終楽章(フィナーレ)
リーンゴ――ン……。
早春と呼ぶにはまだ底冷えのする日の朝、村の教会には祝福の鐘が鳴り響きます。
窓の外には婚姻の日に相応しい晴天が広がり、参列客の皆さんから口々に祝辞を頂いて、私は晴れがましい気持ちになりました。
「おめでとう、ルチル。良い天気になったね」
純白の祭服に身を包まれた神父様が、祭壇の前に佇む私に声を掛けて下さりました。今日の婚儀を取り仕切る司祭の服装です。首に掛けられた長布は、二十年以上前に私が縫いあげて刺繍をほどこしたものでした。少しくたびれてはいますが清潔さは疑いようもなく、神父様が変わらず大事に扱って下さっていた事が分かって、私の心はじんわりと温かくなりました。
「ええ、神父様。おかげさまで」
「花婿の様子はどうかね」
「ふふ。それが、カッチカチに緊張していて。昨夜はよく眠れなかったようです。式の最中に欠伸などしなければよいのですが」
「ルチル。君は私の娘同然だ。君の喜びは私の喜び。今日の日を迎えられた事を、嬉しく思うよ」
私を育てて下さった神父様。老齢の神父様のお言葉には、心からの祝福が籠められていました。
「…有難うございます。私も嬉しいです」
――嘘ではありません。ほんの少しだけ寂しい気持ちもありますが、言葉通りに嬉しい気持ちの方が何倍も強いのですから。
「…母さん」
愛おしい声に振り返ると、丁寧に梳られた髪をして、息子が祭壇に近付いてきます。その隣には、うら若い女性。仕来たり通りに息子の腕に手を絡ませたこの女性が、これからの人生を彼と共に歩んで行ってくれる人です。
「二人ともおめでとう。……オニキスの事、お願いね」
私の言葉に、花嫁が微笑みました。
「私達、一緒に苦労して、一緒に幸せになります」
あの日――魔王アレクが奇跡的に命を取り留めた日――から、一年と数ヶ月が経ちました。
18歳になった息子の、今日は結婚式です。
あの事件の後、私達勇者一行は揃って帰国しました。
一連の仕打ちに、何が何でも、王に物申さずにはいられなかったのです。
勇者一行全員、というか……正確には使者二人と私の息子、それから魔族側の代表としてルーベライトも伴って、でしたけれどもね。彼女がついて来てくれたのは、九死に一生を得たばかりのアレクは未だ回復期にあって遠出は叶わず、側近ブラッドもそんな魔王の傍を離れたがらなかった為です。
魔力も腕力も明らかに桁違いな、美貌の人外の女性。ええ、彼女の存在は交渉に物凄く効果的でした。実際問題、近衛の誰一人として接近戦でも中・遠距離戦でも彼女には敵わなかったのです(相手になりそうな人――騎士様や黒魔導師様――は仲間側でしたから)。王もその周りの重臣たちも、初めて対峙した本物の魔族の強さに震えあがっていました。いい気味……げふんげふん、いえ、良い牽制になったのではないでしょうか。
二度と、魔王の暗殺を目論まない事。
息子の内密任務失敗を咎めない事。
私と息子を含め、騎士様、神官様、黒魔導師様、ルーベライトを拘束しない事。行動を制限しない事。政治的に利用しない事。
魔族との平和交渉はあくまで話し合いで進める事。
それらの条件を呑むならば一定期間魔族はヒトを襲わないと魔王の名の下に保証し、その間に条約を双方合意にて確定するよう王に念押しして、私は『勇者』を引退してきました。
え?勇者の剣ですか?
