泥棒
「ごめん、今日はちょっと用事があって。明日なら、大丈夫なんだけど」
「わかった、明日ね。初めてだなー、やなちゃんの家行くの」
柳は、小学校のときと比べるとずいぶんよく話をするようになった。それも、柳と親しくしている安野という女子生徒のおかげだろう。安野は人の上に立つことが好きな性格で、学級委員だとかの委員を進んで引き受けるような人間だ。少しきつい印象を与える顔だちで、細いフレームの眼鏡がやたら似合う。その割に柳のことを、「やな」ちゃん、と呼び始めたのは彼女が最初だったと耕哉は記憶している。まじめが過ぎて他人を圧迫することもない。ともかく安野のおかげで、柳はクラスメートからも一人のキャラクターとして認知されることになったのだ。
「耕哉、安野さんがそんなに気になるのか」
クラスメートのひとりが机のそばに立っていた。耕哉からすると、安野はどちらかというと苦手なタイプである。
「今日宿題出してなかったからさ、何か言われるんじゃないかと警戒してる」
クラスメートは面白そうに笑った。
「何か言われる前に、今日はさっさと帰ろうぜ、それとな」
クラスメートは拳を握りしめた。
「今日こそは負けないぞ、耕哉」
「いいだろう、返り討ちにしてやるよ」
「場所はどうする?」
「商店街のGAME TIGERでどうだ」
「いいだろう、放課後、そこに集合な」
実を言うと、柳も結構格ゲーがうまいのだ。ついでに誘っていこうと思ったが、今日は用事があるからと話をしていたことを思い出して、やめた。
ゲームセンターは学校から家に帰る途中の商店街の中にある。距離的に訪れるのが難しい場所ではない。けれども。遊ぶことのできる時間は、下校後のほんの数時間に限られる。
「中学生はもう帰る時間だ。早く出てけ」
GAME TIGERの店員は、耕哉とクラスメートをゲームセンターからたたき出した。クラスメートがぼやく。
「六時以降は立ち入り禁止。未成年のつらいところだな」
暮れかけた空はまだまだ明るい。遊ぶ時間は十分あるのに。
「全く。せっかく親がいないのに」
クラスメートと別れて帰途についた。しばらく一人で歩いて、自宅にたどり着く。自宅のドアノブに手をかけたところで、ふっと思い出した。両親は出張しているのだった。そのことを忘れて、鍵を開けないままノブをひねってしまった。
しかし、ノブは抵抗を示すことなく回り、力を加えるとドアはいつも通りに開いた。両親が帰ってきているのかと思ったが、玄関の靴を見て違うとわかった。今朝出かけるときと比べて、靴の数も、その種類も、何も変わっていないからだ。
鍵をかけ忘れたのかと思った。靴を脱いで減にあがった。知らないうちに、首筋から汗が流れ出しているのに気づいた。流れ出した汗は、たぶん暑さのせいだけではない。嫌な感覚が胸の奥の方からじわりじわりと広がって、全身が少しずつ硬直していくのを耕哉は感じていた。
ゆっくりとドアを開け、リビングに入る。一見。特に荒らされた様子はなかった。引き出しやタンスを開けて、通帳やハンコ、貴重品の類がなくなっていないかを確認する。幸い、何も盗まれてはいないようだ。自分の財布も、普段から持ち歩いているから問題ない。どうやら、本当に鍵をかけ忘れただけだったようだ。
ほっと一息ついたところで、壁際に設置した水槽に目をやった。夏祭りで捕まえた、美しい金魚がいるはずの水槽だ。
しかし、耕哉の予想に反して、水槽の中では水草が揺れているばかりだ。耕哉の捕まえた金魚は、その中からいなくなっていた。
水槽の中には、十分な水と、底に敷き詰めた砂と石、それと水草の類しか入っていない。金魚が隠れるようなスペースがどこかにあるだろうか。水槽から飛び出して、床に落ちたのかもしれないとも思ったが、床は濡れていないから、その可能性もないだろう。
