64.喪失 その11
式は終始和やかなムードでようやくお開きとなった。
リコと一樹は、結婚式本番のように、列席者一人一人に挨拶をした。
そして、慎也が近づいて来た。
この間の社長就任時と余り変わらない、スーツとネクタイ、それに表情を隠すような黒いフレームの眼鏡をかけていた。
「本日はおめでとうございます」
リコには目をくれず、まるで他人事のように慎也は形式的な挨拶をした。
「君が社長に就任するのをずっと心待ちにしていたからね。うちと尾藤建設はこれからますます深いつながりになって行くだろうから。よろしく頼むよ」
一樹の言っている意味がリコには分からなかった。
だが、一樹のやや上から口調の言葉に慎也は黙ってお辞儀をするだけだった。
その後も絶え間なく列席者から挨拶があり、リコにはまるで永遠に続くかのような長さだった。
ようやく列席者が途絶え、一樹は笑顔をリコに向けた。
しかし、それとは対照的にリコの表情は曇ったままだった。
まだ慎也は、場内にいるだろうか?
そう思うと逸る気持ちを抑えられなくなってきた。
「沢田さん、私ちょっと用事を思い出したから……」「リコ?」
一樹や母親の返答を待たずにリコはロビーを飛び出して行った。
婚約式の衣装のまま、リコは慎也の姿を探した。
廊下にはまだ帰る途中の列席者達が談笑や挨拶を交わしながら歩いたり立ち止まったりしていた。
しかし、それには目もくれず、リコは一直線に慎也だけを探し続けた。
招待客達が、廊下をドレスのまま走るリコの姿に驚きの声を上げたが、かまう余裕はなかった。
息を切らしながら人波をかき分けて行く。
やはりもう、会場を出て行ってしまっただろうか?
と、人波が途絶えた前方に、ようやく慎也の後ろ姿を見つけた。
「尾藤くん!」
叫ぶリコの20メートル前方の角を慎也は曲がって行った。
「待って!」
リコはなおも叫んだが、慎也には届いていないのか、ずんずんと先へ行ってしまう。
リコも角を曲がると、慎也は廊下の左手にある来客者用の控え室へ入って行った。
入り口の札に「尾藤建設社長」とあるのを確認すると、リコも入って行った。
控え室には慎也一人で護衛や他の人間はいなかった。
突然ドレス姿で入って来たリコと目が合い、慎也は少し驚いた顔をした。
「尾藤くん……」
ツカツカと慎也の傍に行くや否や、リコは慎也の頬を思い切りパチンと叩いた。
リコからのビンタを食らい、さすがに今まで無表情だった慎也の顔が驚きに変わった。
「こんなこと、本当は望んでなんかいないんだよね!?」
リコは涙を流しながら慎也に向かい力いっぱい叫んだ。
「何で?何で何も話してくれなかったの!?何で心を閉ざしちゃったの?」
そう言うとリコは慎也をドンと突飛ばした。
慎也は力なくよろめき、後ろにあったソファーに倒された。
こんなにも脆い慎也はリコの知っている慎也ではなかった。
なおも驚きの表情の慎也にリコは顔を近づけて来た。
「私は尾藤くんのこと、何一つ忘れたりしてなかったよ。なのにどうして?」
目に涙を浮かべ慎也に迫った。
そして慎也の頬に触れるとリコは深く口づけをした。
お姫様は王子様のキスで眠りから醒めたというおとぎ話を幼い頃読んだ。
慎也は自分のキスで本来の自分を取り戻してくれるだろうか?
確証はないが、今のリコにはそうせずにはいられなかった。
慎也からは何の反応も返って来ない。
(目を醒まして……!)
心の中で呟きながら、リコはなおもキスを続けた。
そしてようやく、ゆっくりと慎也から唇を離した。
離した互いの唇は僅かながら艶やかに濡れていた。
慎也はじっとリコを見つめた。
「リコ……」
ようやく慎也の口から微かに名を呼ぶ声が聞こえた。
リコはもう一度慎也を見つめ返すとゆっくりと慎也から身体を離した。
「もう一度、元の尾藤くんに戻って……」
そう言うとリコの大きな瞳から更に涙がこぼれ落ちた。
そして急いで控え室を出た。
リコはまだ途絶えない列席者の波を、今度は逆方向へと戻って行く。
泣きながら戻るリコの姿を驚きの顔が見つめていたが、それには目もくれなかった。
控え室に一人取り残された慎也はソファーにもたれたまましばらく茫然自失だった。
やがて、指先をゆっくりとリコが触れた唇に持って行った。
そして慎也はリコの唇の感触を確かめるように、ゆっくりと自分の唇をなぞった。
無表情だった慎也の目は何かを思い出そうとしているかのようにも見えた。
「どうしたんだい?リコ」
先ほどの場所にはリコの両親と一樹がまだ残っていた。
「もう、急に出ていったりして、沢田さんに失礼でしょ?」
リコの行動に母親が叱責した。
「ごめんなさい」
一樹はリコの顔が涙に濡れているのに気がついた。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
顔を覗き込む一樹にリコはあわてて笑顔で首を振った。




