桜荘奇談
この桜の木のしたで風に吹かれていると
春風にのって子どもたちの声が聞こえてくる。
笑いさざめく声
友達を呼ぶ声
拗ねたように泣く声
ちいさなちいさなうねりのように
遠く、近く
ちかく
とおく
1983年
3月、春まだ浅い京都。
市街地からかなり離れた山の手、左京区の古い民家が建ち並ぶ川沿いの一角。
二階建ての古い木造のアパート。そのすぐわきに、かなり樹齢をかさねているであろう
桜の大木が、枝先に蕾をつけている。
アパートの管理人とおぼしき痩躯の老人と、学生らしき若い男が建物の入り口の前に立った。
入り口には「桜荘」と書かれた表札がみえる。
「狭い部屋しかのうて、すんまへんなあ」
管理人らしき老人が若い男に話しかけた。
口を半開きにして桜を見上げていた学生があわてて老人を見た。
「あっ、いえ・・・あの。お世話になります。」
「ええっと、お名前、なんでしたかいな」
「泉です。泉修平。・・・・これ、すごい木、ですね。桜ですか?」
老人も木を見上げて目をしばたいた。
「へえ、なんや、二百年前からあるちゅうことですわ。
最近はもう、花もようさん咲かしまへんけどね・・・。
え、そいでお名前はなん・・・」
「いずみです。」
「へえ、へえ、泉さん」
二人はアパートの中に入って行く。
玄関は三和土になっていて靴が思い思いに脱ぎ散らかされていた。
どう贔屓目にみても雑巾のようにしか見えないスニーカーの横に
おそるおそる自分の靴を脱いで上がる。
カビともホコリともつかない匂いが鼻孔に流れ込んでくる。
ああ、田舎のおばあちゃんちの納戸の匂いだな、と修平は思った。
「汚い家どっしゃろ。だいどこ(台所)も風呂も共同やし、部屋もそない広うないし、
今時の若いお人はよう住まはらへんのちゃうかと思うにゃけどねえ。」
「はあ。」
二人、中の階段をあがりはじめる。ひと足ごとに、きしきし、と足元が鳴った。
「まあ、家賃の安いのんだけが魅力と違いますか。
美大生さんは学費やら、絵ぇの道具やらでお金がかかりますさかい、
住まはるとこは始末しはんのか、おかげさんで空き部屋はあらしまへんにゃわ。
1階に4部屋、2階に6部屋。しーとくーは抜かして10部屋ですわ。」
・・・へえ、ここですわ。」
あ、「しーとくー」は4と9のことか。やっと修平が得心したところで、部屋についたようだった。
管理人は「10」と書かれた部屋のドアを開ける。
修平は部屋に足を踏み入れて中を見回した。
古い木造の部屋。昼でも少し薄暗い。六畳ほどの広さで畳も壁も薄汚れている。
だが窓が大きめで風通しだけはよさそうだった。
「今上がって来た階段の裏っかわ、あすこがだいどこですわ。その奥が風呂。
便所はその横にありますさかい。あ。わたしの住まいはここのしも隣、
なんぞぉあったらそこへいうとおくれやす。お家賃も毎月末に家のほうへ持って来てもうて。」
「あ、あの光熱費は」
「毎月のメーターの頭割りで」
「あ、はい。」
「ほな、私はこれで。なんかわかれへんことがあったら、アパートの人に聞いとおくれやす。」
帰ろうとする管理人を、修平はあわてて呼び止めた。
「あっ、あの!鍵は・・・」
「へ?なんどす?」
「部屋の、鍵・・・。」
管理人はめずらしいものを見るような目で修平を見て少し笑った。
「ああ、皆さんそう言わはりますなあ。ここは部屋には鍵ついてしませんにゃ。」
「えっ」
「まあ、男の子ばっかりやしねぇ。今んとこ、泥棒が入ったちゅう話も聞かしまへんし。
ほな、私はこれで。」
修平はさっさと帰って行く管理人を見送ると、まだ手にさげていたバッグを床におろした。
鍵のついていないドアノブをとくとくと眺め、
「マジか・・・」とつぶやいてそうっとドアを閉めた。
「京都の人の言葉って、なんか猫みたいだな。」
修平の頭のなかで、さっきの老人がにゃあ、と鳴いた。
修平は窓に近づいた。窓は木枠の磨りガラスで重い。
ギシギシいわせながら開けると、気持ちのいい風が部屋に入ってきた。
「うわっ!」
窓の外はすぐ目の前まで、桜の枝が広がっていた。鼻先で蕾がうす紅を匂い立たせている。
「これ・・・。春は絶景だけど・・・。葉が出たら何にも見えないな・・・。」
空気を入れ替えるつもりで、窓をあけたまま、修平は部屋を出て階下に降りてみた。
階段の裏側にまわると、陰気な台所がある。
が、男所帯の共同台所の割には、綺麗に片付けられている。
その先へ行くとドアがふたつ並んでおり、貼り紙に漫画風の絵で風呂とトイレであることが表してある。
修平は風呂場を覗いてみた。
「ふ・・・ん。思ったよりきれい・・・かな。」
主のいない10号室。
あいたままの窓からそよそよと風が吹き込んでいる。桜の枝が音もなく揺れる。
ふと、窓枠に影がさした。
修平が風呂場から出てくると、台所に学生がひとり立っている。
「あっ・・・、こんちわ」
修平が声をかけると、相手はちら、とこちらを見て黙って会釈した。
神経質そうな色白の男で、黒縁のメガネをかけている。
「新入生の泉修平です。今日から」修平は二階をみあげた。
「10号室に。」
相手はたいして興味もない、といった顔で
「あ、そう、よろしく。」と返した。
「よろしくお願いします。」
「何科?」
「油です。」
「ああ、そう」
そのまま行こうとする黒縁メガネに、修平は思わず
「え・・・と??」といいながら指をさし、あわててその指をひっこめた。
「?あ、ああ、僕?・・・日本画。日本画の三回生。本田です。」
もう一度軽く会釈して、本田は部屋に戻っていく。一階の部屋のようだ。
修平は本田の後ろ姿を見送りながら、小さくため息をついた。
「やっぱ、マンションのほうが気が楽かな・・・。」
階段をあがる。足元が鳴る。
「家賃、一万円だもんな・・・。しょうがないっか。」
ひとりで頷きながら部屋に戻り、ドアを開けるなり人の気配にぎょっとする修平。
「だっ!だれ・・・。」
開けっ放しの窓の枠に、小柄な青年がちょん、と座っている。
少し大きめのTシャツは首のところがのびていて、華奢な鎖骨がのぞいている。
ジーンズも穿き古しているが、汚い、という感じではない。
髪も、さっき起きてきました。といった風情だが驚くような猫っ毛で窓からの逆光に
ほやほやと透けている。
「こんにちは」
青年は修平の顔をみると、人なつこい笑顔を向けた。
「荷物、預かってたし、持って来たんや。」
「え・・・」
言われて改めて部屋を見ると、隅に実家から送っておいた荷物がまとめて置いてある。
「いつのまに・・・?」修平、眉をひそめる。
窓際からとん、と畳におりた男は
「鬼塚です。ここの下宿の先輩。」と名乗った。
「泉・・・です。泉修平。宜しく・・・。」
「うん。宜しく!」
鬼塚はにかっ、と顔中で笑った。人なつこい笑顔に、修平も思わずつられて笑った。
「ここのみんなにおうた?」鬼塚が尋ねてきた。
「いや、まだ・・・。あ、さっきひとり、本田サンとは。」
「本田君?愛想なしやったやろ。あの人いつでもあんなんやし。気にせんでええで。」
「へえ・・・。」
「歓迎会、するわ。泉君の。」
「え・・。」
「明日の夜、空けといてな。12号室の広瀬君の部屋でやろ。あっこが一番広いんや。」
「でも・・・。」
「大丈夫、準備は全部、僕がやるから。・・・あ、それと、机とか棚とか、
こっちで買うんやろ。安いとこ知ってるし、行くときいうてや。教えたるし。」
軽く手を振って部屋を出ようとする鬼塚を、修平が止めた。
「ちょっ、ちょっと。」
「ん?何?」
「あのさ、ここの下宿って、みんな他の人の部屋に勝手に入るの。」
鬼塚はきょとんとして修平の顔を見た。
あまり無邪気な顔で見返されたので、急に自信がなくなった修平が
「いや、別に、いいんだけどね・・・。」とつぶやくと、
「気にせんといて」鬼塚はまたにかっ、と笑った。
「僕の流儀なんや。最初だけな。そういうのん、イヤやいう人の部屋にはもう入らへんから。」
「・・・・・。」
「ほな、明日の夜、空けといてな。」
ひらひらっと手を振って、鬼塚は部屋から出ていった。
修平はあっけにとられて、ただ見送るだけだった。
修平の引っ越し翌日の夜、「桜荘」の12号室に、下宿人たちが集まっていた。
小さな机の上に、簡単な料理と酒が置かれていて、そのまわりに男子学生たちが座っている。
が、それぞれが思い思いに小さい輪をつくって、内輪にしかわからないような話に興じていたので
修平は聞くともなしにその会話を聞きながらぽつねんと座っていた。
「最終回の人物、あれヘタだったよなー」
「ああ、賞とったやつだろ。アレはねー」
「榊さんは植物描いてるほうが全然いいよーってカンジ。」
「俺の知り合い、付き合ってる子モデルにして絵かいてたけど」