あれはですね、私が元通り大岩に突き刺してきました。再び謀略に使われる事の無いように。
ルーベライト曰く、魔王一人に対して勇者一人が誕生するのがセオリーなのだそうで。これで当分、私以外にあの剣を抜ける者はいないはずです。
念には念を重ねて、神官様が定期的に大岩周辺を見回って下さるとおっしゃいましたし、一安心ですね。
その後、ルーベライト、それに3人の仲間達は王都に残りました。ルーベライトは平和条約締結まで大使として都に滞在する事となって、良い機会だからヒトの様子を見て回りたいと言い、元の職に復帰された3人が彼女のサポートをする段取りになっていました。
私は息子と共にキトサ村に戻りました。
騎士を目指したい気持ちが残っているなら助力は惜しまないと騎士様には言って頂いたのですが、どうやら息子本人がその申し出を固辞したようでした。
「オレ、村の貧困を少しでも改善したいんだ」
王都を出発する時、息子が私にこう語ってくれました。
「貧しい生活が嫌だった。これ以上誰かに利用されるのは真っ平だと思った。そこから母さんと一緒に抜け出すためなら、何でもしようと思っていた。……でも、都に来ても他の誰かに利用されただけだった。オレはまだまだガキで何の力も無い。結局、自分が変わらなきゃ駄目なんだ」
――あの日。
アレクが助かったと知るや否や、呆気なくブラッドは攻撃を止めてくれました。黒魔導師様と騎士様に必死に護り抜かれた息子は辛うじて無傷で、けれど表情は虚ろに呟くばかり。
「……駄目なんだ、王に命令されたんだ、遂行しないともうオレ、騎士団にはいられないんだ……嫌でもやらなきゃ。母さんを救って、キトサ村から抜け出す方法が他に思いつかないんだよ……」
息子の、年齢相応な震える身体を強く抱き締めて――私は、過去の話をしました。
私が捨てられていたのは、国中が未曽有の凶作に見舞われた年だったと聞きます。幼かった私は実の家族から、おそらくは口減らしの為に捨てられたのでしょう。それ程酷い飢饉だったそうです。貧しい辺境の村、キトサ村も例外ではありませんでした。偶然私を見つけて下さったのは神父様でしたが、お一人では到底育てきれずに、村の皆に相談されました。誰もが不安と闘いながら細々と生活していたというのに、その時誰一人、私を見殺しにしようと言う人はいなかったそうです。それから飢饉を脱するまでの長い間、縁もゆかりもない私の為にひもじさを堪え、全員が交代で僅かずつながらも食料を分け与えてくれていたのです。
見知らぬ子供の命を切り捨てるのではなく、ギリギリでも全員が生き延びる方を選んでくれた村。愚かだと言われるかもしれません。でも、その決断があったからこそ、私が今ここに居るのです。
「私はね、オニキス。最初から村の皆に、返しきれない程の恩恵を受けていたの。…ごめんね。その事をもっと早く貴方に伝えておけばよかった」
そして、夫が流行病で亡くなった時も。
悲しみに茫然自失し、自らも罹患して生死の境を彷徨っていた私の代わりに、皆が持ち回りで息子の面倒をみてくれていました。あの時は村でも大勢の人が亡くなっていて。家族を失った人々がお互いに支え合い、励まし合って乗り越えた日々だったのです。
私は、自分の命だけでなく、息子の命も、キトサ村の皆に救ってもらっていたのでした。
「……いえ、でもそれは私の事情ね。貴方が村の生活をそれ程負担に感じていた事に気付いてあげられなくて、ごめんなさい。でも、これだけは分かって―――キトサ村の皆は、本当にいい人達なのよ」
その時は何も口にしなかったけれど、数日経ってから息子がぽつりと言いました。
「母さん、オレね。ようやく納得した。オレが子供だったから気付けなかった事情もきっとあったんだろうって。そして……分かってもいる。お人好しの母さんがやっぱり気付いてない部分もあるんだって」
表情を取り戻した息子の顔は、まだ少しぎこちなくはありましたが、しっかりと前を向いていました。
「…母さんは人並み外れて鈍いんだから、オレが付いててやらないとな」
それは息子の、精一杯の譲歩だったのだと思います。口癖のような言葉を息子が以前と同じ口調で言った時、私は涙を堪える事がどうしても出来ませんでした……。
「ルチル」
