第二十三楽章
――分かっています。
アレクは、腹立ちまぎれに心にも無い言葉を言っただけ。売り言葉に買い言葉でつい勢いがついて、思ってもいなかった、口に出した瞬間に後悔してしまう種類の暴言を吐いてしまっただけです。
そうでなければ、ヒトを滅ぼすだなんて、そんな恐ろしい事。充分に実行可能な力を持っている魔王であるとはいえ、あの優しいアレクが言うはずありません。
私達と触れ合って育ってきたアレクが、ヒトという種族をもはやただの食料として捉えている訳が無いですし、それに―――彼が誰よりも私の事を愛しんでくれているのだとしても、神官様や騎士様や黒魔導師様……アレク本人を大事に思って思われているヒトだって、他にちゃんといるのですから。
私は、静かに深呼吸をしました。
「アレク」
強張った貌で見つめてくるアレクに向かって、私は唇の両端を上げて微笑みを形作ります。普段意識することのない頬の筋肉は予想外に重く感じられました。
私の後ろにいるはずの神官様と騎士様は一言もしゃべりません。
扉を開けたままの姿勢で立ち尽くすアレクは、自分で発した言葉の重さに打ちのめされているようにも見えました。
「ねえ、アレク。さっきのは口が滑っただけよね? そんな気は無いって、今すぐ訂正して頂戴」
お願い。
このままでは、アレク。貴方が誤解されてしまう。
貴方の心が、自らの言葉で傷付いてしまう。
「……発言を取り消す気は無い」
殊更に大きな声で、アレクは冷たく言いました。それはまるで室内の使者達に聞かせるように。
「あいつらがルチルを連れて行くなら、ヒトと平和共存などしない。魔族側の食餌制限も解除する。我々はヒトの敵となる」
息継ぎをして、アレクは目線を微妙に外しました。
多分他の人から見たら魔王は私の顔を直視しているように見えるでしょう。けれど見つめ合っていた私にだけは分かりました。アレクが今見ているのは私の瞳ではなく、頬骨の辺りだという事が。意識的にアレクは目を逸らしたのです。
「ヒトを滅ぼされたくないのなら、残れ、我が城に。その身ひとつでヒトという種が救えるんだ。勇者にとっては本望だろう」
アレクの声でこのような言葉が語られているのを聞くなんて。
でも、ああ。その口調は、『魔王』のものです。
「アレク様」
出入り口に佇むアレクに、室内からブラッドが出てきて、そっと寄り添います。
流れ出る血のような紅い色彩を纏う側近の魔族は、険しい表情をした魔王を眺め、それから少し離れて向き合っていた私と仲間を見遣りました。紅い瞳には何か言いたげな色が浮かびましたが、一瞬後には跡形もなく掻き消えて、
「――御心のままに」
一言だけ言うとアレクに一礼し、ブラッドは再び会議室へと戻りました。
開け放たれた扉からは室内の音が筒抜けでした。
魔王の激昂に息を潜めて成り行きを見守っていたであろう使者達に向けて発せられたブラッドの言葉が、私とそして多分アレクにも聞こえてきました。
「交渉決裂ですね。其方の条件は飲めないと、よく分かったでしょう。報せを手に、本日中に王の下へ出立されてください」
部下の宣言を聞き終えたアレクは途中で止めていた動きを再開し、私の横を、次には神官様と騎士様の横を擦り抜けて、歩み去って行きました。開けた視界の向こうに見えたのは、やれやれといった表情で壁に寄り掛かって立つ黒魔導師様と、過度に緊張した様子の私の息子と騎士さん達でした。
ブラッドからの最後通牒を受けた年長の使者が、息子に向かって小さく肯いたような気がしました。
「ルチル」
ハッと気が付くと、背後から神官様が私の肩を抱いてくれていました。
「行きましょう。対策を練らなくては」
「そうだルチル、こんな終わりにはしないぞ」
騎士様が私の髪をくしゃりと撫でて、先に室内へ向かいました。
「団長補佐」
かつての上司に使者二人が駆け寄ります。息子と、壁際の黒魔導師様はそれぞれその場から動きません。
「では、お手並み拝見しますよ」
私と神官様が入室するのと入れ替わりに、ブラッドが皮肉げに手を振りながら出て行きました。
「パパラチア、どう見ます」
神官様が黒魔導師様に歩み寄りました。オブザーバーとして一部始終を見ていたのでしょう、黒魔導師様が小声で神官様に会議の経過を報告されているようです。
「オニキス」
躊躇いながら呼び掛けると、所在無げに取り残されていた息子は弾かれた様に顔を上げました。
「…母さんも聞いたでしょう。魔王のあの発言」
「誤解しないで、オニキス。あれはアレクの本意ではないわ。アレクはただ…私を引き留めたいだけなのよ」
