異変
「耕哉」
「なんだよ」
「クマ」
猿投は、自分の眼の下を人差し指で示した。
「熊?」
耕哉は指を鋭い爪に見立てて、両手を顔の前にあげた。
「寝ぼけてんのか」
猿投はくすりとも笑わなかった。
盗難事件の日から一週間が過ぎた。しかし耕哉はまだよく眠れていなかった。金魚がいなくなったことを除いては、特別なことは何も起きていない。けれども夜、一人で家の中にいると不安な感情が胸の底から湧き出してくるのだ。今朝起きた時も、悪い夢を見た後の感覚が頭の中に残っていた。
「耕哉、お前もか。なんかあの祭りの日以来、何か変だな」
「お前も?」
「柳のことだ。やっぱり、お前ちょっと変だな」
猿投はやれやれといった様子だ。猿投にそんな態度を取られるとは、耕哉はよっぽど調子が悪いのかもしれない。猿投は、少し声を潜めて、
「柳と安野、全然話をしなくなったと思わないか」
気のせいだろう、と言おうと思ったが、今の状況では何を言ったところで信用してはもらえないだろう。
しかし実際のところ、少し注意を払えばその変化にはすぐ気が付いた。安野は教室の中央で何人かの女子生徒と混じって話をしているが、柳はその輪からぽつんと離れたところで本を読んでいた。昼休みも、お弁当をさっさと食べ終えてすぐにどこかに行ってしまう。そんなことは全く気にかけない様子で、安野たちはひとしきり騒いだ後、お弁当のにおいのこもった教室から逃げるようにでていった。
結局、授業がすべて終わった後も、安野はいちども柳に話しかけなかった。柳は、クラスメートとの間を安野に取り持ってもらっている部分があった。だから今の柳はまるで、ロープが切れてしまった小舟のようにぽつんと孤立していた。
昇降口から夕陽が差し込んで、廊下全体を赤く染め上げている。ちょうど、柳が校舎から出ていこうとするところだった。耕哉は手早く上履きから靴に履き替え、柳の後を追った。
「柳!」
目の前の華奢な体が、ばね仕掛けの人形みたいに軽く飛び上がる。小走りに隣に並ぶと、柳は一瞬目を合わせてすぐに視線をそらした。耕哉は、柳の姿を目の前にして言葉を失った。
「どうしたんだ、その恰好」
柳は、頭から水をかぶったみたいにずぶぬれだった。髪の先から滴が落ち、制服はぺったりと体に張り付いていた。
「大丈夫だから」
柳は歩くスピードを速めた。柳は早く話を終わらせたがっているようだ。
「柳、もしかして安野たちに何かされたのか」
「なんでもないよ」
柳は歩くスピードを緩めない。耕哉は、思わず柳の肩に手を伸ばした。
その手が触れた瞬間、柳は肩を大きく振って、乱暴に耕哉を振り払った。立ち止まる。柳は耕哉の目をまっすぐ見つめていた。耕哉は自分の背を、何か冷たいものが駆け上がるのを感じた。
「耕哉くんには関係ない」
柳の瞳は、色彩を失って灰色に濁っていた。まぶたはきちんと開いているのにうつろで、耕哉の姿を全くとらえていない。今日、猿投と話したときのことを思い出した。自分も、同じ目の色をして柳を見つめているのだろうか。
と、灰色の瞳が、白い紙に落とした墨汁みたいににじみ、柳は顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
「これは代償だから」
そのまま踵を返して、耕哉から逃げるように走りだした。追いかける気力は起きなかった。
次の日から、柳は学校に来なくなった。体調不良だと担任は説明した。耕哉は自分の席から、ちらりと安野の様子をうかがったが、安野は近くの席の友人と何か話をしていて、担任の話なんて聞いてもいないようだった。
「柳、本当に体調不良だと思うか?」
購買に押し寄せる生徒の列を眺めながら、猿投が聞いてくる。昼休み、猿投はわざわざ耕哉を、普段は利用しない購買に誘った。誘われた時点で、何の話かは察しがついていたが、果たしてその通りだった。耕哉は少し声のトーンを落とした。
「昨日の帰り、柳に会ったんだけど」
ずぶぬれのまま帰ろうとしていて、話しかけても全く耳を貸してくれなかったこと、泣きながら「代償だから」と走り去ってしまっていったこと。簡単に説明したが、柳の肩に手をかけようとして拒絶されたことだけは、話をする気になれなかった。
猿投は思案するように眉間にしわを寄せる。視線の先は購買のパンが並ぶケースに向けられているから、隣で見ていると買うべきパンを過度に真剣に選んでいるように見える。耕哉は思わず笑ってしまった。
「なんだよ、笑いごとじゃないだろう」
「ごめん、ホントごめん」
適当に買い物を済ませた後、渡り廊下から外に出て、部室棟のそばの段差に腰かけた。昼休みは、運動部の部室に人が出入りするから、この辺りは屋外で一番騒がしい。耕哉は今さっき購入した、カレーパンにかぶりついた。
「柳の言う『代償』っていうのはいったい何なんだ」
それは耕哉も気になっていた。日常会話の中で使うにはあまりにも大げさな言葉だ。
「安野の気に入らないことを、何かしたのかも」
それこそ、本人に聞いてみないことにはわからないが。二人で話していても、何もことが進展する気がしなかった。
昼休み終了の予鈴がなった。ごみを適当に丸めながら、猿投は慌てて立ち上がった。




