第三話 「俺の名前~」(三歳)
……少し、自分の身体に違和感は感じていたんだ。
今まで気付かなかったのが不思議なくらいだ。まさか、俺が実は“女”だったなんて……。
母親が突然我が子に女児もののドレスを好んで着せるようになって、その行為を『母は特殊な性癖に目覚めたんだ』と解釈したりはしないだろう?
大方この時点で己の性別に薄々勘付いたのだが、やはり自分で確かめてみないことには確信したくないというのもあった。要するにただの現実逃避であったのだが、なんというか……逃避した結果確たる真実にぶち当たってしまったというわけで……浴槽の中で自分の身体を確認してあるべきものがなかった時の衝撃と喪失感は相当なものだったのはよく覚えている。あるいは赤ん坊としてこの世に生を受けたときよりショックだったかもしれない。
その日の晩、俺は枕に顔を押し付けて一人で泣いた。
子守唄代わりに母様が枕元で絵本を読み聞かせてくれたが、それすら頭に残らず。嘘寝の寝息を立てて母を部屋から追い払った後、悲しさが押し寄せるまま泣きじゃくって涙を枯らしたのだ。
何が悲しいかと言われれば、今まで自分の性別を気にしなかった俺の馬鹿さ加減に。
後、これから待ち受けるであろう女としての人生への不安。
そして、童貞のまま男を卒業してしまった自分への後悔。
必ずしも男に生まれ変われる確証なんてなかったはずである。それなのに俺ときたら……うわああ恥ずかしい! こんなことなら、母親の子宮にいた頃に転生された方が良かった。少なくとも今よりは心の準備が出来ていたはずである。おぎゃーって生まれてもう一年だぞ? 今年で二歳になるってのに……あれ? 現実問題、性別を理解する年って何歳だっけ? 物心ついてから? それとも無意識に? もしかして俺早い??
そんなこんな、嗚咽しながら考えているうちに気付いたら眠りについていた。
何処からともなく使いの天使が現れて、「あなたは神に選ばれた戦乙女なのです」などと転生の詳細を語ってくれるのではと密かに期待していたが全然そんなことはなかった。
たとえ前世の記憶を宿していても、与えられた運命なのだからそれを受け入れるしかない。
今までそうして生きてきたので、“女性”であることを受け入れることもそんなに難しくはなかった。
シャスティ……。シャスティル・ナディーク・リィ・カルマン・ド・ルーデニアハイル。このクソ長い横文字が、俺の新しい名前である。
三歳になってまともに言葉を喋れるようになり、それまで気になっていた自分のフルネームとやらを父に聞いてみたところ親切に教えてくれたのだ。で、まず気になったのはこの中間名。そう、貴族の偉人とかでよく見かけそうなこの名前。どうやら俺は貴族の家系に生まれたらしい。
しかも公爵。えーと…確か五爵の一番下が男爵だから、子爵、伯爵、侯爵と来て一番上の位になるんだよな。なんでも父の曽祖父が王族出身で、公爵の位と土地を譲渡されて以来ずっと引き継がれているのだとか。ちなみに父様がそのルーデニアハイル家の四代目に当たる。つまり、王家の親戚というわけだ。
え? それって凄くね? とちょっとテンションが上がった俺は、さらに父様にせがんで俺たちの住んでる国について色々と訊ねてみた。その時、社会勉強はまだ早いと否定的な母様と、勉強熱心なのはいい事だと協力的な父様とで小さな口論があった事は公然の秘密である。
「見なさい、シャスティル。これが私達が住んでいる国の地図だ。ガーナ大陸西部に位置する伝統的な王国で、名をアークランド。国民の九割を人間が占め、一割をエルフ族、ドワーフ族、獣人族といった少数種族がそれぞれ生活を営んでいる。種族間の軋轢もなく、住民感情も比較的温厚で――」
すまん父よ、何を言っているのかさっぱりわからん。
この国の言葉を喋れるようになったからといっても、あくまで日常会話の一部くらいだ。難しい専門用語を扱えるほど語彙力に富んでいるわけじゃない。父の熱心な説明を無駄にしないようしっかり聞いてみたはいいものの、言ってることの半分も理解できなかった。
「あなた。三歳の女の子にも分るように説明してくださいまし」
と、母様が助け舟を出してくれた。母上グッジョブ!
