第十八楽章
引き摺られるようにしてアレクに連れて行かれた先は、コーンフラワーが謁見室だと言っていた場所でした。
部屋の奥には一段高い位置に据えられた空の玉座があり、その前に大勢の魔族が有象無象に立っていました。私の腕を掴んだままのアレクが部屋に一歩足を踏み入れると、その魔力の高さに気付かずにいられないのか、魔族達は全員入口の方へと振り返ります。
「ヒトだ」
「魔王様とヒト」
「ヒトに手を出してはならぬとの仰せだ」
「ヒト」
「おお、あれは勇者じゃないか?」
「何故魔王様と勇者が」
どよめきが、さざ波のように広がります。
アレクは、漆黒の衣装を身に纏っていました。アレクの好みに合わせてか、シンプルなデザインではありますが上質な生地で、胸元の燻し金の飾り紐が唯一のアクセントになっています。整った美貌を、両側から艶やかな黒髪と象牙色に渦巻く角が縁どっており。初夏なのでマントは無しでしたが、少年ながら魔王を名乗るのにふさわしい、若々しくも堂々たる姿でした。
初対面の時に見えた愛らしい膝小僧を思い出して、私は思わず笑みを零しました。
今のアレクならば、玉座に座るのもきっと良く似合う事でしょう。
隣に立つ私がそうやって今更ながらにアレクの装いに目を細めているのも知らず、アレクは右手を前に掲げました。それだけで雑談が静まり、従順な聴衆を前にして、少年魔王は声を張りもせずにこう告げたのです。
「僕が選んだのは勇者ルチルだから。これ以上はもう意味が無い。散会」
淡々とそれだけ言うと、驚きに息を飲む魔族達を尻目に、踵を返し、アレクは謁見室を出ていきました。勿論、掴まれたままの私も一緒に。
廊下の向こうに先程追い越したコーンフラワー達の気配があります。アレクのあまりの激昂ぶりにお互い言葉を交わす間もなく通り過ぎたのですが、今回もまたちらりと姿を見ただけで、私はアレクに別の部屋へと連れていかれました。
今度の部屋は客間のようでした。
窓辺のカーテンは閉じられたまま、寝台とソファ、カフェテーブルが設えてあります。
「アレク…?」
扉に内鍵を掛けると、アレクは私の腕を漸く放してくれました。
「…座って」
促されて、私はソファの端に腰を下ろします。
てっきり隣に座ってくるのだろうと思ったアレクは、そのまま立って正面から私を見下ろしていました。それから、ふう、と重めの吐息をつきました。
「ごめん、ちょっと頭にきちゃって。でも宣言は取り消さないよ。もともと僕の中では決定事項だったし、発表が予定より少し早めに繰り上がっただけだから」
「え、アレク、あの、ちょっと待って。何だったの、今の…」
思っていたより大事の予感です。
「大した事じゃないよ。僕に伴侶を勝手に押し付けようとする身の程知らずな輩に、もう決まった相手がいるって言っただけ。これで余計なちょっかいは掛けてこれないでしょ、相当な慮外者か命知らずでない限り。まあ次に同じ事やったら消すけどね」
何でも無い事のように言うアレクに、私は開いた口が塞がりませんでした。
どんなものだったのかは分かりませんが大事な『成魔』の儀式の後で、魔族の大衆の面前で、ヒトであり勇者である私が魔王の伴侶だと――そう公言した、という事ですよね。
うわあ…。
それが『大した事じゃない』はずがないです。
魔王の子種が欲しいと宣言して憚らなかったルーベライトが聞いたら、一体どう思うでしょうか。
それに。
そう、それに、です。
私は肝心な事を思い出しました。
「……心に決めた人がいるんじゃなかったの」
「やだなあ、それは当然ルチルの事だよ。分かってないとは思っていたけど」
やっぱりか、と言ってアレクは少し自嘲気味に笑いました。
そして真面目な顔になると、両手を広げ、私の両手をそっと上から包み込みました。
アレクの手はもう、私のものより随分と大きくなっていました。
「今朝も言ったけど。ルチル、お願い。この先も僕とずっと一緒にいて欲しい。僕はルチルの事が本当に」
このまま最後まで言わせてはいけない、と不意に思いました。
私は慌ててアレクの真摯な言葉を遮ります。
「ま…待って待って! アレク、ごめんなさい。そうする訳にはいかないのよ。私、故郷に帰―――」
ふわり、と。
風が舞ったのかと思いました。
けれどそれは錯覚で、私の身体は仰向けにソファの上に押し倒されていたのです。
現状を認識するのに数秒が必要でした。
気付いた時には、両手は肘から曲げられてアレクの指に手首を押さえられ、両膝の上にはアレクの体躯に乗っかられて、容易には身動きの取れない状態となっていました。
…………。
あれ?
