第八楽章
それは、ある雨の日の事。
ふと前を通りかかった部屋から聞こえてきたのは、ピアノの音でした。何とも美しいその旋律に引き寄せられるように、私は目の前の扉を開けていました。
部屋の中央にはグランドピアノ。
以前、お臍を曲げたアレクが泣きながら隠れていた、あの音楽室です。
鍵盤を弾く人影が見慣れた深紅の色彩を纏っていることに気が付いて、私は思わず驚きの声を漏らしました。
「……私が音楽を嗜む事がそれ程意外ですか? ルチル様」
ピジョンブラッドは旋律を奏でる指を止めて、入口で立ち尽くす私の方を見遣りました。
そう。ピアノを弾いていたのは魔王アレクの腹心、ブラッドだったのです。
「いえ……あまりにお上手なので驚いてしまって」
というか私、アレクに関すること以外にブラッドが興味を持つだなんて、考えた事も無かったです。この人、『趣味:魔王』だと思っていました。
「ああ、それよりも続けて下さい! やめないで」
私が演奏の続きをせがむと、ブラッドは苦笑しながらも、指の動きを再開してくれました。
なんて美しいメロディーでしょう。
私の知る讃美歌とは違う、切ない音階。耳慣れないリズム。
私が故郷のキトサ村の教会で長年弾いていたのは建物同様に年代物だった古ぼけたオルガンで、悲しいかな、調律も所々狂っていました。大事な思い出のある愛おしいオルガンは、幾度も私の心を慰めてくれました。教会の建造当初から据えられていたというあの古い楽器は、孤児であった私と幼い頃から共にあり、修道女となることを諦めたその後も、私の拙い演奏に持ち得る限りの力で答えてくれました。年老いたパイプで聖歌隊の伴奏を何年も勤め上げたその価値は、少しばかり外れた音をやむなく伴うとしても、なんら損なわれるものではありません。
しかし純粋な音質という点においては、悔しいですが、ここ魔王城の手入れの行き届いたグランドピアノとはやはり比べ物になりません。その上弾き手のレベルがあからさまに違います。ブラッドの10本の指から、滑らかに、まるで朗々とピアノが歌い上げるかの如く、豊かな深い音が紡ぎだされていきます。眼前にいる深紅の髪と瞳を持つこの魔族の演奏者は、ひょっとすると王都の一流の楽師様に匹敵する腕前なのではないでしょうか。
曲が終わり静かに最後の一音の余韻が消えると、私は心の底から惜しみなく、盛大な拍手を贈りました。
「素晴らしいです、ブラッド! 今のは何という曲なのですか?」
譜面台には楽譜も何も置かれてはいないようですが、暗譜されているのでしょうか。
「…さあ。調律後の確認用に、適当に作った曲なので」
いつも通り素っ気ないブラッドの言葉が返ってきます。
魔王アレク以外の人には、これがブラッドの通常運転、平常営業です。
この人にあれ程芳醇な音楽を奏でられる感受性が備わっているとは、今この場にいなければ私にも到底信じられなかった事でしょう。
「まあ。演奏だけではなく、作曲の才能もあるのですね!」
しかもピアノの調律も難なくこなせるとは。
もしや絶対音感の持ち主とか、でしょうか。
……有り得ます。だって耳がいいですからね、彼は! なんて言ったって犬耳ですし!!
ああ、触りたい。モフモフしたい。ブラッドの深紅の髪の中に隠れているその犬耳を、思う存分ブラッシングして差し上げたいです。
「ルチル様? 変な考えは捨てて下さいね?」
至極自然に何気なくブラッドに近付いていった筈の私でしたのに、あっという間に距離を取られていました。音も無くするりと椅子から立ち上がった彼は、いつの間にやら窓辺にて、ガラスの向こうの雨粒を眺めています。
ちっ。―――何故、毎回気付かれるのでしょうか。
やはり読心術の使い手なのかしら……。
「貴女の邪な思考は駄々漏れなんですよ」
ブラッドは笑顔ですが、目がまったく笑っていません。
黒に近い、深紅の瞳。どろりと流れる濁った血のような紅です。
「私の耳を気にするより前に、ルチル様はアレク様の角でも撫でて差し上げて下さい」
……って、機密情報、またしても漏洩してますし! あの場にはブラッドは居なかった筈なのに、恐るべき忠犬っぷりです…!
こういう犬、いますよね。主人以外には決して気を許さない番犬。
村の村長様の家の飼い犬がそうでした。何度私が可愛がろうとしてもまるで無視で…。うう、思い出しても切ないです。あれはでも、主人にしてみれば滅茶苦茶可愛いですよね。自分にしか懐かない猛犬……犬好きの琴線にがっつり触れますよね! いや駄犬もそれはそれで可愛いですけど! 結局犬ならなんでも可愛いんですけど! というよりむしろ猫でも山羊でも馬でも動物は全て可愛いんじゃないかという気さえしてきますけども!!
ああ、こんな事ならこの部屋にアレクを連れて来れば良かったです…! きっとブラッドの対応が今とは180度違った事でしょう! アレクの為なら一曲と言わず何曲でも披露してリサイタルまで開いてくれたかもしれないのに! 私としたことが、一生の不覚です……!!
