第十二楽章
花冷えのする昨今、皆様如何お過ごしでしょうか。
私は今日、太陽も高い位置にあるというのに、依然としてベッドの中に居ます。
…ええ、なんとも情けない話ですが、熱を出してしまいました。
病で臥せるなんて、一体何年振りでしょうか。
もともと教会で十数年清貧な暮らしをしてきた身ですから、これでも健康には自信があったのです。結婚してからもそうでした。病気している暇も無いといいますか……、あ、いえいえ、これでは語弊がありますよね。毎日の暮らしで手一杯な方でも、病にかかるときはかかります。病気になりたくてなる方などおりませんでしょうし、病になるのは本人の所為では決してないのですものね。
貧乏暇なし、そう言った方が近かったかもしれません。夫を亡くして母子二人きりとなってからは尚更でした。多少体調が悪くとも気合でねじ伏せて、毎日働いていたように思います。
……無茶できていたのは若かったからでしょうか。
うわ、自分で言っててちょっとショックです。そういえば私、先日めでたく34回目の誕生日を迎えてしまいました。これは、もう無理の効かない年齢だという事なのでしょうか。くすん。
こんこん。
「ルチル、起きてる?」
ノックと共に寝室の入り口から顔を覗かせたのはアレクでした。後ろからブラッドも附いてきます。
「ルチル様、体調は如何ですか」
「あ、ありがとう。…だいじょぶです」
発した言葉はあまり呂律が回っていませんでした。
身支度は無論のこと、洗顔さえもしていない自分が恥ずかしくて、私はせめて身を起こそうとしました。けれど発熱の所為でしょうか、持ち上げようとした自分の体は普段の何十倍の重さにも感じられて、動作は酷く緩慢なものとなり、その試みは腕一本で呆気なくアレクに制されました。
「駄目だよ、ルチルは寝てて」
そのまま横たわる私の前髪をそっと掻き上げ、額を合わせてきます。
「まだ熱は下がらないみたいだね」
心配そうに眉を顰めるアレク。我が身を案じてくれる人がいる事が嬉しいと思う反面、その近過ぎる距離に、病がアレクにうつるのではないかと私は不安になりました。
「ごめんねアレク、はなれて……うつったりしたらたいへん…」
「ご心配には及びませんよ、ルチル様」
ピジョンブラッドがアレクの為に寝台の横に椅子を据えました。
「我ら魔族は、ヒトと同じ病には罹りませんから」
え?
「…そうなの?」
「うん。ていうか、病人自体、初めて見た~」
魔族って、健康面でもヒトより優れているんですね……。いえ、私達ヒトが脆弱過ぎるのでしょうか。
「熱を出すってこんな感じなんだね。熱いんでしょ、ルチル。痛い? 苦しい? ……可哀想に。僕に何か出来る事ないかなぁ。早く良くなるといいのに」
アレクの掌が、私の顔に触れます。私は瞼を閉じました。額、頬、耳、首の後ろ……。少し冷たいアレクの手が、持て余した私の体温を奪っていってくれるようで、とても心地良いです。
「きもち、い……。もっとさわって…?」
アレクの指が、ぴたりと止まりました。
「…アレク…?」
どうかしたのでしょうか。
薄目を開けると、椅子に腰かけたままアレクが、ブラッドの方を振り返っています。
「ブラッドぉ……」
「お気持ちは分かりますがアレク様、現状で無体を働きますとルチル様の回復に大変差し障りがあるかと」
「だよね…」
分かってた、うん、分かってたよ……と、なんだか情けない声で呟くアレク。
何でしょうか。
理由はよく分かりませんが、アレクが酷く気落ちしているかのように見受けられます。
そういえば今まで、アレク本人が病気になった事はありませんでしたものね。さっきの発言から推測するに、魔族そのものがもともと病気に罹りにくい頑健な種族のようですし。周囲に病人がいた事も無く、また、自分が患った事も無いのなら、対処法も何も分かりませんよね。
という事は、アレクは病身の私の心配を過分にしてくれているのでは?
