第十四楽章
「だ~れだ?」
菜園に水撒きをしていると、不意に私の視界が遮られました。
ええ、私、魔王城の庭の一角に個人菜園を作っているんです。家事の合間にお世話できる、趣味程度の小規模なものですけど。
野菜の手入れに夢中になっている間に、誰かが後ろからこっそり近寄ってきていたのでしょう。少しだけ驚きましたが、目隠しをされている相手は分かります。声変わりが始まった少年期特有のその声の主は、
「アレクでしょう」
「あったり~。さすがだね、ルチル!」
私の指摘に嬉しそうに笑うと、私の両目を覆っていた手をそっと離してくれました。
無邪気に笑うその声音は、高音部分が少し擦れ気味です。
自分で自分の変化が面白くてならないのでしょう。最近のアレクはとても楽しそうです。
私の顔から離れていく掌は、以前より確実に大きくなっているように思えました。
「♪あ、あ~」
喉元を押さえて軽くハミングを試み、
「やっぱり駄目かな。音域が上手く取れないや」
アレクは苦笑を零しました。
「そうね。今はきっと難しいでしょうね」
天使の歌声とでも称されるべきアレクの類い稀な美声を思い出して、少し残念ではあります。
「声変わりが落ち着いたらまた歌えるわよ」
魔王の成長速度から言って、声の不安定な時期は、ヒトより長くはかからないはずです。私の息子の時は一年近くビブラートが掛かっていた様な気がしますが、もともと変声期なんて個人差の大きいものですからね。
アレクの事ですから、声質が変わってもすぐに歌の勘を取り戻すでしょう。楽器の演奏だけでなく、彼の独唱には天才的なものがありました。
その頃にはボーイソプラノではなく、おそらくはテノールかバリトンになっているでしょうが。
「もうすぐ僕、誕生日だよ」
アレクが感慨深げに言いました。
「あ、そうね。勿論覚えているわ。ええと、2歳だったわね…?」
目の前の少年の姿を見ながら年齢を確認します。
体格的には、ヒトだと大体15~16歳相当でしょうか。ヒトと魔王との成長速度は異なると事前に予告されてはいたのですが、やはり、アレクの見た目年齢と実際年齢との差異には未だに慣れません。
アレクの身長は、だいぶ伸びました。そろそろ私、追い付かれそうです。
黒魔導師様なんかここ最近、意識的にアレクの隣に立つのを避けてますものね。アレクとは伸び代が違うんですから、いい加減諦めればいいのに。黒魔導師様はもう成人なさっているんですから、どう考えてもこれ以上の伸展は見込めませんよね。…ハッ。まさか、身長が伸びるアヤシイ薬とか作ってないでしょうね。今度お部屋の掃除がてら探索してみなくては。
角も、大きくなっています。両耳の上あたりからそれぞれ後方に向かった角は湾曲し、半円を描くように下向きに伸びて、先端が顔の側面へと戻ってきています。所謂、あれです。羊の角。多分このまま円を描くように伸びていくんだと思います。
アレクの黒髪は幼児期より癖が落ち着いて、今は自然に毛先が遊んでいる感じですね。象牙色の角とのコントラストが見事です。
初めて会った時には折れそうだと思った細い首も、今ではすっかり少年らしく若木のようなしなやかさを持っています。日々の鍛練で培われた身体は若干細身ではありますが、指導役の騎士様曰く、充分に柔軟性と瞬発力を兼ね備えた強靱な肉体だとの事。私にはよく分かりませんが、魔族とヒトとは筋肉の付き方が元より多少異なるのだと教えられました。まあ…それならそれでいいんじゃないでしょうか…アレクが筋肉ムキムキになっても正直アレですし…。あ、ええと、偏見とかではなく、単に私の中のアレク像として、ですけども…。筋肉好きな方、ごめんなさい。
そして、顔。幼い時より綺麗な子供だと思っていましたが、最近は端正と呼んでも良いような気がします。声変わりは来たというのに、思春期特有のニキビなど、予兆もありません。滑らかな白い肌です。殻を割るように幼気さを脱ぎ捨て、代わりに得たものは瑞々しい美貌。黒々とした睫毛はそのままですが、鼻筋はすっと通り、ぷっくりしていた唇は引き締まって意志の固さを窺わせます。大人になったらさぞかし眉目秀麗な魔王となることでしょう。
「…大きくなったわねぇ」
万感の思いを込めてしみじみしていると、アレクは顔を輝かせました。
「ホントに? ルチル、そう思う?」
「ええ。もうきっと、私の息子とそれ程変わらないわ」
あの子も今や16歳のはずですもの。
「ああ、息子…息子ね……」
げんなりした感じで呟くアレク。
私は、いつかの音楽室の事を思い出しました。
他人と比べられたのが面白くなかったのでしょうか?
