第二楽章
ゆうしゃは まおうに であった !▼
ゆうしゃは はーとを うちぬかれた!!▼
まさしく。
私は、玉座に座る魔王から、一瞬も目が離せなくなっていました。
癖のある黒髪は、額でくるんと愛らしく撥ね、毛先はてんでバラバラな方を向いていて。赤紫の瞳は、微かに煙って混沌とした光を湛えながらも、美しくカールした睫毛の向こうから一心に私を見つめていて。幼いながらも整った顔立ちは、まだ幼気で。唇はぷっくりして先刻発した言葉のままの形を保ち。
これ程に綺麗な子供は、見たことがありませんでした。
頭部の重みに耐えられるのか不安になるほど華奢な首筋、短い指、少し大きめの黒衣の衣装から覗く丸い膝小僧、それなのに不相応に豪奢な玉座に所在無げに腰掛けて。その全てが見る者の保護欲を掻き立て―――私の母性本能に訴えかけてくるのです。
この子を守れと。
この子を愛せと。
この子を信じろと。
かつて、我が子に感じたような無条件の愛情が、ふつふつと我が身に湧き上がってくるのを感じました。それはもう、抵抗でき得るような感覚ではなかったのです。
私は剣を投げ捨て、玉座の魔王をぎゅっと抱き締めました。
魔王が驚いて瞬きする、その睫毛の上下に揺れる音が、聞こえた気がしました。
「…あなた は だぁれ? ゆうしゃ なの?」
「そう。私が勇者。名前はルチルよ」
「るちる は ぼくを ころす?」
「殺さない。殺さないわ。私は、」
―――あなたを守る。
私は厳かにそう誓いを立てると、なだらかな曲線を描く魔王の額に、優しく口付けを落としました。
息子が幼い頃、眠りに就く前にせがまれて毎晩そうしていたように。
精巧な人形のようにただ受け身で私に抱かれたままだった魔王がおずおずと自らの手を伸ばし、私の胸に縋り付くのを感じました。その手の小ささと触れる体温の高さに、幼児期の息子の凶悪なまでの可愛さを思い出し、私の唇は我知らず微笑みの形をとっていました。
ええ、私の息子にもこのように愛らしい時期が、確かにありました。それなのに最近、思春期に入ってからの息子は口やかましいというか…。やれ母さんはお人よし過ぎるだの、不用心だ、警戒心が足りないだの…。村の若者が善意でちょっと仕事を手伝ってくれると、気を付けろあいつは下心があるんだだの…。人様の親切心を疑うような子に育てた覚えはないのですが! まったくどっちが親ですか! 母一人子一人だというのに、どうにも反抗的でむかつ……げふんげふん、私の手をあまり必要とはしなくなってきた息子の事を物寂しく思っていた処でした。
魔王は私にしがみ付いたまま、ほう、と吐息をつきました。
「…るちる は いいにおい」
それから私の胸に埋めていた顔を少しだけ後ろに反らし、私と目を合わせると、にこりと笑いました。
「ぼく、 るちる が すき」
ああああああ!!
もう!!
誰ですか!?
魔王が邪悪な存在だとか言った人は!?
そんな訳無いです! こんなに可愛い子が邪悪とか、有り得ないでしょう!!
誰に何と謗られてもいいです。私は断言します。
『可愛い』は正義!
大事な事なので二回言います。
『可愛いは正義』です!!
