第十六楽章
待ちに待ったおめでたい日がやってきました!
いよいよ今日は、アレクの誕生日です。
「おはよう、アレク。お誕生日ね、おめでとう」
隣に眠る少年の額に垂れる黒髪を掻き上げて、口付けと共に私は祝福の言葉を贈りました。
寝起きのアレクは少しだけ眩しそうに目を細めて、唇を笑みの形に綻ばせます。
「うん、おはよう、ルチル。……ふふ、誕生日に誰よりも早くルチルにお祝いを言って貰えるのって、やっぱりいいね」
照れながらも幸せそうに微笑むアレクの表情は、見ている私まで幸せな気持ちにしてくれます。
「来年も、再来年も―――この先もずっとそうしてね、ルチル」
アレクの無邪気な願いは、私の心をちくりと刺しました。
一歳の誕生日も、二歳の誕生日も、私はこうやって間近でアレクの成長を喜ぶことが出来ました。
けれど、アレクが望むように『この先もずっと』――とはいかないでしょう。
立派な魔王としてアレクが独り立ちしたその時には、私達勇者一行は教育係としての責務から解放されて帰国する事になるのですから。そうして私は故郷キトサ村で穏やかに暮らしながら、アレクの素晴らしい活躍ぶりを、時折村を訪れる吟遊詩人の歌からでも聞くことになるはずです。
「ええ……そうね、そう出来たら素敵ね」
輝くアレクの赤紫の瞳を曇らせたくない一心で、私は目線を逸らし、返事を誤魔化しました。
「? ………ルチル?」
しかしアレクの視線はまるで私の言葉の真偽を確かめているかのように追い掛けてきて、いたたまれず、私は慌ててアレクを急かしました。
「ほぉら、起きましょう! 今日は一日大忙しよ!」
―――願わくば、それ程遠くはないであろう未来、私達がお互いに離れて暮らしていたとしても、今日と同じ日付を一抹の誇りと溢れんばかりの愛情と共に思い返す事が出来ますように。
さて、魔王城は朝から喧噪に包まれています。
それは無論、ひっきりなしに訪れる来客の為です。
魔王アレクの『成魔』の儀式を祝おうと、夜も明けきらぬうちから魔族の皆さんが大勢この城にやってきているのです。まあ無情にも、アレクの目が覚めて朝食を終えるまでは城外で待たされていたようですが。
見たい。見たいです、魔族の皆さんを。
獣系なんでしょうか、鳥系なんでしょうか、虫系なんでしょうか、モフモフ系はどのくらいいらっしゃるのでしょうか…!
ああ、物凄く気になります、私。
それなのに、アレクから「ルチルは新参の魔族の前に決して姿を見せないように」と言われて、その上更に「アレク本人が傍に居ない時には、神官様か黒魔導師様か騎士様と必ず一緒にいる事!」との条件まで付け加えられてしまったのです。
くぅ。口惜しいです。
今日この時ほど多種多様に亘る魔族の皆さんが一堂に会する機会など無いでしょうに…!
コーンフラワーを超える獣耳の持ち主に会えないとも限りませんのに…!
――でも、ええ、分かっています、アレクが私を心配してくれているんだって事は。
私は名ばかりの弱い勇者ですもの。「ヒトを襲うな」という魔王の厳命が遵守されなかった場合の、最悪の事態を想定しているんでしょうからね。
食事後アレクはお披露目の支度があると言われて、ブラッドに別室に連れていかれました。
その時の不服そうな顔ったらなかったです。うふふ。
ここ最近急激に大人びたアレクのまだまだ子供の部分が垣間見えた気がして、なんだか嬉しくなってしまった私でした。
それで今私はベリーのタルトを焼いています。タルト生地の上にカスタードのクリームを乗せ、その上一面に甘酸っぱいブルーベリーとラズベリーを敷き詰めたお菓子で、アレクの好物の一つです。
嫌々ながらも義務を果たしているアレクへのご褒美と、お誕生日のお祝い、それに私自身の手持無沙汰解消を兼ねて。あらまあ、一石三鳥ですね。
お客様用のお食事を作る料理長たちの邪魔をしないように気を付けながら、調理場の片隅に籠もって作っています。傍らには、騎士様がいらっしゃいます。アレクの命令通りに、今日一日は常に三人のうちのどなたかが私に付いていて下さる様子です。
「いい匂いだな。ベリーか。そういえば旬だな」
「もうあと一ヶ月もすれば、ブラックベリーを入れてもまた美味しいのですけどね」
今回は時期が少し早かったので、見送りました。
誕生日プレゼントのリクエストが結局有耶無耶になってしまったので(再度アレクに尋ねる事は何故だか憚れました)、彼の好きなデザートを作ることにしたのです。
うん、タルト生地は上手く焼き上がりました。あとはカスタードクリームを乗せて、ベリーを散らすだけです。
…出来れば今日中にアレクの口に入ると良いのですけど。
「アレクは…今頃きっと忙しいんでしょうね」
焼き上がったタルトを冷ましている間に、私は騎士様と自分用に二人分のお茶を入れました。
クリームは既に作って粗熱を取っていますので、一息休憩ですね。
今日のお茶はラズベリーリーフティーです。実と共に新鮮な葉を摘み取ってきました。
「なんだルチル、寂しいのか? アレクの晴れ舞台だものな、君が一目見たい気持ちも分からんでもないが…。でも駄目だぞ、今日は裏方に徹しろと言われたろう。下手にヒトと魔族の間で悶着を起こしたら面倒だろう」
騎士様にあっけなく心中を見破られ、私はぐうの音も出ませんでした。
ええ、そうです。その通りです。魔族が見たい獣耳が見たい等と不満を言っていたのは建前で、私が本当に見たかったのはアレクの晴れ姿でした。
だって、成人…じゃなかった成魔の儀式ですよ? 長い魔族の一生でも一回限りの、一人前になる通過儀礼らしいんですよ?
