60.喪失 その7
尾藤建設最上階にある社長室――
全面ガラス張りの窓には、恐らく横浜ではいちばん美しい夜景が見渡せた。
キラキラと宝石をちりばめたような風景を、スーツ姿の慎也は見つめていた。
だが黒いフレームの眼鏡の奥の瞳は光を失い虚ろだった。
「どうだ、素晴らしい輝きだろう」
慎也より僅かに背の低い慎也の父親、真一郎が傍らに来た。
「この横浜の輝きは、全て私たちが作ったと言っても過言ではない」
真一郎は誇らしげに夜景を見渡した。
「いや、ここに映っている景色だけではない。横浜の代表的な建築物は、全てうちが手掛けたと言って良いだろう」
非常に尊大な物言いに、本来の慎也なら全面的に突っぱねるところだろう。
だが、今の慎也は虚ろな目で自分の父親に頷くだけだった。
「日本の主要ゼネコンと絶対的な関係を築くのは並大抵ではなかった」
「……」
「父親、つまりお前の祖父が起こした建設会社は高度経済成長期は目覚ましく発展した。しかし、私の代になり、バブルが弾け、建設不況と呼ばれる時代になってから、業績は悪くなる一方だった……。そこで私はありとあらゆる手段を尽くした……。国会議員や県議会議員、横浜市議にも働きかけ、便宜を図ってもらった。その為にも、興和会の存在は私には必要不可欠だった……」
慎也は真一郎の言葉に終始無言だった。
「私は、自分が築き上げ、育てて来たものを、お前に全て渡したい。その為だけに私は会社の繁栄に自分の全てをかけたのだ……」
そう言うと、真一郎は慎也の広い背中に手を回した。
「慎也、私の気持ちを理解してくれ…。お前は私のたった一人の大切な息子なのだから……」
エゴイズムにまみれた言葉と妖しげな視線で慎也を見つめた。
真一郎の手は慎也の背中から腰、そして臀部の方にゆっくり降りて行った。
慎也は夜景を見つめたまま、表情を変えなかった。
社長室の奥には、社長しか入れない特別な居室がある。
その部屋には、かつて社長だった真一郎が何人もの女性と共にしたであろうキングサイズの高級ダブルベッドが中央に備わっている。
真一郎と慎也は共に生身となり、真一郎は慎也の首筋に唇を這わせた。
「お前は、私のものだ……」
慎也はただ天井を見つめて無表情のままだった。
翌朝、目覚めると慎也は一人裸身でベッドに横たわっていた。
そしてベッドのそばに、近藤から借りたままのジャージが置かれていたのを見つけた。
慎也はスーツを着て身なりを整え、近藤から借りたジャージを手に取った。
*****
――営業再開に向けて、近藤たちのバイク屋は今日も店内の整理な取り引き先との確認に追われていた。
「後少しで再開出来そうッスね」
店の後半が近藤に声をかけた。
「ああ、もうちょっとだな」
「明日にはどうにか仮復旧出来そうじゃないッスか」「オウ、そのためにも今日はもうひと踏ん張りだ」
近藤はタオルを巻いた額の汗を拭った。
猛暑は過ぎたが、まだまだ夏の日差しは暑かった。
近藤は太陽をにらむとよし、と気合いを入れて仕事にとりかかった。
と、その時――
一台の黒塗りの高級車がバイク屋に乗り込んで来た。
こんな店に場違いなと思いながら、近藤が高級車に近づいた。
「スミマセン、まだ店の再開は……」
言いかけて、近藤は乗用車から降りてきた人物に目を疑った。
「シン……」
運転手にドアを開けてもらい、降りてきたのは、暑い中場違いなスーツを来た慎也だった。
「コン、久しぶりだな……」
だがそういう慎也の言葉は、どこかよそよそしい感じがした。
近藤は慎也の様子を見て、明らかに嫌悪の表情を浮かべていた。
慎也は小さな紙袋を取り出して、近藤の前に差し出した。
「ジャージ、ずっと借りっ放しで済まなかった。お詫びの差し入れも入れてあるから、みんなで食べてくれ」
淡々という慎也に、近藤の怒りはとうとう我慢の限界を迎えた。
次の瞬間、近藤は思い切り慎也の顔を拳で殴った。
慎也は衝撃で倒れ、手に持っていた紙袋からジャージと差し入れの高級菓子が散らばった。
「こら、社長に何をする!」
「今のてめえは死ぬほどかっこわりいな!」
あわてて制する護衛に構わず近藤は肩で息を切らせながら慎也に言った。
慎也は殴られた頬を手で押さえたまま、俯いて顔を合わせようとはしなかった。
「てめえを殴ったの高校で初めて会って以来だな……。お前今リコちゃんがどんな気持ちでいるか分かってんのかよ!」
近藤は更に慎也に言葉を叩きつけた。
「何でそんな情けない野郎になっちまったんだよ!スーツなんか着て気取りやがって。社長?ふざけんなよ!お前は、もう俺が知ってるシンなんかじゃねえ!」
そう言い放つ近藤の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
慎也はゆっくりと立ち上がりスーツに着いた汚れを手で払い落とした。
「邪魔して悪かったな……」
そう言うと、慎也は護衛と運転手を促して車に戻り、出て行った。
「それだけかよ……?」
去っていく慎也の車を見送りながら、近藤は拳を握りしめ、口惜しそうに唇を噛みしめた。