……可愛いなあ、もう。
「アレク」
私は手を伸ばし、呼び掛けに応えて枕元に寄せてきてくれた少年魔王の顔を、愛おしむように両手で包み込みました。向けられた想いに対し、真摯に気持ちを返します。
「しんぱい、しないで。……だいすきよ」
直後、威勢よくアレクが立ち上がった反動で転がった椅子の音が、室内に響きました。
「これでも駄目かな、ブラッド!?」
「駄目ですね」
切羽詰まったようなアレクの叫びに淡々と答えるブラッド。
「ルチル様も、どうかその辺でご容赦下さい。完全無自覚で墓穴を掘りまくる姿も見ていて大変愉快ではあるのですが。最終的には私はアレク様の意向をお止めしません。煽るだけ煽った後で、埋まった地雷を掘り当てて爆死しても知りませんよ」
ええと、これは私が熱発している所為でしょうか。
ブラッドがつまるところ何を言いたいのか、全く理解出来ません……。
ブラッドが徐に溜息をつきながら倒れた椅子の背を起こしていると、開かれたままの扉をノックする音がしました。振り向きもせずにブラッドが短く返答します。
「どうぞ」
「失礼します」
入室の許可を得て姿を現したのは、二人。神官様と、元・魔王専属コックの魔族さんでした。元・専属コックの彼は、どことなく牛を連想させる穏やかな顔立ちをしています。
「具合はどうですか? ルチル」
神官様が優しく問い掛けてくれました。
「おぶしだんさま……」
駄目です、私ったら、お名前がきちんと呼べていません。
「熱が高いようですね」
瞳を眇めて私の様子を見て取った神官様がひとつ肯き、アレクとブラッドに向かって、
「どうでしょう。私の力で多少なりともルチルを癒す事が出来るかと思いますが」
と、提案をして下さいました。
言われるまで思い出せませんでしたが、そういえば神官様の白魔術は、治癒と防御を得意とする癒しの技なのでした。魔王城への旅の途中で、私も幾度お世話になった事でしょう。
腰まである銀の長髪は、とりもなおさず神官様の白魔導師としての格の高さの表れでもあるのです。
「彼女に触れても、構いませんか?」
いつも感じる事ですが、物言いは柔らかいのに、神官様の言葉には逆らい難い何かがあります。
ブラッドは、無言でアレクの挙動を確認しました。
アレクは一瞬だけ躊躇ったようでしたが、
「…いいよ。来て、オブ」
そう言うと枕元の椅子に再び腰を下ろし、私の手をぎゅっと握りました。
神官様はアレクがいる反対の側からベッドに近付いて来て、私の額に掌を当てて、床に膝を付かれました。
「苦しかったでしょう。よく頑張りましたね。さあ、気を楽にしてください、ルチル」
普段は伏せられている神官様の瞼が、ゆっくりと開かれていきます。
瞳の色は、黒。黒曜石を思わせる艶やかな黒です。
厚くもなく薄くもない中性的な唇が紡ぐのは、神への祈り。
神力に通じると言われる白魔術が韻により導かれて私の身体に注がれていくのを感じます。それはまるで、暖かいお湯が私の細胞の一つ一つへと沁み渡っていくような感覚です。発熱の為に知らず強張っていた全身の筋肉が解されて、身体がふわりと軽くなりました。
「…これでもう大丈夫です」
神官様の手が離れた時には、私の体調は嘘のように楽になっていました。
「ありがとう、オブ」
詰めていた息を吐いて、アレクが私の代わりにお礼を言ってくれました。
「いえ。治療出来て良かった……あまりに重篤だと効果が無い場合もあるのです」
そう言った後、声音を若干厳しいものに変えて、神官様は言葉を続けます。
「でもアレク、自重して下さいね。ルチルが体調を崩したのは、おそらくストレスによるものでしょうから。十中八九、先日の乗馬が原因ですね」
「うん。反省、してる…」
しゅん。
効果音まで聞こえそうな程、アレクが萎れているのが見えます。
「アレク様、我々が考えている以上に、ヒトとは脆いものなのですよ」
「うん……」
ブラッドが諭すと、アレクは私と繋いでいた手から少しだけ力を抜きました。
アレクの所為じゃないのよ。
私はそう気持ちを込めてアレクの手を握り返します。
驚いたアレクの顔を見つめて微笑むと、ゆっくりと笑顔が返ってきました。
治療が終わり、再び瞼を閉じた神官様はそれでも淀みない足取りで寝台から数歩離れると、待機していた元・専属コックさんを手招きしました。
「ルチルは発熱で体力を消耗しているはずです。まずは、栄養を取らせなくてはなりません」
よく見れば、元・専属の彼が両手で押してきたのは、キャセロールの乗ったサービスワゴンでした。
「口にしやすいよう、スープを作って頂きました。ルチル、少量でも構わないので、飲めませんか」
「以前ルチル様に教えて頂いたレシピで作ってみました」
元・専属さんがにこやかに微笑みながらキャセロールの蓋を外すと、良い香りが立ち上ります。
ええ、食欲を誘う良い香りです。
それは良い香りなんですが……!
「お、オブシディアン様…」
「ああ」
躊躇いがちな私の声音に気が付かれたのでしょうか、含み笑いをしながら神官様が補足して下さいました。
「安心して下さい、ルチル。野菜スープです。動物性の材料は一切使用されていません」
ほ、本当ですか……。
恐る恐る元・専属さんをチラ見しますと、彼は幾分不満げに首肯しました。
「ホントは入れた方が美味しいんですけどね! ルチル様のたっての希望だと言われましたのでね!」
神官様、さすがです。よく分かってらっしゃる。
口にしたスープは、とても美味でした。一皿分を飲みきった私を見て、アレクが安堵の笑みを浮かべました。私はお皿を返しながら、コックさんにお礼を言いました。
「ありがとうございました。とても美味しかったです。野菜だけとは思えないコクがあって…。今度是非このスープの秘訣を教えて下さいね!」
「いやあ、秘訣って言うほどでも。隠し味にデンデロゲとガルガンゾーナを加えるだけですよ」
照れた様子でワゴンを下げていく元・専属コックさんの説明に、私と神官様はお互い言葉を失いました。
『デンデロゲ』…。
『ガルガンゾーナ』…。
何でしょう、この、不吉としか言いようのない語感は…。
解説を求めて紅い髪の魔族の方を見ると、
「……まあ、植物ですよ。地中に根を持ち自力では移動しないという定義に則るなら、ですけどね」
と、しれっと返答されました…。
そうですね、野菜です。野菜スープだったんです。
私は何も聞いてません。
怪しげな材料名など、何一つ聞いていませんとも…!
その日私は、二度と体調不良などを起こさないよう、いっそう自己管理を厳しくする決意を固めました。
「ルチル、くれぐれも……早く良くなってくださいね」
そして、神官様の言葉に並々ならぬ重みを感じたのは、私の気の所為では無いと思います…。