何をするんでしょう。どんな格好をしているんでしょう。
アレクの事だから万事華麗にそつなくこなしているんでしょうけど。
頑張ってきた子育てへのご褒美として、保護者が見たがってもいいじゃないですか…。
……モフモフを愛でたかったのもちょこっとだけ本当ですけど。
「このお茶、美味しいな。仄かに甘みがあって。…ハーブティーか?」
「あ、ええ。色々効能がありますが……気持ちを少し落ち着けようかと」
本当はこれ、息子を妊娠・出産した時に愛飲していたお茶なんですよね。婦人科系に効き目があるので有名なのですが、その事は騎士様には内緒です。普通に飲んでも紅茶に似て美味しいお茶ですし、このまま黙っていてもいいですよね…。
(注※妊娠初期中期の方は飲まないで下さいね!)
「あまり気に病むな、ルチル。アレクならきちんと己の役割をこなすさ。だって、あいつは俺達の自慢の息子、みたいなものだろう」
「まあ、ヘリオドール……!」
どこか照れ気味に告げられた騎士様の言葉に、私は思わず胸が熱くなりました。
「そうですよね、アレクは私達4人の教え子なのですものね…!」
「いや、俺が言った『俺達』はそういう意味ではないんだが。もう少し狭義の」
「私、アレクを信じてしっかりと待つことにします! 晴れ姿が見たいなんて我が儘、もう言いません…!」
「俺が反応して欲しかったのはそこじゃなくてだな……おーいルチル聞いてるか…?」
「ええ、私達が頑張っているアレクの足を引っ張ったりしてはいけないですよね。来客の皆さんと万が一にもトラブルなど起こさないようにしなくては。オブシディアン様の方は心配ご無用としても……あ、パパラチアはどこですか?」
「…ああ、うん、まあ、いいか……。パパラチアなら自室に」
「お部屋ですね!」
ベリーのタルトを仕上げてから、一つをアレク用に取り置いてもう一つを手土産に、私は黒魔導師様の自室に向かいました。騎士様も茶器一式を持って付いて来てくださいます。
元々今日の私は3人のうちの誰かと一緒にいるように言われているのですから、丁度良いです。お茶を口実に、黒魔導師様の部屋に居座る事にしましょう。どうせなら不安分子は目の届くところに置いておきたいですものね!
そうして数分後、私と騎士様は、黒魔導師様の部屋の前に到着しました。扉の向こうからは微かな気配と物音が感じられます。朝食後に二度寝される事がデフォな黒魔導師様ですが、とりあえず今日は起きて活動してはいるようですね。
「パパラチア?」
騎士様が礼儀正しく二回、扉をノックします。
部屋の中から黒魔導師様のぞんざいな返事が返ってきました。
「何だヘリオドール、今実験中で手が離せない。はっきり言って邪魔なんだが」
それを聞いて眉を上げてみせた騎士様に代わって、今度は私が扉越しに呼び掛けます。
「入ってもいいかしら、パパラチア。貴方と一緒にいたくて、お茶を持って来たのだけど」
ドンガラガッシャン。パリンパリン。
何かの破壊音が聞こえ、あえかな呻き声の後で、扉が大きく内側に開かれました。そして、
「…おいルチル!! お前、ちくしょうッ、機材弁償しろよ!」
開口一番、真っ赤な顔の黒魔導師様に指を突き付けられて怒鳴られました。
……意味が分かりません。
「立ち話もなんだから、とりあえず俺、中に入っとくな…」
逃げるように騎士様が黒魔導師様のお部屋に入室されていきます。茶器の載ったトレイがカタカタと鳴っていたのは、ええ、気の所為では無いと思います。笑ってないで助けて下さいよ、もう!
「うわ何これ酷い」
室内の惨状に騎士様の悲鳴が聞こえましたが、ええと……、私と黒魔導師様はまだ廊下で向き合っています。
よほど憤慨されているのか、私に向けられた黒魔導師様の指はぷるぷると震え、顔の紅潮は一向に収まらない様子です。先刻の私の言葉のどこがそんなに気に障ったのでしょうか。これって一体どう収拾つけたらいいんでしょう…。
「良い匂いがする」
突然。
横合いから白い腕が伸びてきて、私の身体は絡め取られました。
「え?」
甘い香りと共に、見知らぬ美しい女性が、横から私に抱き着いてきたのです。
「え? え?」
戸惑っているうちに美女の白魚のような手はタルトの上に掛かっていた布巾を取り除き、はらりと床に落としました。
「ほう、ラズベリーか。妾の好物じゃ。しかしそれだけではないのぅ。そなたから立ち上る香りもまた、なんとも言えず旨そうな……ああ、成程な。分かったぞ」
美女は、舌なめずりをしました。
私は抱き着かれたままです。私の首回りに前後から廻された彼女の両腕と、自分が両手で掲げ持っているお皿が邪魔で動けません。
何よりも、美女の纏う甘い香りに頭が痺れたようになってしまって。
長くて赤い爪を持つ彼女の指がタルトに飾られた赤い果実を抓み上げ、艶やかなこれまた赤い唇に運ぶその優雅な動きを、私はただぼんやりと眺めていました。
「―――そなたが勇者じゃな。噂の」
至近距離から覗きこまれたその瞳は、ピンクに近い赤い色。
瞳孔は最初縦長のスリット状だったのですが、私を見とめた瞬間、大きく真円に近いものにその形を変えました。その動きは猫の目に似て、眼前に立つこの妖艶な女性が紛れもなく魔族である証のように、私には思われたのでした。