息子からの非難の言葉を聞きたくなくて、私は焦ってアレクを擁護しようとしました。
けれど息子の頑なな表情は変わりません。
「本人の意向を無視してまで? ……母さんはどうなの? 残りたいの? 魔王が成長した今、ここに残らなきゃならない理由は何もない筈だよね? それともあいつが真に求めているものを母さんは与えてあげられるの?」
矢継ぎ早な息子の問いに、私は答えることが出来ませんでした。
私はアレクの気持ちに応えられるのでしょうか。応えて…いいのでしょうか。応えたいと、私は思っているのでしょうか。
……わかりません。
「母さんが泣いて嫌がっても、あいつはきっと手放さない。今オレ達が母さんを国に連れて帰ったら、宣言通り本当にヒトを滅ぼすだろう。母さんが人身御供になるなんて絶対駄目だ。でも、あいつには実行する意志と力がある。それは、破滅の道だ」
息子は中空の一点を見つめて呟くのでした。
「魔王の存在は、ヒトにとって脅威でしかない――…」
「おい、行くぞ」
騎士二人が、息子を促しました。
「急いで帰国の準備をしなければ。やるべきことは分かってるな?」
「…はい」
「団長補佐、お話が」
息子を含めた使者三人は、騎士様、神官様、黒魔導師様と共に、与えられた居室へと去って行きました。
ブラッドから退城を促された使者達は、取り急ぎ祖国に帰らなければなりません。分かってはいてもこのまま別れるのが不安で、私は息子の背中に声を掛けました。
「待ってて、オニキス。私がもう一度アレクを説得してみるから…!」
振り向きもしないで立ち去って行く息子の姿にどこか不穏なものを感じて、叫んだ私の言葉はしかし、受け取り手のいないまま空中に浮かんで消えたようでした。
「――嫌だ」
私の姿を見るなり、アレクは拒絶の言葉を口にしました。
城中を探し回ってようやく見つけたアレクは、中庭に一人佇んでいました。
けれど何よりもまず、アレクの口調が普段通りだったことに、私は安堵を隠せませんでした。
『魔王』の口調ではなく、私の目を真っ直ぐに見てくるアレクは、私の知っているアレクだと。自らを偽る事の無いアレクなのだと、そう思えたからです。
「待つとは言ったよ、言ったけど―――……別れたらきっと僕らは二度と逢えない。今みたいに一緒には居られない。帰国後ルチルは外交上僕への切り札にされて、王や神殿から絡め取られて、一生手駒としてだけ扱われるんだ」
アレクの予想は禍々しい予言のようで、私には気温が数度下がったように思われました。
考えたくも無い事でしたが、それは、充分に有り得る未来でした。
「ルチルは僕を信じてくれるって、そう言ったよね。神殿が僕の事を悪だと断じても、魔王は敵だと謗っても、僕の側についてくれるんでしょう?」
裁きを待つかのように私を見つめてくるアレク。私が強く肯くと、ほっとした顔をしました。
「でも、アレク。あんなこと、嘘なんでしょう? つい言い過ぎただけよね? ヒトを滅ぼすだなんて、そんな恐ろしい事、本心から望んでいる訳じゃないわよね?」
私は、確かめずにはいられませんでした。
「…あのね、ルチル。正直に言うとね」
アレクの唇から次の言葉が出るまでの間がひどく空いて、それが打ち明けるかどうか悩んだ末の発言だという事が窺えました。
「僕は自分が怖い。望んでいる訳じゃなくても、僕は、本当にやってしまうかもしれない―――本当にヒトを、滅ぼしてしまうかも。ルチルと引き離されて、奪い返す力が自分にあることを知っていながら、耐えられるとは到底…思えないよ」
右手を開いたり閉じたりしながら眺めているアレクの姿は、途方に暮れる子供のようでした。
「そんな事になったらルチルはもう僕に笑ってくれない。それが、何よりも怖いんだ」
「アレク」
どうしたら良いのでしょうか。
名前を呼ぶことしか出来ない私の身体に、アレクはそっと両腕を回してきました。正面から擁かれて、首筋に顔を埋められます。それは命綱に掴まるように、溺れる者が藁に縋るように、優しいながらも決して離すまいという意志の込められた抱擁でした。
「ルチル、お願い。僕を止めて。…ずっと傍に居て」
心からのアレクの懇願は、胸が痛くなるほどで。
アレクの願いを叶えてあげたいと、その一瞬、私は他の総ての事を忘れて純粋に思いました。
この子を、守りたい。
この子を、愛したい。
この子を、信じたい。
その気持ちは、初めて会った時からずっと変わらずに私の裡にあり続けていたのです。
「アレクはどうして私の事を……そんな風に想ってくれるの?」
「…どうして?」
