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黒雨夜話  作者: ずほ子
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三話目  篠森順風

 私は神田の旅館に下宿しております。人混みを離れた場所での執筆も良い物ですが、私は人混みこそ物書きに重要な物と考えております。

 現実感リアリティーの有る文章を書くには、人間をよく見る事が重要ですから。

 それに、噂話ネタが豊富に手に入ります。何処の誰が如何しただの、ああしただの、そう云う話がポンポン湧いて出るのです。その中から一つお聞かせしましょう。

 …下宿先に出る亡霊の話で御座います。ハイ、私も此の目にハッキリと姿を収めております。

 旅館の名は、仮に“ぐるま荘”としましょう。其処の宿泊客から聞いたのが、抑々(そもそも)の始まりであります。

 

 或る雨の夜、一人の女が文車荘の門前に立っておりました。線の細い美しい女です。其れが「今晩の宿を貸してくれ」と言うのです。

 丁度、部屋が空いておりましたから、主は快く宿泊を許しました。

 「あんたの様な若い娘さんがこんな夜半に、雨も降っているのに、どうして外に出ていたんだい」と主が問いますと、女は「親類の所まで出ておりましたの。その帰りです」とにこやかに返しました。

 近頃は物騒な事が多いですから、止む無く一夜の宿を、と云う具合でしょう。

 主は二階の部屋に女を通すと、直ぐに食事を持って来させると言って階下に降りました。

 女中に握り飯を届けさせてから、主は宿を閉め床に就きました。

 翌日、主は面食らいました。朝食を持って行った女中が慌てて降りて来たのです。彼女が言うには、女の姿が跡形も無いとの事。

 宿代を踏み倒されたと判じた主が憤怒の形相で部屋に赴きますと、成程女は何処にも見当たりません。然し、荷物だけが残されているのが何とも不可解でありました。

 然程広くは無い部屋に、つい昨日まで居た筈の女だけが見当たらぬので御座います。まるで部屋に呑み込まれてしまったかの様に…………

 遂ぞ、女が見付かる事は有りませんでした。


 『と、云う顛末さ。』

 『恐ろしい話ですね。』

 『そうだろう。お前さんにとっては特に恐ろしいだろうよ。』

 『如何云う訳です?』

 『女の消えた部屋はな、お前さんの下宿してる部屋さ。』


 …よく在る陳腐な怪談だと思いました。怪奇小説としては凡作だと。

 然し、此れが自分の身近で起こった話だと聞かされれば如何でしょう? 私は背中の痒くなる様な思いでした。

 よもや“人を呑む部屋”を寝間にして居ようとは。其れを知った所で、凡人たる私に何が出来ましょう?

