魔性
夏祭りのあった神社のそばには、小さな池がある。人はあまり寄り付かず、周囲を木に囲まれていて誰かに見つけられる心配もない。金魚を放すには一番良い場所だと思った。金魚が池の中で生きていける生命力を持っているのかは疑問だが、持っていないほうが耕哉としては都合がいい。
人が踏みならした道を外れて、林の中に入っていく。少し進むと森が開けてきて、目の前に池が現れた。池の表面に移った夕日がゆらゆら揺れている。
耕哉は池のそばに、だれかが立っているのに気づいた。その人物は始め池のほうを向いていたが、森の中から現れた耕哉に気づいて振り返った。耕哉の顔に目をやった後、手元の水槽に視線を落とす。それから、もう一度顔をあげて耕哉を見た。
「君は、あの時の」
数秒の間を置いて耕哉は思い出した。金魚すくいの屋台の店主のおじさんだった。
「その金魚は、気に入ったかい」
おじさんはお祭りのときとはうってかわって穏やかな表情を浮かべている。耕哉は答えた。
「ええ、怖いくらいに気に入りました。僕も、僕の友人も」
おじさんはやっぱりそうか、と言った風にうなずく。普通に話をしているだけなのに、なぜか落ち着かない気分になっていた。
「でも、こいつは放そうと思ってます」
おじさんは驚いたように目を丸めた。
「どうしてだい」
「こいつのせいで、困ったことがあったんです。事情が複雑で、詳しくは説明できないんですけど」
少し考えた風に首をひねる。こうしてみると、ただの愛嬌のあるおじさんにしか見えないのに、全く信用できる気がしないのだ。
「放すつもりなんだね」
「はい」
耕哉は、念を押して訪ねてくるおじさんに、言いようのない恐怖を感じていた。
「じゃあその金魚を、私に預けてくれないか」
耕哉はおじさんを顔をまっすぐに見た。柳がそうなっていたのとは違って、異質な所作や特徴は見受けられない。金魚に魅入られてしまったわけではないのだ。それなのに、なぜこんなに不安な気分になるのだろう。
「どうしてですか」
おじさんは駄々をこねる子どもを前にしたみたいにやれやれとかぶりを振った。
「池に放されると、捕まえるのに手間がかかるからね」
一歩、前に進んでくる。耕哉は思わず後退した。おじさんはおかしそうに笑った。
「それじゃあ説明にならないか。そいつは、私の商売道具なんだよ」
さも面倒くさいといった口調だ。
「そいつをプールに放しておくと、客入りが良くなるんだ。しがない商売だが、そいつのおかげで少しは実入りが良くなる。だから、もし放すつもりなら返してくれないか」
耕哉は泣きながら走っていった柳のことを思い出していた。この金魚は、かかわる人を不幸にするのだ。そして、この大人はその元凶なのだということがわかった。
「君の周りでも、誰かが不幸になったんだろう。それで、その金魚がなにか悪さをしていると考えた。それで、池に捨てようとしている。そうだろう」
耕哉は返事をしなかった。
「なんで逃がそうなんて思ったんだい」
「それは、僕の手元に置いておきたくなかったから」
「質問を変えようか、なんで殺さないんだい。また、そいつのせいで誰かが不幸になるとわかっているのに。君は私のことを悪者だと思ってるみたいだけど、君だってそうじゃないか」
おじさんは水槽の中の金魚に目をやる。
「君も私と変わらんよ。周りで誰かが不幸になっても、傷ついても、その金魚を殺すことはできないだろう」
金魚は、自分には関係ないとでもいうように、明後日のほうを向いて水中を漂っていた。
「私も、そいつが人を不幸にしていくさまを見ていくのが本当に楽しいんだ。君も、すぐにわかるよ」
誰もこの金魚を殺すことができないのを、おじさんは確信していた。そうなのだ、柳の家から出たところで水槽を地面にたたきつけ、金魚を殺してしまえばすべて終わったのだ。その通りだった。耕哉は金魚を殺すことを躊躇していた。
耕哉は水槽の中をじっと見つめた。ガラスの表面に、光がほんの僅かだけ反射して、妙な形にゆがんだ耕哉の顔が映っている。
「さ、逃がしたところで私が捕まえるだけだ。ちょっと良心の呵責は感じるかもしれないが、大したことじゃない。はやく、渡してくれないかい」
おじさんは一歩ずつ近づいてくる。耕哉はその場に立ち尽くしたままだった。金魚は突然、狂ったように水槽の中をぐるぐる回り始めた。
二本の手が水槽に向かって伸びてくる。耕哉は水槽を手前に引いて、おじさんの手をかわした。水槽の中の水がはねて頬にかかる。おじさんはちっと舌打ちした。
耕哉はそのまま水槽を振り上げた。そしてガラス製の水槽を、地面に向けて思い切り叩きつけた。
ガラスの破片と水しぶきが四散した。たたきつけられた勢いで、金魚は遠くのほうへ飛んでいった。おじさんは慌てて身をかがめ、金魚を手に取ろうした。
しかし、手を伸ばしかけたところで動きが止まった。金魚の体には、体の半分くらいの大きさのガラス片が突き刺さっていた。痙攣したようにひれと口を動かしているが、もう生きられないのは明らかだった。
おじさんは眉を八の字にして、一瞬だけ泣き出しそうな表情をした。そのあと、何かを吹っ切ったように笑い出した。耕哉は後ずさりし、逃げ出そうと踵を返した。
「君が初めてかもしれないな、こいつの誘惑に打ち勝ったのは」
おじさんは金魚を拾いあげると、広場の隅に穴を掘り始めた。耕哉はその様子を黙って見ていた。
「君は惜しくなかったのかい」
おじさんは作業を続けながら聞いてくる。
「惜しくないわけないでしょう」
正直な気持ちだった。
「ただ、それよりも大事なものがあったっていうだけです」
おじさんはそうか、と聞いているのかいないのかもわからないような返事をして、自分の作業に戻ってしまった。耕哉は今度こそ、踵を返してその場を後にした。




