第二十楽章
もう一悶着が起こったのは、その夜の事でした。
結果的にブラッドの一言で使者達は魔王城に滞在する運びとなり、コーンフラワーが宿泊場所の手配をしていました。幸い、というか何というか、アレクの儀式への参加客は大半がその予定を変更して既に城から去っており、そのために準備の整った客間が数室空いていたので、そこに入ってもらう手はずになっていました。なのに私の息子オニキスが、突然こう言い出したのです。
「ああオレ、母さんと同室で構わないですよ」
………きっと息子なりに気を使ったんだと思います。予定にない客が急に来て何部屋も準備させるなんて申し訳ないな、とか。親族(私)が先客として滞在しているんだから、そこに入れてもらえば迷惑の度合いが少しは減るんじゃないのかな、とか。久々に会った肉親(私)と親睦を深め合いたい、とかね。
もしかしたら、下っ端の身分で命令もきかずに勝手に魔王に失礼な物言いをしてしまって、上司との同室が気まずかっただけなのかもしれませんが。
ええ、普通なら何の問題もない話です。
―――普通なら。
でも、ですね。
私、この一年半ずっと、アレクと同室だったんですよね……。
……うわあ、これ今、息子にすっごく言いたくないです……。せっかく鎮火した炎に油を注いじゃうような気がしますもの……。
でも、この流れで説明……しない訳にもいかない、ですよね?
数回逡巡を繰り返した後で、私はその事実をとうとう息子に打ち明けました。
「ふうん」
ああ、また怒っている声ですよ、これは(泣)。
――そこから正座させられて、長いお説教タイムの始まりです。
「大体母さんは隙があり過ぎるんだよ! そのうえ国宝級に鈍い! 村にいた頃からそうだった。オレが母さんを守るためにどれだけ苦労してきたか、分かってる?」
「え、でも、落ち着いて? 相手はアレクだし、心配なんて全然いらなかったのよ?」
だって最初は幼児でしたし。
「その! アレクに! 泣かされたんだろう! まったく、どこまで油断すれば気が済むのさ」
うう……正論すぎてぐうの音も出ません……。
誰か息子を止めて下さい、と周囲をこっそり見回しますと、黒魔導師様と目が合いました。私に説教している息子の事を、『もっとやれ』という顔で見ています。
「まあ僕も、ルチルとアレクがいつまでも同衾しているのはおかしいと思っていたんだ。アレクはもう僕と同じくらい大きいんだからな! お風呂とか明らかにやり過ぎだろう」
「お風呂…?」
ひぃ、これ以上の燃料投下はいりませんってば。頼みますから黒魔導師様は黙ってて下さい!
こんな時頼りになりそうな騎士様は、以前の部下であった使者達の部屋へ行かれています。おそらくは王命について詳しい事情を聞きに行かれたのでしょう。
神官様は何もおっしゃいませんが、私を案じて下さっているのは感じます。
そのお気持ちに応えるためにも、私は息子に向かって弁明を試みました。
「オニキス、本当に私、アレクに酷い事は何もされていないのよ…! 泣いてしまったのは、ただ少し驚いたっていうか…」
見知らぬ貌をしたアレクの事が、怖かったのも本当です。
その上で、今にして思えば、私は。
アレクの気持ちが。
アレクの告白が。
……凄く、ショックだったのです。
可愛くて、愛おしくて、何よりも大事で、慈しんで育ててきた、私のアレク。
あの時私は、アレクの事を実際には何一つ分かっていなかったのだと、残酷にも本人によって、そう思い知らされたのでした。
「ああもういいよ。とにかく母さんは今夜から部屋を替えて」
うんざりしたように息子は手を振り、神官様と黒魔導師様の方を見ました。
「オレ、察しはいい方なんで。オレが来たからにはきっちり管理しますから、よろしく。今別室に行っている人も含めて、要注意なのはどうも魔王一人だけじゃないみたいですし」
あら? 息子のその言葉で、神官様の笑顔が一段深く、黒魔導師様は苦虫を噛み潰したような顔になってしまわれました。お二人とも一体どうされたのでしょうか…。
とはいえ。
一番の難関は、寝室を別にする事をアレクに告げる時ですよね。
私はごくりと唾を飲み込みました。
是が非でも立ち会うと言い張った息子を何とか説き伏せて、私は一人、部屋でアレクを待っています。つい今朝まで一緒に寝起きしていた、私とアレクの寝室です。こういう事は一対一できちんと話すのが道理だと思ったからです。
気軽に。何気ない風に。
「息子が来たから一緒の部屋に移動するわね!」
とか言えば。大丈夫、アレクももう大きいのですし。
私がいないと眠れない、とぐずっていたのはだいぶ前の話ですもの。……ええと、大丈夫、ですよね?