くっ付けていた顔を少しだけ離して、とても意外な事を訊かれた、というように、アレクは目を丸くしました。
宝石のような、アレクの瞳。
太陽の光が雲間からアレクを照らし、赤紫の瞳がエメラルドグリーンに移ろい変わる瞬間が、彼の瞳を縁取る長い睫毛の向こうにはっきりと見えました。
「僕はね、この世界に誕生した時から魔王だった。生まれ持った魔力が閾値を超えていたんだ。ルチルも知っている通り、魔族の価値判断の基準は、相手がどれだけ魔力を持っているかだ。周りの魔族総てが僕に――ううん、僕の有する魔力の膨大さにひれ伏した。皆が『魔王』に忠誠を誓った。……魔力と関係なく僕を見てくれたのは、ルチルが初めてだったんだよ」
くすりとアレクが笑います。
「ルチルは僕が保護者への愛情と勘違いしていると言っていたけれど、そんな事は有り得ないんだ。僕ら魔族の間には家族愛というものがそもそも介在しないんだから」
悪戯っぽく私を見つめてくる花緑青の瞳に、引き込まれてしまいそうです。
「抱き締められたのも、ルチルが最初。他者というものは温かいのだと、初めて知った。お城の中で手下の魔族達に沢山囲まれていたけど、本当はずっとずっと寂しかったんだと、僕はあの時初めて気が付いた……」
アレクは背中に回した手に少しだけ力を込めて私を抱き寄せ、背伸びをしてから私の額に口付けをしました。
「あ、アレク」
口付けをするのもされるのも初めてではないはずなのに妙に気恥ずかしくて、私は顔が火照ってしまいます。そんな私を見て、アレクは花が咲いたように微笑みました。
「初めて僕のおでこに口付けしてくれたのも、ルチルだ。柔らかくて、いい匂いがして、なんだか恥ずかしくて、でも胸が苦しくなるくらいに嬉しくて。その瞬間にはもう、僕は恋に落ちていたんだと思う。初恋ってやつだね」
再び顔を寄せてきたアレクの角が、私の頬に当たります。その硬質な感触に思わず身じろぎした私に気が付いて、アレクは顔を僅かに傾けました。
「誰かと一緒に眠ったのも初めて。守られたのも、叱られたのも、泣かされたのも、愛されたのも、初めて。…ふふ、『初めて』ばかりだね。僕の初めては全部ルチルが相手なんだ。これって凄くない?」
頬擦りできるほどに近付いた互いの顔の距離のせいで、話すたびにアレクの唇が私の耳たぶをかすめていきます。
「ルチルが全部教えてくれた。喜びも悲しみも切なさも愛しさも、ルチルがいたから感じることが出来た」
アレクの吐息が、自然と耳にかかります。私は反射的に押しのけようとしました。
「…くすぐったいわ、アレク」
「くすぐったいだけ? ルチル」
くすくすと笑いを含みながらの口調に、てっきりアレクは面白がっているのだと思いましたのに。覗き込んできたアレクの瞳には意外に真剣な色があって、私は息を飲みました。
アレクと私の唇が、触れ合えるほどすぐ傍にあります。
「――むしろ逆に訊きたいよ、どうして僕がルチルを想わずにいられると思うの……?」
甘い、囁き。
思わず目を瞑りそうになったその時、アレクの黒髪の影にきらりと何かが光りました。
「アレク!」
咄嗟に体の位置を入れ替えた私が見たのは、抜身の剣を容赦なく突き出してくる息子で。
その時、私は思いました。再会した時から息子に対して私が持っていた違和感は、離れていた間の成長に伴うものではなかったのだと。そう、思い返してみれば、常に息子のどこかしらに思い詰めたような感じが漂っていたのです。
息子の手にした剣の柄には、確かに見覚えがありました。
それは、紛れもなく勇者の剣。私が大岩から抜き出した、魔王を唯一殺傷できるという伝説の剣でした。
「……!」
私はただアレクを庇おうと無意識に体に力を込めてぎゅっと目をつぶりました。
「駄目だ! ルチル!!」
けれど、鋭い叫びと共に身体が大きく振り回される感じがして。
体内を冷たく固いものが通り抜ける感触と、温かい液体が服にぶちまけられた感覚、そして、
「…がはっ」
と耳元でアレクが呻く声と、取り落とした剣がカランカランと落ちる音が聞こえ。
圧し掛かってくる不吉な重みにくずおれながら、私は瞼を開けました。
目の前に立つのは、蒼白な息子。
いつまで待ってもやって来ない痛みは、アレクが一手に引き受けていてくれて。
赤い液体をまき散らしながらアレクが私の上に倒れていました。心臓の位置に空いた穴は剣に貫かれて出来たものでしょう。まだ温かいその血が、大事なアレクの血が、どくどくと溢れ出してきます。
「……アレク……? アレ…ク……いや……アレク…」
返事はありません。
「…や…っ…………いやあああ―――――!!」