いながら言う。しかし、そこに見知った名前などはなかった。瀬藤も確認済みだ。何度見ても同じだろう。
「そちらを追っても無駄だろう。行き止まりだ。頭を切り換えよう。
黒岩の話をする。あいつは、どうして岡部町の会社に就職したんだろうな。例の工務店は、そう大きくない、地元に根差した会社だ。岡部町に居留まるという意思のある人間だけが、そこを受けるはずだ」
「そういえば、そうですね」
と、蔭山が相槌を打つ。
「何となく、生まれ育った場所が忘れられなかったとか、そういうような気がしますよ」
瀬藤は背筋を伸ばした。
「それだ」
「え、何がです?」
蔭山は面食らった顔をしていた。
瀬藤は管理係の男に顔を向けた。
「須永隆久の経歴も確認してみたい。追加でお願いできないだろうか?」
「それは……構いませんが、こちらとしてはその理由を求めることになりますが?」
男は辟易気味にながら事務口調に応じる。
「最初の申請と同じだ。捜査に必要な情報だという名目で、情報開示を求める」
管理係の男はうなずいて、資料室につながる別室に向かっていった。
「瀬藤さん、何が気になったのです?」
「私は、思う。黒岩が岡部町の会社に勤めるようになったのは、その土地に愛着を感じているからだ、と。つまり、事故が起こる十歳になるまでに過ごした場所が、岡部町だということだ」
「だから、須永の経歴を求めたんですね?」
「そう」
警察官は何かと転勤、転属の多い職業だ。地域によって差はあるが、同じ部署と地域に留まらないよう配置換えすることが人事原則となっている。
「しかし、黒岩が生まれ育った地域にこだわったりしますかねえ」
「彼は寄る辺ない孤独な男だ。黒岩家で養子として迎え入れられたが、うまくいかず施設に出戻りした。その施設は、入居できる期間が国によって定められている。つまり、高校を卒業した時点で彼の帰る家は何もなくなってしまうのだ。そうなると、残るのは生まれ育った場所ということになるはずだよ」
「唯一の帰る場所が、岡部だったということですか」
「そうだな、希望というより、必然に近かったはずだよ。あいつには、そこしか行き場所がなかった。私はそう見ている」
「僕は、そう思いませんよ。黒岩は現代っ子ですから、土地にしがみつくような考えはないと思います」
「どちらにせよ須永隆久の経歴を確かめれば、明らかになることだろう」
「察するに、瀬藤さんは、黒岩を情のある男だと見ている節があるように思えます」
「どんな男にも情はある。そんなことは当たり前のことだろう?」
「その根拠は、もしや、例の彼が造った机ですか?」
児童養護施設にあった、黒岩が制作した机。それに込められた優しさを思い出すと、それだけで気持が軽くなる。
「そうだな、あの机だ。あれには黒岩の本質がこもっている」
「しかし、そのことだけにこだわると危険ですよ」
蔭山の口調が厳しくなっていた。その顔も、叱りつけるように容赦がない。
「黒岩が傷害事件を起こし、これまでにも非行を繰り返していたという現実があったことを忘れないで下さい」
「むろん、忘れていないさ。刑事だ。犯した罪は、小さなものでも見逃すつもりはない」
ここで言いたい情というやつは、それとは別に考えるべきだと口にするつもりだったが、何となく言いそびれてしまう。
病床につく園田真希菜の痛々しい姿をそれとなく思いだしていた。
額から頬に掛けて神経層を傷つけるほどに切り傷が加えられた真希菜。それは彼女の心をも切り裂く傷であったことは言うまでもない。
黒岩が犯した罪は、許されてはならないものなのだ――
五分も沈黙に暮れていると、新たな一冊の帳簿を抱えて管理係の男が現れた。問題の頁をあらかじめ見つけてくれていたらしく、彼は帳簿を開いてそれを示した。
採用時の須永隆久の経歴がはっきりと書かれてある。
瀬藤の見込み通り、彼は岡部町の交番に巡査として勤めていた。正式名称は、藤枝署岡部支部岡部交番。その時の住所も、町から提供された警察官用住宅になっている。
蔭山はしばらくその頁から目が離せないようだった。それから瀬藤を意識して彼は言った。
「瀬藤さんの言うとおりになりましたね。まるで、彼の考えていることが分かっているような感じです」
「分からないさ、はっきりいえば」
瀬藤は軽く返す。
「だが、理解に努めようとすることはできる。私の中にも、人に感じ入る情というやつがあるからな」