とはいえ、当然この時間アレクは授業中な訳で。
自力でなんとかするしかありませんよね。
私は胸の前で両手の指を組み合わせました。懇願のポーズです。
「お願いします、ブラッド。私にさっきの曲を教えて下さい。あの旋律を是非私も弾いてみたいのです…!」
「どうぞルチル様、御自由にお弾き下さい。遠慮は要りませんよ、ピアノの調律は完璧に済ませてありますし。ヴァイオリンでも、ヴィオラでも、ハープでも、この城にあるどのような楽器でも存分に使われて構いませんから」
くっ。
さすがブラッド、手強いですね!
「そうですか……では今度から私の受け持ちの時間で、アレクに音楽を教える事にしますね。私が教えられる曲と言えば讃美歌くらいしかないのですが、魔王が讃美歌しか弾けないなんて、よくよく考えてみますとそれってどうなのでしょうね」
「………………………」
ブラッドの無言の圧力に屈しそうになる私ですが、ま、負けませんよ!
「なんでしたら私とアレクが生徒で、魔王の側近である貴方に講師を兼ねて頂いても構いませんが?」
「………………………………………」
うう。
ブラッドの鋭い眼差しで射殺されそうです。
「……はぁ」
窓外の雨だれを見ながら、些かワザとらしくブラッドが嘆息しました。
「……仕様がありませんね。いいですよ、教えましょう」
やった! やりましたよ!
なんだか分かりませんが勝ちました!! 粘り勝ちです! グッジョブです私!!
「有難うございます!!」
私は小躍りしたくなる自分を抑えて、ブラッドにお礼を言いました。
「ただし、あの曲には本当にタイトルはありません。敢えて言うなら…そう、単なる小夜曲ですかね」
苦笑いしながらピアノの前の椅子に戻ってくるブラッド。
あらあら。
そうやって笑うと、ブラッドの両目に宿る酷薄そうな光が薄れて、なんだか普通の人みたいに見えます。
――勿論、勘違いはしませんけれど。
何年経とうとも、仲間全員を殺されかけたあの日の絶望感は消えはしませんもの。
そういえば、ブラッドは一体何歳くらいなのでしょうか。
アレクを知っていますから、魔族の年齢が見掛け通りではないのだろうという事くらいは容易に想像がつくのですけれど。
ヒトで言うなら20代後半くらいの外見なのですが、それが実年齢より若いのか歳を重ねているのか……ええ、私にはまったく判別できません。
若しくは魔族といえども特別なのは魔王だけで、年相応の外見である可能性だってありますし、ね…。
「―――掛けないのですか?」
椅子の隣を指して、ブラッドが私に問い掛けてきました。
何をぐずぐずしているのですか教えて欲しいのでしょう、と彼の背中が語っています。
良くも悪くも私は、この城で共に過ごした年月の所為で、言葉にしないブラッドの意図まで汲めるようになってしまいました。そのうえ、魔王の意志に反して私を攻撃することはないだろう彼の、本来ならば私程度を殺傷するに造作も無いその力量までもが、まざまざと感じ取れるのです。
これは、私も少しは勇者として成長した、という事なのでしょうか。
促された通りにブラッドの横に腰を下ろすと、室温が僅かに下がった気がしました。
「ク」
初めて聴くブラッドの嗤い声に、私は思わずそちらを向いてしまいます。
予想していたよりも至近距離から、紅い瞳が私を見下ろしていました。
「貴女は面白いですね、ルチル様」
アレク越しにではなくブラッドに見られたのも、そういえば初めてだったかもしれません。
「私の本性に気付かない程愚鈍な訳でもないのに、躊躇いも無く私のテリトリー内にまでそうして立ち入ってくるとは」
クク、と続けて嗤うブラッドから、私は目が離せなくなっていました。
視線を逸らした瞬間に喉笛に食らいつかれそうな気がしたのです。
「それに、貴女からは美味しそうな匂いがしますね……」
ブラッドの手が伸びてきて、私の両手に重なりました。
どうしましょう。
全部の指を押さえられ、ぴくりとも動けません。
「ド」
愉悦を含んだ、ブラッドの声がしました。
「……え?」
カラカラの喉から恐る恐る声を押し出すと、ブラッドが今度はにやりと嗤いました。
「ド、ですよ。習いたいのでしょう?」
私の指ごとドの鍵盤を弾いてから、ブラッドは徐に押さえていた両手を外してくれました。私もようやく鍵盤から指を離します。キィに接触していた私の手の裏は嫌な汗でじとりと濡れていました。
「――今日はここまで、ですね。続きは次回、アレク様と共に音楽の授業でお教えしましょう」
何が可笑しいのか、またしてもブラッドはクッと含み笑いを漏らしました。彼にとって今日は、どうやら笑いの大盤振る舞いの日であるようです。
「アレク様の居る所の方がよいでしょう。このままではうっかり王の餌を毒見してしまいそうですからね」
上機嫌で立ち去って行くブラッドを、私は言葉を失くして見送ってしまいました。
ええと……。
なんだか物凄く失礼な事を言われたような……。
毒って、私の事なのでしょうか……?