 精々、「何、只の怪談だ。大の男が心配する事でも有るまい」と強がる程度です。



 ―――あれは雨の酷い夜でありました。今の様に、雨音しか聞こえぬ静かな夜でありました。

 眠れぬのを良い事に、私は原稿を書いておりました。締切が近かったので、少しでも早く仕上げてしまおうと思ったのです。

 面白い様に筆は進みました。其の所為でしょう、襖が開いている事に気が付かなかったのは。

 大分夜の更けて来た頃、漸く眠気が私を包み込みました。執筆を中断し、布団に横になると、初めて部屋の暗さが浮き彫りになった様に思います。

 そして思い出したのです。“人を呑む部屋”を。―――女が此処で消えたのを。

 布団を頭から被りました。感じたのは本能的な恐怖であり、次の犠牲者は自分ではないかと云うおそれであり、此の部屋に潜む者からの防衛反応です。

 部屋の静寂が布団の上から私を圧迫しました。聞こえるのは雨音ばかりで、何者かの気配など微塵も感じないのに、誰かが潜んでいる気がしてなりません。

 息一つ漏らさぬ様に縮こまっておりますと、もう後は根比べです。姿どころか気配すら見せぬ何者かと、私は戦っていたのです。

 いえ、その時の私は確信しておりました。“人を呑む部屋”の主が居ると。女一人では飽き足らず、私までを喰らわんとする人ならざる者が、虎視眈々と私を狙っていると。

 其処で漸く襖が空いているのに気が付きました。今すぐにでも閉めに行きたかったが、動く訳にはいかない。動けば部屋の主の餌食になってしまう。

 襖の闇が私を捉えます。暗い部屋の中に有って尚、其の闇黒は暗く思えました。

 もう無理にでも眠ってしまおうと目を閉じた時、ガタッと音がしました。滑りの悪い襖を開けた音でした。其れに驚き、身を震わせた瞬間、闇黒から何かが這い出て来たのです。

 長い黒髪でした。畳の上に落ち、蛇の様にうねりながら何処までも伸びて来ます。私の布団の上にも……。

 堪らなくなって、今度こそ布団に潜り込みました。此れは悪夢だ、朝が来れば覚める……然し時刻は未だ夜です。布団越しに伝わる髪の感触は消えてはくれません。

 此れは消えた女の髪だ。そう感じました。

 雨音に混じって誰かが喋っています。か細い女の声です。

 「…誰か……。」

 私には、話に聞いた女が喋っている様に思えるのでした。

 「助けて……助けて……」

 其の声は助けを乞うていました。きっ、“部屋の主”から逃れようと藻掻いているのです。声色の何たる哀れな事か、私を跳ね起きさせるには十分でありました。

 部屋の空気に身を晒した私の前に、女の顔が有りました。

 確かに線の細い、優美な女でした。然し、恐怖に支配され、赤子の様に大きく口を開けている様は、女の美しさを根こそぎ奪っておりました。

 女は、黒い影に覆われていました。よくよく見ると其れは髪でした。黒く、太く、ザラザラとした質感の、途方も無く長い髪だったのです。其れが女の全身に巻き付き、絡み付き、拘束しているのです。

 私はその姿に不快と恐ろしさしか感じませんでした。

 悲鳴を上げようとしましたが其れは叶いません。女に巻き付く髪が私の方に伸びて来たからです。

 口腔に入り込んで舌を押さえ付け、喉を塞ごうとする髪を、私は必死の思いで引き千切りました。然し髪は怒涛の勢いで伸び、再び口を侵食します。


 『助けて…』

 『ぎゅぐ、るるぐ……』


 消え入りそうな女の声の隙間で、とても人間の言葉とは思えぬ声が囁きました。低音ですが獣の唸りとも又違うのです。地球上の如何なる言語も、其の言葉には当て嵌まらない様に思えました。

 言うなれば、あれは次元を別つ者の言葉です。此の世を追われた神の言語です。

 文筆家の私が言うのも変でしょうが、文字にして書き起こす事すら放棄したくなる、おぞましくも隠微な言葉でした。

 女の声は最早蚊の羽音より小さき物でした。“部屋の主”の声が取って代わり、私の鼓膜を不気味に打ち震わしました。

 半開きになった襖が段々と近付くにつれ、意識が遠のいて行きます。部屋中にのたうつ髪が()()()と闇黒に引き込まれ、融ける様に一体となるのです。

 やがて私の視界にも黒く影が落ちました。目には“部屋の主”のぐしが、耳には“部屋の主”の御声が其々絡まり、最早見る事も聞く事も話す事も、動く事すら能いません。

 為すが侭、私は襖の奥へと引き込まれて行きました。其処は境目で在り無明の闇黒で在り“部屋の主”の巣、じんかんならざる者の世界であります。

 生死の狭間に在って朦朧とする頭の中、“部屋の主”の声が反響していました。

 何時しか声は、あの女と同様【何かを求める声】である様に思えたのです。



 目が覚めた時、私は暗闇の中でした。

 起きると同時に強かに頭を打ちました。そうです、何と私はおしいれの中に居たのです。

 何が何だか分からぬまま襖を開けますと、其処は私の部屋でした。他人の姿など影も形も在りません。

 ノロノロと押入から出ました。―――荷物も服も其の侭です。皺一つ無い布団を差し置いて、私は押入で寝ていたと云うのでしょうか?

 私は昨夜の出来事をハッキリと覚えていました。

 “部屋の主”に引き込まれたのだ。

 然し、如何にも夢であった様な気がしてなりません。夢遊病患者の様にフラフラと寝惚けて、独り出に押入に入ってしまったのかもしれない。

 ―――ならば、此の黒髪は一体誰の物だ?

 其処ら中に散らばった髪を摘まみながら、いやに冷静に考えました。そして、改めて夢では無いと確信し、冷や水を浴びた様にゾオッとしたものです。

 斯くして私は何の因果か絡繰りか、“人を呑む部屋”から無事生還したのであります。



***



 「此れにてお終いです。」


 如何にか形にはなっただろう。一仕事終えた私の気分はスッカリ晴れやかであった。麦酒ビイルでも呷りたいが、此処は飲食店では無いし、外は変わらずの豪雨である。

 労を労ってくれるのは傴僂の称賛ぐらいの物だった。

 「コリャお見事! ヒヒ、あんたもド偉い経験をしたもんだ。エエ?」

 「中々に面白い話だった。まるで講談でも聞いている様に思えたものだ。…手前の見た物は真実まことなのか。」

 「…御想像にお任せとしましょう。」

 今度ばかりは私の生業が役に立ってくれた。咄嗟に考えた話でも案外受ける物だ。

 「では、次は身共が話すとしよう。宜しいか?」

 傴僂の待ち遠しそうな視線を受け、蝙蝠屋は気障な仕草で扇を広げると、洋灯ランプの灯りで顔を照らした。

 

 「改めて名乗らせて頂こう。身共は蝙蝠屋華歳と申す。」

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