誰かが、この家に入って、金魚を持ち去って出て行ったのかもしれない。
耕哉は自宅の電話を手に取った。父親の番号をダイヤルする。呼び出し音が鳴る、けれど父はなかなか電話に出ない。焦る一方、冷静に考えると、この状況をうまく説明できるか自信がなくなっていた。
もし誰かが家に入ったことが本当だとしても、自分が昨日屋台で取ってきた金魚が盗まれたことを、どう説明したらいいだろうか。父は、そもそも耕哉が金魚を取ってきたことも知らないのに。
『留守番電話に接続します』
父の携帯にはつながらなかった。むしろ耕哉はほっとしていた。
きっと、あの小さな岩の裏側に、水草の隙間に、器用に隠れていて見えないだけだろう。耕哉は、まったく自分でも納得していない理由を無理やり作り上げて、考えることをやめた。水槽を覗き込んで中を詳細に調べることはしなかった。
泥棒が金品目当てで家に入り、金魚の美しさにひかれて金目のものを忘れて出て行ってしまった、などという推測を、誰かが信用してくれるとは思わなかった。
胸の奥から湧き上がってくる不安を押し殺しながら、耕哉は玄関から出て、郵便受けの鍵を回収した。そして、外が暗くなると家中の明かりをすべて店頭した。眠るときには、金属バットを枕元に置いた。両親が帰ってきたら、何と説明しようか本当に困りそうだと思った。
水槽から金魚がいなくなった日、耕哉はよく眠れなかった、だから、次の日は体調がすぐれなかった。朝、ベッドから起きて身支度を整えるのがとてもつらかった。登校中も、ふらふら歩いているところを後ろから自転車に激突されそうになった。さらに、赤で横断歩道を渡ろうとしてしまい、鼻先をトラックのホロがかすめていった。
重い体を引きずりながら教室に入ったところで、後ろから思い切り肩を叩かれた。猿投だった。そのまま歩き去ろうとしたら、今度は肩をつかまれた。
「なんか言えよ」
「眠い」
耕哉はそのまま自分の席に着席した。
「やなちゃーん、今日の夕方は家に行ってもいいよね」
「良いよーいつでも」
安野と柳は、いつもよりも元気そうだ。放課後、二人は仲良くそろって教室から出て行った。何人かのクラスメートも一緒だ。猿投のしていたような心配は、もう必要ないことがはっきりとわかった。
「今日もぼやっとしてやがるなあ」
「うるせえ」
次の日も、相変わらず体調がすぐれなかった。教室の前まで来たところで、猿投が入口をふさいでいて、ますます疲労がたまっていく。
「どいてくれ」
「いいだろう、俺を倒すことができればな」
いつもなら相手をしているところだが、今日ばかりはいら立ちが募るばかりだ。後ろの扉から教室に入ろうと踵を返しかけた耕哉の後ろから、細い腕が伸びてきて、猿投のみぞおちを鋭く捉えた。
「倒した。行きましょう」
柳は猿投の傍らを颯爽と通り過ぎる。その背に向けて手を伸ばす猿投のしぐさが、妙に芝居がかっていて面白い。
柳はそのまま自分の席まで歩いていく。途中、安野とすれ違った。そこで何かを声をかける。昨日のことで、何か話をしようとしているのだろうか。
しかし声をかけた柳に対して、安野は返事を返さずにそっぽを向いた。柳は、一瞬ぎこちない笑みを浮かべて安野が席に着くのを見送ってから、自分も席に戻った。明らかに元気がない様子で、顔がうつむいている。安野のほうをできるだけ見ないようにしているようにも思えた。
その様子を見て、耕哉は違和感を覚えたが、他人のことに気を配っている余裕はなかった。とにかく眠いのだ。絡みついてくる猿投を振り払って、耕哉も着席した。
その日も全く授業に集中できなかった。目をつむっては開けての繰り返しで、瞼を開けたままにしておくためにすべての労力を割かなければならなかった。




