第十九楽章
「オニキス!」
信じられない気持ちでいっぱいになりながら、私は息子の名前を呼びました。
城門の外側には、数騎の騎馬と人影が見えます。
一人は神官様です。あの騒動の中でも一向に姿をお見掛けしないと思っていましたら、使者の出迎えに行かれていたのですね。
それから、騎士の格好をしている人が三名。そのうちの一番小柄な人物に、私の目は引き寄せられました。
あの子が騎士団に入ったとは聞いておりませんし、別人でしょうか。そう思ってみれば、記憶にある二年前の姿よりも背が高過ぎますし、顔つきだって少し大人びている気がします。
けれど、微かに面影がありました。
「母さん」
私を見とめて、少し照れたように笑う馬上のその顔。
縞の入った茶色の髪、私と同じ茶色の目、けれど面立ちは父親の方に酷似していて。
…ああ、間違いなく息子です。
私は胸が熱くなって馬上の息子の元へと駆け寄りました。
「どうして貴方こんな所まで来てるの…! いつ村を出てきたのよ!? なんで連絡くれないのっ! こんな事、村長さんが本当に許したの!?」
勢いのまま息子の胸倉を掴んで引きずり下ろすと、その耳元で言いたかった事を叫びます。しかし私の行動を予想していたとみえ、息子は咄嗟に指で両耳に栓をしていました。ちっ。
「オレも使者の一人なんだよ。相変わらずだね母さん…」
苦笑いをする息子の向こうに、なんだか呆気にとられたような表情の騎士さん二人と神官様が見えました。
「勇者様……」
「ルチル……」
あら。初対面の騎士さん達と尊敬する神官様の前でお見せするような態度では無かったですね。いけません、つい。
そして気付いてしまいました、門番の魔族が遠巻きにこちらを窺っている様子に。どうやら神官様の目的は単なる出迎えではなく、使者の安全確保であったようです。『ヒトを襲うな』というアレクの命令があるとはいえ、魔王城に攻めてこられたらその限りではないでしょうからね。今日はアレクの『成魔』の日でもありましたし、警備陣もピリピリしていたはずです。それを見越して、勝手な自己判断で門番が先走らないように牽制してくださっていたのでしょう。さすがは神官様です。
「敵意は無いです。私の故国からの使者達で、そのうちの一人は私の息子です」
門番に説明をします。城内で何度か見かけた事のある魔族だったので、私の顔も知ってくれているようでした。
「はあ、ルチル様の…」
不承不承ではあるものの、納得して槍を収めてくれました。
ふう。私は一息ついて、神官様に向き直りました。
「有難うございました、オブシディアン様」
息子の危機を未然に救って下さった事に対してお礼を言います。神官様は、穏やかな表情で肯かれました。銀の髪がさらりと揺れます。
「いえ、何事もなくて良かったです。やはり息子さんでしたか」
「はい。お恥ずかしい所をお見せしました。使者は3人ですよね? アレクとの面会許可が出ているので城内に通します」
私が先頭に立ち、馬を引いた騎士さん達と一緒に城門を潜ります。息子の他に、三十代前半の騎士さんと、二十代後半の騎士さん(年齢は推定です)。殿は神官様です。城内の至る所から、魔族の皆さんの刺すような視線を感じます。不信を買わないように背筋を伸ばし堂々と歩いていると、息子が自然に隣に並んで、小声で囁いてきました。
「目の縁が赤い。母さん…泣いた?」
ぎくり。思わず体が強張ったのを隠そうと、
「二年ぶりの親子の再会だと言うのに、貴方は何言ってるの。村の皆さんは元気? 急に来るから私吃驚しちゃったわ~」
と、笑って誤魔化してみました。
「ふうん。で、誰に泣かされたの」
……駄目でした。
もう疑問ですらなかったです。問詰です。うわぁ、久し振りに聞きました。これ、怒っている時の声です。
「じゅ、十六歳になったのよね。貴方が騎士になりたかったなんて全然知らなかったわ…」
「違うだろ。こうでもしないと自分の親にも会えないから」
………。
あれ。気の所為でしょうか。なんだかうちの息子、めちゃめちゃ怒っているみたいなんですけど……。
「団長補佐」
騎士の一人、年長のリーダー格さんの方が声を上げました。
見ると、通路の向こうから騎士様と黒魔導師様が小走りにやってきます。どうやら何処かで使者の話を聞いて急遽駆けつけてくれたようでした。コーンフラワーとルーベライトの姿はなかったので、途中で別れたものと思われます。
我が友、騎士様が、使者二人と肩を叩き合います。
「使者ってお前達か。何だ、王の用件なのか? …ルチル、こいつらは以前の俺の部下だ。王立騎士団員であることは保証する。一人知らない顔も混じっているようだが」
騎士様と使者二人は、旧知の仲だったようです。年齢がそれ程違わないのに上司・部下だというのは、騎士様が異例の出世をされていたという事なのでしょう。
「ああヘリオドール、これは私の息子、オニキスよ」
「! 君がそうなのか…! そうか、騎士見習いに…」
ぺこりと頭を下げる息子を、どこか感慨深げに見遣る騎士様。それを押しのけて黒魔導師様が私に顔を寄せてきました。
「そんな事より大丈夫だったのかよお前! アレクに連れていかれて、何かされなかったか!? あいつ、えらく機嫌悪かったみたいだけど…ッ」
う、うわ。黒魔導師様、このタイミングでそんな事訊かないで下さい!