「ヌード?」
「らしいね」
「いーなー」
「でもやっぱ、いつもよりヘタだったよ。なんか思い入れ強すぎてダメだーって言ってた。」
「あーそうかもな。で、オマエどうなんだよ。あの、サ・・ユリちゃん?」
「サオリ。」
「もう剥いちゃった?」
「まーだ。」
「んだよ。なにグズグズしてんの」
「おれ、つきあってる子モデルにすると、続かないってジンクスあるんだ。」
「なに。女遍歴が作品に出るっていうやつ」
「そう。」
「いーじゃん、いーじゃん。うらやましいよなー。」
ヌードとか女遍歴とかいうワードに反応したのか、すりきれたライダースーツの学生が後ろから割り込んで来た。
「なにっ??なんの話?」
「おお、岡村さんのさ」
「ドラマの話だよ」
「ばがこぐでねぇ」
「でたっ!お国なまり!」
「・・・あのう!!」
さすがに黙って聞き続けるのもどうかと思ったので、修平は思い切って声をかけた。
「はい」しゃべっていた三人が殊勝な返事をしながら同時に振り向いた。
「あっ、あの。なんかすいません。わざわざ集まってもらって・・・。
そ、それとヒロセ・・・さん?部屋まで使わしてもらって・・・。」
女性遍歴をうらやましがっていた、ちょっと軽そうな風情の男があっ、というような顔をした。
「そうだった。君の歓迎会だっけ。」
「え?」
「いや、オニに呼ばれて来てみたら、みんな居てさ。まあ、めったに喋らないから、つい。」
さきほど岡村、と呼ばれていた男も
「オニにはいつも世話になってるから。」
ライダースーツも
「そうそう、部屋使うでーーー。って言われても、そうかーーーって、つい乗ってまうんや。」
この男が広瀬というらしい。
「この下宿に初めて来てさ、おどおどしてた時に、オニが全部教えてくれたもんなあ。」
岡村の言葉にみな大きくうなづいた。
「僕も。」
「俺らみんな、オニを通して仲良くなったんだ。専攻も学年もばらばらで、同じところに住んでたって
ほとんど交流ないんだけどさ。」
「僕、いまだにこの下宿のひと、名前全部わからへんもん。」
「うん。」
「せやのにみんな、オニ君が間にはいると、すっごい結束すんねん。」
「ふうん・・・。」
修平の嘆息にあわせるように、鬼塚が大皿を持って部屋に入って来た。
「おまたせ~っ!鶏のからあげっ!」
「おーーーーーっ!」男どもが吠えた。
広瀬がうれしそうに言う。
「オニ君料理もうまいんや。」
鬼塚が机に大皿を置こうと、ちらかった皿やグラスをどけながらふりかえった。
「なに?なんの話?」
「オマエの話。」
「なんでー。」皿を置いて鬼塚があきれたように言った。
「僕の話より、みんな自己紹介したんか?新入生歓迎会やのに!」
軽そうな男がペロリと下を出して剽軽に手をあげた。
「あーそっか。はい。わたくし、田口友夫ともうします。
デザイン学部、商業デザイン科、二回生、です!」
それをきっかけに、鬼塚を中心に輪ができた。鬼塚はその中心の場所をそっと修平に譲って自分は料理の取り分けにかかりだす。
次々と自己紹介が続くなか、修平はおもわず鬼塚のほうを見てしまっていた。
不思議な魅力を、感じずにはいられなかった。
翌朝。
修平は12号室で目覚めた。あのあとみんなで雑魚寝になったようだ。体のあちこちが痛い。
ほかの連中はみなまだよく寝ていたので、そっと起き上がって転がっている先輩たちを踏まないようにまたぎ超えて部屋をでた。
まだ朝早い時間のようだった。外で雀のさえずりが聞こえる。
自分の部屋に戻ると、鬼塚がまたしても窓際に座っている。
今度は窓の外を向いて、外に足を投げ出して座っていた。
雀のさえずりがふいに止んだ。ちいさな羽音がいくつか遠ざかっていった。
「おはよう」鬼塚が修平の方を振り返らずに言った。
修平は窓際に行って外を見た。心なしか、昨日より蕾が膨らんで見える。
「雀と話してた?」
「うん。もう行ってしもたけど。泉くんのこと話してたんや。」
「へえ。・・・ふぁあああああぁ」大あくびが出た。
「朝ご飯、作ったろか」
「ん?うん。」
あくびと一緒に出て来た涙をこすりながら返事をすると、
「よっしゃ」鬼塚は窓枠の上にたちあがって、部屋の中にとん、と降りた。
それから、
「泉くん」
「ん?」
「僕、この部屋に来てもええ?」
「もう来てんじゃん」
「これからも・・・あの、遊びに・・・。」
修平はそのときやっと、鬼塚の眼が捨てられかけた子犬みたいに不安に揺れているのに気づいた。
一年365日、あつかましいのかと思ってたけど違うのか・・・。
少しひるんだまま「うん・・・。いいけど?」というと
「ほんま?」鬼塚の顔がぱっと明るくなった。
「よかったぁ~」
弾んだ声をあげて、鬼塚は部屋を出て、階段をリズミカルな音をたてて駆け下りていった。
気がついたら、修平はまるで鬼塚と同居しているような状態になっていた。
そしてそれは修平だけではなく、このアパートの住人全員がそうだったのだ。
「うわーーーーっ!絶景!」
部屋の窓から、満開の桜を見て叫ぶ修平。
鬼塚は後ろで微笑んでいる。
「おかえりーーー!」
台所からフライ返しを持って叫ぶ鬼塚。カルトンを持って帰って来た修平。
「おーーー。なんかいい匂い」
「いっぱい作ったんや。みんなで食べよ~」
ここでは、それがごくごく、自然なことのようだった。
「オニ!オーニー!」
部屋の窓から上半身を乗り出して叫ぶ修平。
「あれぇ。どこ行ったんだろ。課題のモデル頼もうと思ってたのに・・・」
「オニ君!ボタン取れたんや、これ・・・、あれ?泉君一人?オニ君は?」
広瀬が部屋を覗いて言った。シャツの下から二番目のボタンがはずれて糸一本でぷらぷら揺れている。
修平が首を横に振るのを見て落胆したように
「なんや、いーひんのかいなー。しゃあないなあ。」
「ね、広瀬君」
「え?」
「オニの部屋って何号室?」
広瀬は眼をくりくりさせた。
「オニの部屋。」もう一度修平が問う。
「ここちゃうの」広瀬は10号室のドアを指さした。
「ここ、僕」
「あ、そか。知らんわ。」
あっさりと言い放って、広瀬は部屋に戻っていった。
修平は窓際に頬杖をついてしばらくむずかしい顔をしていたが、
しばらくすると首を振ってスケッチブックに向かった。
京都の山裾にある、小さな美術大学。
修平が通う大学である。
洋画一回生は週に一度、ヌードデッサンの授業がある。
授業といっても教室は案外オープンで、別の学科の人間が混じっていてもとがめられることはない。
モデルの立つスペースを囲んで円を描くように椅子が並べられていて、座り位置は早いもの順。
修平がスケッチブックを抱えて教室に入ったときには
モデル台の真正面最前列にすでに田口友夫が陣取っていた。
「あれ、田口さん」
「おー。泉」片手をあげて答える田口。
「田口さんデザインでしたよねぇ」
「デザインでも、人物デッサンが必要なこともある!」
田口はまだだれもいないモデル台に向かって鉛筆をにぎった腕を突き出して、縮尺をはかるまねをした。
「はあ・・・。でもそこ、近すぎてしんどいですよ。」
「いやっ!なかなかここは取ろうと思って取れる席じゃないっ!」
「そうですか・・・。」
田口は急ににやけた顔になって修平のほうに身をのりだした。
そして小声で「今日のモデル、常磐貴子に似ているそうだな。」
それを聞いた修平は片頬だけで微笑むと、黙って田口の後方ななめ右側に座った。
チャイムが鳴り、モデルが浴衣を羽織って入室して来た。
今まで談笑していた学生たちが、一斉にスケッチブックを広げる。
モデルは慣れた動作で浴衣を脱いで台の中心にたち、ポーズをとった。
若い男性モデル。顔がすこし、常磐貴子に似ている。
修平はスケッチブック越しにそっと田口のほうを見た。
スケッチブックを構えてはいるものの、あきらかに凍り付いている様子の田口。
修平から見ると、ちょうどモデルの股間の位置に、田口の頭がある。
思わず笑いそうになって、咳払いでごまかし、デッサンにとりかかった。
「ちきしょー!オニのやつ!ガセかましやがった!!」
田口と修平が構内を並んで歩いている。修平はさっきから笑いがとまらない。
「でも、一応、顔は似てたじゃないスか。」
「ばかやろう!顔が似てればなんでもいいって訳じゃねえや!ここだぞ!ここ!」
田口がゲンコツをつくって自分の鼻先に持って来た。
「くわー!なにが哀しくて男のあ・あ・あ・あ~~~~!!」
地団駄をふんで悔しがる田口の横でさんざん笑ってから、修平はふと気がついた。
「オニは・・・、誰にきいたのかな。あのモデルが常磐貴子に似てるって。」
「さあな~。あいつ、大学でも見かけるし、学校のこともよく知ってるけど、
作品描いてる様子もないし、学外展にも、出品・・・してたっけなあ」