私、何がどうしてこうなっているのでしょうか…。
説明を求めて見上げたアレクは、どことなく寂しそうな、悲しそうな顔をしていました。
「嫌だ」
アレクは、同じ言葉を繰り返します。
「嫌だよ、ルチル。離れていかないで。ずっと傍に居るって、約束してよ、頼むから」
聞き分けの良いアレク。なんでもあっという間にそつなくこなしてしまう、天賦の才に溢れているアレク。それなのに今、彼の必死の懇願は、酷く拙いものでした。
一年前の音楽室での出来事が、脳裏に蘇ります。
「僕、知ってるんだよ。ルチルは、僕を置いて去って行くつもりなんでしょう。―――気付いていないとでも思っていた?」
「アレク……」
そう。聡いこの子が、私の気持ちに気が付かない訳が無かったのです。
私は、亡夫の事を想いました。
幼馴染でした。
優しい人でした。
修道女になるはずだった私の事を、誰よりも求めてくれた人でした。
孤児の私に、この世でただ一人血の繋がった、息子という何にも替え難い宝物を与えてくれた人。
愛し愛されて、喜びも悲しみも幸福も等分に分け合って、長い一生を共に過ごす誓いを交わした人。
それなのに、流行病に罹ってあっけなく私の事を置き去りにして逝った……ええ、とても酷い人でした。
「ヒトは、弱いから。怪我をするし、病気になるし、寿命も短いわ。つまらない事でもすぐに…簡単に死んでしまう。私には家族がいるの。私に残された最後の家族よ。あの子の事が心配なの、傍に居てあげたいのよ」
私は、心の裡を切々とアレクに訴えました。
このような言葉を告げれば、私を慕ってくれているアレクの事を傷付けてしまうだろうと分かってはいました。それは私自身にとっても辛い選択です。
それで今の今まで先延ばしにしてきました。でもここで誤魔化してはいけないと、そう思ったのです。
「僕が、魔王だから? 誰よりも強いから? 寿命が長い。病気もしない。怪我してもすぐに治る。だから心配ないって、ルチルはそう言うの? ルチルが、それを言うの?」
アレクの顔は、今にも泣き出さんばかりに歪んでいました。
「ルチルは何にも分かっていない!!」
声は、震えていました。
私を押さえるその指の力は、痛い程でした。
「僕は、ルチルがいいんだ。ルチルだけがいいんだ。無敵でも、無敗でも、手下なんか何人いても、そんなの関係ない。他の女なんかいらない。一秒たりとも離れたくなんかない。僕の望みはルチルだけだ」
叫ぶ言葉は、血を吐いているようでした。
「ルチルがいなければ、心が死んでしまう……!」
言葉が途切れて沈黙の降りた部屋に、アレクの荒い呼吸音だけが響きます。
胸が、痛みます。
出来る事なら私だって、アレクの願いを叶えてあげたい。
けれどこの身はひとつだけ。是が非でも私はどちらかを選ばなければならないのです。
アレクの呼吸が落ち着くのを待って、私はなるべく穏やかに話し始めました。
「ねえアレク、分かって。離れても、それは永遠の別れではないのよ? 私は遠くからでも貴方を想っているわ。時々は逢いに来るわ。私がずっとついていなくても、貴方はもう十分にやっていけるわ。気持ちは嬉しいけど、アレク。それは、きっと…刷り込みよ。貴方は多分、保護者への思慕の念を勘違いしているのだわ」
そう。
アレクの私への執着は―――。
鳥の雛が初めて見た動く物を親だと思ってしまう、あれに似たものなのではないでしょうか。
俯いたアレクの肩が無言で震えていました。
それがあまりに長いので、泣いているのかしらと思った時、アレクは顔を上げました。視線が合います。その表情は、予想外のものでした。
「――保護者? 僕に保護など必要ないと、今その口で言ったのに?」
嘲笑。
……私はなんて身勝手なのでしょう。
そのような嗤いをアレクから向けられた事に、私の心は傷付いていました。
自分で自分に呆れます。私こそがアレクを手酷く傷付けている側だというのに。
「やっぱり、ルチルは全然分かっていない。僕がどれだけルチルを欲しているか。どれほどルチルを独り占めしたいと思っているのか。どんなに苦労して浅ましい欲望を押さえつけていたのか。どのくらいルチルを………喰らってしまいたかったか」
気が付けば、アレクの瞳が間近に迫っていました。
端正なその顔から嗤いの色は跡形もなく消えており、今度は静かに怒っているようにも見受けられました。
相変わらず私の手足はソファに押さえつけられたままで、身動きは全く取れません。
室内では赤紫に太陽の光の下では花緑青に変わる、美しいけれど見慣れたアレクの瞳の中に、今まで見た事のない熱を感じて。
その瞬間私の裡に生じたのは、逃げ出したいという強い衝動でした。
アレクが、とても恐ろしく見えたのです。
「いい事を教えてあげる。食欲と性欲はね、ルチル。―――――見分けがつかないくらい…良く似ているんだよ」
あまりにも怖いと悲鳴が凍りつくのだという事実を、私は初めて知りました。
アレクが喉元に喰らいついてきたその時、固く閉じてあったはずの部屋の扉がバタンと開いてブラッドが入ってきたのが、滲んだ視界に見えました。
場の状況は分かっているはずなのに気にもせず、無論止めも助けもせずに、ブラッドはただ急を告げました。
「門外にヒトの使者が参っております、アレク様」
「…だから? 殺すぞ、失せろ」
低く呻いたアレクの言葉をものともせず、紅髪の側近は報告を続けました。
「勇者ルチルの息子、と名乗っておりますが……如何致しましょうかアレク様?」