第六話 「懐かしい味を知って~」(七歳)
進展あまり無いです。
主人公とその一行が一緒に朝ご飯を食べるお話。
翌朝。
きっかけもなしに目を覚ました俺の顔を、窓から差し込む陽光が照らした。
あまりの眩しさに思わず目を閉じ、しかしながら目覚めたばかりのまどろみの中に沈む意識が、俺の起床行動を愚鈍にさせる。
目尻を擦り、寝台から身体を起こして周囲を見回す。シャスティルとして生を受けてから、習慣として馴染んでしまった行動だ。
悲しいかな。俺は未だに、この世界が実は夢の出来事なのではと心の奥底で疑っているのだ。朝目を覚ました時、園宮悠太としての怠惰な人生が再び始まるのではないか。いっそ霊魂になって前世の家族の元に会いに行けたらと、七年間生きてきて何百回と妄想に耽ったものか……。
「……おはよう。“私”」
自分の小さな身体を見下ろして、俺は他ならぬ自分自身に挨拶する。
どうやら今回も夢オチはなかったらしい。まあ今更なのでいちいち落ち込んだりしないが、今日の正午から予定している交流会を思い出してげんなりする気持ちを押し隠すことはできなかった。
とりあえず今の時間を確かめようと、俺はベッド脇に綺麗に折りたたまれた洋服をまさぐり、ポケットから懐中時計を取り出した。
初めての外出の記念にと、母様からプレゼントしてもらった年代ものの時計である。曰く、レンズ外周を覆うフレームは樹木精霊の樹皮を加工して細工したものらしい。歯車に一片に至るまで時計職人の腕前が窺える代物であり、空気中の魔力を源力に動いているのだとか。その証拠に、回しネジのような部品の類は一切見受けられなかった。魔力さえ枯渇しなければ半永久的に動き続けるのだからこれはこれで凄い発明品だろう。可動性においては電池式とは比べものにならないな。ちなみにトレントというのは、この世界に生息する意思を宿した人型木の魔獣のことである。
銀でコーティングされた時計の蓋を開き、時間を確認する。時針と分針が示す時間は午前の六時半ごろ。健全な少女の起床時間としてはちょうど良いだろう。
もっとも就寝が遅すぎたため、少々寝足りと思うのもあるが……。
人目も憚らず大きく口を開いて欠伸をする。エリィが見たら真っ先に「はしたない」の注意が飛んできそうだが、幸い彼女は寝台の上で毛布を被ったまま目を覚ましていない。余程疲れが溜まっていたのだろう。俺の世話役とはいえ、まだ十八歳の少女なのだ。昨晩は己の眠気と闘いながら俺のことをずっと気に掛けてくれていたのだから、精神的にかなり堪えたに違いない。宿に到着後早々ベッドに飛び込んだ俺の着替えも、わざわざ彼女がしてくれたのか。そこまで気にかける必要はないのに、ホント生真面目だよなぁ。
「ありがとう、エリィ」
静かな寝息を立てる侍女にそっと感謝の言葉を述べ、俺は早速服の着替えを始めた。
屋敷から持ってきた衣装ケースの中をがさごそ漁り、一番動きやすそうなワンピースを取り出す。フリル付きで女の子っぽい感じが少々難点だが、まあフォーマルなドレスに比べたらそれほど抵抗感はない。
『うん、こんなもんかな』
着替えを終え、鏡台の姿見の前で容姿をチェックして見栄えの程を確認する。鏡の向こうにはさっぱりした青いワンピースに身を包む銀髪金眼の美少女が、スカートの端を摘んで可愛らしくポーズを決めていた。
言わずもがな、その美少女とは俺のことだ。くれぐれも訂正しておくが、別に自分の容姿にナスシシズムを感じているということは断じてまったく無い。それは俺の名誉のためにも、ここではっきりしておきたいところだ。
透き通るような銀髪と澄み切った金の瞳。髪と目の色で両親それぞれの特徴を均等に遺伝してはいるが、こと人形のように端整な容姿に関しては母様のそれを強く受け継いでいるのは疑いようが無い。
異世界の有力な大貴族の、さらに言えば美男美女の間に生まれた子供というこの幸運は誇ってもいいと我ながら思っていたりする。性別が男であればもっと良かったのだが、この際贅沢は言っていられない。不慮の事故で死んで転生したこの身なれど、人生をやり直す機会を与えてくれた事には感謝こそすれ恨み等は一切無かった。
「“ユウタ”、あなたは特別なのよ。だから私に生まれ変われた事に感謝なさい」
俺は鏡の中の自分にピンと指を突き出して胸を張る。
ふむ…こうして見るとツンデレ気質な高飛車お嬢様に見えなくもない。
「お嬢様? 何をなさっているのですか?」
うわああ!