「アレク。それって魔王の名前ですか」
「あ…ああ」
無理矢理会話に割り込んできた息子の問いに、黒魔導師様が訝しげに首肯しました。
息子が私をじっと見つめてきます。私は必死に素知らぬふりを装いました。息子の視線が私の首元に一際注がれているような気がして、襟をかき寄せます。
「ふうん」
何でしょう、もう嫌な予感しかしません…。
確かに、泣きました。泣いてしまいました、年甲斐もなく。
アレクが怖くて。
アレクなのに、怖いと思ってしまう自分が情けなくて。
あの時、ブラッドが客間に入って来てくれなかったら一体どうなっていたことかと思います。
「…行っていいよ」
私の上に覆い被さったまま、くぐもった声でアレクが言い、私は恐る恐るその表情を窺いました。涙で視界が滲んでおぼろげにしか分かりませんでしたが。
「逢いたかった息子が、わざわざ使者として来てるんでしょう。ちゃんと謁見するから、後で連れてきて」
「あ、アレクも一緒に…っ」
ぽろぽろと零れる涙も構わずに、私は、ソファから立ち上がろうとするアレクの服の裾にしがみ付きました。瀬戸際でアレクが凶行を思いとどまってくれたことに、私は大きな安堵を覚えていました。嵐のような激情が彼の中から消えていて、あれ程怖かったアレクが、見知らぬ他人のようだったアレクが、私の大好きなアレクに戻っていると感じました。
このまま離れたら二度と元の関係には戻れなくなってしまうのではないかと、現金にも今度はそれが怖かったのです。
「ルチル様、容赦してあげてください」
くつくつと笑いながらブラッドが言います。
「アレク様はそれ程すぐに歩ける状態にはなれませんよ」
「…え?」
「うるさい、ブラッド!」
真っ赤な顔で側近にクッションを投げつけたアレクを見て、私はよく訳が分からないまま退室し、動揺した様子に気付かれないように念入りに顔を洗ってから、息子を迎えに来たのでした。
謁見の間に使者を案内すると、そこにはもう先刻まで溢れかえっていた魔族達の姿はありませんでした。事前に人払いされていたのでしょう、部屋にいたのは二人だけ。奥の椅子にはいかにも魔王然として黒一色を纏ったアレクが鎮座しており、その右手前にはブラッドが立っていました。
使者として来城した三人だけを部屋の中央に進ませて、魔王城に暮らす私達勇者一行は扉の内側傍に控えます。
紅の髪と瞳を持つ魔王の側近は、内面を知らない人間が見たら確実に人柄を誤解するほど、優しげに微笑んでいました。
「遠路はるばる、よくいらっしゃいました。先駆けもなく突然に、何用でしょうか」
「我が王の親書をお持ちしました」
騎士の礼をして、年若い方の使者が巻紙をブラッドに献上します。ブラッドは封を破り、一旦目を通してからアレクに渡しました。文面を流し見たアレクは、視線を上げて、使者の口上を促しました。
「魔王様におかれましては、本日めでたくご成魔なされたとの事。寿ぎ申し上げます。僭越ながら我らの勇者も魔王様成育の一端を担えました由、幸運に思っておることでしょう。遺憾にして過去には数度不幸な行き違いがございましたが、現在我が王は、魔族との講和を切望されておられます」
流麗に紡がれる年長の騎士の言葉を聞いているのか、いないのか。
冷徹な表情で玉座に座るアレクは、まるで見知らぬ誰かのようです。
「その親書には、我が国と魔族との相互不可侵条約締結に関しての提案が示されております。細部の条件には可能な限り譲歩する用意もございます。つきましてはひとまず勇者一行の帰還を希いたく」
「ルチルは帰さない」
それまで無言を貫いていたアレクが、使者の言葉を容赦なく断ち切りました。
「それだけは絶対譲らない。他の事はどうでもいいけど」
