第九楽章
「ん…んん……?」
この季節にしてはなんだか肌寒い気がして、私は微睡から目覚めました。
朝です。陽光がカーテン越しに窓から差し込んでいるのが見えます。
けれどカーテンがたなびいている訳でもないし、窓や戸口が開いている気配もありません。ええと、これは一体……?
と。
「あれ、ルチル、起きちゃったの?」
隣で寝ているはずのアレクの声がしました。
いつもお寝坊さんなのに、私より先に起きているなんて、珍しいこと。寝起きの頭でぼんやり考えながら横を向く私でしたが、そこには少年アレクの整った顔はありませんでした。
……あら?
「おはようルチル。寝惚けた顔も可愛いね」
アレクの声は、思っていたより上の方からします。寝そべっている私から見て上方―――つまり、天井方向ですね。視線を移動すると、アレクの黒髪が見えました。そのまま目線を足元に移動。おお、やっとアレクの顔を見ることが出来ましたよ!
「おはようアレク。……今日は早いのね?」
「うん。早起きの鳥は虫を捕まえるっていうからね」
アレクはにっこり笑っています。可愛いなぁ。もう。
よくよく見ると、アレクは私の身体の両脇に手をついて、どうやら私の上に身を乗り出しているようです。普段は私に起こされてもなかなか起きられないアレクなのに……珍しく早く目が覚めたので、私の顔でも眺めていたのでしょうか? (それにしては若干、アレクの顔の位置が下過ぎるんじゃないかしらという気もしますが…)
寝顔を見られていたとか、うわ、地味に恥ずかしいですね。変な寝言とか私、言ってなかったでしょうか…………ん?
「ええと……アレク、私の服、何で肌蹴てるのかしら……?」
気付いたら、夜着の胸元が大きく開いていました。この所為で肌寒いと思っていたのですね、きっと!
動揺した私は、自分の胸元の生地を掴み、思わず跳ね起きてしまいます。私の上に覆い被さっていたアレクとそのままでは額がぶつかっていた所ですが、彼は軽い身のこなしで避けてくれました。
「あ、それ、僕がはずしたの。ルチルが暑そうだったから」
天使の笑みで答えるアレク。
毎回思う事ですが、魔王なのに笑顔が神々しいとか、どうなんでしょう。まあ、アレクだからいいのかしら。この純粋無垢な笑顔があってこそのアレク、ですものね!
「……あ、そう、そうなの……それはどうも有難う……?」
なんだ、良かったです。一瞬、一瞬だけですけれど、私の寝相が相当酷いのかと思ってしまいました……。34年間近く生きてきてこんなこと一回も無かったというのに、焦りましたよ……。
「どういたしまして」
アレクの満面の笑み。朝から目の保養ですねぇ。なんだか今日のアレクは、とっても上機嫌です。これはきっと良い事があったのですね。夢見が良かった、とか? それとも、自分の力で早起き出来た事がそれほど嬉しいのでしょうか?
うんうん、早寝早起きは自立への第一歩ですものね!
頑張れ、アレク。
そう私が褒めつつ励ますと、アレクは大きく肯きました。
「うん、僕、頑張るよ。早起きすると、とっても良い事があるって分かったからね」
夜着のままの私を見つめるアレク。その指は、私の胸元のリボンを手繰っています。
ふと気づくと、アレクの顔が近付いて、私の首元で深呼吸をしていました。
「今日のルチルはどこか違う匂いがする。でもこれもいい匂いだなぁ。僕、大好き」
何でしょう……どことなくこれは……含蓄のある笑顔? のような気が……。
それに私、睡眠中に暑いとか思っていたでしょうか……。むしろ肌寒くて目覚めたくらいなのですが……。
いえ、気の所為……ですよね。
「私も大好きよ」
そう言って、いつものようにアレクの額にキスをします。驚いたように赤紫色の目を見開いたアレクはしばらくそのまま動きを止め、それから息を吐いてシーツの上に柔らかく座り直しました。右手で額を覆っています。
「ふふ。……やっぱりルチルには敵わないなぁ」
私は気を切り替えて、窓辺のカーテンを開けるべく、寝台から降り立ちました。
さあ、一日の始まりです!
今日の授業は音楽です。
担当は私、でも講師はブラッドで、私とアレクが生徒です。
苦労して開催に漕ぎつけた音楽の授業ですが、アレクはここでも非凡さを発揮しています。なんと魔王は音楽にも才能があったみたいです。ピアノをあっという間にマスターした彼は、今はヴァイオリンを練習している所です。ブラッドの指揮で、私がピアノを伴奏し、アレクがヴァイオリンを弾きます。曲は色々です。砂地に水が浸み込むように、一度弾いた曲はアレクがどんどん覚えてしまうので、それはもうたくさんの曲を演奏しましたよ。ブラッドの作ったセレナーデも、名のある作曲家の作品も、ブラッドには嫌がられましたが結局讃美歌も数曲(笑)。初見で弾けて一度の演奏で暗譜出来るとか、もう一体彼は何様なのでしょうか。……あ、魔王様ですね、はい。
ブラッドだけでも充分凄いと思っていましたのに、アレクの規格外さと言ったらもう……!
