飲みに行く私
私は今日も仕事に明け暮れる。明日は土曜日。夜勤入り。花金なんて言うけれど、私にとっては平日と変わらないから、いつものように仕事をする。退院する方のサマリーを作成して、新患の入院書類を整理して、看護プランを立案して。なんてしていると、時間はみるみる過ぎていく。
TQMのことは私の頭痛の種でしかない。
二週に一度開かれる会議に参加して、眠気と戦いながら話を聞く。
書記や司会も順番で回ってくるから、手順を覚える必要もある。
TQMに入って変わったことがあるとすれば、病棟で菊野の姿を見かけるようになったことぐらいだ。もしかしたら、彼は以前からいたのかもしれないが、私が興味を持っていなかったから知らなかったのかもしれない。
「佐藤さん、こんにちは」
菊野は病室で私の担当患者様に声をかけていた。
――ああそうか。
脳梗塞で入院中の八十六歳の佐藤様の担当作業療法士は菊野だったのだ。
よくよくリハビリテーション部の方々の動向を観察していると、病棟に姿を見せる人、見せない人の差がはっきりしている。菊野のように、訓練時間以外や昼休みに、用事がないのに挨拶に来る人。最低限しか来ない人。はっきりしてくる。
どちらかと言えば、菊野は熱意のある人だった。そして菊野は患者様にとって優しい存在だった。
「あ、吉浦さん。お疲れ様です。今日は夜勤入りですか?」
夜の八時。菊野が私に話しかけた。何をしているのかと思えば、ナースステーションでカルテを見ていた。わざわざ、ここで見る必要もないだろうに。と私は横目で菊野を見て、頭を下げた。
「佐藤さんの担当って、吉浦さんだったんですね。どうですか?トイレに行く介助で大変だとかありますか?HDS-Rでも、微妙な点数なんですよね。ナースコールの理解とかありますか?」
私は驚いて菊野を見た。こんなことに興味のある人がいるのだろうか、と思ったのだ。
「はあ……」
それでも、興味を持ってくれたことが嬉しくて、私は菊野に話した。ケアで困ること、他の看護師から言われていること、などなど。菊野は、ただ真摯に頷いていた。
仕事をして、話をして、気付くと夜の九時を過ぎていた。
どうりで。
私は思った。どうりでお腹がすくわけだ。今日は夜勤前だから、フィットネスクラブにでも行って、ご飯食べて、さっさと寝よう。昼近くまで寝て、明日も夜勤。なんて、思いながら私は時計を見た。
菊野との話は終わったが、彼はいまだにナースステーションにいた。私はパソコンに向かいながら、思わず呟いた。
「お腹すいたな……」
ナースステーションでの独り言はよくあること。ただ、今日はそこに菊野たいたということだけ。
「もう、九時過ぎてますからね」
私の独り言に菊野は返答した。
ならば、私も返答するしかない。
「菊野さん、今日、夜はどうするんですか?」
言って、私はハッとした。まるで、誘っているみたいではないか。あり得ない。ここは、職場だ。その気がなくとも菊野は異性。気安く誘える存在ではない。
「飯でも行きますか?」
あっさりと菊野は答えた。
――つかめない。この男は、本当につかめない。
断れない私。行くしかない。今日のフィットネスクラブはお休みだ。
そういうわけで、私は菊野と一緒に飲みに行くこととなった。菊野は話の聞き上手だった。よくよく聞けば、私より六歳も年上だったが、特に気を使う必要もない存在だった。
私はビール片手に、仕事の不平不満もろもろを菊野に話した。新人時代の壮絶な思い出、実家に帰れないこと。なぜ、この男に話しているのだろうなんて、思いながら話していた。
これじゃ、下手なテレビドラマのシナリオみたい。そんなことを思った。
「俺は、去年まで回復期にいたんですよ」
その言葉の意味が分からず、私は首をかしげた。
回復期とは、リハビリテーション専門の病棟のようで、今の職場には無い病棟だ。リハビリ業界で、当院は急性期と呼ぶらしい。確かに、発症して間もないひとを治療する急性期だ。
菊野は去年まで県外の回復期で勤め、実家に帰るために、前医を退職し、職場を変えたらしい。なんだか、理想に熱い人のようだった。
菊野はあれだけ病棟にいるのに、私は菊野のことを知らなかった。それは、菊野が今年度か入った新入職だからなのだ。
菊野は他人付き合いの良い、熱血漢の酒好き。その菊野と飲みに行った私。なんだか、良いストレス発散になった。
これが、飲みに行く私。