「誕生日のプレゼントは何がいいかしら」
アレクの気を取り直させるべく、そう水を向けてみます。
しかしアレクの反応は思わしくありません。なんだか俯いて、溜息まで吐いています。
「ほらアレク、何でも言って。今年は大きなプディングがいいかしら、それともフルーツケーキ? 靴下を編んでもいいわね。私に出来る事なら何でもいいのよ?」
「………何でも?」
アレクが顔を上げました。目が、きらりと光ったようでした。
目隠しをした時同様に音もなく近寄ってくると、今度は向き合った体勢から二本の腕をスッと伸ばして、私の両肩に肘を渡します。その先の両手は私の頭の後ろで組み合わされ、身長が同じくらいになった為に、ひどく近い位置で互いの視線が交差しました。
「本当に何でもいいの? ルチル」
エメラルドグリーンの瞳が、食い入るように私の顔を見つめてきます。
腕の檻に閉じ込められた私には身動きも出来ません。手にした如雨露が地面に落ちる鈍い音がしました。
アレクの吐息の温もりが、私の唇に掛かります。
「え、と…」
一瞬、アレクの真剣さに飲み込まれそうになりました。
何でしょう、この、言質を取るかのような緊迫した雰囲気は。まさか十段重ねのショートケーキを作れだとか、無理難題を強いられるのでしょうか。
けど、今更発言を翻すわけにはいきません。
私だって大事なアレクの為なら、多少の困難は笑って乗り越えられるつもりですから!
「いいわよ」
ほんのわずかな迷いも混ぜずに、私は笑顔で返答しました。
「ルチル……」
光の加減で変わる美しい瞳で優しく覗き込みながら、アレクは組んだ手を解き、私の顔へ右手を伸ばしてきました。左手には後頭部を押さえられて、私の顔の位置は固定されています。
そして。
「痛っ、ハ(ア)レク、はひ(なに)ふふ(する)の?」
なんとアレクは右の指で私の鼻をつまんできたのです!
「ルチルはさぁ。そういう発言、本当に良くないと思うよ?」
にこにこ笑いながらも、まったく指を緩めないアレク。
ちょ、痛い、地味に痛いですってば、これ!
「こういう質問には躊躇わなきゃ駄目なの。それ位僕の事を意識出来るようになってから出直してきて。誕生祝いはその後に貰うから」
「ふがふが」
「分かってるの? ルチル。誕生日が来たら僕もう一人前なんだよ? いつまでも見逃し続けてはあげられないからね」
わ、分かった分かりました、いえ本当は良く分かりませんけど、分かりましたから、放して!
涙目での懇願が効いたのでしょうか、アレクはやっと戒めを解いてくれました。
い、痛かった…。
私の鼻これ、確実に赤くなってます…! ひ~ん、つぶれたらどうするんですか、アレク程高い鼻梁でもないのに…。
幼児期はあんなに素直で可愛らしかったアレクなのに……!
反抗期? くすん。反抗期なんでしょうか、これ?
「ああ、こちらでしたかアレク様」
魔王の側近、ブラッドが城内から姿を現しました。
私の方をちらりとみて、フ、と鼻で笑うと、アレクの耳元で何事かを報告し始めます。
今、この魔族絶対、私の鼻に気付きましたよね?
高過ぎるでしょう、そのスルー力! いえ笑われてるから厳密にはスルーではないのでしょうか。…些末事扱い? うわ、それ、却ってダメージの大きい対応なんですけども…!
……まあ、ブラッドですし、今更ですね。
き、気になんかしませんよ!
「という訳でルチル様」
わ、吃驚しました。心の中で舌を出していたら、ブラッドが私の方へ向き直りました。
やっぱりこの魔族、読心術出来るんじゃないでしょうか? どきどき。
「来月、当城でアレク様の成魔記念祝賀を開きます」
「…成魔?」
耳慣れない言葉です。
「魔族が一人前になったお祝いです。ヒトで言う成人の儀のようなもの。アレク様は成長がお早いですからね」
まあ、二歳で成人ですか…。
我が国では二十歳が成人なのですが、遠国では十六歳で大人と見なす所もあると聞きますし、肉体的には妥当な所なのでしょうか…?
