結末
叡太郎君が生きて山を下りる事は無かった。
如何やら隠し持っていた肥後守で喉を掻き切って自害したらしい。苦悶の跡である返り血に塗れた彼の顔が安らかに見えたのがせめてもの救いであろう事も併記しておく。
弥山が水野伯爵への伝言を買って出て、蝙蝠屋が浅草に帰り、村田が月照寺の無縁仏に葬られて以来、彼らとの接点は無くなった。
我々を繋いだあの夜は、二人の魂を持って足早に過ぎ去った。喉元過ぎれば熱さは忘れ、後は日々の塵労に埋没するだけである。
昼は幻、夜は夢。私は今日も生温き地獄の片隅で暮らしている。
―――原稿が仕上がった。
此の矮弱な紙束が私の生きている証である。そう考えると、細い命綱一つで空中散歩する様な危うさが身に染みる。
文字の海を生み出す能力が絶えてしまえば、私は死んだも同然だ。
死。人類に平等に訪れる絶対の事象。軈て踏み鳴らす舞踏……。
先にあるのは? 果てに見ゆ世界は?
花咲き乱れる極楽か、贖罪の場たる地獄か、何方でも同じだろう。
私が生きている世界よりずっとずっと蠱惑的で魅力的な世界なのだ。死の世界は、其れこそ蓬莱山の様な美しき場所だ。
神田神保町、或る旅館の四畳半の部屋に籠る私は、可笑しな病に罹っている。
首を吊って見ようか―――。
フッと隙を作れば即座に、脳味噌の空洞に其の台詞が紛れるのだ。
私には縊れ鬼が見えない。姿無き何者かが私の意識を乗っ取ろうとしているのやら、そんな事は最早分からない。
一つ空気を入れ替えよう。曇り硝子の窓を開けて、秋の涼しき空気を肺腑一杯に吸い込めば、アッと言う間に晴れやかだ。
そうして見えた公孫樹の木に、私の目は釘付けになった。
―――綺麗な山吹色の、背の高い木だ。
あんな高い場所から見れば、地獄も花が咲いて見えるだろう……。