枕を抱えながら自分に言い聞かせていると、昼間のアレクの様子が思い出されました。
――『泣くほど、嫌だった?』
そう呟いた時の、アレクの寂しそうな顔。
――『ルチルがいなければ、心が死んでしまう……!』
そう叫んだ時の、泣き出す寸前のような切なげな顔。
ぐるぐる、ぐるぐる。出会った時の幼い顔からつい先刻の顔まで、色々なアレクの表情がカレイド・スコープのように、私の頭の中を廻っていました。
大好きなアレク。私を大好きでいてくれるアレク。
私が護ると。二度とアレクに剣を向けたりはしないと、そう誓ったはずだったのに。
それなのに他の誰でもなく私が、拒絶という鋭利な剣で、アレクを傷つけてしまいました。
罪悪感で胸が軋みます。
……受け入れれば良かったのでしょうか。あの時、アレクの望むままに、すべてを差し出していれば―――今、これほどに胸の痛みを覚える事も無かったのでしょうか。
恐怖など飲み込んで、痛みなど無視して、怯えなど気付かぬふりで。アレクの願いを叶えてあげれば、悲しませずにすんだのでしょうか。
――『ルチルは分かっていない。僕がどんなに苦労して浅ましい欲望を押さえつけていたのか』
アレクも、苦しんでいたのです。理性と本能の狭間で、私にも打ち明けられずにずっと。
愛しいアレクが切望する事ならば。
私は、拳をきゅっと握りました。掌の中に心を閉じ込めて、強く握れば、決意が固まるような気がしたからです。
ええ、きっと………どんなに辛くても、我慢出来ない訳が無いです。
私が覚悟を決めた時、アレクが部屋に入ってくる足音がしました。
どこかで儀式用の正装から着替えてきたと見え、普段着の、いつものままのアレクでした。
寝台の上に座る私を見て、少年魔王は軽く目を見張りました。
「…いるとは思わなかったよ」
私は、息を吸い込みました。それから、アレクの目を見て、言います。
「挨拶に来たの。今夜から、息子と同じ部屋に移ろうと思って」
「ああ…そう。ルチルはやっぱり……あっちを選ぶんだね」
後ろ手に扉を閉め、昏い瞳で近付くアレク。
違います。そんな顔をさせたいんじゃないのに。
「あのね、アレク。誤解しないでほしいのだけど、私にとってアレクはとても大事なの。オニキスと同じくらい、大事。比べる事なんて出来ない」
「でも僕から逃げて、息子の方へ行くんでしょう」
「それは、オニキスとは二年も離れていたから。逃げるわけじゃないわ。私はアレクの事を変わらずに想っている、証明だって出来るわ」
私の言葉に、アレクは怪訝そうな表情をします。私は、掌を握り込み、もう一度深呼吸をしました。そのまま心が揺らがないうちに決意を舌の上に載せます。
「……私に、アレクがしたい事をして、いいわ」
声の震えは、隠しきれませんでした。
ギシ。
私が座る寝台の上に、アレクが片膝をついて乗り上げてきました。
両肩にそっと手を添えられて、仰ぎ見たアレクの顔は無表情で、精緻に造られた人形のようでした。
「――僕の事が、怖いんじゃないの?」
「…っ」
思わず、返しに詰まります。
怖くないのかと問われれば―――そう、やはり本当の所は怖いのです。
私の態度を見たアレクが、自嘲の笑みを浮かべました。
「何それ、同情? 憐み? ルチルは、僕をどれだけ惨めにすれば気が済むの? それで僕が諦めるとでも思ってるの?」
「違…!」
しまった、失敗しました。またアレクを傷付けてしまったようです。私は唇を噛み締めました。
私の肩を掴むアレクの手に、力が籠もりました。怒りに声が荒がります。
「やっぱりルチルは分かってない。僕は願ってる。求めてる。欲してる。祈ってる。希ってるんだ、ルチルの総てを。けど間違えないで、僕の望みは気持ちも含めてなんだ。同情で身体だけ手に入れたって嬉しくない!」
温かい何かが下唇を滴り落ちる感触がして、遅れて鈍い痛みがやってきました。
強く噛み過ぎて、私の唇が切れてしまったようです。
鉄錆を思わせる血の匂いに、アレクがハッと息を飲みました。
「いや…嘘だな。なんでもいい、本当は。欠片だけでも、それがルチルなら。例え一雫でも、他の何よりも僕はルチルを選ぶ」
そう呟くと、アレクは身体を屈めて、私の顎に伝わる赤い雫を舐めとりました。
「…美味しい」
艶々した黒い睫毛に縁取られた赤紫の瞳が、私のすぐ目の前にあります。