ハッと回想から立ち返ると、息子とその花嫁が祭壇の前に並ぶところでした。いよいよ婚儀が始まります。私を促して下さったのは、最前列に座る村長様でした。私は慌てて通路を挟んで反対側の参列席に下がろうとしました。
すると息子が花嫁と肯き合ってから手を離し、導き手の神父様に黙礼して、私の方に近付いてきました。戸惑う私の両手を握って囁いてきます。
「……ありがとな、母さん。あの時、魔王が死んでなくて……オレが殺してしまってなくて……本当に良かった、と今は思う。オレが今でもこうして笑えているのは、母さんと、あの場にいた皆のおかげだ」
焦げ茶の瞳の奥の奥には消えない陰があります。それはきっと、後悔と呼ばれるもの。
けれど息子の顔は何かを吹っ切ったように穏やかで、ああ、大きくなったんだなぁ、と私は思いました。
「オレは、間違えたけど……この先もまた何かを間違える日がくるかもしれないけど……それでも、その時々で最良だと思える事を選んでいきたい。だから母さんから見てオレの選択が間違っていると思える時は、何度でも忠告して欲しい」
「それは勿論だけど……でも、これから先その役目の大半は彼女のものなのよ?」
私の示す目線に、息子は祭壇の方を振り返ります。最前列の村長様が花嫁に語り掛けている様子に、息子は苦笑を零しました。
「重々分かってる。あいつの気の強さは村長譲りだしな」
でも、と息子は言いました。
「だからこそ、あいつとオレはいい相棒になれる。キトサ村を変えていくんだ」
都から持ち帰ってきたたくさんの書物。黒魔導師様や騎士様、神父様と幾度も手紙でやり取りをし、近隣の村々へ出掛け、自村の改革を目指す息子の周りには、若者を中心とした賛同者が集うようになっていました。村長様の娘である彼女もその一人。いつしか若い二人の間には恋愛感情が芽生えて、そして迎えた今日この日です。花嫁を見つめる息子の目には確かな愛情が溢れています。私は、自分の息子が手の中から巣立っていく様を、一抹の寂しさと、胸一杯の誇らしさと共に見送るのです。
幸せな……幸せ過ぎる日です。どれだけ喜びの涙を零そうとも許される日でした。
夢のような一日を過ごした後、私は自宅へと戻ってきました。夕暮れに影が増え、私は室内のランプに明かりを灯しました。決して広くはないはずなのに、急にガランとして感じる我が家を見回します。今夜からここで一人です。
大義名分のもとに散々泣き腫らした目元は赤く熱を持っており、私は億劫に思いながらも布を濡らしてきて椅子に腰掛け、上向いた顔の両目を覆いました。机の上には王都の仲間達からの祝いの手紙が乗せられていました。
花嫁の幸福そうな顔。村長様の喜びに満ち満ちた顔。今日目にした様々な人達の顔を思い浮かべます。花婿としての照れくさげな顔から、幼少時の息子の愛らしさが思い起こされ、胸が詰まります。本当に大きくなったものです。お気に入りの毛布が無いと眠れない、と駄々を捏ねていたのがつい昨日のように思えますのに。
「――確か、屋根裏に」
独り言に応えてくれる息子は、この家にはもういません。
その事に気が付かなかった振りをして、私は目に当てていた濡れ布を外し、思い出の毛布を探しに階段を上がりました。
屋根裏には懐かしい品物が埃を被っていました。軽く息を吹きかけると、舞い散った埃がランプの明かりに照らされてきらきらと光ります。早春の夕闇は静けさを連れてやってきて、夜の帳をそっと下ろして行きました。家の中に自分以外の気配が無いという事がこれほど物悲しいなんて。息を詰めるように耳を欹てた私は、微かな歌声を聞き取りました。それは、窓の外から聞こえてくるようでした。
屋根裏の明かり取りから地面を見下ろすと、家の傍の暗闇に人影が立っていました。歌う美声の低さからみるに男性のようです。何処かで聞いたようなメロディー。窓から漏れる光に照らされたその影の頭部に象牙色の角が見え、私は思わず窓から身を乗り出しました。
「……アレクなの……?」
黒衣の青年は歌を途切れさせました。
その時になってようやく私は、今の曲が、いつかアレクと練習した小夜曲だったことに思い当たりました。ヴァイオリンとピアノでしか演奏されてなかったので気付くのが遅れたのでした。