ちなみに母様も俺を膝の上に乗せて同席している。社会勉強を認めてくれたとはいえ、やはり幼い娘に余計な“入れ知恵”をさせるのを黙って見過ごせないらしい。父が卑しい話を持ち出そうものなら、即俺を勉強会から退席させるつもりだろう。
母様の配慮は嬉しく思う。嬉しいけど、精神年齢二十三歳の俺としては何も問題はないわけで、母の気遣いが無駄のように思えてなんだか心苦しい。
母様の注意を受けて、父様はふと我に帰ったように俺の顔を見下ろした。
その視線が何を意味するのか知らないが……多分何の意味もないんだろうけど……ずっと見つめられるのも気まずいのでとりあえず笑ってみた。
にぃぱー。
漫画の吹き出しにするとこんな感じだろうか。
当たり障りない程度で笑ったつもりだったが、父には何か障ってしまったらしい。
双眸を見開き、それから苦しそうに(名残惜しそうに?)俺から視線を外して呻く。
「うっ……わ、我が子には天使でも宿っているのか……」
「どうか致しまして?」
「い、いやっ。何でもない。そ、そうだ! 娘に分りやすく説明するのであったな! うむ! よく聞きなさい、シャスティ。アークランドというのはだな――」
父の“分りやすい説明”を要約するとこうだ。
アークランド王国。人口約五十万人。今から二百年前に建国された封建制の国家である。
……この時点で、もはや俺の予想は完全に当ったと言って間違いないだろう
ガーナ大陸。アークランド。封建制。どれも馴染みのない言語ばかり。
やはり、ここは俺の知ってる“世界”じゃない。
「とーさま。きいてい?」
「なんだい?」
「このせかいのなまぇわなぁに?」
「世界の名前? うーむ、世間一般的に定義された名称はないのだが……そうだな。よく引用される名前であれば…フィステリアと呼ばれているな」
フィステリア……。
それが、この世界の名前……。
何というか、これまでが色々あり過ぎて別段驚かないな。
はぁ…そうか……俺、異世界に生まれ変わったんだな。
いや、だがまあ、これでよかったのかもしれない。もしまた地球に生まれ変わって、前世の未練に執着して昔の家族に会いに行こうなんて愚かしい考えを抱いていたら……。
過去の繋がりから断ち切られたという点では、今の状態が俺にとって一番幸福なのだろう。そう納得しておくことにする。
しかしそれなら、俺が今必死になって覚えようとしている言葉はこの国の……引いては異世界の言語になるってわけだ。
自慢できる同郷人がいないから特に誇らしくは思わないけど、感慨深いものがあるなぁ……。
「あなた。シャスティが上の空ですわ。もう少し分りやすい説明をなさって」
「な! こ、これ以上どんな表現で説明すれば良いというのだ」
「絵をお描きになればよろしいではありませんか。子供は耳で聞くより、目で見て直接触れる方が飲み込みも早いのです。ああ、ケレン。申し訳ないけれど、羊皮紙を数枚ほど取ってきてもらえるかしら?」
「え? あ、はい。かしこまりました」
「マ、マーヴェラ。君は私が絶望的に絵が下手なのを知ってそんなことを…。嗚呼、わかったよ。わかった私の負けだ。やれやれ……屋敷の図書室を自由に使うといい。娘にも良いきっかけになることだろう」
「ええ、それはもちろん。あなたみたいな堅物の為政者ではなく、世界一愛らしい女性に育つようきっちり教えてあげますわ」
「…まさか、君はまだ怒っているのか?」
「怒りの感情以外に、何か見受けられまして?」
「…………」
ぶるっと顔を震わせ、口を噤む父様。
母様の強きの態度に言い返せないのは見るに明らかだ。
鬼嫁の尻に敷かれる旦那、という家庭内身分をまさまさと見せつけられながら、俺はいつの間にか母様の膝の上を離れ、その手に引かれ歩いていた。
「さあ。シャスティ、図書室に行きましょう。ご本がいっぱい置いてある場所よ。母様と一緒に絵本を読みましょうね」
「あ、うん。とーしゃま」
なんだかこのまま行ってしまうのも節操がなくて、俺は父様の方を振り返った。
「おしえくれてあーがとうね。またいーぱいおしえてね!」
「あ、ああ。もちろんだとも!」
復活。
舌足らずな言葉だったが父様には上手く伝わったようである。意気消沈していた若き公爵は、俺のお願いに笑顔で快諾してくれた。
拝啓。
決して届くことのない心の手紙。
前世の母さん。転生して三年が経過し、新しい発見がたくさんありました。
そのなかで一番驚くべきことは、俺は女として生まれ変わっていたということです。性別という大きな壁を隔て、身の振り方についてどう考えていくべきなのでしょうか。今の自分にはまだ、その辺の準備が整っていないようです。
あ、それと、僕はいま異世界にいます。正直、規模が予想の斜め上過ぎて吃驚するどころじゃありませんが。しかし、まったく知らない異文化のなかで生活するというのもなかなか楽しいかもしれない。
新しい両親も……とてもいい人です。父に至っては、“親父”と比べるまでもありません……。
懸念すべきことがあるとすれば、それは先に残してきた家族のことくらい。
母さん、司、理沙、元気にしてるかな…。