互いの息が直接触れ合うほど近くには、端正な美貌が。
視界に入れずにはいられない、滑らかな象牙色の巻き角は、彼がヒトではない事実を端的に表しています。
異種族の、美しい魔物。
こういう状態こそを、魅入られた、と言うのでしょうか。私はぴくりとも動けなくなっていました。
「ふふ、みっともない魔王だよね、僕? これでもね、プライドだって当然あるんだよ。でも、そんなもの泥に塗れたっていい。ルチルが手に入るなら何も惜しくない…!」
自らを蔑むように言いながら、私の両肩を静かに押して、アレクは私をシーツの上に横たえました。
私を上から見下ろして、アレクの指が私の茶色の髪を梳きます。ゆっくり、強張った身体がほぐされていくようでした。
時折その指が耳に触れると、私は身を震わせます。アレクはそれを見て、どこか歪に笑いました。
「馬鹿だね、ルチル。触れられただけでそれほど怯えるくらいなら、どうしてあんな事言うの」
私は必死に答えました。
「ちゃんとアレクに分かってもらいたいから。私はアレクの事が大好きなんだって」
「――僕が欲しいのはそういう『好き』じゃない」
アレクの瞳には陰りが見えます。
けれど私には、この気持ちしかあげられないのです。
まだ、でしょうか。
必ず来るはずの痛みを予感しながらの時間は、とても長く感じます。
アレクの指は私の輪郭を確かめているみたいでした。髪、頬、肩をなぞり、腕をすべって、私の拳を開かせました。指を絡め、手を握り合います。
その隙に固く閉じていた掌から決意が零れていってしまったのでしょうか。
アレクの触れ方はひどく優しく、壊れ物を扱うようで、却って私の恐怖は煽られていきました。
味見をするようにアレクの舌が私の鎖骨を辿り、喉元へとやってきました。
口を開けて食らいつこうとするアレクに、我知らず、私は悲鳴を上げました。
「ま…待って。お願い、喉はやめて、死んじゃうから」
「……?」
私の懇願に、アレクの動きが止まります。
「あのね、出来れば腕…とか、脚…とかにしてもらえると」
自分の不甲斐無さに腹が立ちます。あれほど固く決心したはずだったのに、訪れる痛みを想像していたら、土壇場でまた怖くなって涙が溢れてきてしまいました。嗚咽混じりの言葉は、自分で聞いていてもひどくたどたどしいものでした。
「ごめんなさい、アレク。ゆ、指一本、とかじゃやっぱり足りないかしら……?」
半身を起こしたアレクは、心底から戸惑っているようでした。
「……ええと、ルチル、何の話……?」
「だって……私を、食べたいのでしょう?」
「………」
黙り込んでしまったアレクに、私は全身を凝視されました。そのまま静止した状態が数秒続きます。
あ…あれ?
私、何か……間違えましたか?
「そんな事、僕言ったっけ……? …ああ…うん…言ったかもしれないな……。そうか、そっち側に解釈されちゃったのか…」
アレクが小声でぶつぶつ呟いています。それから、不意に勢いよく顔を上げました。
「え……待って。もしかしてそれでルチル、泣くほど怯えていたの…?」
そうですよ!
だって、食べられるのはやっぱり怖いでしょう! 間違いなく痛そうですし!
物凄く葛藤した挙句にこの状況って、もう訳が分からないのですが!
私が肯くと、拍子抜けしたように、アレクが息を吐きました。
「思い出して。一番最初、出会った時に言ったでしょう。僕はルチルをけして食べないって」
あれ……じゃあやっぱり私の勘違いなんですか?
「衝動は、正直、あるよ。ゼロじゃない。欲は密接に絡み合っているからね」
そう言いながらもアレクは、私の腕を取って、身体を起こしてくれました。
寝台の縁に腰掛けて、向かい合い、額をこつんと合わせます。見つめ合う瞳から、昏い陰は薄れているようでした。私の頬の涙の筋をアレクの指が優しく拭き取ってゆきました。
「でも、しない。何故って僕は、ルチルの事が好きだから」
アレクはふわりと笑いました。
それは、よく知っていた無邪気な少年の笑みのようで、なおかつ、初対面の青年の恥じらいの笑みのようにも見えるのでした。
「だから待つよ。ルチルの気持ちが僕に追い付くのを。少なくとも腕一本貰えるくらいには、僕はルチルの特別になれているみたいだし」
――アレクの言葉に、私の鼓動がドクンと大きく跳ねた事は、内緒です。