ようやく落ち着いた田口もそう言って首をひねった。
「え、じゃあ、学生じゃないのかなあ」
「まあ、美大生なのに絵かいてないやつ、けっこう居るけどなあ」
「え、そうなんスか?」
「おお、映画ばっか撮ってるヤツとかよ。あ~ゴム風船に色付きの石膏入れて
膨らましてるヤツもいたよ」
「なんすか、それ」
「知らねえよ」
田口とたわいもない話をしながら、修平はまた、ちいさく首をかしげた。
アパートに戻ると、花の終わった桜の太枝に、鬼塚が器用な姿勢で寝そべっていた。
気持ち良さそうに眼を閉じている。
修平は近づいて木の下から黙って鬼塚を見上げた。
鬼塚はゆっくりと目をあけて修平を見た。
「おかえり」
木の上から優しい声がした。
「ただいま」
修平は少し迷って、だが思い切ってもう一度口を開いた。
「オニ、ちょっと聞き・・・。」
鼻先を突然、なにか黒いものがかすめた。びっくりしてあとずさる修平。
目で追うと、黒いものはすっ、と高みにあがってから、ひらりと近くの電線に止まった。
鬼塚が笑った。
「ツバメや」
器用に木から滑り降りてきた鬼塚が修平の横に立って一緒にツバメを眺めた。
「びっくりしたあ」
ツバメはジュクジュクとせわしなくさえずっている。
「あれ、何ていうてるか解る?」
「えっ、ツバメが?」
「うん」
「僕にはジュクジュクジーとしか聞こえないけど」
鬼塚はちいさく笑って行った。
「殿さんは白ままにトト添えて、ワシら土喰て虫喰て渋ーーーーい」
「え?とのさんは?」
「お殿さまは白いゴハンにお魚つけて召し上がるのに、自分らは土やら虫やらしか食べられへん、て言うてんにゃて。」
「ふーーーん」
「白ままにトト添えて。今日は鮭の焼いたんやで。晩ご飯。」
ツバメは小首をかしげて二人を見た後、つい、と空に舞い上がり、どこかへ飛んで行った。
「オニ・・・あのさ・・・。」
「ん?」
「うん、あの・・。」
ツバメに気をそがれたからか、聞きたかったことがスッと出てこなかった。
「課題のモデル、頼めるかな」
鬼塚はにかっ、といつもの笑みをみせた。
「ええよ。ゴハン、食べてからでええやろ?」
「うん」
腑に落ちないことを全部ただしたら、スッキリするんだろうけれど。
修平は考えていた。そのせいで、もしこの生活が変わってしまうようなことになったらどうしよう。
オニが桜荘の住人で、僕の友人なのは間違いないんだから。
このままで。それでいいのかもしれない・・・。
修平が桜荘の住人になって半年が過ぎていた。
一回生は一般教養の授業も多く、画材の費用を捻出するために、アルバイトも始めたので
忙しく、あっという間の半年だった。
宅配便が山梨の実家からの荷物を、修平のもとに運んで来た。
箱をあけると、甘い果物の香りが溢れ出た。
袋がけされたぶどうだ。
修平が箱に同封されている母親からのメモを取り出す。
「下宿のみなさんに・・・か。」
ぶどうの袋を数えてみる修平。
「・・・・11、12。12袋。管理人のおっちゃんにひとつっと。」
いちばん粒ぞろいのよさそうなのを一房よりわけ、修平は立ち上がった。
その夜。
鬼塚が修平の部屋に入って来た。
修平は机に向かって腕組みをして座っていた。
「何してんの?」
鬼塚が声をかけると、修平は驚いてとびあがった。
「わっ!びっくりした!・・・あ、これ、実家から送って来た。」
鬼塚にぶどうの袋を手渡した。
「おおきに。わぁ、おいしそうやな。実家て、山梨やったっけ。」
「うん・・・。」
修平はうわの空の生返事。鬼塚、怪訝そうに修平の顔を覗き込む。
「どないしたん?」
修平は宙をみつめたまま「変なんだ。」
「何が?」
「11人いるんだ。」
「ああ、そんな漫画があったなあ。」
「そう、たしか萩尾望都・・・じゃなくて。」
ようやく修平は鬼塚の顔を見た。
「10部屋なのに11人。この下宿だよ。」
「・・・・・。」
「ぶどう、順番に配っていったら気がついたんだ。広瀬君と大井君がまだ帰ってないけど、
ほら、僕の分と3つしか残ってない。ひとつ余るはずなのに。」
「そのふたり、12号室やで。」
「えっ?」
「大井君、まえいた下宿が火事になってん。広瀬君とこに居候中。」
「なんだああぁ」修平は後ろにのけぞって気の抜けた声をあげた。
「そっかぁ。オニは5号室だな、そうすると。」
「う、うん。」
「そっかー。よしっ!これで部屋番号と名前が全部一致したっ!めでたい!」
「・・・・・。」
「なんかさあ、みんな他の部屋に無関心でさ、誰がどこだかよく知らないっていうんだよ。
それもちょっと気持ち悪いハナシだろ。・・・あれ、オニ?」
修平はあらためて鬼塚の顔を覗き込んだ。
「何、オニ、なんか顔色わるいな。」
「そ、そう?いや、別にどうもないよ?」
「そう?」
「それより泉君、ご飯たべたんか。」
「いや、まだ・・・。」
「ラーメン、あるけど。」
「食べる!あ~なんかスッキリしたら腹へってきたよ!」
「ほな、作ってくるわ。ちょっと待っててな。」
鬼塚はそそくさと修平の部屋を出た。廊下に出て今閉めたばかりのドアに寄りかかって
ため息をついた。
「えーっ!泉君もうハタチなん?!」
修平の部屋。ふたりで向かい合ってラーメンをすすっている。
「でかい声で言うなよ。・・・・二浪してんだよ。」
「ほな、広瀬君二回生やけど泉君のほうが上なんや。」
「そ、実はオジサンなの、俺。」
「ほな、寅年やな。」
「・・って干支かよ。うん。オニは?」
「僕?僕はな・・・。」鬼塚すこし考えて
「猫。」
「猫ぉ?ねーよ。」
「いんにゃで。「ね」の前。」
修平は手をとめて空中をにらんだ。
「「ね」の前は・・・えっと・・・あ、「ゐ」だ。いのしし。」
「ちゃうねん。猪はいっちゃん最後。鼠の前に、猫。」
「なんで?」
「あんな、天の神様が」
「天のかみさまあ?」
「まあ聞きいな。天の神様が動物たちに、お前たちの年をつくってやろう、言わはってな。
ただし、限定12個や、いついつの朝一番から、並んだ順に年をやろう、ってことになったんや。」
「ふん、それで?」
「猫は、その日にちを忘れてしもてな、鼠に訊いたんや。いつやったかいなーって。
鼠は、一日遅い日付を猫に教えた。猫は、すんごい早起きして、神様のとこにいったけど、
一日遅れで年がもらえへんかったんや。」
「はあん、それで「ね」「うし」か・・・。」
「牛はな、自分は足が遅いし、時間がかかる思たから、3日も前から出発したんや。
でも神様の前についたとたん、背中に隠れとった鼠が前にちょん、と出て来て、
二番手になってしもたんや。」
「鼠がずるいのか、牛が馬鹿なのか」
「わからん。」
「・・・で、猫はどうしたんだよ、仲間はずれにされて。」
「・・・それ以来、鼠をみると怒って追いかけんにゃって。」
「なにそれ・・・すごいオチ。」
「せやろ。」
「で、その猫年。」
「うそ。泉君とおんなじ。」
「んだよ。てかそういうハナシ、どこで仕入れんの?」
「昔話や。おじいちゃんがよう話してくれた。」
「へえ・・・・あっ!!」
「なに?どないした?」
「ラーメン伸びた!」
顔をみあわせる二人。
それから数日後。
修平は大学構内で本田を見かけた。
あいかわらず寡黙な人物で、アパートで顔を合わせてもほとんど話すことのない男だった。
本田は布をかけた大きな絵を重そうに持っていた。
肩にかけたカバンがずり落ちるたびに絵を降ろして肩にかけなおしている。
修平は思わず駆け寄っていた。
「本田さん」
「やあ」
本田の肩から、またカバンがずり落ちた。
「僕、持ちましょうか。これ。」
「え。」
「下宿ですか。」
「ああ・・・。」
修平は本田の手から絵を受け取って持った。
「君、いいの?」
「講義はもう。実技も今日は合評ないんで。
・・・また後で描きに戻りますけど、今ちょうど休憩中です。」
「悪いね」
「いえ」
二人は並んでアパートに向かって歩き出した。
本田はずいぶん疲れた顔をしていた。
「大きいの描くと、後がたいへんなんだ。」
「これは、課題ですか?」
「いや、個展用のね。」
「個展」
修平が羨望のまなざしで本田を見た。
「・・・っていっても貸画廊で一週間やるだけだけどね。」
「でもすごいっスよ。」
「来年はおちおち絵も描いていられないだろうから。」
「就職ですか」
「しないで済めばいいけどね。」
本田の弱気で自嘲ぎみな言い方に修平はとまどった。
まだ1回生といっても二十歳の修平には、もう社会人になっている友人もいる。
「君のように人付き合いが得意じゃないから・・・。絵を描くだけが取り柄で。」
「いや、得意とかそんな・・・。」
「君や鬼塚君を見てると感心するよ。僕を含めて他の連中、あまり交流ないだろう。