俺は思わず肩を震わせて飛び上がった。
完全に熟睡してると思って油断していた。後ろを振り返ると、いつの間にか普段のメイド服に着替えていたエリィが俺のすぐ背後に立っていたのである。
しまった……見られてしまった。
集中して気づかなかったとはいえ、これは恥ずかし過ぎる…!
「エ、エリィ…。お、起きてたの……?」
恥ずかしさの余り搾り出した言葉は完全に動揺していた。
余計な茶番を見られてしまった事による羞恥が、俺の顔を熟れトマトのように真っ赤に染め上げる。
なるべく視線を合わせてないように悪あがきする馬鹿な俺を、エリィはさも気にしていない様子で見つめながら小さく頷いた。
「おはよう御座います、お嬢様。はい、先ほど起床致しました。申し訳ございません。本来なら私めがお嬢様の起床をお手伝いするべきでございますのに」
「べ、別にいいのですよ。昨日は色々大変でしたし、疲れが溜まっていたのでしょう。私もさっき目を覚ましたばかりですから…」
「いいえ。シャスティルお嬢様の身の回りのお世話は、ケレン侍女長と奥様より授かった大事な役目…。疎かにするわけには参りませんわ」
とことん使命感に燃えるメイドさんである。
生真面目で責任感が強いのは俺も認めるところではあるが、如何せん彼女の無理し過ぎるところが時々不安に思えてくるのだ。
なんだかんだ言ってまだ十八歳だものなぁ。前世の俺の十八歳の頃といやぁ、学業とアルバイトに身を費やす普通の学生だった記憶しかない。
それはそれでどうかと思うが、少なくとも自分なりに青春を謳歌して楽しい学生ライフを満喫していたと断言できる。仕事ばかりに気負いせず、時には身体を労わる休息もエリィには必要だろう。
「えっと……とにかく、無茶だけはしないでくださいね?」
「お心遣い恐縮です。それはそうと、先ほどは鏡の前で何をなさっていたのですか?」
ぶは!
このタイミングでそれを掘り返すのかよ!
前言撤回。生真面目だけどもやっぱり腹黒い。
一通りの身支度を済ませた後、俺はエリィと護衛の兵士(家から連れてきた護衛のための私兵。どうやら交代で俺の部屋の前の警護を務めていたらしい)を伴って一階の食堂ホールに降りた。
今日の正午まで父様がこの宿を貸し切るよう手配したため、人気のないホールのテーブルは当然ながら閑散としている。料理を仕込んでいる最中だろうか。厨房の方で少なからず人の動きが見られたが、活動の音と言えばそれだけで、後は寒々しいまでの静寂がそこにあるだけだった。
「おはよう、シャスティ。なんだ、もう起きてきたのか?」
このまま席に着いても大丈夫なのだろうか。
そんな躊躇を抱いてただ何となく突っ立っていると、階段の踊り場から父様が声をかけてきた。
どうやら父様も早起きしていたらしい。丁度階下に降りてくる時に鉢合わせになったのだろう。父様は軽快な足取りで俺の傍に近づくと、膝を突いて両腕を広げてみせた。
でた……我が家お馴染みの抱擁挨拶の合図だ。この国では習慣として染み付いているコミュニケーションの一環らしいのだが、お辞儀の文化が根強い元日本人の俺としては未だに抵抗を覚えてしまう。
他人の目がある場所も相まって、朝の挨拶をしてハグを返す俺の顔は常時赤く火照っていた。
「どうしたシャスティ。顔が赤いぞ? まさか、熱でもあるんじゃないか…!」
誰のせいだ、誰の。
「いえ、その…色々見慣れないものが多くて緊張してしまって…」
いつもの親バカを発動される前に、適当な言い訳を作って逃れる。
実際、初めての環境でうろたえてしまったのは確かだ。
父様は「そうか」と微笑を浮かべて俺の頭を優しく撫でると、そのまま連れ立って食堂のテーブルへ足を運んだ。
「お、おはようございます、お客様。昨晩はよくお眠りになれましたでしょうか…?」
しばらくも経たぬうちに、俺達の気配に気づいた中年の男性店員がカウンターから現れた。