「迎えに来たよ、ルチル」
笑顔で私を見上げるアレクは、かつて別れた時の少年ではありませんでした。
外見は20代半ばくらいでしょうか。癖のある黒髪は夜闇の中でも艶やかで、巻き角は少し伸びたようでした。生来の美貌の端正さはそのままに大人の男性のものになり、苗が若木へと成育を遂げるように、少年から青年へと移り変わっていました。
それでも、次に会う時はと想像していた姿より、だいぶ若い姿形です。ここだけの話ですけれど、再会する時には私と同世代くらいにはなっているものだと内心期待していたのですから。
「アレク、どうして、成長は……?」
息せき切って屋根裏から降りてきた私は、アレクを家の中に入れました。隣家とは距離があるので先刻の歌声は聞かれていないでしょうが、魔族の存在が(しかも魔王が)辺境のこの村で受け入れられるにはまだ時期尚早だと思われたからです。
「ああ、思ったより傷が深かったらしくて。というより、治るはずの無い傷を無理矢理治すのにはさすがに時間が必要だったようで、一年くらい成長が止まっていたんだ」
アレクは自分の胸の辺りを指し示します。
「ルチルの血とか、色々加味してこれだからね。まあ奇跡の代償としては安いところかな。僕にとってはルチルと離れていた時間の方が辛かった」
――あの日、昏睡から目覚めた後。
大量の出血をしたアレクは血が足りないと言い、私は迷わずに自らの血を差し出したのでした。
「……私、次のアレクの誕生日にはちゃんと会いに行くつもりだったのよ?」
「遅いよ」
アレクはそう言って、有無を言わさず私を抱き締めました。
温かい体温。伝わってくる心臓の鼓動。しなやかに鍛え上げられた肉体。
今私に触れているのは間違いなくアレクのはずなのに、離れていた間に成長した分、その身体は見知らぬ男性のもののようで。愛しさと戸惑いに、私の気持ちは混乱しました。鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤に染まっているだろうと分かります。
「わ、私…貴方より年上よ?」
「見掛けの事なら、来年には追い付く。その後はルチルの好きな年齢で成長を止めるよ」
「私はヒトよ?」
「知ってる。僕は魔王だよ」
「私…多分、貴方より先に老いて死ぬわよ?」
「寿命は不確定要素だよ。この前の事で良く分かったと思うけど」
「…オニキスが何て言うかしら」
「めでたく独り立ちしたみたいだし、彼ももう文句は言わないんじゃない?」
今日の結婚式を当然のように知っている様子で答えた後に、アレクは整った眉を片方だけ吊り上げて、小声で何かを呟きました。
「……そう言えば大きな貸しがあったな」
「え?」
「何でもない」
数々の私の言い訳を簡単に粉砕してしまうアレクに、私はそれ以上言い募れなくなりました。もう溜息しか出てきません。
「………」
「悪足掻きはお終いかな?ルチル」
何が可笑しいのか、くすくす笑い出すアレク。声変わりの完了した魅力的なテノールが耳元で響き、私の力は全身から抜けていってしまいそうです。次第に立っていられなくなってアレクの胸に縋り付くと、一段と強い力で引き寄せられました。
「もう待たないよ。一生分離れていたんだから。ルチルの方が落ち着くまで、と思っていたけれど―――待ちくたびれた」
破壊力のある色気の溢れた声で言い切ってから、アレクは腕の力を少しだけ弱めて、私の瞳を覗き込みました。私にもアレクの瞳が見えました。赤紫の瞳は、確かにアレクのもの。その瞳が太陽の下では綺麗な緑色になることを、私はもう知っています。
生きていてくれて良かった。
何を引き替えにしても、と望んだあの時に、私は自分の本当の気持ちに気が付いたのです。
「ルチルが好きだよ。どうか僕と、結婚、してください」
真摯な瞳で告げられたプロポーズに、私は真っ赤な顔でただ肯く事しか出来ませんでした。
アレクが嬉しそうに微笑むのが見え、寄せられる唇を予感して、私は目を瞑りました。
「――やっと捕まえた」
アレクの囁き声が聞こえましたが、それは間違いです。一目見た時から私は、もうこの美しい魔王に捉まっていたのですから。後できちんと訂正しておかなくては。
そう、口付けの後にでも―――…。
【fin.】