学校で逢ったって、君みたいに声かけてくるやつもいないからな。」
「実は僕も最近まで知らなかったんです。」
「え?」
「うちのアパート、10部屋なのに11人もいるんですよ。ひとり多いんです。」
本田はそれを聞いても、そう驚くでもなく、いぶかしそうな顔をしただけだった。
下宿に戻ると、一階の3号室のまえで、本田はズボンのポケットから鍵をとりだした。
「あれ・・・。」
「ん?ああ、鍵?ドアノブは換えられるんだ。D.I.Yショップに行けば、鍵付きを売ってる。
いくらなんでも不用心だろ。」
「はぁ・・・。こないだは気がつかなかった・・・。」
感心しながら本田の後について部屋に入る。室内は一面に日本画の作品が立てかけられていた。
空いているスペースはほんの少しだ。
「適当に置いてくれていいよ。どうもありがとう。助かった。」
「いえ、あの・・・。本田さん、ここで寝てるんですか?」
本田が笑いながら肩をすくめる。
「まさか。隣だよ。」
「隣?」
「3号室と5号室、二間借りてるんだ。あ、閉めるから。」
本田にうながされて修平はあわてて部屋を出た。
「で、でもこないだぶどう持って来たとき・・・。」
「絵の整理をするのにこっちにいたんだよ。なんで?」
もう、用は済んだといいたげな本田の顔に、修平はかぶりを降るだけにしておいた。
アパート前の桜の木の下で、修平はぼんやりと鬼塚を待っていた。
田口が帰って来て声をかけて来た。
「よっ。泉君こないだぶどうサンキュー。旨かったよ。」
「どういたしまして。」
「どうかした?誰か待ってる?」
「ああ、ん・・・オニにちょっと・・・。」
「オニ?あ~彼、今夜あたりお出かけじゃねえの。」
「え?」
「あいつ、時々夜いねえだろう。朝帰りしてんだよ。」
「え・・・。」
そういわれてみてはじめて、鬼塚を見かけない夜があったことを思い出す。
「夜ときどきいねえなあと思ってたらさ、いつだったか友達と飲みに行った時に
河原町でばったり逢ったんだよ。若い女連れて、ホストクラブ入ってった。」
「うそ。」
「ほーんとだよ。・・てかカノジョみたいなリアクションすんなよ。」
修平は顔がかっと熱くなるのを感じてさらにあわてたが、田口はおもしろそうに笑っただけだった。
「後で聞いたらさ、バイトしてんだってさ。時々。知り合いのピンチヒッターとかなんとか。」
「・・・・。」
「俺もさあ、なーんかイメージ違うと思ったけど、でもそん時はけっこう決まっててさ、
なんか、かっこよかったよ。」
「・・・・。」
二の句がつげない修平を置いて、田口がアパートに入っていこうとした。
「田口さん!」
「へ?」
振り返った田口に修平は尋ねた。
「鬼塚君の部屋って、何号室ですか?」
「部屋?さあ・・・・。あ。10号室じゃないの?」
田口はそのまま、アパートに入って行った。
部屋に戻った修平は学生名簿を探し出してめくりはじめた。
鬼塚の名前を探そうとして、学部も学年も、名前すら知らないことに気づく。
喉が、くっつきそうに乾いていた。
自分がひどく動揺していることに、さらに動揺をつのらせながら、修平は窓の外を見た。
外は夕闇が迫っていて風に吹かれた桜の枝が小さな音を立てて窓ガラスをたたいている。
夜になっても、鬼塚は帰ってこなかった。
修平は布団に入ったものの、寝付けないままじっと暗がりで天井をみつめていた。
それでも少し、うとうとしたようだった。
はっと気づいたとき、布団の足元になにかの気配を感じた。
少し迷ってから、修平は思い切って布団をはねのけて起き上がった。
暗闇のなかにたしかになにか、いる。
「だれだ」
低い声で問いかけてみる。
「・・・ぼく。」
「オニ・・・?」
急いで電気をつける修平。
鬼塚が見慣れないジャケット姿でうずくまっている。
猫っ毛の髪も整髪料でスタイリングしてあるようで、田口の話を聞いていなければ
見間違うところだった。
と、その髪の間からポタリ、と血が落ちた。
「オニ?」
修平は鬼塚に駆け寄って肩に手をかけた。
「怪我してるのか?」
見ると、額にひどい切り傷があるし、唇も切れていた。
殴られたようなあとも、そこかしこに見える。
「いったい・・・どうしたんだよ??」
鬼塚がうめくように言った。
「近頃のおなごはおそろしゅう・・・。」
「は?なに?」
「あ・・大丈夫や・・・。なんでもない。すぐなおる・・・。」
ふと、鬼塚が顔をあげて修平の目をみた。
修平は思わず、視線を外した。
「泉くん・・・?」
「ん?何?」
「泉くん、僕のこと・・・怖がってる・・?」
「は?なに言ってんの?バイトのことだったら聞いたよ。」
修平はわざと軽い調子で言って立ち上がった。
収納ボックスからティッシュと消毒薬、絆創膏を取り出して鬼塚のもとに戻る。
鬼塚は床に両手をついたままうなだれている。
彼のまえにしゃがみこんだ修平は、思わず持っていたものを取り落とした。
鬼塚の傷はあとかたもなく消えていた。
修平の部屋。
鬼塚はいつもの服装に着替えている。
さっきまで修平が寝ていた布団の上に、ふたりで向かい合って座っている。
「幽霊・・・・じゃないよね。」
「ちゃう」
「座敷・・・わらしとか。」
「ちゃう。・・・泉君も古いの知ってんなあ。」
「うちの大学の学生?」
「・・・・。」
「桜荘の住人?」
その質問には大きくうなづく鬼塚。
修平のため息に必死な顔を向ける。
「ほんまやで。」
「何号室?」
「・・・・・。」
「なあ、オニ。」
「・・・・。」
しばらく、唇をかんで俯いていた鬼塚は意を決したように顔をあげた。
「僕、ほんまは・・・。」
突然、鬼塚が雷に打たれたようにびくりとした。
飛び上がるように立ち上がる。修平は驚いて鬼塚を見た。
「泉くん、来て!」
「えっ?」
「事故や。はよ来て!」
鬼塚は修平の腕をつかんで部屋を飛び出ようとした。
「ちょっ、ちょっ、待っ!」
「はよう!」
「パジャマ・・・。」
修平はやっとのことでGパンとTシャツをつかんで鬼塚に引っ張られるまま外に飛び出した。
桜荘から少し離れた道路。
ちょうど民家が途切れて休耕田が荒れたまま放置されているところにある急カーブ。
街灯もない暗がりに大型バイクが横転している。
ヘルメットをかぶったままの人影が必死に叫んでいる。
「大井!大井ぃ!」
バイクから少し離れた場所に、投げ出されたときの姿のまま意識を失っているのは
桜荘の広瀬と同居している大井だった。
かぶっていたヘルメットはずいぶん遠くまで飛ばされて転がっている。
大井は口から血を流して、こまかく痙攣を起こしていた。
ヘルメットをかぶったままの広瀬が何度目かわからない、大井の名を口にしたとき、
鬼塚の声が聞こえた。
「広瀬君!!」
広瀬ははっとしたように暗がりをすかしてみた。
鬼塚と修平が走ってくる。
「ああ・・・」広瀬は安堵のまじった泣き声をあげた。
修平は鬼塚にひっぱられるまま闇雲に駆けて、人影が認められるところまで来たが、
暗くて事情がよく飲み込めなかった。
鬼塚が叫ぶのを聞いてやっと、目指す先に座り込んでいるのが広瀬だと解ったのだが、
現場に駆けつけてようやく、事の重大さに気がついた。
「大井が・・・動かへんねや。後ろに乗っとったんや。大井・・・。」
広瀬は錯乱しそうになっている。
「落ち着いて!広瀬君、救急車呼んだ?」
「まだ・・・まだや。」
「すぐ呼んで!あっこのタバコ屋の前!公衆電話あるで!」
鬼塚に強い調子で言われて広瀬はようやく腰を浮かせた。
「あっ、うん、そやな。そや・・・。」
広瀬は大井の方を振り返り振り返り走りはじめたが、その片足が大きくひきずられているのに
修平が気づいた。
「俺かけてくる。」
修平が広瀬を追い抜いてタバコ屋のほうに駆けていった。広瀬はそれを見るなりがっくりと
膝からくずおれた。両手でヘルメットの上から頭をかかえこんでうめいた。
「大井・・・どないしよう・・・。」
鬼塚は倒れている大井を観察した。
頭からも出血している。口腔からも血があふれている。体が細かく震えている。
大井の上衣の前を開けてみる。腹に強い打撲のあとがあった。
鬼塚は眉をひそめた。「やばいな。内蔵やられてる・・・。」
顔をあげて広瀬の方を見た。広瀬はまだタバコ屋の方向をむいてうなだれている。
修平もまだ戻ってこない。
鬼塚は天をあおいだ。白い月が雲の向こうでぼんやりと光っている。
大井の顔が紙のように白く闇に浮かんだ。
鬼塚は唇を噛み締めると目をぎゅっと閉じて、大井の体に覆いかぶさった。
修平は電話をかけ終えると走って広瀬のもとに戻った。
あいかわらず座り込んでいる広瀬の肩をゆする。
救急車、すぐ来るよ。大丈夫だって。」
広瀬は緊張の糸が切れたのか、ぼんやりしてしまって反応がない。
