天暦992年 7月15日 始まりの朝
‐国法‐
壱 人を殺してはならない
【いついかなる状況においても、他者の生命を剥奪する行為は許されない】
田中君が必至の形相で逃げていく。
自分の手首に巻かれた腕輪が赤く光りだしてから、学校の廊下を、階段を、ずっと走っている。かく言う僕も、そんな彼をずっと追っている。本人にも、周りの生徒にも気づかれないように。さりげなく、けれど確実に。
田中君は階段を上り、屋上付近までやってきた。彼に見つからないよう、階段の死角に立つ。
ここまで予想通り過ぎると、思わず笑ってしまいそうだ。声を必死に抑えて、僕は次の準備にうつる。 こんなところまで来る生徒はそうそういない。ましてや今は朝のホームルーム直前の時間だ。ここの階段は吹き抜けになっていて、下の様子もよく見える。周囲にも下にも誰もいないようだ。これも、予想通り。
屋上につながる最後の階段を登り切り、田中君が一息つく。その瞬間を、僕は見逃さない。
「よい、しょっと」
僕があらかじめ用意しておいたピアノ線を持ち上げ、思いっきり引っ張ると、田中君の隣にあった掃除用具入れが派手な音を立てて開いた。
神経をとがらせていた田中君は「うぉあぁあああああ!」とみっともなく叫びながら二、三歩、勢いよく後ずさった。
そして背中が階段の柵に当たる。
柵にもたれかかるように、彼の重心は後ろに傾いている。
階段の柵は体を支えてくれると、そう思うよね。
だってしっかりしてないと、人が落ちちゃって危ないもんね。
だから。
「その柵、ボルトが抜いてあるんだ」
そこから先は、スローモーションのようにゆっくりだった。
緑色の柵は階段から乖離し、下に落ちる。
支えを失った田中君の体も、当然のように後を追って落ちる。
バック宙をする時みたいに背中から空中に放り出された彼は、逆さまになりながら目を見開いていた。
その眼と、視線がぶつかる。
あ、これは僕がやったってばれちゃったかな。とりあえず手でも振っておけばいいか。
ひらひらと右手を振った僕の姿は、ちゃんと彼に届いていただろうか。届いていたらいいなぁ。最後に挨拶くらいは、しておきたいもんね。
「僕が転校してきた日、最初に話しかけてくれたのは田中君だったよね」
田中君が落ちていく。
「最初は席が隣でさ。教科書とか忘れちゃったとき、よく見せてくれたよね」
田中君が、落ちていく。
「授業中居眠りしてて先生に当てられた時、こっそり答えを教えてくれたことも、あったよね」
田中君の体は、壁に当たって柔らかくバウンドして。
「君はとっても優しかったよね」
やがて床に到着して、散らばった。
「だから僕は」
決して元には戻らない、肉でできたパズルのピースは全部真っ赤に染まっていて、何十メートルも上の僕の場所からでも、よく見えた。
「君を殺そうと思ったんだ」
低音のアラームが鳴った。
無事にやり遂げた達成感を感じつつ、大きく伸びをする。
窓から見える空の色は、さっきまで見ていた赤とは対照的に真っ青で、僕は思わず微笑みかけた。
「うん、今日はいい一日になりそうだね」
天暦九九二年七月十五日。
僕は田中君を殺した。
とても手際よく、清々しく、後腐れなく、殺した。