アレクの端的な拒絶に、使者は途中で言葉を失くしています。言い置いて立ち去ろうとするアレクに、その時、鋭い言葉があびせ掛けられました。
「待って下さい。それは、勇者を人質に取るって事ですか」
歩みを止めたアレクが、ゆっくりと振り向きました。
「……ルチルの息子と言うのはお前か」
重低音。
アレクの剥き出しの不機嫌さに肝が冷えます。気の所為だけではなく、室温が確実に低下していっているようです。
先刻からアレクが耳慣れない言葉使いなのは、『魔王』としての演出、なのでしょうか。
「そうです。母は、もう十二分に貴方に尽くしたと思いますけど」
発言権などもとより無いはずの騎士見習いの立場です。当然、息子のこの行動は想定外のものだったのでしょう。同行者として近い場所に位置する騎士二人の顔は、ここから見ても青ざめていました。
息子とアレク。距離を開けて対峙する二人は、見掛けの年齢的には非常に似通っています。同世代といってもいいくらいです。それなのに、何故このような事態になっているのでしょうか。少年から青年へと脱皮しかけている時期の若者達、その二人ともが、私にとってかけがえのない大事な存在だというのに。
「人質などではなく…個人的な賓客として滞在してもらうつもりだが」
「それは手酷い扱いをして泣かせても構わない相手、という意味でしょうか」
息子の言外の非難に、アレクが眦を決しました。けれど息子の勢いは止まらないようです。
「貴方なんでしょう、ついさっき母を泣かせた相手は。魔王だからって何をしても許されると思わないで下さい」
私と並び立つ三人の仲間が、驚いて私の方をまじまじと見る気配を感じました。
「…オニキス!!」
さすがにいたたまれなくなって、背後から私は叫んでしまいました。しかし息子は振り向きもしません。
「母さんは黙ってて。オレは怒っているんだ。手紙では幸せそうなふりをして、結局は泣かされてるんじゃないか」
「―――魔力も持たぬヒトが、大口を叩く。その気になればお前など一呼吸で殺せるというのに」
実力に裏打ちされた魔王の発言に、息子と共に来た使者たちがギョッと息を飲みました。だというのにそれに対する息子の返事には、明らかに嘲りの色が混じったのです。
「ああ、簡単な事でしょうね。けど分かってないんですか。この場でオレを手にかけたら、母の心は永遠に貴方の手には入りませんよ」
「ククッ…!」
ブラッドが失笑します。耐えきれない、というように。
この緊迫した空気の中でそんな真似が出来得るのは彼だけです。
側近を睨みつけるアレクの様子は、視線だけで相手を殺せそうでした。
「さすがルチル様のお子様、一筋縄ではいきませんね。ああ、失礼。お話が弾んでいるようですが、どうでしょうアレク様、使者殿には暫くこの城に滞在して頂くというのは。その間にお互いの齟齬を話し合いで解決すれば良いのではないですか」
いかにも愉快そうに提案するブラッドに、使者二人は渡りに船と迎合しました。
王命を帯びてきてこのまま物別れでは、ようよう帰国出来ない気持ちも分からないではありませんが。
ぎり、と美しい唇を嚙んでから、
「…勝手にしろ」
吐き捨てるようにアレクは言って、足音高く王座から離れます。途中、息子と擦れ違う時に何かを言われたようでしたが、そのまま言い返しもせずにアレクは歩み続けました。扉の横にいる私の傍まで来てようやく一瞬足を止め、私の顔をちらりと見ます。そして。
「――泣くほど、嫌だった?」
聞き逃してしまいそうな小さな呟きは、いつも通りの幼さの残る口調のままで。
その切り替えに私が戸惑っている間に、アレクは唇を一直線に引いて再び動き出し、扉から出ていってしまったのでした。