大井のことが気にかかるので、広瀬をそのままにして修平はバイクのほうへ走った。
暗がりの向こうに声をかける。
「オニ、大井君は?」
ちょうどその時、月にかかっていた雲がとぎれた。
修平は月の光に照らされたものを見て、立ちすくんだ。
倒れたバイクの向こう側に、大井が横たわっている。
その上に覆いかぶさるように、何かが、うずくまっていた。
「それ」が頭をあげてこちらを見た。
頭上に二本の角。髪はごわごわと逆立って、うっすらと開けた口からするどい牙が覗いている。
修平の視線に気づき、顔を隠そうとしたのか、振り上げた手の先には長くとがった爪が、
月光をあびて妖しく光っていた。
すぐに、月は雲に隠れた。ふたたび闇につつまれながら、修平は動く事も、
声を出す事も出来なかった。が、頭のなかでは解っていた。
「あれ」は鬼塚だ。
やがて修平の背後からサイレンの音が響いてきた。
その音に我にかえる修平。救急車のライトがばっとあたりを照らした。
大井が、横たわっている。
そして、そのかたわらに、もう一人倒れている人影があった。
はっとして駆け寄る修平。後ろから、担架を持った救急隊員が走ってくる。
大井の横には鬼塚が気を失って倒れていた。
救急指定病院の処置室。
ベッドに鬼塚が寝かされている。
傍らに困惑している初老の医師と若い看護婦。
「とても衰弱しているのは確かなんですけど・・・。」
看護婦の言葉に医師も口のなかでちいさく唸ってから
「交通事故の現場にいたんやろ? 大けがした人見て貧血でも起こしたか。」
「どうします?」
「ふ・・・・ん。ブドウ糖でもいれて、ちょっと様子見てくれる?」
「はい。」
初老の医師はそれだけ指示すると処置室を出て行った。
入れ違いに、細い銀縁の眼鏡をかけた若い医師が入ってくる。
「山野さん、婦長が探してたよ。」
「え?」
「急用みたいだったよ。行ってください。あとは僕がやっときますから。」
「そう・・・ですか。すみません。」
若い看護婦は訝しがりながらも出て行った。
医師は廊下に人気のないのを確かめてドアを閉めた。
鬼塚の上衣をはだけて肩のところを捲ってみる。桜の花びらのような形のアザを確かめると、もう一度鬼塚の顔をじっと見た。
彼は青白い顔で昏睡していた。
別の処置室の前。廊下に置かれた長椅子に修平の姿があった。
俯いたまま、思い詰めた表情で一点を見つめている。
脳裏には先刻の異形の姿が浮かんでいた。
別室で手当を受けていた広瀬がやってくる。修平もそれに気づいて顔をあげた。
「どう?」
「うん・・・。」
足はまだひきずっていたが、その他のところは絆創膏程度だ。
「足も、たいしたことないって。」
「そっか。」
広瀬は大きなため息といっしょに修平のとなりに腰を降ろした。
「大井は?」
「・・・まだ。」
またため息をひとつついて、広瀬が言った。
「泉君、よう、来てくれたなあ・・・。」
「えっ?」
「さっき、事故ったとこに来てくれたやんか。」
修平は、突然鬼塚が「事故や」と叫んだ時のことを思い出した。
「あん時、おまえら来てくれてへんかったら、俺ひとりでどないしてたやろ・・・。
偶然かなんや知らんけど、ほんま、助かったで・・・。」
「ああ、偶然・・・のような違うような・・・。」
最後は口のなかで小さくつぶやくように言うと、修平もひとつため息をついた。
処置室のドアが開いた。
あわてて立ち上がる修平と広瀬。
修平の父親くらいの年格好の医者が、ふたりのほうに歩いて来た。
「先生・・・。」
医師がなんともいえない複雑な表情を浮かべているのに気づいて二人は身を固くした。
「今夜はとりあえず、こちらで様子を見ましょう。」
「そ、それで命は」
「あ、それは大丈夫です。」
「せやけど、ごっつい怪我で」
医師はますます複雑な表情を浮かべる。
「え、なんなんですか。なんかあるんですか。」
「いや・・・・それが・・・。」
修平と広瀬は顔を見合わせた。
銀縁眼鏡の若い医師が、人目を気にしながら廊下を急いでいた。
手には白衣で隠すようにして、輸血用の血液パックを持っている。
鬼塚の寝ている部屋に滑り込むように入ると、すばやくドアを閉めた。
室内のシンクで、コップに血液パックの中身を移し替える。
コップを伝って医師の指に血液が流れた。
細く、長い指に伝う血液をぺろりと舌でなめとった医師は、鬼塚に近づいた。
左手にコップを持ち替えて、右腕でそっと鬼塚の上体を起こす。
彼はうっすらと目をあけた。
目の前のコップを見、ゆっくりと医師の顔を見る。
若い医師は黙ったまま鬼塚を見つめて頷いた。
鬼塚はコップに自分の手を添えてそっと口をつける。そのまま、一気に飲み干してしまう。
深いため息をついて、再び眼を閉じた彼の唇に、血の雫が光った。
医師はそれを自分の指でぬぐい、彼の頭をそっと胸に抱いた。
「え?」修平と広瀬が同時に声をあげた。
「・・・・ですから、どこにも傷らしい傷がないんですよ。」
医師が困ったように繰り返す。
「そやけど、大井は・・・。俺がそばに行ったら白目むいて、口から血ぃ吹いて
腹押さえて、ほんで、ほんで、がたがたがたがた震えて・・・・!」
広瀬が喉から絞りだすように自分の見たことを話す。
「ええ、救急隊からも口腔から出血、ショック状態・・・と報告がありましたから私どもも内蔵損傷の可能性が大きいと考えて受け入れ準備をしていたのですが・・・。脈拍も血圧も、もちろん呼吸にも異常が見られなくて・・・。画像診断でも内蔵の損傷は確認できません。頭蓋内のCT、今とっていますが、こちらも今のところこれといって・・・」
「怪我・・・してない?」
「とにかく、万が一があってはいけませんから、今夜一晩はこちらで様子を見ますけれど・・。」
医師が立ち去っていくのを見送って、広瀬がつぶやいた。
「どないなってんにゃ・・・。」
長椅子にどさっと腰をおろす。
「でも、でも、な・・・。どうものうて良かったわ・・・。ほんまよかった・・・。
あ・・・いた・・・。なんや安心したら急に足が痛なってきたわ・・あいた・・。」
泣き笑いのようになっている広瀬の肩をたたきながら、
修平はまた、先刻の情景を思い出していた。
長い夜が明けた。
鬼塚はうっすらと眼をあけた。
白い天井がみえる。
ゆっくり首を動かすと、ベッドサイドに修平が座っていた。
修平は鬼塚に肩を貸して桜荘に戻って来た。
病院からアパートまで、二人ともひとことも口をきいていない。
修平は始終怒ったような顔をして黙っていたし、鬼塚は歩くのもおぼつかないほど衰弱していた。
10号室に戻ると、入り口で躊躇する鬼塚を強引に部屋に入れ、敷いたままになっていた
自分の布団に寝かせた。鬼塚はまだ透き通るような青白い顔をしている。
「泉くん・・・。」
蚊のなくような声で鬼塚が訊いた。「広瀬くんと大井くんは?」
修平は鬼塚から顔を背けたまま答えた。
「二人ともたいしたことないって。広瀬は警察行ってる。」
「そう・・・。よかった・・・。」
またしばらく沈黙が続いた。
修平は所在無さげに机に肩肘をついて座って窓のほうを見ていた。
「泉くん、見たんやな。」
鬼塚が天井を見たままつぶやいた。
「・・・・・。」
「見たんやろ。」
「・・・・。」
鬼塚は細い腕を布団から出して、窓の外を指さした。
「僕はあっこに棲んでる。」
修平は鬼塚の手を見、その指さすほうを見た。
「桜・・・。」
鬼塚はかすれた声で話しはじめた。
「むかし、桜の木ぃと、桜に棲む鬼がおった・・・。」
「・・・・・。」
「二百年くらい前・・・。この桜が芽吹いたころは、このあたりに人はいいひんかった。
鬼らは、時々人里に降りて、人の生き血を吸うては、また山に戻って暮らしとった・・・。
だんだん山が切り崩されて、獣も鬼も、山奥に逃げた・・・。
鬼の子も、いっぺんは山奥に行ったけど、血ぃ吸う時以外にも、
時々人間の様子を見に行くようになった。
鬼の子は両親を早くに亡くして、おじいちゃんものうなってからは、ずうっと一人やった。
鬼の子は、人間の子ぉらが遊んでんのを、いっつもこの桜の木の上から見てた。
ずうっとずうっと昔は、人間と鬼はおんなじように一緒に暮らしてたんやって。
けど、人間は鬼をだんだん嫌いはじめて遠ざけるようになった・・・。
鬼は人の生き血を吸わな生きていかれへん。けど、命までとるわけやない。
人食い鬼の話は、人間が作った。鬼は人の心のなかで、どんどん悪いやつにされていったんや。
・・・鬼は隠れて暮らすようになった。
隠れてこそこそしてたら、余計に人間は鬼を狩るようになった。
鬼は・・・群れたら目立って・・鬼狩りに狙われるから、みんな散り散りになって・・・
ひとりぼっちで暮らすようになった・・・。
