犯人
柳が来なくなったまま一週間が過ぎた。ホームルームを終えた金曜日の夕方、弛緩した空気の中で、耕哉はひとりだけ落ち着かない気分でいた。
柳の席は、相変わらず空っぽのままだ。
ずぶぬれになった柳が、泣きながら走っていった時のことを思い出す。そのことを放っておいたまま、土日を休んでいられる気がしなかった。
担任は挨拶を終えるとさっさと職員室に戻ってしまった。柳については、病欠だと説明したまま詳しい話はされていない。
耕哉はカバンを持って立ち上がり、柳の机のそばに寄った、机の中から、一週間分たまっていたプリントや返却されたノートを取り出してファイルにまとめた。
今、耕哉が家を訪れたところで柳は嫌がるだけだろうか。
しかし、もし柳が誰にも会いたくないと思っていたとしても、渡すものだけ渡して返ってしまえばいい。耕哉は柳の持ち物も一緒にカバンにしまって、教室を後にした。
柳とは小学校の時からの中だから、互いの家の場所はわかっている。耕哉の自宅から、徒歩で十分も離れていない場所だ。
インターホンを押すと母親が出てきた。耕哉の訪問に驚いたようだったが、すぐに理由を理解した様子だった。耕哉はカバンからノートとプリントを取り出した。そのまま渡して帰ってしまおうと思ったが、
「ありがとう、耕哉くん。もし、迷惑でないなら、あの子と少し、話をしていってくれないかしら」
少し迷ったが、耕哉はうなずいて家に上がった。柳は自分の部屋にいるという。階段を上がって左手、二番目の部屋だ。母親から説明を受けた通り階段を上がる。目的の部屋のドアには鍵がついていなかった。そのまま開けて押し入るのも気が引けたので、二度、軽くノックする。はい、と中から返事が聞こえてくる。いつも以上に、頼りなげな声色だ。まだ状況はあまりよくなっていないのだろう。耕哉はゆっくりとドアを開けた。
部屋の中央には足の短いテーブルがあった。その上には、両手で持ちあげられそうな小ぶりな水槽だが置かれていた。
その中では、夏祭りの屋台で耕哉を魅了し、その後自宅の水槽から突然消え去った、あの美しい金魚がゆったりと泳いでいた。
柳は傍らに座り、あきらめたような表情をして耕哉のほうを見ていた。
「わかってるかもしれないけど、これ、耕哉くんの捕まえたやつだよ」
柳の目の前に座って、その顔を正面から見つめた。柳の目は相変わらず、奇妙な色に濁っているように、耕哉の目には見えた。
「やっぱりいつまでも隠しておくのは無理だね。勝手に家に入って、不安にさせてごめん。捕まる覚悟はしてるよ?」
柳は水槽の中の金魚を名残惜しそうに眺めている。
一週間前、耕哉の家に入り、金魚を持ち去ったのは柳だった。
「いや、警察にも親にも言わないよ。金魚なら別にあげたっていい」
柳は目を丸くした。柳を責める気はなかった。金魚の、この美しさを目にしたら、自分のものにしてしまいたくなってしまう気持ちはよくわかる。柳は、欲しいものが欲しいといえない性格をしている。だから、目の前の金魚の美しさとに惑わされて、耕哉の家に忍び込んでしまったのだと思う。
「いらないの? この子」
「いいよ、僕はもう。それより、話せるならいろいろ話してくれよ。安野のこととかもさ」
柳は水槽の中の金魚を眺めながら、簡単にいきさつを話してくれた。
「夏祭りの後、耕哉くんの家で雨宿りしたでしょう。あの時、郵便受けにカギを隠してるのを見たときから、ずっと盗み出して自分の部屋に飾ることしか考えられなくなったんだ。バレるのは時間の問題だと思ったけど、せめてそれまでは」
金魚がその口の先で水槽の端をなんどかつついた。なんだか慰めているようにも見える光景だ。
「自分のものにしてたいなあと思って」
柳は放課後、耕哉が帰宅するよりも先に自宅に行き、郵便受けからカギを取り出して、金魚だけを盗み出したのだ。
「この金魚は、魔性ってやつだね。安野さんもそうだったし」
柳が、金魚を移し替えた水槽を自分の部屋に置いた後、安野たちクラスメートが部屋を訪れた。水槽の中の金魚を一目見た安野はそれを欲しがった。安野は、柳に金魚を差し出すように要求した。柳はどこかに隠しておかなかったことを後悔したという。つい、友達だから見せたくなったのだとか。
「いつもならあっさり押しに負けちゃうんだけど、この時だけは『嫌だ』って言えたんだ。安野さんは気分が良くなかったみたいだけど」
安野が柳に対して友好的な態度をやめてしまったのはこの時のやりとりがきっかけだった。安野と、その取り巻きの嫌がらせは少しずつ過熱していき、最終的、昇降口でずぶぬれになった柳と、耕哉が顔を合わせることになったのだ。
「もうだいぶ落ち着いたよ、私も。それに、自業自得だしね」
柳は水槽の端を指でつついた。金魚がその指に食らいつこうと何度もガラスの表面に頭を打ち付けてくる。
「その金魚は、どうする。柳が飼ってもいいし。僕はたまに見に来るだけで十分だ」
「すごいね、耕哉くん。この子に、くらくらにならないのは」
柳は名残惜しそうな目で金魚を眺めている。耕哉は返事をしなかった。
「そんな耕哉くんにお願いがあるんだけど」
「なに」
柳は耕哉の目を見つめた後、もう一度水槽の中の金魚に視線を落とした。名残惜しそうな表情を浮かべた後、強く目をつむって、水槽を耕哉のほうに押し出した」
「この子、どこかに捨てて来てくれないかな」
「いいのか」
柳は返事をするのにも、一瞬ためらっていた。
「うん、それにたぶん、この金魚をいらないって言えるのは耕哉くんだけだと思うんだ。どうして、耕哉君は大丈夫なのかな」
柳はずっと目をつぶったままでいた。
「俺だって惜しいさ。だけど、やっぱり回りにいる人のほうが大事だと思うから」
「強いね」
「買いかぶりだと思うけどね」
耕哉は、水槽を持って柳の家を後にした。柳は玄関まで見送りに来てくれた。柳に背を向けて歩き出したところで、服の裾を後ろから軽くつかまれた。柳は、うつむいて地面を見ている。前髪が目の上にかかって、表情は見えない。けれども、耳と頬が紅潮し、小刻みに震えているのがすぐにわかった。
「ごめん、本当にごめん。私は、本当にどうかしてるみたい」
「気にしてないから、今回ばっかりは、本当にしかたがないんだ。この金魚だけは、本当に特別なんだ」
柳はうつむいたままだ。
「そうだろう」
柳は首を振る。縦に振っているのか横に振っているのかよくわからないのだが。それと、決して前を向こうとしないのは、金魚を目にしたら心が揺らいでしまうとわかっているからだろう。
「こいつは、確かに捨ててくるよ、それで、万事解決だ。もう心配ないよ」
今度は、柳は小さくうなずいた。耕哉は今度こそ、柳に背を向けてもと来た道を歩き出した。




