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黒雨夜話  作者: ずほ子
2/7

一話目  犬塚叡太郎

 水野伯爵には、それは美しいご令嬢がいらっしゃいました。たまさんと云う、真珠の様な肌をした人です。

 珠子さんは音楽が得意で、歌は勿論、箏やオルガンも器用にこなすのです。彼女の調べは屋敷中の人達を楽しませました。

 僕は、珠子さんが好きでした。美しく器量が良く、僕のような者にも優しく声を掛けてくれる彼女に、惚れてしまったのです。でも、その告白はしませんでした。今の侭、珠子さんと過ごす事が、僕にとって何物にも代え難い宝でしたから。

 僕はずっと珠子さんと暮らしていたかった。僕の望みなんて其れ程だったのですよ。でも、僕の望みは無残にも踏み躙られたんです。誰も彼も、珠子さんを救えはしなかったんですよ!

 …僕も同じです。僕も彼女を救えなかった。どころか、恐怖した。変わり果てた彼女の姿に慄き、恐れてしまった。


 ―――珠子さんは、女学校の音楽部に属していました。何でも、発表会があると云う話で、珠子さんは聴衆を前にして歌う事になっていたそうです。早い話が花形ですよ。

 随分と張り切っていました。外国の唄を歌うのだと言って、僕に話してくれたんです。

 発表会を目前に控えたあの日も、心ここに在らずと云うのか、地に足憑かぬと云うのか、ソワソワと落ち着きを無くしていました。「頑張って下さい」と声を掛ければ、ぎこちない笑顔を返して、僕や伯爵よりもずっと先に女学校へと向かいました。小鳥の鳴く、早朝の事でした。

 其の日は日が暮れても珠子さんは帰って来ませんでした。

 どれ程待った事でしょう。心配だけが募る中、珠子さんが暴漢に襲われたと報せが来ました。何分突然でしたから、あの伯爵でさえ動揺されていた。報せが事実だと知るや否や、それは恐ろしい顔で病院に向かわれました。僕も慌てて御供しました。

 …東京を騒がしていた暴漢をご存知じゃありませんか。何人もの婦女子を襲い、挙句に命を奪う卑劣漢です。今は知りませんが、新聞の常連だった様ですから、世事に疎い僕も存在は知っていました。

 珠子さんは其奴そいつに襲われた。そして尊い純潔を奪われたんです。

 それだけじゃありません。必死に助けを求め叫ぶ珠子さんの喉を、暴漢は刃物で切り付けたんです。どうせ殺すつもりだったんでしょう、かなり深い傷が残っていました。

 悲鳴を聞いて駆け付けた方が応急手当てをして下さらなければ、珠子さんの命は無かったと病院の先生が仰っていました。それ程の傷だったんです。

 伯爵も僕も怒りに震えました。でも、この時の僕は、珠子さんが生きているだけましだと考えていたんです。純潔を奪われ、喉を裂かれたと云うのに、彼女が死ななかっただけでも幸せだと考えていたんですよ。

 僕は直ぐに自らの愚かさを自覚しました。珠子さんの病室に入って、彼女の声を聞いた時です。

 最初、彼女が何を言ったのか分かりませんでした。お父様と言ったのだと、理解する迄僕は自分の耳と脳を疑っていました。

 耳も脳も正常でした。聞き取れなかったのは、彼女の声が酷く潰れた濁声だったからなのです。

 僕の知る珠子さんの声とは全く違う声でした。可憐で、優美で、秀麗だった声の面影は何処にもありませんでした。

 珠子さんは又何か言いました。…僕の名を呼んだのです。そして、彼女は濁った声で嗚咽を上げました。

 歌を至上とする珠子さんにとって、歌えないのは絶望その物です。海よりも深く、山よりも大きな絶望です。

 白い包帯の巻かれた咽喉のどを震わせて、珠子さんは泣きました。伯爵も僕も、その場にいた者全員、黙りこくっていました。

 翌日、又病院から報せが来ました。夜中、珠子さんが急に起き上がり、病室内を荒らし回ったと言うのです。

 伯爵は御勤めに、僕は大学に行っておりましたので、野口と云う古参の使用人が代わりに病院に向かいました。

 「精神に疾患を抱えているとの事」…先生がそう仰ったと言っていました。てんきょういんへの入院を勧められたそうです。

 伯爵はこれに難色を示した様でした。珠子さんは良家の子女ですし、名家水野家の跡を継ぐ御方です。そんな方が癲狂院などに入れば、家の名誉に関わると云う事でしょう。

 

 『お嬢様は精神を病んでいらっしゃる。今は少しでも心の安定を試みるのが、お嬢様にとっても良き事であると存じます。』

 