桜に棲む鬼の子は、ある日とうとう、人間の子供といっしょに遊んだ・・・。
楽しかった・・・。」
修平は鬼塚の顔をみた。
とおいとおい昔をなつかしむように、彼はくちもとに微笑みを浮かべていた。
が、目尻には光るものが零れている。
江戸時代の頃の、農村の子供たちが遊ぶ姿。かくれんぼの鬼が、桜の木に顔を伏せて数を数えている。
十まで数えてぱっと振り返ると、誰の姿も見えない。あたりを探しはじめる鬼の子。
草むらからふいに、大人が手に鍬をもって現れる。鬼の子、驚いて後ずさりする。
『見かけへん子ぉやな・・・。さては鬼の子か』
鬼の子、怖れて逃げ出す。鍬や鋤を持った村人、徐々に人数が増えて武器を振りかざして鬼の子を追う。
必死ににげる鬼の子。
「・・・近くに大学が出来て・・・下宿やらアパートがたくさんできた。地方からよそもんがたくさん
はいってきて、ここの人らが見慣れへんもんに関心をしめさへんようになって・・・、
僕はやっと追われへんようになった・・・。」
「血を・・・吸うっていうのは?」
修平がようやく口をはさんだ。
「時々・・・街に行って、若い女の子誘って、ホテル行って・・。下宿の人には手はださへん。」
「昨夜も、行ってた?」
昨夜は・・・ふふ。気ぃつかれてな・・・。寝てる思たら起きとって・・・ほんでどつかれて。
血ぃ飲みそこのうた。」
「大井君には・・・何をした?」
「鬼には、通力いう、人間にはない力がある。人間も、昔は持っとったんやと思うけど・・・。
今風にいうたら超能力みたいなもんや・・・。生き血を飲んで、その通力のもとを養うんや・・。
ゆうべは血ぃ飲んでへんし、力がでえへんかと思たけど・・・。
大井君、死にかけとったから・・必死になって・・・思わず正体出てしもた。」
「力使い果たして倒れたってことか。」
「うん・・・。でも大井君助けられてよかった・・・。」
「・・・・・。」
「この下宿の人らが僕の事気づかへんように、ちょっとだけ術をつこた。
他の部屋の人のこと、あんまり考えへんようにな・・・。でも泉くんにはそれが通じひんかったんやな。
なんや、最初っから、泉くんにはばれるような気ぃ、してた・・・。」
鬼塚はゆっくり上半身を起こして、修平のほうを向いた。
「せやけど、泉くんとは、すごい、ええ友達になれると思たんや・・・。」
鬼塚の視線を受け止めきれず、修平は眼をそらした。黙って立ち上がる。
「泉くん・・・。」
黙ったまま、修平は部屋の出口に歩いていった。
「やっぱり、あかんのんか。」
泣くような声で、鬼塚が言った。
「僕らは、おんなじ世界では住まれへんのんか。」
修平はドアノブに手をかけて止まった。鬼塚は彼の背中に向けてさらに訊いた。
「友達では、いられへんのんか。」
修平は背中向きのまま言った。
「・・・この話、他の人にしたことある?」
「・・・・ない。泉くんだけや・・・。はじめて・・はじめて話した。」
「うん。」修平はちいさく喘いだ。
「いずみ・・・」
「ごめん。・・・ちょっと出てくる。」
「泉くん」
「・・・・おとなしく寝てろ。」
修平はそれだけ言うとさっとドアの向こうに姿を消した。
鬼塚は追いすがろうとしたが、ふらついて立ち上がれず、ドアに向かって四つん這いのまま、
扉の閉まる音を聞いた。
彼の眼からぽたぽたと涙が落ちて布団を濡らした。
髪がさわさわと逆立ちはじめ、その間から角がのぞいた。
牙がのぞいた口から嗚咽が漏れはじめた。
鬼は、布団につっぷして、幼い子供のように声をあげて泣いた。
窓の外に、オレンジ色の雲が見える。
薄暗くなってきた修平の部屋で、鬼塚はそっと体を起こした。
泣きつかれて眠ってしまい、つい今しがた目覚めたのだった。
ゆっくり立ち上がる。もうふらつきは収まっていた。
窓際に立ち、ガラス戸を引き開けた。
桜の枝が風に揺れている。
なにかに集中するようにすっと眼を閉じる鬼塚。彼の体が一瞬、風にとけるように薄れた。
が、吐息とともにすぐ元に戻る。まだ通力が戻っていない様子。
「あかん・・・。消えることもできん・・。」
力なくうなだれて、鬼塚はドアのほうに向かった。
部屋をふりかえり、名残惜しそうに見回して、また俯いたまま出て行こうとした。
だがドアノブに手をかける直前、ドアが開いた。
修平が立っている。
「・・・・!」
二人とも驚いてしばらく動かなかった。修平が先に声をあげる。
「びっ・・・くりしたあ!・・・なんだよ。寝てろって言ったろ。」
鬼塚はきょとんとして修平を見る。修平はスーパーのレジ袋を手に提げている。
「泉・・・くん。」
「な、なに。・・・てか、ここ、俺の部屋なんだけど。入れてくんない。」
修平はまだ突っ立っている鬼塚を押して部屋に入る。
机の上にレジ袋をどさっと置くと、まだ入り口に立ちすくんでいる彼のほうを見た。
「オニ、腹へってる?」
「・・・・・。」
「ん・・・まだ晩飯には早いよな。」
修平は立ったままの鬼塚の腕をつかんで、部屋の中に引っ張った。
「こら、病人はちゃんと寝る!」肩を押して布団の上に座らせた。
サイドボードからペティナイフを取ると、自分も机の前に座って袋からリンゴをふたつ取り出した。
リンゴの皮をむきながら
「病院行って、スーパー行って、それからちょっと寄り道して、帰って来た。」
「・・・・・。」
「大井君さ・・・、退院できるって。」
「・・・・・。」
「リンゴって年中あるのなー。旨いのかね、これ・・・。」
「・・・・・。」
「ほら、この前、田舎からぶどう送ってきたろ。あれ、おじさん・・・、おふくろのお兄さんが
作ってるんだ。そのおじさんち、桜の木もあって、サクランボも作ってんだけどさ・・・。
実桜にも鬼が棲んでんのかな。」
「・・・・・。」
「俺さ。」
修平はリンゴを剥く手を止めて鬼塚の眼を見た。
「外あるきながら、ずうっと考えてたんだ。大学入って、この下宿に来て、オニと初めて逢って
そして今日までのこと。」
またリンゴに目を落とし手を動かしはじめる。
「オニのこと、思い当たる節もあったし、全然、人間らしいと思う事もあった。
なんだかジジくせえなあって思ったこともあったな・・・。そりゃそうだよなあ。
二百年も前から生きてんだもんなあ・・・。」
「・・・・・。」
「そいでさ、俺、おまえのこと怖いのかなって考えたんだ。・・・ほら、あの姿、見ちゃったし。」
「・・・怖い?」
「それが・・・どうしても怖いって思えない。」
「え・・」
「なんか、いいじゃん。そんなの。あのさあ、こんな例えで失礼なんだけど、
サメ飼ってるやつとか、ワニ飼ってるやつとか、いんじゃん。
は虫類とか、生きた餌やったりさ。
はたからみてウソだろって思うようなの、可愛い、って思うやつもいんじゃん。」
二つ目のリンゴに手を出して剥き始める。
「オニのこと、珍しいペットと一緒にしてるんじゃないよ。」
「・・・うん。」
「俺、今までどおりだから。」
そっけなく、だが力を込めて、修平は言い切った。
「俺は変わらない。」
「うっ・・・う、う」鬼塚は俯いて肩を大きく震わせた。
「え、泣くか。やめろよ。オニのくせに。」修平があわてたように言った。
「せやかて」
拳でごしごし顔をこする鬼塚。修平は一瞬それに気をとられる。
「あたっ!」修平の手からリンゴが落ちる。はっと顔をあげる鬼塚。
「あーーー!もう・・・。やっちゃったよう。」
修平の左手の親指から血が流れている。
「あ~あ」指を口にくわえようとして、ふと手をとめ、流れてくる血をじっと見る修平。
「どないしたん?」
心配そうに修平の顔と指の傷を鬼塚が見比べる。
「オニ・・・?」
「え・・・。」
「・・・もったいないから、飲む?」傷口を鬼塚に見せる修平。
「え・・・。」
鬼塚は一瞬きょとんとし、それからぷっと吹き出した。修平もつられて笑う。
「かして」
修平の手をとって切れた指に唇をつける鬼塚。
びくっと体が勝手に反応して身構えた右手に、ナイフが握られているのに自分で気づいて、
「お、危ないよ」とつぶやく修平。
「はい」10秒もかからず、鬼塚が左手を修平の顔の前に押し返す。
傷は跡形もなく消えている。
「すっげ・・・。」
自分の指をいろんな角度から観察している修平の手から、鬼塚がナイフを取り上げて
リンゴを剥き始める。修平より手つきがいい。
二つのリンゴを切り分けて芯をとると、一切れを修平に差し出した。
受け取って齧る。「うん。スーパーのにしちゃ、上出来。」
鬼塚もひとつ取って食べ始める。しばらく、シャクシャクとリンゴを齧る音だけが続いた。
ふいに「泉くん、おおきにな」鬼塚がちいさな声で囁いた。
「え?何?」
「もう言うた。」彼はリンゴをもったままにかっと笑った。
「何」
「もう言うたもん。」
鬼塚は座ったまま畳のうえをくるっと向きを変えて修平に背を向けた。
