66.覚醒 その1
その時、礼拝堂の入り口から誰かが入って来る気配がした。
慎也は驚いて、後ろを振り返った。
背後には、背広をきちんと着た50歳代くらいの若干白髪がまざった温厚な表情の男性が立っていた。
「すみません、勝手に入り込んだりして」
慎也は男性に頭を下げた。
「構いません。ここは誰でも祈りたい時に来られるように開けてあるのですから」
男性は穏やかな口調で言った。
「私はここの牧師ですが、貴方も祈りを?」
牧師と名乗った男性は慎也の元に近づいて来た。
「いや、俺はただ何となく……」
慎也は少し決まりが悪そうに言った。
「そうですか。それも主の導きかもしれませんね」
牧師は慎也の気持ちを受け止めるように言った。
慎也は先ほど見たコピーの切れ端を牧師に見せた。
「俺、キリスト教のことは何も知らないんですけど、これって、何なんですか?」
牧師は渡されたコピーの切れ端を月明かりに照らして、しばらくじっと見つめていた。
「このコピーの文章が気になりましたか?」
牧師はまるで他人事のように尋ねた。
「何故、この人はわざわざ他人の為に苦しんだんでしょうか?それがさっきから不思議でしょうがないんです」
牧師はコピーの切れ端について語る慎也を黙って見つめていた。
「しかも文句も泣き言も言わず、悪意のある人間にされるがままになって……最後は殺されるなんて……あまりに理不尽というか……」
慎也はそう言いながら、コピーの話ではなく、まるで自分自身のことを話しているような気持ちにだんだんなっていくような気がしていた。
牧師はわざと語らせようとしているのか、尚も黙ったままである。
慎也は更に続けた。
「自分の為じゃなく、他人のために殺されるなんて普通じゃ考えられない。もう少し利口に立ち回る方法なんていくらでもあった筈なのに」
「それを敢えてしなかったとしたら、どうでしょうか?」
やっと口を開いた牧師の意外な答えに慎也は「え?」と小さく驚いてみせた。
「究極の、バカが付くようなお人好しとしか……」慎也は信じらんないという風に答えた。
「それが、『キリスト』という存在なのですよ」
牧師の言葉が、まるで剣のように慎也の高ぶった気持ちを打ち砕いた。
慎也ははっとしてステンドグラスの前にある十字架のキリスト像を振り返った。
あれは、アンタだったのか……?
言葉にこそしなかったが、慎也はそんな思いでキリスト像を見た。
「このコピーの文面は、キリストがこの世に誕生する前に、キリストの十字架を預言した言葉なのですよ」牧師は慎也にコピーを渡しながら言った。
「つまり、キリストは生まれる前から十字架にかかる運命を予言されていたってことですか?」
慎也は不思議な思いで渡されたコピーをもう一度読み返した。
牧師はゆっくりと黙って頷いた。
「そうです。それが私たちの言うところの『救い』なのです」
「『救い』……?」
慎也の中で次から次へと疑問が湧いて来る。
「このことを、後にパウロが『十字架の愚かさによる救い』と表現しています」
『愚かさによる救い』――
自分たちから見れば、まさに愚かな仕方で他人、否、人類を救おうとした救世主……。
「この『彼が担った病と痛み』には、俺自身のも含まれるんですか……?」
「勿論です」
慎也からの問いかけに、牧師は一分の躊躇もなく、即答した。
何かが打ち砕かれ、解放される不思議な感覚を覚えた。
その気持ちに応答するかのように、ステンドグラスからの月明かりが一層輝きを増したかのように見えた。
「俺は、今まで何をやってきたんだ……?」
俯いて、無意識のうちに慎也は呟いた。
慎也の心の中にこれまで自分がしてきてしまったことが否応なしに蘇って来る。
父親から受けた心身の傷。それを忘れ去ろうとして傷つけてきた物、他人、自分……。
それらは皆、正面から受け止めようとせず、目を反らして逃げて来た罪過の産物だった。
そして結末として、手放してはいけないものまで自ら放棄し、事実上暴力団の手先となってしまった。
慎也の脳裏にリコの愛らしい笑顔が鮮烈に蘇る。
「俺は……」
慎也はコピーの切れ端を強く握りしめた。
そして無意識に涙がこぼれ落ちた。
「とるに足らない過去の古傷に足元を掬われて、大事なものを失おうとしていました……」
「そうですか……」
「自分の弱さの為に、愛する人を失いかけていました……」
涙がとめどなく溢れてくる。
「俺は、どうしたらいいんだ……!」
「……」
牧師は懺悔の言葉を述べる慎也をただ黙って見つめていた。
静かな会堂に声を押し殺した嗚咽だけが響いていた。
しばらく黙っていた牧師が静かに口を開いた。
「貴男が今望んでいることは、何ですか?」
慎也はまた、自分の心と向き合うことになった。
「俺は……」
自分は、何がしたい……?
「貴男が本当に望んでいることに向き合うことが、主の御心ではないかと私は思います」
牧師は穏やかな口調で告げた。
「俺が望んでいること……」
心の奥底から熱い想いが込み上げて来るようだった。
自分の奥底の熱いものに逸らすことなく真っ直ぐに向き合う。
その気持ちと同じように、慎也は振り返って正面のキリスト像を真っ直ぐに見据えた。
ステンドグラスからの光がより一層強さを増し加えていた。
まるで十字架のキリスト像が慎也に「行け」と行っているかのように。