昨晩、父様と宿泊の交渉をしていたこの宿の主人だ。確か名前は、ハリーさんといったか。
「ああ、おかげさまで。昨晩は突然押しかけて申し訳なかった。娘も良く眠れたようだし、本当に感謝の言葉もないよ」
「い、いえいえ、滅相もありません! むしろ感謝するのは私らどもと言いますか…あ、失礼致しました…! お席へ案内致しますのでこちらへどうぞ」
ハリーさんは俺達を手近なテーブルへ案内すると、手に持っていた料理のメニューを謙って父様に差し出した。
見るからに、というかあからさまに貴族に対して畏敬を抱いている感じだ。
もっと砕けた対応でも良いと父様は言うが、向こうは余計に畏まる一方で手の施しようがない。もっとも先に押しかけたのはこちらであるから、態度を改めろなんて強く言い出せないのも理由の一つだろう。
「えー、ご、ご注文はお決まりでしょうか?」
「ああ。では私はハムエッグトーストとコーヒーをいただこうかな。エリィ、君も一緒に食事を摂りなさい。シャスティは何にするか決まったか?」
「……………」
「………シャスティル?」
いつまでも返事がない無反応な俺に、父様が続けて声をかける。
俺はまったく父様の呼びかけを聞いてはいなかった。いや、聞く余裕すらなかったというべきか。
そのとき、俺は父様に渡された料理のメニューの、ある料理名に釘付けになっていたのだ。
正直有り得ないと思った。
何かの見間違いではないかと。
だが幻でも何でもない。そこに書かれたものは確かに、前世の俺が慣れ親しみ、今の俺がもっとも恋しく感じていた食べ物だったのだから。
「……お嬢様?」
隣の席に着いたエリィに肩を揺すられ、そこでようやく正気に戻る。
はっとメニューから顔を上げ、不安げな様子で俺を見下ろすハリーさんに勇気を出してこう告げた。
「あ、あのっ……この、“ライス”というものください…!」
十分後、テーブルの席に着いた俺たち三人の目の前に湯気を立ち昇らせる料理が並ぶ。
父様が注文したのはスクランブルエッグとハムを二枚のトーストで挟んだサンドウィッチだった。その隣にはカップに注がれた熱々のコーヒーも置かれている。父様は政務の時もよくコーヒーを飲んでいたからもはや見慣れた光景だ。余談だが、アークランドの貴族は紅茶を嗜む割合が圧倒的に多いので、コーヒー好きの貴族はなかなか珍しいのだそうだ。どれくらい珍しいかというと、父様が一部の貴族達から『珈琲公』と呼ばれるぐらいに。
エリィは相変わらずマイペースというか、パン一切れとシチューだけという質素な献立だった。
父様は遠慮しなくてもいいと言ったが、「小食なので」と口数少く断わってそれ以上注文しようとはしなかった。立場上、エリィとはよく食生活を共にすることが結構多いのだが、これまで彼女の食卓に三皿以上料理が並ぶのを見た事が無い。実際、小食というのは本当のことなのだろう。
そして、肝心の俺のメニューはというと――、
「シ、シャスティ……本当にそれでいいのか?」
「…………」
父様とエリィが困惑の表情で見つめる先には、平皿に丸く盛られた白い粒状の塊が一つ。
言わずもがな、十分前に俺が注文した正真正銘の食事である。
まあ、そんな表情をするのも無理はないと思う。何より、この食べ物をメニューで発見した俺自身驚きすぎて言葉を失ったくらいなのだから。
もしかしたら言語の意味の捉え間違いではないかという疑いもあったが、こうして目の前で確認してようやく確信できた。
「はい、お父様。私、一度でも良いからこの“料理”を食べてみたかったんです」
いや、正直なところ一度ならず何度も食べていたい。
この白くふっくらとした楕円形の小粒。そして、食欲をそそらせる炊き立ての湯気の香り。
日本の食卓を語る上で無くてはならない、おかずの引き立て役であり、最強の炭水化物料理…!