修平も座ったまま躄って彼の前に回り込んで顔を覗き込む。
リンゴを食べながらしばらくふたりでくるくる回っていたが、そのうちどちらからともなく
笑い出すのだった。
深夜、桜の枝に鬼塚の姿がある。
月の光に白い肌が蒼く光る。髪のあいだからちいさく角が覗いていた。
月光に向かって瞳をとじ、幸せそうな微笑みを浮かべる鬼塚。
風が、桜の枝をしずかに揺らしていた。
1984年
再びの春。桜荘の桜も満開の時期を迎えていた。
その桜の木の下に、ゴザをひいて座り込んでいるのは広瀬と大井だ。
真っ昼間だというのに缶ビールを片手にすでにかなり出来上がっている。
大井が声を張る。
「なんやこう、ごっつうビンボ臭いなあ!」
「なんでや」
「そんなんわざわざ自分とこの桜で花見せんかて、清水さんとか平野神社とか・・・
いろいろええとこあるやんか。」
広瀬が赤らんだ目元で大井を睨みつけた。
「あほう、そんなとこ行ってみい、花見ちゃうわ。人見や。
桜の木ぃより人のほうが多いんちゃうか~いうぐらいいてんで。」
修平が真っ白いキャンバスを抱えて帰ってくる。
「何やってんの」
「ほら、言われたわ。」大井が嘆く。が、広瀬は今度は修平をにらんで管を巻く。
「見てわからんか?え?」
「花見・・・?」
「わかってんにゃったら聞ーくーな、っちゅうねん。」
「広瀬君、目すわってる」修平が大井の方を見て苦笑すると、大井も困ったように笑った。
が、広瀬は全く気にする様子もなく、ふらりと立ち上がって修平の袖をひいた。
「ささ、泉くんもまぜたるわ。こっち、こっち座れや。さー遠慮はいらんでえ。」
「あ・・・、ごめん、せっかくだけど。」
「なんでや!」
「うん、ちょっと買い出し・・・。」
アパートから鬼塚が皿をもって出てくる。頭にタオルを巻いて汗をかいている。
「あ、泉くんおかえり。・・・はい、焼き鳥おまたせ。」
「おお、待ってました!これや、これ。オニの焼き鳥天下一品。これなかったら話にならん。」
広瀬がうれしそうに皿を受け取って焼き鳥にかぶりつく。
大井も歓声をあげて皿に手をのばした。
「うまい!」
「オニ、ちょっと付き合ってほしいんだけど。」修平が声をかけた。
「ん?僕?」
「うん、河原町の画材屋。」
「ああ、ええよ。」
広瀬が聞きつけて抗議の声をあげる。
「なんや、オニまで連れていくんかいな。せっかくええとこやのに!」
「どうええとこやねん。」
「ええとこやんか!料理は旨いし、酒は旨いし、ほろ酔い気分で桜を愛でて、
宴もたけなわ、ちゅうやつや、そこで大事な料理番をやなあ・・・。」
「あ、大丈夫。だいどこにもうようさん作ってあるし、今持ってくるわ。」
鬼塚が急いでなだめて料理を取りに戻った。
「あ、そ。」広瀬も納得して缶ビールをまた煽った。
「あのう」
修平が振り返ると、アパートの管理人の老人が、同年輩の婦人を伴って立っていた。
「あたしらも、ご一緒さしてもうて、よろしいでっしゃろか。」
「へ」きょとんとして動かない広瀬を無視して、修平が返事をした。
「あっ。どうぞどうぞ、さ、こっち座ってください。」
「ほうでっか。えらいすんまへんなあ。おおきに。さ、おときさん、こっちどうぞ。」
ゴザにあがりこむ二人。おときさんは近所の未亡人らしい。
鬼塚も料理を持って戻ってくると、すぐまた取り皿と箸の追加を取りにいった。
広瀬と大井はすっかり毒気を抜かれたようにおとなしくなっている。
老人は桜を見上げて誇らしそうに言った。
「ほんまに、毎年よう咲いてくれますなあ・・・。この桜も、もう二百年以上になる、いうのに。
桜は普通、六十年程がピークで、あとは年老いて花付きもわるなるちゅうて、
言わはりますのになあ。」
おときさんはシワシワの頬を桜色に染めて言った。
「そら、やっぱり、重吉はんの丹精が、よろしいんですやろ。」
「いやいや、たいしたことはなんも・・・そやけど、ほうどうなあ、お礼肥え、ちゅうてねえ。
花のあとに油かすを、この根ぇのとこに・・・。」
勢いづいて喋りだす管理人を見ながら大井がつぶやいた。
「じいさん花盛りやんか・・・。」
広瀬も同調する。「あやかりたいな・・・。」
にぎやかになった花見の宴をあとに、修平と鬼塚はアパートをでた。
河原町通りを四条からさがってゆくと、目的の画材屋がある。
修平の通う美大からは、けっこう離れているので、車をもたない学生が画材を買い込むには
少々不便である。
「悪いね」修平が筆や絵の具を物色しながら言った。
「ううん。たまにはこんなとこもおもろいな。」鬼塚はところ狭しと並べられている画材を
めずらしそうに眺めている。
「あ、あった。この色。」
「学校の売店になかったん?」
「うん。品ぞろえ薄くてさ。何かっていうと、河原町の本店で取り寄せ・・・って。」
「ここ?」
「そ。自分で買いに来た方が早いから。」
画材屋から下げ袋をみっつと、大きなイラストボードを何枚か、手分けして持って出る二人。
「悪いね。」
「ええって。泉くん、パステルもやんの?」
「うん。今のうちにいろいろやってみようと思って。先月バイトいっぱいやって
軍資金作ったんだ。」
「高いやつ買うてたもんなあ。」鬼塚が袋を持ちかえながら言った。
「発色がいいんだって。先輩が使ってた。」
「ふうん。」
狭い交差点で、若い女性とすれ違う。修平の抱えたボードが女性のバッグにひっかかった。
「あっ・・・・、すみません!」
女性は「いえ・・」と会釈して、バッグを持ち直して行きかけるが、ふと二人の顔を見、顔色をかえた。
「あっ!あんた!!」
鬼塚も女の顔を見て「あ」というなり2、3歩後ずさりした。
女はものすごい勢いで鬼塚にせまると、
「いつぞやはどうも。」とドスのきいた声で言った。
「あの・・・何か・・」修平が問いかけると、彼女は修平の頭から足の先までを
スキャンするように見たあと、再び鬼塚をキッと睨みつけた。
「この子ねえ・・・・。可愛い顔してるし、ちょっと遊んだげよ、思てつき合うてたら、
いったいぜんたい何しよったと思う?」
いつの間にか、鬼塚は修平の後ろに隠れている。修平はもしや、と思って
「もしかしてこいつ、首とか噛みました?」と訊いてみた。
「なんやあんた!いっつもそんなことしてんのかいな!!」
「こっ、こいつ悪いクセで・・・。」圧倒されながら鬼塚を振り返る。
「おいオニ、このお姉さん、誰?」
「去年、ホストクラブでおうてどつかれた・・・。」
「あ。ああ、あん時?」
女は修平の肩をつかんで押しのけ、鬼塚の胸ぐらをつかんで顔を近づけた。
「どつかれて当然やろ。私あんた、あん時来てた服に血ぃついてシミなってんで。
あれ高かったんやさかいな。どないしてくれんのん?え?」
「・・・・・。」
「弁償。べ・ん・しょ・う・・・・してや!」
修平はとっさに女の背後を指差して叫んだ。
「あっ、木村拓哉だ!」
言うなり鬼塚の手をつかんで走り出そうとするが、反対側の腕を女につかまれて引き戻される。
「そんな手ぇが通用すると思てんのかいな!」
修平、あきらめきれずにしつこくとぼける。
「えっ?おかしいなあ。確かに今・・・。」
そのとき、修平の指差した方角で、にわかに女の子の嬌声があがった。
黄色い声が次第に数を増やしていくのを見た女は、急に落ち着きを失った。
「え?いや、ほんま?キムタクきてんの?」
今度こそその隙をついて、ふたりは脱兎のごとく逃げ出した。
大量の画材を抱えてみっつ、よっつ先の交差点まで人ごみを縫って走る。
大きなビルの角を曲がったところで、後ろを確認してようやく止まった。
「はあっ、はあっ、も、もしかして、さっき、術つかった。」
息も絶え絶えで修平が訊いた。
「うん、ちょっ・・・ちょっとだけ・・・。」鬼塚も息が荒い。
「やっぱり・・・。はあっ、はあ・・・ああ、それにしても、なんであんなの襲ったんだよ。
逆に襲われてんじゃん。」
「ちょっと見た目に騙されてん・・・。気ぃはちょっと強そうかな、って思てたけど、
あんな怖い思わへんかったんや。あの夜かて、ホテルの部屋の花瓶で殴るわ、膝蹴り飛んでくるわで、僕ちょっと殺される思たで。」
「こわ・・・。」
キムタク目当てに人ごみに飛び込んだ女は、周りの人に怪訝な視線をむけられただけで、
狐につままれたような顔になった。芸能人どころか、女の子の集団すらいない。
嬌声もどこからも聞こえてこない。
きょとんとして、立ちすくむ女に、地味な中年の男が近づいていった。
「あの、失礼ですが・・・。」
「えっ?」
「さっき、若い男性に言っておられたお話、少し詳しく伺えませんか。」
「あんた、誰」
男は背広の内ポケットから名刺のようなものを出して女に見せた。
女はますます怪訝そうな顔をした。