 然し、野口は先生の提案を受け入れる積もりの様でした。

 彼にとっても苦渋の選択だったのです。家の名誉と引き換えに、珠子さんを回復させる。僕もそれが良い様に思われました。僕らの出来る術など皆無に等しいのですから。

 一人娘を想う気持ちがそうさせたのでしょう、伯爵は珠子さんを癲狂院に入れる決意をなさいました。

 そして、珠子さんは東京から少し離れた癲狂院に身を置く事になったのです。

 あの―――この世の地獄に。



 珠子さんの病室は鉄格子の付いた、白い壁の殺風景な部屋でした。いっそ牢獄と言っても差支えありません。

 その部屋に、黒髪を無造作に伸ばした珠子さんがいました。簡易なベッド以外に何も無い部屋、そのベッドさえも滅茶苦茶に荒らされた部屋の中に、珠子さんは君臨していました。

 彼女の名を呼ぶと、ゆっくりとこちらを向きます。そして―――あの目で僕をじいっと見るのです。

 あの……沼のように淀み光を宿さない目で、僕を見るのです。そこで初めて気が付きました。包帯に血が滲んでいる事に。

 もっとよく見れば、彼女の爪が赤く汚れているのです。瞬時に理解しました、ああ喉を掻き毟ったのだと。

 「―――叡太郎さん聞いて。 私未だ歌えるのよ。」

 ボサボサの髪で、ガラガラの声で、暗き双眸で、言葉だけは前の彼女そのままに、言いました。そして痛々しい程の笑顔で、歌ってくれました。

 珠子さんが好きだった「かなりや」を。


 『うたを わすれた かなりやは うしろの おやまに すてましょか いえいえ それは なりません』


 最後まで歌い終えると、珠子さんは涙を湛えて僕の手を握りました。そして、こう乞いました。

 「私は歌を忘れていないわ。だから捨てないで。お願い。」

 真珠の頬に涙が流れ落ちます。其れと反対に、口元は妙に釣り上がった笑みを浮かべているのです。嗚咽と一緒に、珠子さんは乾いた声で笑うのです。

 そして握った手に力を込めるのです。其れは僕が逃げない様に、有りっ丈の力で拘束しているようにも思われました。

 僕は何も言えませんでした。彼女が怖かった。あの、絶望の化身の様な彼女が、只々恐ろしかったのです。僕が恋い焦がれ、愛し慕った珠子さんが、全く別の人に変わってしまったのが。

 癲狂院の患者達は、揃いも揃って亡者の様な目をしていました。生きる術を失くし、それでも死ねない亡者の目を。―――珠子さんも、其の目をしていました。

 清流の様な光を湛えた目をくりかれ、代わりに亡者の目を押し込められたと言われても信じる程です。いえ、そうであればまだ良かった。

 あの目は紛れもない珠子さんの目なんです。即ち、僕の憧れた清流の目はもう、亡者の目に取って代わられたと云う事なんですよ。

 放心状態の僕を、隣室の患者の声が覚醒させました。

 声のした方を見やると、鉄格子に顔を押し付けるようにして、髑髏されこうべのような顔をした男が僕を見ていました。

 だらしなく涎を垂らして、泥濘ぬかるみの様でありながらギラギラしたまなこで、食い入るように見ていました。

 僕はもう目の前にいる珠子さんを見る事が出来ませんでした。美しかった珠子さんが、その男の様に成り果ててしまうのを確信したら、もう耐え切れませんでした。

 珠子さんの悲痛な声にも構わず、僕は癲狂院から逃げました。それ切り、あそこに近付く事はありませんでした。



 ***



 「僕は今でも夢を見るのです。美しい珠子さんの声が醜く枯れて行く夢を見るのです。」


 叡太郎君の話を、我々は黙って聞いていた。物を言う事さえ許されぬ様な、そんな気がしたからだ。

 「堪らなくなって屋敷を飛び出しました。遠くへ行こう、もう戻れない位に遠くに、そう考えてこの土砂降りの中を走って来ました。そしたらどうです、往く先々で珠子さんの姿を目にするじゃありませんか。矢っ張り、彼女は僕を許してくれなかった。彼女を辱め、絶望の淵に叩き落としたあの卑劣漢に復讐も出来ぬ僕を、許してくれなかった。」

 蝙蝠屋に渡された手拭いを握り締めながら、叡太郎君は蹲り口唇を震わせた。

 そして手を伸ばすと、蝙蝠屋に乾いた侭の手拭いを突き返した。

 「珠子さんは僕を許してはくれません。ですから、此れは必要在りません。……これが僕の話の全てです。」

 それだけ言って、叡太郎君は壁にもたれ掛かり俯いてしまった。それが合図となったのか、傴僂が場違いな笑い声を上げた。

 「ヤアヤア、中々()()()()のある話だった。次は誰の番だエ? そこな坊さん、一丁やっておくんなせエ。」

 「……貴君の期待に沿える物では無いぞ。」

 「なあに、構やしねえでさア。」

 入道はフウと溜息を吐き、姿勢を正して、眼光鋭き双眸を我々に向けた。


 「では、続いては手前が話そう。名はざん、巣鴨のがっしょうにて御奉公をさせて頂いている。」

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