「ね、お名前、教えてくれる?」
私がそう尋ねると、魔王は少し考え込みました。
「…あれくさんどらいと」
「アレクサンド…?」
「どうぞ、アレク様とお呼び下さい」
魔王の名を復唱する私の言葉を遮るように、部屋の入口から男の人の声がしました。
ハッとして振り返ると、魔族の青年が、私達の居る玉座へと歩み寄ってくる所でした。私は咄嗟にアレクを背中にかばいました。縋り付いていた手を些か乱暴に振りほどかれたアレクは、きょとんとしています。私は誰何の声を上げました。
「貴方は、誰!?」
「これは失礼を。私は魔王様の一の配下。ピジョンブラッドと申します」
その名の通り、鳩の血のような深紅の髪を持つ青年でした。一見しただけでは黒かと見間違うほどの、暗い暗い赤。瞳も同じ色ですが、そこにはどこか酷薄そうな光が浮かんでいます。
彼は、後ろ手に持っていた荷物を前方へ放り投げました。彼自身と玉座とのちょうど中間ほどに落ちた荷物は、くぐもった悲鳴を上げました。力無く折り重なって横たわるそれは、先刻別れたばかりの私の3人の仲間達でした。
喉奥からせり上がってきた悲鳴をなんとか飲み込むと、私はさっき落とした剣を探しました。勇者の剣は抜身のまま、椅子の足元に転がっています。アレクの前からあまり身体を動かさないようにして剣を拾い、私は両手でなんとか中段に構えました。柄を握る手は震えているのが丸わかりでしたが、この際仕様がありません。
「仲間に、手を出さないで!」
「…おや。他人の城に勝手に乗り込んできて、暴虐の限りを尽くした人の言葉とは思えませんね。先に手を出したのはそちらではありませんか。我々の方は仲間を何人も殺されているのですよ」
ピジョンブラッドの言う事は全くその通りで、私には返す言葉もありませんでした。
魔族は悪だ。魔王は邪悪な存在だ。だから討伐しろ。殲滅しろ。滅亡させるのだ。
そう言われて私達は、相手の事を知りもせずに魔王城にやってきたのです。ただ、闘うために。
もしかしたら魔族は悪などでは無く、人間を食べるという話も噂だけで、種族が異なるために生じた悲しい誤解があっただけなのかもしれないというのに。
「……とはいえ、私達には同族愛など元よりありませんから、別にそれは全く気にしませんが」
「…え?」
「やっぱり三下が無差別にヒトを襲う事を放置してたのがマズかったんでしょうかねぇ」
「…あ、人間はホントに襲うんですね…」
「食べますよ? まあ、牛や豚や鳥や魚も普通に食べますから、趣味嗜好の範囲内ですけどね」
「………」
相互理解、出来るんでしょうか、これ。
茫然とする私の上着の裾を引っ張る小さな手に気が付いて後ろを見ると、アレクが必死な顔をしていました。
「ぼく は ひと たべない。 ほかの だれにも るちる は たべさせない」
だから安心して。
そう言いたいのでしょう。
幼いアレクの思い遣りに、強張っていた私の表情は解けて行きました。
ピジョンブラッドが、大げさに溜息をつく音が聞こえました。
「ああもう、しょうがないですね、アレク様がそんなに懐いてしまっては。どうでしょう勇者ルチル様、お仲間と貴女の命は保証しますから、我らが城に暫く滞在して頂くというのは?」
「……は?」
「お仲間の皆さんは、まあ私が完膚なきまでに叩き潰しておきましたけれど、手当をすれば死にはしませんよ、まだね」
それは、喜ばしい情報ですが。
でも、勇者一行に魔王城の客となって何をしろと?
