五話目 村田吉三
見ての通り、あっしは佝僂病に罹っておりやす。傴僂だ何だと人様に笑われますが、あっしがこうなったのは祟りや呪いなんかじゃ有りやせん。
あっしが餓鬼の時分、一家が散り散りになっちまいやして。其れが原因で食う物も食えなくなって、栄養が回らなくなった。其れでこんな見っとも無い姿になっちまったんでさア。
まあ、あっしの身の上なんざ如何でも良い。あっしが話したいのはね、此の山の話なんです。エエ。
……抑々、何故にあんた方は此の山に? 雨が降っているのに、山に登りたがるお人なんざそうそう居やしません。其れも、選りに選ってこんな山に……。
縊れ鬼と云うのをご存知ですかイ。此処にはそんな化け物が潜んでいるって話なんですがね。
何んでも、此奴に憑かれると、首を吊りたくなるとか。……首をくくった仏は必ず此処で見付かるんでさア。ホレ、あの梁。あすこに縄を引っ掛ければ良い塩梅だ。
あっしはね、縊れ鬼に会おうと思って此処に来たんです。どうせ老い先短い独りぼっちの爺、死んだ処であっしにも世間様にも問題は有りゃしない。鬼に会うなんざ、冥土の土産にゃ丁度良い経験で御座んしょう?
それで、鬼が来るのを今か今かと待ってるんですが……夜も更けて来たのに一向に来ないと来やがった。ヒヒ、お笑い種だ。
……其れにしても此の雨、一体何時から降ってるんだか、一向に止みやしねエ。まるであっしらを外に出させまいとして……イヤイヤ、只の杞憂、老人の譫言と云う事にしておきやしょう。
縊れ鬼なんですがね。お江戸の昔から此の山に巣食っていたって話でさア。
新しい時代になってから、文明開化だ何だで大騒ぎで、モウ妖怪変化は蚊帳の外。今まで恐れられていた化け物達は、迷信の一言で御役御免……。
縊れ鬼だって例外じゃ有りやせん。若い衆の中にゃ、鬼の話自体知らないって奴も居るんでさア。あっしの様な年寄りからしちゃあ吃驚仰天だ。
身の周りが目紛るしく変わって追っつかない。昔自分が化け物を恐れていたのが信じられなくなって来る。あっしが莫迦みてエに怖がっていたお化け達は本物だったのか? ……何てね。
だからね、此の眼で見て遣ろうと思ったんです。迷信なんかで無く、お化けは本当に居るってのを証明して遣ろうって。
あっしが山に来たのはそう云う理由でさア。
此の小屋であんた方に出会えたのは本当に幸運だった。エエ、何てったってあっしは乳飲み子の時分から怪談が大好きなんだ。最期に上等の怪談を聞かせて戴いた御恩、感謝してもし切れやせん。
それに、ホラ、よく言うでしょう。
怖い話をするとお化けが出るって……。
***
凄まじい落雷の音がして、心臓が引っ繰り返るかと思う位の衝撃に襲われた。
そして、一瞬にして辺りが暗くなり、小屋内が漆黒の闇に包まれた。……如何やら洋灯の燃料が切れたらしい。
「直ぐに灯りを点ける! 落ち着いて暫し待たれよ。」
蝙蝠屋の声の後、ガタガタと引き出しを開ける音がした。少々手古摺った様だが目的の物は見つかったらしく、燐寸を擦る音と共に小さな火が灯る。
私に燐寸を預け、蝙蝠屋は又引き出しを漁ると、今度は蝋燭を取り出して洋灯に設置した。
「…ウワアア――――――アっ」
又心臓が跳ね上がる。叡太郎君の叫びで全員が喉を晒し、驚愕を露わにする。
視線の先に在るのは、一本の腰紐で梁からぶら下がった村田吉三の体。魂の重量を欠いた空虚な肉体……。
其の足元に、主を失くした襤褸の蛇の目が転がっていた。
「何だ、此れは!」
「分からん……一体如何にして此の様な……」
「兎も角下ろして遣らねば。……貴殿も手伝って戴けないか。」
「あ、あんた達は、見えていないのか! 其処に、其処に珠子さんが!」
震える指先で叡太郎君が指したのは村田のすぐ隣だったが、女性など影も形も見当たらない。
「珠子さんがやったのか……何で…」
「落ち着かないか! 貴君は先程から一体何処を見ている?」
「矢っ張り珠子さんは怒っているんだ! ぼ、僕も縊り殺される…」
弥山には一切視線を合わそうとしない叡太郎君の口振りは声量こそ有るものの、誰かに言っているのでは無く、まるで自分を説き伏せている様に要領を得ない。
「離せ!」
「あッ、おい!」
「身共が追う! 村田殿を頼む!」
「承知した!」
叡太郎君に続いて蝙蝠屋が小屋を飛び出した。遠ざかる足音とは反対に、雨音が弱まる気配は無い。