その名も“白米”。ライスという呼称としても知られるこの食物は、トウモロコシ、小麦と並ぶ地球の三大主食作物の一つとしても有名だ。
「ふむ、シャスティがそう言うのなら父さんは構わないのだが……しかし、初めて見る料理だな」
「確か…“ライス”という食べ物でしたか。見たところ、味付けらしいものは何もされていないようですが、このまま召し上がるのでしょうか?」
父様とエリィが疑問に首を傾げつつ白米ご飯をまじまじと見つめる。
園宮悠太として見慣れている自分にとっては懐かしい印象なのだが、米料理を知らない二人はあくまで真剣な様子だった。
それが何だか可笑しくて、思わず頬が緩んでしまう俺。
おずおずと、遠慮がちに説明を始めたのは店主のハリーさんだった。
「あのですね。お恥ずかしながら私めも詳しくは知らないのですが、そちらは『ライス』と呼ばれるイーファ州国特産の料理でございまして、コメという作物を釜で炊いて作っています、はい」
「イーファ州国……確か、ガーナ東部の沖に位置する海洋国だったか。かねてより大陸とは異なる文明が栄える土地とは聞いていたが…なるほど。これがその郷土料理というわけか」
イーファ州国……俺も本で読んだ事がある。
ガーナ大陸は東端。大国間の戦乱が絶えない大地よりさらに東、海を渡った向こうに栄える列島の海洋国家。大陸とは違う独自の文化が芽生え、そこで作られた特産品は商人の間でも高値で取引されるほど高価なものとして知られているらしい。
その時はさらっと目を通しただけだったが、よくよく考えれば立地的にも日本と結構似通った国のようだ。
俺は目の前の白米に視線を戻した。
家に帰ったらイーファ州国のことをもっと詳しく調べてみようと心に誓い、手にしたスプーン(さすがに箸はなかった)を使ってご飯を掬い上げ、そのまま口に運ぶ。
パクッ。
「…………」
もぐもぐ。
ふむ、どちらかといえば玄米に近いのな。
まあ、この世界の技術水準を考えると、精米技術もそれほど高くなさそうだし、美味しく食べられるだけ感謝すべきだろう。
しかし、なんだろう。味付けは何もないはずなのに、心なしか少ししょっぱいぞ。
「シャスティル!?」
「お嬢様、涙が…」
え、涙?
二人の驚く顔を見上げて、そこで俺は初めて自分が泣いている事に気づいた。 どうやら、俺の米に対する感動は想像以上のものだったようである。
一先ず誤解されるといけないのでその事を順当に説明しつつ、俺は中盛りのそれを一粒残さず完食させる。
とはいえ、さすがに白米だけでは栄養が偏るというエリィの指摘により、少々のサラダとスープも追加で食べさせられたが…。
主人のハリーさん曰く、この店で仕込まれるライスの調理は全てとある下男に一任しているらしい。
というのもライスの作り方を知っているのがその下男だけで、メニューとして取り入れられたのもその人が料理人としてここで働いている事に起因しているのだそうだ。
「いやはや、イーファ出身の人間なんてこの辺じゃ珍しいもんでして。本場の味を作れる料理人がいれば、もっと店が繁盛するんじゃないかって思いましてね」
「はは、なるほど。して、結果は?」
「ご覧の通り、しがない下町の襤褸宿のままでございますよ」
そして、今は食後の余韻に浸るティーテイム。
最初こそ貴族相手に腰の低かったハリーさんも、父様の大らかな性格と気さくな言動に当てられて随分と柔かい態度になっていた。
エリィは隣で静かに紅茶を飲みながら父様たちの会話を聞いているし、俺はというと、先ほど食べたライスの味が名残惜しくてカップの紅茶には手をつけず、ぼーっと窓の外を眺めていた。
まだ朝も早い時間だというのに、窓越しに見える宿前の道路には早くも仕事へ向かう人々の動きが見て取れる。さすが公爵家が治める大都市なだけはあるな。
