間奏:黒曜石
神官オブシディアン視点です。
暗闇の中で、生きてきた。
それは、比喩表現ではなく。
―――私が生まれ育ってきたのは、一筋の光も差さない暗黒の中だった。
私の母は、貴族だった。
貴族の中でも割と高位である侯爵家の一人娘だった母は、美貌で鳴らした女性だったと聞く。生まれた時から許嫁がいたものの年齢は親子ほどに離れており、もとより家名を守るためだけの純粋に政略的な契約だったそうだ。
彼女は己の美貌と身分を頼みに日夜社交界に繰り出し、幾多の男性と浮名を重ね、目に余る醜聞は家力で揉み消しながら放蕩を続け…………そして、人知れず私を産んだ。
否、産み落とした。――言葉通りに。
嬰児を処分するように言い付かったのは、母の乳母だった。当時既に高齢であった乳母は、闇から闇に葬り去られようとしていた新生児――私だ――を見て、あまりにも母の生誕時にそっくりである事にしばし言葉を失ったという。
自らが愛情深く育ててきた令嬢に生き写しの、疑いようもなく血の繋がっているその息子。
乳母には殺せなかった。
乳母は母の命令に逆らって、屋敷の奥深い場所でこっそりと私を育て匿った。
日の当たらない、とても静かな部屋だった。
もとより窓は無かったし、外部の音も、私の居た内部の音も、互いに漏れ伝わらないように初めから設計されていたようだから、今にして思えばあそこは一種の隠し部屋だったのだろう。
侯爵家の当主若しくは近親者が、例えば侵入者から一時的に身を隠す為に使用するような部屋だ。
母は、両親である侯爵にも侯爵夫人にも、私の出産を固く秘密にしていた。一人娘に甘い両親とて婚姻前の娘が子を生した不始末を聞いたらどうなるか、さすがに奔放な母にも考えるところがあったとみえる。
何らかの偶然で存在を知ったのであろうその部屋を、一介の乳母が私用に使って許される訳もないのだが、逆に言えば、泣くのが仕事の乳幼児を当主にも内緒で育てるにはうってつけだった。なにしろ完全防音で、平常時に使用される事は想定されていない部屋だったのだから。
とはいえ、主人に背いて忌子を育てる為に乳母が相当なリスクを負っただろう事は、想像に難くない。
高齢な乳母にとって、日に三度、誰にも見つからずに食事を持ってくることすら困難で、私の食事は多くて一日二回、下手すると一日中何も口にしていないという日もザラだった。赤ん坊の頃から泣いても誰も世話しに来ない事態に慣れ切っていた私には、そのような扱われ方を疑問に思う事も無かったけれど。
我ながらよく生き延びれたものだと思う。乳母にしてみれば、不可抗力で私が衰弱死してくれた方が、自分の手を汚すより心休まる老後が送れる、そう無意識に期待していた部分もあったのかもしれなかった。
けれども恨む気持ちは今でもさらさら無い。不利ばかりの条件が揃っていた中で、乳母は私の為に可能な限り最善を尽くしてくれていたのもまた事実、と重々分かっている。
あの当時、私は室内で音を出す事も明かりをつける事も禁じられていた。
文字を教えられることも無く、会話も必要最小限しか出来ない。
この世で知っている人間と言えば、たまに訪れる老いた乳母一人だけ。
他者がいる時だけ薄ぼんやり明かりが灯されるものの、慣れない光は痛みすら伴う異質さで。
それ以外はただ、暗黒の世界で、息をし、脈絡のない思考を追い、漫然と過ごす毎日。
そのままだったら長くもない一生を、暗闇の中で無為に過ごしていたに違いなかった。
生活が一変したのは、乳母の来ない時間がいつになく長く、さすがにこのまま餓死するのかと思われた日。
乳母ではない何者かの気配がして部屋の扉が開かれ、急激に部屋を満たした光に眼球ごと脳髄が焼かれてしまったのかと怯えた。
必死な顔で乗り込んできた老人に乱暴に掻き抱かれ、涙を流して謝罪され、ただひたすらに困惑した。その人が己の祖父であることなど知りもせずに。
後になって聞いた話を総合すると、数日前に心臓の発作で倒れた乳母が、私の飢え死にを恐れて、当主である侯爵に総てを告白した……という顛末だったようだ。
結局、乳母は年齢の事もあってか重い処罰は受けなかった。しかし体調不良には勝てず、私の事を心配しながらも、固く口止めをされた上で依願退職していった。
母はこっぴどく叱られた挙句に許嫁の元に強制的に嫁がされた。その際世間体の為に、養子に貰った遠縁の子供という触れ込みで、対外的に私は紹介された。実の祖父母が義父母、実の母は義理の姉、という事になったのである。
こうして私は暗闇の部屋から出た。
私は、7歳になっていた。
侯爵家子息となった私に、すり寄る人間は大勢いた。
だが私には覚えるべきことがあまりにも多過ぎた。生まれてからの人並みの数年間を奪われていた私は、赤子同然だった。文字、会話、マナー、作法、ダンス、教養……時間はどれだけあっても足りなかった。
生活環境の激変ぶりに、常時眩暈がした。
暗闇に慣れた視力にはまた、外の光溢れる世界は眩し過ぎた。
せめて勉学で他人に追い付こうと目を酷使したのも良くなかったのだろう。
気付いた時には、私の目は治癒する可能性の薄い『弱視』だと―――そう、診断を受けていた。
私は、絶望した。
世の中に、視力の弱い人間など大勢いる。悲観することはない。
義父母にはそう励まされた。
しかし私は既にスタートから出遅れているのだ。この先どうやって追い付けばよいのか。
侯爵家の跡取りとして身を立てる事が果たして可能なのだろうか。
悩んだ私は神に縋った。
神の存在は、暗闇の部屋にいた時から乳母に聞いていた。
信じた事も感じた事も無かったけれど、信仰は揺れる私をその時確かに支えてくれていたのだ。
私は爵位を捨て、神殿に入ることになった。
―――それから、数十年。
私は神官として、この身の総てを信仰に捧げてきた。
しかし真の意味で、神の存在を私が信じられたのは、紛れもなく彼女に出会ったあの瞬間なのだと思う。
彼女……ルチル。選定された勇者。
神殿の代表として出迎えた私の姿を見とめ、頬を薔薇色に上気させて、思わずのように抱き着いてきた彼女だ。
「お目に掛かれて光栄です神官様! オブシディアン様! 私もうずっと長い事憧れておりました」
甘く柔らかい温もりは、久しく忘れかけていた暗闇のように優しく私を包み込んだ。
いて、いいのだと。
存在を許してもらえたのだと。
人型に神が降臨し、慈愛を施されたのだと………。
私はあの時あの場所でてらいも無く、泣き出しそうな程に強く、そう確信していたのだった。