それにしても、アレクが大人…。大人になるのですか。
まさか私の息子よりも早くアレクが成人(あ、成魔でしたね)しようとは。感慨深いものがありますね……。
「今回は魔王様の正式なお披露目も兼ねておりますので、遠方の魔族が集結する事になるでしょう。色々と騒がしくなるでしょうが、留め置いて下さい」
料理など歓迎の準備はこちらで手配しますので、とブラッドは細々とした説明を始めました。
ああ、料理。そうですね、魔族の皆さん向けなのですから、料理長(元・専属さん)が仕切られた方が良いでしょうね。私も可能でしたらお手伝いなどさせて頂こうかと思います。
それにしても、魔族が集まるのですね。
以前から疑問に思っていたことがあるのですが、良い機会ですし、ここで訊いてみましょうか。
「あの、ブラッド。魔族には女性はいないのですか? お城では一向にお見掛けしませんけれど」
「おりますとも。来月の祝賀にはこぞって来城することでしょう。成魔すると婚姻も可能になりますし、煩わしいですね。そういう面倒事が嫌であえて城から排除していたのですが」
あら。
下働きに至るまで城内が男性ばかりだと思っていたら、わざとだったのですね。
まさかの『ブラッド女性嫌い説』浮上ですよ。
「ああ…違いますよ? 私は別段いてもいなくても構わないのですが、アレク様が成魔されるまで、余計な手出しをされたくなかったので。アレク様がご入り用ならば途中で数名適当に見繕おうかと考えてもおりましたが、その必要も早い段階で無くなりましたので」
紅い眼で面白そうに私を見つめながら話すブラッド。
この魔族の話は、なんだかいつも思わせぶりなんですよね。癖なのでしょうか。
心の奥の方がざわつく感じがするので、止めて欲しいのですが。
「顔を見せるだけでいいんでしょう。客人の滞在は最低限に留めてね。日数も短期で」
うんざり、といった様子でアレクが注文を付けます。
「御心のままに」
ブラッドがしたり顔で肯きます。
力社会である魔族では、人間の王族とは違って魔王の意向が何よりも優先されるようです。
「でも、アレク。折角お祝いに来てくれるんだし、色んな魔族と会ってみればいいんじゃない? お嫁さん候補に出会えるかもしれないんでしょう」
「僕、そういうの要らない。心に決めている人いるし」
「え…っ!?」
衝撃発言でした。
い、いつの間に? 魔王城に女性など私を除いて皆無なのに、どこでそんな人と出会っていたのでしょうか。
あ、狩りの時とか? 城外に出た時に知り合っていたとか?
まあ、どきどきしますね!
これは保護者として人となり(魔族なり?)を確認しておかなくては!
「アレク、是非紹介して。私会いたいわ。どこにいるの? どんな人なの?」
「紹介……」
堪え切れない、ブラッドの笑い混じりの言葉が漏れ聞こえました。
過保護だとでも思っているのでしょうか、もう。
「ああ、そうだね…。うん、澄んだ泉とか、ピカピカに磨かれたシャンデリアとか、何だったらバスルームとかに行けば、ルチルでも会えるかもね」
少しだけ考え込んだ後、アレクがそう答えてくれました。
え、でも、何ですかその選択肢。変な場所ばかりなんですが…。
「……すごく神出鬼没な人なの?」
「うん、なかなか捕まえさせてくれないんだよね。でも、いいんだ。僕まだ焦ってはいないし。のんびりじっくり追い詰めようと思っているんだ」
そう言って私に微笑んだアレクは。
狩りの獲物を見つめる猟師に似ていると、何故だか思われたのでした。
水遣りを再開しようと落とした用具を私が拾い上げていると、
「そうそう、ルチル。これはオブとヘリオとラチアにも伝えておこうと思っているんだけど」
生真面目な表情でアレクが告げます。
「成魔しても僕、今の生活は変える予定ないから。今度のはただの儀式。ルチル達には当分このまま城に居てもらうから。習いたい事も教わりたい事もまだいっぱいあるし、それに」
如雨露を握ったままの私の手首を、アレクが掴みました。大きくなったその手の指は、私の手首など簡単に一周してしまえるようになっていました。
「――逃がすつもりは毛頭ないからね」
ああ……その可能性は考えていませんでした。
アレクが大人になるという事は、私達がお役御免になる日が近付いていると、そういう事でもあったのですね…。
いいです。
どれだけあるのか分かりませんが残りの期間、誠心誠意、私の魔王に仕えようと思います。
愛しい、私の少年魔王。
「ええ、アレク。私の真心は貴方のものだわ」
魔王を立派に育て上げ、帰国するその日まで。
「……ルチルは鈍感なくせに性質が悪い」
私の想いに照れたのでしょうか。アレクの顔は真っ赤になっていました。
反抗期でもやっぱりこういう所は素直なアレクです。
クックッ。ブラッドの喉から抑えた笑い声が聞こえます。
「ルチル様、貴女のその才能はある意味賞賛に値しますね」
いっそ朗らかにブラッドは言い切ると、アレクと共に城内へ戻って行きました。
……今私、何か褒められるような事、しましたかね……?