「あんなに幸せそうに食事をする娘の顔を見たのも久しぶりだ。ご主人、良かったらそのイーファの出身という料理人に一言礼を言わせてもらえないだろうか?」
その父様の言葉に驚いたのは俺とハリーさんだった。
「えっ……いやしかし、当人は料理の腕前は確かなんですが、接客が出来ないほど気難しい奴で、貴族様のご気分を害され兼ねないかと」
「ふふ、お気遣い痛み入る。だが私は構わないよ。気難しい者とのやり取りは慣れたものでね。それにこのまま去るのも何だか申し訳ない気がするのだ」
「は、はあ…」
「シャスティも異国の民に会ってみたいと思うだろう?」
「えっ。あ……はい」
流される形で、思わずYESと答える。
まあ、ライスを作ってくれたお礼を言いたいのは俺も同じであるし、遠く離れた異郷の地の人間を知るという意味では良い機会だろう。
ハリーさんも最初こそ躊躇いを見せていたが、そこに父様の人柄を思い出したのか、「そういう事であれば」と素直に納得してくれた。
一言断わって厨房の方に引っ込み、しばらくも経たぬうちに作業着を着た一人の長身の男性を連れて戻って来る。
「お待たせしました。こちらの者がそのイーファ出身の従業員になります。名はヒセイです。さあヒセイ、方々にご挨拶を」
「初めまして。ヒセイと申します。以後、見知りおきを……」
そう言って、例のイーファ出身の下男――ヒセイさんは両手の拳同士を合わせて小さく頭を下げた。
初めて見る挨拶のポーズだ。恐らくイーファ独特の礼の作法なのだろう。
動作もそうだが、俺がもっと関心を引いたのはその容姿にあった。
長身に違わぬ引き締まった身体。すらりと伸びた足。
背中まで届く漆黒の髪は頭の後ろで丁寧に束ねられ、硬い表情を崩さぬ顔からは切れ長の黒い双眸からは好意とも敵意とも取れない鋭い視線がこちらを注意深く窺っている。
確かにこの国ではあまり見かけない外見の持ち主だった。正直言って、この宿の従業員にしては不釣合い過ぎるような気がする。
うん、はっきり言おう。ヒセイさんはイケメンだった。モテない方がおかしいくらい、端麗な容姿をしていたのである。女性に転生していなかったら、今頃嫉妬の炎をメラメラと滾らせているところだ。
「丁寧な挨拶感謝する。私の名前はバッシュという。ふむ、長いので姓の方は省かせていただこう。ふふ、どうやらうちの娘がヒセイ殿の作ったライス料理に感銘を受けたらしくてな。直接礼を言わせてもらおうと、こうしてお呼びした次第だ。忙しいところを申し訳ない」
父様の謝罪に、ヒセイさんはただ首を横に振っただけだった。
元々寡黙な性格なのだろう。隣ではハリーさんが目を白黒させていたが、父様は特に気にした様子もなく大仰に頷いて俺たちに身振り手振りで紹介を始める。
俺も会釈して挨拶をした。といっても、彼が返すのは相槌や首振りくらいで、特に会話らしい会話は続かなかったが…。
最後は、「仕事に支障が出てはいけないから」というハリーさんの一方的な介入で話は終わった。
さすがにヒセイさんの“愛想の無さ”が宿屋の主人として辛抱ならなかったのだろう。冷や汗を滲ませながら引きつった笑顔を浮かべるハリーさんに同情の念を送りながら、俺は厨房に引き返すヒセイさんの背中をその目で追う。
――と、その時である。
「………っ!」
ふと、彼がこちらを振り返って俺を見つめた。
その視線が何を意味するのか俺には理解できなかったが、次の瞬間心臓を鷲づかみにされたような錯覚を覚えて反射的に胸元に手を置く。
な、なんだ……?
今一瞬、内側を垣間見られたような……。
一秒ほど目を瞑り、見開く。
そこにはもう、ヒセイさんの姿は見受けられなかった。