こういう所を目の当たりにすると、本当に魔族はヒトより優秀な種族なのだなぁ、と納得してしまいます。そしてアレクはその魔族を束ねる魔王なのだなぁ、と…………。
ビィン。
不意に鋭い音が響いて、ハッと顔を上げれば、アレクが顰め面をしていました。
ヴァイオリンの弦が一本切れたようです。アレクの左の頬に一本の線を引いたように血が滲んでいます。
「アレク! 大丈夫?」
慌ててハンカチを手に駆け寄ると、アレクがヴァイオリンの弓を下ろしました。
「ん。平気」
話すと傷が攣れて痛いのでしょう、眉間に皺が寄っています。
「消毒しましょう」
「ルチル様。それには及びません」
ハンカチで出血を押さえようとした私の動きは、ブラッドに制止されました。そのまま促されて見ていると、アレクの傷は、みるみるうちに塞がっていきました。ぐい、とアレクが手の甲で傷をなぞれば、出血の赤い線はまるでペンで書かれたインク痕だったかのように消え、あとには傷も残っていませんでした。
魔王を倒せるのは勇者の剣だけ。
神官様に以前教えて頂いた話が、脳裏に蘇りました。
そう、魔王アレクを傷付けられるものは、私が大岩から引き抜いたあの伝説の剣だけなのです。それ以外の物体で負わされた傷は、おそらくは今のように、瞬時に治ってしまうのでしょう。
魔王。
魔王アレク。
やはりアレクは、ヒトである私とは異なる種族なのでした。
―――けれど、痛みはあったのです。
そこは、そこだけは、アレクと私が同じである所。
だからこそ私はアレクに近付いて、手の甲の赤い汚れをハンカチで拭き取り、こう尋ねます。
「……大丈夫?」
「うん」
アレクはヴァイオリンを手放し、私を抱き締めました。
「……ルチル、やっぱり匂いが違う」
「そう? ……ええと今、あれだから。月の障りが」
説明するのがなんだか気恥ずかしくてモゴモゴ言うと、ブラッドが横からアレクの顔を覗き込んできました。
「アレク様? 血の匂いに反応しているのですか?」
「そう―――なのかな。今までルチルのこれに左右された事ないんだけど、どうにも今朝から」
「ああ……それで」
ブラッドが私の襟元を見、したり顔で肯きました。
な、何ですか?
「問題ありません。アレク様が恙無く成長されているという証です」
ブラッドは深紅の瞳を眇め、唇を微笑みの形に歪ませました。
それから。
「ではルチル様、今日この後の授業は総てキャンセルで。アレク様と私は出掛けてきます」
唐突にブラッドはそう宣言し、アレクの手を取って立ち去ろうとします。話に付いていけてなかった私は狼狽しました。
「え……ちょ……ど、どこに行くんですか?」
「狩りですよ。城内ではまずいでしょうから、少し遠出してきます」
楽器の後片付けをお願いしますね、とブラッドは言い、
「これは、私にしか教えられない授業。魔族の科目です」
楽しげにウインクをして、アレクと共に去って行きました。
そうですよね……。魔王なんですから、同じ魔族からしか教えられない事だってありますよね……。アレクが成長している事自体は喜ばしい事なのですから、私、黙って見守らなくてはなりませんよね……。
でも、でも……。
狩りの対象って、まさか人間じゃないですよね……!?
そこは信じていてもいいんですよね、ブラッドさん……!
アレクに、私のアレクに、変な事教えないでくださいますよね……!?
その後数時間、アレクとブラッドが帰城するまで、私は生きた心地もしませんでした。
長い待ち時間の途中、騎士様に「あれ。鎖骨のとこ赤いぞ。ルチル、虫刺されか? 薬塗るか?」と訊かれたり、それを小耳に挟んだ黒魔導師様に「…オイ。よもや誰ぞに不埒な真似はされてないだろうな!?」と詰問されたり、なんだか一悶着あったような気はしますが、記憶が定かではありません。
帰ってきたアレクから得意気にウサギを手渡されて「今日の成果! 凄いでしょう!!」と笑顔で言われた瞬間、どっと気が抜けて、台所にへたり込んだことだけを覚えています。
夕食のシチューは、少しだけ塩気が効き過ぎていたかもしれません。