第七楽章
アレクの角が、伸びてきました。
以前は掌で撫でて初めて判る大きさの突起でしかありませんでしたが、今では癖っ毛のアレクの黒髪から常に先端が飛び出して見えます。象牙色のそれは、根本は指2本分程の太さでしょうか。アレクの両耳より少しばかり上、側頭部に左右対称に二ヶ所、ちょこんと生えています。円錐の先端は、当初私が予想していたよりも斜め後方に向かって伸びているようです。
散髪していた私の手の動きが止まった事に気が付いたのでしょう、アレクが「ん?」と声を上げました。
「角が伸びたなぁと思ってね」
私はアレクの疑問に答えました。
「本当に、アレクはどんどん大きくなっていくのね」
風が気持ちよく通り抜ける中庭で、アレクは椅子に座り、私はその後ろに立ってすきバサミを手にしています。
アレクの髪を整えるのは、私の大好きな仕事の一つです。
彼の頭髪は身長同様すぐ伸びてしまうので小まめに手入れをしなければなりません。
ほっておくとあっという間にてんでばらばらな方を向いてしまう困った癖っ毛ですが、アレクの整った美貌にやんちゃっぽさを加味してくれるので、私にはその一本一本すらとても愛おしく思えるのです。
「そうだよ。待っててね。すぐルチルに追い付くから」
背後に位置する私からは表情が見えませんが、声音でアレクが笑っているのが分かりました。『成長している』と言われる事が愉快で堪らないようです。私はアレクの髪を弄びながら、
「そんなに急がなくていいから、どうかゆっくり大きくなって頂戴」
と、呟きました。
子供時代は何物にも替え難く貴重だと思うのは、自分がもう大人になってしまったからでしょうか。
子育てが一段落した後の、嬉しいようで誇らしいようでどこか遣る瀬無い、記憶の所為でしょうか。
「……そんなに油断してると食べちゃうよ?」
「え? 聞こえなかったわ―――今なんて言ったの? アレク」
「ううん、何でもない」
いけませんね、ついぼんやりしていました。
ハサミを握り直し、私はアレクの髪を指で梳きました。するりと流れる黒髪。子供の髪というのはどうしてこんなに手触りが良いのでしょう。
ふと。
アレクの角を撫でてみたのは、手触りが知りたかったからでした。
「……ひゃ!」
椅子に座ったままのアレクがビクンと跳ねます。
「あ、ごめんなさい、嫌だった?」
予想外の反応に、却って私の方が驚いてしまいました。
「い、嫌って訳じゃ…。ただ急だったから吃驚しただけ。ルチルなら、触っていい……」
なんだか珍しくしどろもどろになりながら答えるアレク。
そっか、触感はあるんですね。
「触っていいの?」
重ねて聞くと、無言でこくりと首肯されました。どこか緊張している様子のアレクでしたが、折角の申し出に、私の好奇心は押さえられませんでした。
指を三本揃えて表面を撫でると、角は意外にザラザラしています。色合いは象牙に酷似しているもののそれ程滑らかではなく、むしろ少しずつ直径の違う円が立体的に重なって出来たように、でこぼこした形状でした。人差し指でその隆起を一周なぞります。
「………っ!!」
あら。今一瞬、アレクが息を飲んだような……?
「アレク? 大丈夫?」
「へっ…平気。続けて」
気になって私が彼の顔を後ろから覗き込もうとすると、アレクは自分の掌で顔の下半分を覆い隠してしまいます。けれど、その目元が赤いのは気の所為では無いでしょう。私は彼の角から手を離しました。
「ごめんなさい。我慢させてしまっていたのね。嫌ならそう言ってよいのに」
「が、我慢というか、まあある意味我慢だけど不快とかじゃ全然なくて、ただ理性が」
「安心して、アレク。もう触らないわ」
動揺した様子のアレクを落ち着かせようと微笑むと、
「え。――――ルチル、もう触ってくれないの?」
何故か逆にガッカリした顔をされました。
ええとこれは、もっと触って欲しかったという事でしょうか。
あれかしら。
思春期に入った息子が「幼児じゃないんだから頭なんか撫でないで!」と言いながらも、「いいの! 母さんは褒めてあげたいの!」と私が半ば強引に撫でるとこっそり気持ちよさげにしているのと同じ状況でしょうか。そして途中でハッと気付いて頭上の手を払い除け、「まったく母さんは」と不貞腐れて息子は去って行くのですが、それがもう可愛くて可愛くて。
そう、照れ隠し。きっとアレクも同じ感じなのでしょうね。
「そうね、アレクの角がもっと大きくなったら、また触らせて?」
妥協案として私がそう言うと、アレクの顔全体がカアッと赤くなりました。それから、無言で肯きます。
明朗活発な普段と違うアレクの様子が可笑しくて、私はくすくす笑いながら、
「じゃあ取り敢えず髪を仕上げちゃいましょうか」
手際よくアレクの髪を切っていきます。そのまま数分で後片付けまで終えて、アレクを椅子から解放しました。
立ち上がって伸びをした後、大きく息を吐いたアレクがポツリと呟きます。
「ルチルってさ、時々魔性だよね……」
「? どういう意味?」
魔法のように散髪が上手いという褒め言葉でしょうか?
だとしても……魔王には言われたくないのですが。
「ん、天然は怖いっていう意味。僕、今日初めてあの3人に同情したかも」
??
なんでしょう、意味が分かりません。
戸惑う私に向かって、アレクは極上の笑みを浮かべました。
「覚えていてね、僕が角を触らせるのはルチルだけだって事。ルチルのも、他の人に触らせたら駄目だからね!」
「そんな事言われても……アレク、私には角は無いわよ…?」
「分かってる、これは暗喩だから」
約束して? と、小指を差し出してくるアレク。
ああ、これは、私がアレクに教えた仕種です。
よくこうやって息子と他愛も無い約束を交わしましたっけ。今日の夕飯はハンバーグね、とか。明日晴れたらピクニックに行こうね、とか。懐かしいです。
私は自分の小指をアレクの指に絡めました。二人で目を合わせ、指を繋げたままそっと上下に揺すります。
「指切りげんまん、嘘ついたら」
「―――骨まで全部食べちゃうよ?」
「アレク……それ違うわよ?」
「うん、分かってる」
アレクがにこりと笑うと、些細な言い間違いなどどうでもよいような気がして、私もつられて笑いました。
「約束だよ」
「ええ、約束ね」
絡めた指を離す時、不意に顔を寄せてきたアレクが私の指を舐めました。
「味見」
ふふ、と笑うアレクに、なんだか軽率な約束をしてしまったような気がして、私の鼓動はほんの少しだけ早くなりましたが、
(どちらにせよ、私に角は無いのだもの)
そう―――平気、ですよね。