「そうですね、我々も無駄な争いは避けたい所です。何と言ってもアレク様はまだ生誕されたばかりですから。貴女にはアレク様の身の回りのお世話とか、ヒトと上手く共存していく方法でも教育していただければ、と思うのですが」
ピジョンブラッドは、したり顔でそう提案してきました。
考えるまでもありません。
仲間の命を救うために、私が他に何をできるというのでしょう。
それに、愛らしい魔王。アレクの傍にいられるというのは、私にとってむしろ願ったり叶ったりな事態なのですから。
「…分かりました。ですから、仲間の手当てをお願いします」
そう深紅の髪の男に答えると、私の腕の中でアレクが歓声を上げました。
「るちる いっしょ? ずっと いっしょ?」
私が肯くと、アレクは玉座の上に立ち上がり、私の肩に小さなその腕を回して飛びついてきました。
「だいすき! るちる」
「ええ、私も大好きよ、アレク」
魔族の習性を聞いた後も、この子に対する私の愛情は揺らがないようです。
だってこうしていると、可愛らしいだけの普通の人間の子供なんですもの。
まだアレクが魔王だと信じられない、というだけのような気もしますが。
アレクは私の耳元に口を寄せ、内緒話するようにそっと囁きました。
「るちる を たべる のは ぼく だけ、ね?」
―――真剣に、魔王の教育をしなくてはならないようですが。
さて、それから。
光陰矢のごとしと言いますが、本当に月日の経つのは早いものです。
私が勇者と認定されてから1年。魔王城に滞在してから半年が経ちました。
魔王、アレクは1歳になりました。
私達勇者一行は、そのまま、アレクの教育係になっています。騎士様は魔王に武術を指導し、神官様は学問を教え、黒魔導師様は魔術を教えつつ人間と魔族との違いを解明したいと研究に勤しんでおられます。私の担当は主に生活面とか…情操教育、とかですかね。人間と魔族との平和共存を望む魔王、それが私の教育方針です。
実を言いますと、騎士様、神官様、黒魔導師様には、ピジョンブラッドに負わされた怪我が回復した頃、帰国してもよいとの話がありました。アレクが望むのは勇者である私だけだったからです。けれど3人は、私一人だけ残す事は出来ないと、魔王城に留まってくれたのです。なんて仲間思いなんでしょう! 私は幸せ者ですね!
「あの3人が貴女を挟んで牽制し合っている姿を見ると、どうにも笑えますね」
ブラッドがいつか私達を見てそう評した事がありますが、どういう意味か聞いても教えてもらえませんでした。魔族の考える事はやっぱり良く分かりません。
そういえば…ピジョンブラッド、最近は略してブラッドと呼ぶことが多いこの魔王の側近の事です。この人は情報通だ、地獄耳だ、まさか読心術でも使えるのかしらとこの半年ずっと思っていたのですが、先日私、彼の深紅の髪の中になんと獣耳が隠れていたのを発見したのです。
犬! 犬ですか!
単に聴力が凄いってことですか!?
魔族って皆、獣人なのでしょうか?
と、私が心の中だけでわきわきしてましたら、
「ルチル様? 何か失礼な事考えてますね?」
背後に立たれたブラッドの笑顔が異様に怖かったです…。犬好きなだけなのに。くすん。
「お誕生日おめでとう、アレク」
「うん。見て見て、ルチル。僕、角が生えて来たよ!」
「え」
言われてアレクの頭を撫でると、両耳の数センチ上、側頭部の上側に左右対象に2つ何か固い突起のようなものがあります。見た目では髪に隠されてまだ分かりませんが、アレクは角が生えるタイプの魔族なのですね。大人になったらどんな角になるんでしょう。
……ブラッドの冷ややかな視線を感じますが、私、別にわくわくなんてしてませんよ?
ただ、動物が大好きなだけです。犬も猫も山羊も好きですが、生活に余裕が無くて飼えなかったのです。
それにしても、アレクはとても大きくなったような気がします。
不思議です。親にとって子供の成長は常に早く感じられるものですが、息子の時はここまで顕著に感じなかったと思うのに…?
私の疑問は顔に出ていたようで、常にアレクの傍に控えるブラッドがそっと答えてくれました。
「魔王様は、産まれて数年はとても早いスピードで成長されます。ヒトの年齢に例えるなら、半年で2歳、1年で7歳、2年で16歳、3年で28歳相当、といった所でしょうか」
それってやっぱり、犬並みなんじゃ…。
「ルチル様。今また何か、失礼な事を考えましたね?」
「いえいえ、滅相もないです」
笑顔で見つめてくるブラッドが怖かったので、私はそう誤魔化しました。この人本気で他人の心が読めるのかもしれませんね。くわばらくわばら。
「待っててね、ルチル! 僕、早く大きくなるからね!!」
私の頬に顔を摺り寄せてくるアレクを優しく抱擁しながら、そんなに急がなくてもいいのよ、と私は心の中で呟いていました。
だから、大きくなっても私の事、食べないで下さいね?
犬の年齢に関しては諸説あります。犬種で異なるとも言われてます。
まあ大体こんなものなのか~くらいな気持ちで読み飛ばして下さいませ。