「とんだ事態になってしまったな。」
「エエ……俄かには信じられません。」
背の大きな弥山が梁に括り付けられた腰紐を外し、私は村田の体を支えた。老人故か彼の体は予想以上に軽く、支えるのに然程力を必要としない。
腰紐を外し、村田を床に横たえさせると、改めて我々は腰を下ろした。
「妖の仕業と思うか。」
「…本当に化け物が居るとは、まだ信じ難いですが。」
「貴君も分かるだろう。あの様な暗闇の中で首を吊るのは相当に難しいぞ。背丈の問題も在る……縊れ鬼とやらの力でも無ければな。」
「確かに、そうですが……。」
「貴君が山に登った理由は何だ?」
「見聞の為です。」
「そうか。手前は修行の為だが……鬼の伝説等寡聞にして知らなかった。」
「私もですよ。知っていれば登っていません。」
「然り。……禁域に足を踏み入れるべきでは無いな。せめて此の談話会を取り止め、直ぐにでも下山すべきだった。其れを豪雨に邪魔された。」
未だ雨が降っている。真逆野分ではあるまいな。―――そう考えていると小屋の戸が開き、濡れ鼠になった蝙蝠屋が入ってきた。
間も無く彼に肩を抱かれた叡太郎君が現れる。顔は青白く、今にも風邪を引いて倒れそうな弱々しさだ。
曰く、崖から落ちそうになっていたのを間一髪助けたらしい。先程の狂態からして大分精神が疲弊しているのだろう。
叡太郎君を座らせ、蝙蝠屋は幼子に言って聞かせる様に優しく緩やかな弁舌で諭した。
「身共らが着いている。」
再び手拭いを頭から被らされ、今度こそは逃走する事も無く叡太郎君は俯き黙した。
我々はモウ一度洋灯を囲んで車座になった。
……此れから如何すれば良いのだろう。小屋に留まり鬼を待つのか、視界も足場も良くない山を下りるのか、何方も最良の選択とは思えない。
「山を下りるのは止めた方が好い。此の天気だ、足を滑らせるかも知れない。野犬が出る虞も有る。」
「では、此処で朝を待つか。村田殿の最期を見た者としては、余り気が進まぬが。」
「ならば、首を吊れる様な物を排除しよう。紐状の物は全て埋めておく。」
勿体無いが従うしかない。不安要素は出来る限り無くしておいた方が良いだろう。私は所持している限りの紐を蝙蝠屋に渡し、三人の物と一緒に外の木の下に埋めた。
「眠ろう。眠れば体は動かない。首を吊る事も無い。」
***
ザア―――ッ……
雨が降っている。空を黒く塗り屈め、激しく地面を打ち鳴らす豪雨が我々を閉じ込めている。
モウ朝だろうか。体を起こして見ると誰も居ない。私を置いて下山してしまったのだろうか? …そんな筈が在るものか。
戸を開けた。……雨音が止んでしまった。一滴も雫など落ちて来ない。東雲色を稀釈した様な空が何処までも広がり、其の真下には在ろう事か、金銀の樹木が立ち並んでいた。
……莫迦な。此処は何処だ?
踵を返して小屋に戻り、戸を閉めると、矢張り三人の姿は無い。代わりに、十五、六の少女が一人、帰る場所を忘れたかの様に佇んでいた。
私は何故だか其の少女が、叡太郎君の言っていた【珠子さん】だと直感した。
【珠子さん】は私に一瞥を遣り、スウと息を吸って朗々と歌い始めた。『かなりや』の唄を……。
厭な臭気が鼻を突く。其れが足元から立ち上って来る物と気付いた時には、下を向いた私の視界に赤く汚れた木目が映っている。
「ワアアッ!」
「ヒヒ。ヤアヤア愉快だ。実に楽しい。ヒヒ……」
哄笑が上がり、梁からぶら下がった村田の死体が気味悪く揺れた。私はモウ立って居られなかった。…此れは夢だ。夢だのに、未だ覚めぬ。
「死にたい奴ァ死なせれば好い。あんた方はあっしを死なせてくれた、然らばあの書生も死なせて遣るのが道理じゃないかエ? 元来の死にたがりが、此処に来ちまったんなら、後は死ぬのが運命ってモンだ。ヒヒ、嗚呼其れにしても本当に良かった。あっしが恐れていた物は迷信なんかじゃあ無かったって事が分かったんだから。後は野と成れ山と成れだ……」
村田が腐って行く。骨に皮が張り付いた様な体が見る見る内に朽ち果て、真白き骨が露わになる。
……此れが死ぬと云う事なのか? ならば、村田は何処へ行くのだろう。
地獄を脱した彼に何が待つのか。邪推する限り、彼が行くのは更なる地獄に思えてならなかった。
「今、あんたの背中に、縊れ鬼が憑いた。」