101.受難 その5
平穏無事。この4文字が一番の願いだと思わずにはいられない今日この頃である。
表向きには慎也とリコの生活は平穏そのものだった。
慎也自身も、今は族連中との繋がりは断っており、十分カタギの生活をしている筈だった。
だが、周囲は時々、慎也はやはり元暴走族で暴力団興和会と繋がりがあると見なしてると感じる時があった。
今の職場では慎也が以前裏のグループと関連を持っていたことは隠している。
だが……。
「オイ、本城、この間顧客から整備でサスペンション締め忘れていたって苦情来たぞ!」
結婚して姓を変えた慎也に対し、先輩社員がスタッフルームに入るなり怒鳴り込んできた。
「え?」
「この伝票の客請けたのお前だよな?お前これでクレーム何件目だよ!?」
慎也は差し出された伝票を見ながら腑に落ちない顔をした。
「サスペンション、整備の時ちゃんと締めましたけど…」
「客が言ってんだから間違いないねーべよ!」
尚もくってかかる先輩社員に慎也は観念して謝った。
「スミマセン、電話で謝って来ます」
スタッフルームの隅に行き、伝票を片手に電話で謝罪する慎也を、先輩社員は遠くから腕を組んで睨み付けていた。
その先輩社員に、もう1人の先輩社員が寄り添い、何か耳打ちした。
「アイツって…」
顧客に散々文句を言われてようやく電話を切った慎也は、長い前髪を掻き上げ、はあっと疲れ切った顔をした。
そこへまたスマートフォンの着信が鳴った。
リコからだった。
慎也の表情が一瞬明るさを取り戻した。
「もしもし?」
「慎也?私だけど、今日仕事の帰りに頼まれていたファイル買ってくればいい?」
「ああ、わりいな」
リコもまだ産休を取らず仕事を続けていたので、文具のお使いを彼女に頼んでいた。
こんな些細なやり取りも今の慎也には憩いだった。
電話口のリコは慎也の声が今までと違うことに気が付いた。
「どうしたの?何か元気ないみたいだけど…?」
「え?ああ、大丈夫だよ」妊娠中のリコにこれ以上心配はかけたくなかった。
「お前の声聞けて元気になった」
「ホント?」
リコは照れくさそうに言ったが、慎也の本当の気持ちだった。
「それより、仕事はちゃんと車で行ったか?うちは駅もバス停も遠いからむやみに外歩くなよ」
仙崎の件が心配な慎也は、リコの為に出勤用の車を譲って自分はバイク通勤にしているのである。
「出た出た、お節介」
リコは少し揶揄するように慎也をからかった。
「当り前だろ?リコにもしものことがあったら…」
「大丈夫。ちゃんと車借りたから安心して」
過去には警察沙汰になるような不良だったのに、こんなに心配性なのがリコには何だか可笑しかった。
ちょっぴりお節介なところ、少し鬱陶しい時もあるが、それが慎也の良いところであり、そんな彼がリコにはいとおしく思えた。
「そうか、良かった」
慎也は心底安堵したように言った。
「じゃあ…」
「リコ」
リコが電話を切ろうとするのを慎也が制した。
「何?」
慎也は辺りをキョロキョロと見回し、スタッフルームに誰もいないのを確認すると囁くように言った。
「愛してる」
「…!」
電話口でのいきなりの囁きにリコの顔は一気に熱くなった。
「こ、こんな時に…もう!」
慌てふためくリコの様子が慎也には堪らなく可愛かった。
楽しかった束の間の時が終わり、慎也はまた厳しい現実へと戻って行った。
慎也はスタッフルームを出る前にふうっと息を吐いた。
「ここで負ける訳にはいかねえ…」
もともとかなりの負けず嫌いな慎也である。
リコと、お腹の子供の為にも弱音は吐いていられなかった。
顔を上げてまた引き締まった顔になると、覚悟を決めてスタッフルームから出てきた。
そんな慎也を先輩社員はジロッと一瞬目をやったが、慎也は目をくれず、強い気持ちで目の前の仕事に没頭した。
「オイ」
先輩社員の一人が慎也に近づいて来た。
「はい」
「本城、もとい、お前旧姓尾藤ってんだろ?」
「そうですが」
提出した書類に旧姓記入欄があった為、別に尾藤姓を隠しているつもりはなかった。
「お前ガキの頃『ブラッディ尾藤』でその辺ならしてたんだってな?その時のツインヘッドの片割れが興和会の仙崎なんだろ?」
「……!」
そして、もう一人の耳打ちした方の先輩社員が割り込むと、ベリッと有無を言わさず、慎也の頬のガーゼを乱暴に剥ぎ取った。
中からはまだまだ生乾きの切り傷が露になった。
剥ぎ取った先輩社員は満足そうに薄笑いを浮かべた。
「コイツが何よりの証拠だぜ。どう見ても転んでケガした傷じゃねえよな?」
先輩社員は慎也を追い詰めた。
「正直に吐けよ。お前興和会とつながりあんだろ?」慎也はキッと二人の先輩社員をきつく睨み付けた。
「俺の過去がどうだろうと関係ねえだろ!」
その鋭い目付きに二人は一瞬怯んだ。
「今は目の前の仕事をしっかりやる。今はそれしか考えていませんから」
しかし、二人はすぐに強気の表情になって言った。
「尾藤、調子乗んなよ!興和会との関わりバレたら、てめえはここには居られなくなんぞ!」
脅し口調の先輩達に慎也は怯まなかった。
その代わりゆっくりと先輩の方に向き直り、静かに言った。
「俺は、自分の運命を受け入れる覚悟はありますから…」
そう言うとゆっくりと二人から離れた。
前の職場同様、過去のことでまた職場を追われるかもしれない。
だが、これが自分が背負うべき十字架なのだ。
今の慎也には、もう何が起きても怖くない、そんな気持ちだった。