ある夜更け、修平は部屋の壁に白いキャンバスを建てて、その前で腕組みをしていた。
「ふ・・・ん。問題はテーマだよな。」
キャンバスの前を行ったり来たりしながらつぶやく。
「ピカソいわく、作品にテーマをもとめるな・・・・っていってもな・・・。」
窓の方をちら、と見て「オニは今夜はお出かけか・・・。」
キャンバスの正面に座り込む。
「また怖い姉ちゃんに当たってなきゃいいけど・・・。」
「あーあ。構図が勝手にキャンバスに浮かんでこねえかなあ。」
そのまま、頭の後ろで手を組んで、畳の上にごろん、と寝転がった。
白いキャンバスに、ぼんやりと人の姿が浮き出てくる。
いつのまにかうとうとしていた修平はふと気配に気づいて目を開けた。
起き上がってキャンバスを見る。
「出た。構図。」
が、その正体が鬼塚だと気づいてはっとする。
キャンバスの姿は次第にくっきりと浮かび上がって立体感をともなってきた。
透き通るような顔色の鬼塚がキャンバスから抜け出るように部屋に倒れ込むのと、
修平が腕をのばすのが同時だった。
「おっ、おいっ、どした?」
抱きとめた鬼塚の背中を一目見て、修平は息をのんだ。
服の上から背中がぱっくりと裂けて赤い傷口になっている。
「オニ・・・どした?何があった? おい、しっかりしろよ!」
「かっ・・・・」
鬼塚は残った力を振り絞って修平の腕をぎゅっと握った。
「狩られた・・・・。鬼・・・狩り・・・。」
それだけ言うと、がっくりと気を失う鬼塚。
「おい・・!オニ!」
しばらくして、ようやく意識を取り戻した鬼塚をとりあえず布団に寝かせて、修平は尋ねた。
背中の傷はかなりの深手らしく、いつものようにはすぐに癒えそうもなかった。
「おい、鬼狩りって・・・さっき言ってたけど・・。」
「たぶん、そうやと思う・・・。」
「それって何百年も昔の話じゃないのかよ。」
鬼塚は薄く笑って言った。
「いつの時代にも、よそ者を排除しようとする力はあるよ。
いろいろ・・・名前はかわっていくけど、自分の理解できんもんを、
絶対に許せへん人らがおる。」
そしてふと顔を曇らせた。
「もう、ここもばれてるかもしれん。泉くんに迷惑がかかるかも・・・。」
「まさか」
ガシャン!突然の音に振り返ると、窓ガラスが割れてガラスのかけらが部屋に散っている。
その中央に、投げ込まれたらしい石が転がっていた。
「!」
あっと思う間もなく、割れたガラスの間から腕が差し入れられ、窓が開けられた。
ハシゴをかけて上って来たらしい武装した男が二人、土足で侵入してきた。
「なっ!」
侵入者は鬼塚一人と思っていたらしく、修平の姿に一瞬迷いを見せた。
「ドロボー!!強盗だあ!」
とっさに修平は下宿中に聞こえるように大声をあげた。
まさかこいつらも、衆人環視の中、無茶なことはしないはずだ。
「こいつも仲間か?」
あわてた男たちは大型のナイフを取り出して修平に向けた。
修平のかたわらで、鬼塚の髪がさっと逆立った。
「ちがう!この人に手ぇだすな!」髪のあいだから角が出てくる。
「化け物・・・」男が憎々しげにつぶやくと、鬼塚めがけて襲いかかってくる。
修平は頭から体当たりして防ぐと、急いで鬼塚に布団をかぶせた。
「オニ!だめだ!」修平、後ろから羽交い締めにされる。
「はなせっ!」闇雲にあばれてふりほどこうとする修平。
「オニ!みんなが来る!姿を戻せ!早く!」
ドアの外に下宿人たちの足音が聞こえて来た。
「何の騒ぎだよ」
「おい、泉くん、なんかあったか?」
鬼塚は布団をはねのけて立ち上がった。完全に鬼の姿に変わっている。
「オニ!戻れ!」修平は力の限り叫んだ。
「その人を離せ」鬼塚はゆらりと男たちに近づいた。
一人がナイフをひらめかせて鬼塚に飛びかかる。彼はふわりと飛ぶようにかわす。
「化け物は、死ね!」男が再びナイフをふりあげたとき、鬼塚の体が稲光のように光った。
ナイフをふりあげたほうも、修平を押さえていたほうも、二人の男たちは同時に
雷にうたれたように部屋の端まで吹き飛ばされ、昏倒した。
同時に、部屋のドアが開いた。
「うわああああああああ!」
「ひいいいいいっ」
桜荘の下宿人たちが、部屋の入り口で引きつった声をあげた。
一番手前で腰を抜かしたように座り込んだのは広瀬だった。
吹き飛ばされた男の一人が、うずくまったまま声をあげた。
「皆さん、化け物です。捕まえてくださいっ!」
「違う!化け物じゃない!化け物なんかじゃない!」修平が叫んだ。
「私たちは化け物退治に来たんです。協力してください!」
下宿人たちは困惑したように男と修平を交互に見比べ、
そして恐怖にひきつったまなざしを鬼塚に向けた。
「なんや、あれ・・・。」
修平は鬼塚の腕をつかんだ。
「行こう」
「・・・・・。」
修平は鬼塚をひっぱってドアのほうへ行く。下宿人たちは怯えて道をあけた。
彼らの前を通り過ぎる時に、鬼塚はひとりづつの顔をみた。彼らの、自分を見る
畏れをたたえた瞳をみて、哀しげな声で呻いた。
「みなさん、捕らえてください。世の中のためです。害獣ですよ!」
どうにか起き上がろうとしながら男たちはなおもいいつのった。
「おい、泉・・・。」田口がうわずった声で呼んだ。
「来るな!」
修平は鬼塚の手を引いたまま振り返って強い声で言った。
「誰も来るな。」
手を引かれながら鬼塚も振り返ってもう一度下宿人たちの顔を見る。
「オニ、行こう。」
二人が視界から消えても、まだ立ちすくんだままの下宿人たち。
広瀬が、尻餅をついたままつぶやいた。
「オニ・・・・?」
修平と鬼塚は闇の中を駆けていた。
鬼塚の背中には血がにじんでいる。時々、くずおれそうになる鬼塚を、
修平が助け起こしては、また走っていた。
鬼塚が喘いだ。
「泉くん・・・・、泉くんもう・・・あかん・・・。」
「しっかりしろ。」
「泉くんまで・・・巻き込まれへん・・。」
鬼塚はついに、がっくりと膝をおとしてしまった。
「オニ!」
「もう・・・ええ。」
「何言ってんだよ!」
修平は鬼塚を引き起こそうとするが、出来ない。上体すら倒れそうになる彼を膝をついて支えた。
「泉くんが・・・友達になってくれたやろ・・・。せやから僕はもう、もうええわ。」
「・・・・・。」
片手を地面につき、修平とつないだ手を離そうとする鬼塚。修平は離れないように
強く握り返した。
「鬼は・・・死んだら砂になるんやって・・・。」
「オニ・・・。」
「僕はすごい幸せやった・・・。こんなに幸せやった鬼はきっといてへんと思う・・・。
僕は・・・泉くんのおかげで、幸せな幸せな砂に・・・なる・・・。」
「な・・何言ってんだよ。砂なんかになってどうすんだよ。しっかりしろよ!」
修平は、なんとか鬼塚を立ち上がらせようと背中に手をまわしてはっとした。
手のひらに、砂がついている。背中の傷をみると、ぱっくりと裂けた傷口が
さらさらと溶けはじめている。
修平は愕然として鬼塚の顔を見た。青白い肌が今にも月光に溶けそうで、瞳は遠くに焦点を
あわせて、力なく潤んでいる。
「オニ・・・。」
鬼塚、そのまま目を閉じて力なく頭を垂れた。
「俺、まだ友達になったばっかだよ。ずっとひとりで来たんだろ。やっと友達つくったんだろ。
オニ、生きろよ。まだ・・・まだいけるだろ?オニ!」
鬼塚は答えない。風に溶けて、背中の傷口から、さらさらと砂が地面にこぼれる。
風が、彼をさらってゆくような気がして、修平は鬼塚を固く抱きしめた。
二人のまわりに、風が渦を巻き始める。次第に、形をもつもののように・・・・。
修平は異変に気づいて辺りを見回した。
「なんだ・・・・?」
「いたぞ。あそこだ!」追っ手の声が聞こえた。
修平がはっとして男たちの姿を見た、その時。
二人を包んでいた風が、突然二匹の小鬼を形作り、鬼塚と修平を持ち上げた。
「うわっ・・・・。」
駆けて来た追っ手はその光景に思わず立ち止まった。
「なんだ、あれは・・・!」
小鬼たちは、小さく甲高い声で何事か囁き合いながら、二人を担いで走り出した。
暫く呆然と見送っていた男たちは、はっと我にかえると、再び後を追って走り出した。
修平と鬼塚を担いだ小鬼たちは、以前大井が運ばれた病院にやってきた。
非常階段をふわりふわりと駆け上がって、あっという間に屋上にたどり着いた。
小鬼たちは静かに二人を降ろし、再びわらわらと風に戻っていった。
修平は鬼塚を抱えたまま、辺りを見回した。白衣が目にはいる。
前に見かけたことのある、銀縁眼鏡をかけた若い医師がこちらに近づいてきた。
噛み付きそうな目で睨みつけてくる修平に
「安心して。」と低く声をかけると、若い医師はそっと鬼塚の体にふれた。
修平の腕のなかで、鬼塚が生気をとりもどしてゆくのがわかった。
彼はゆっくりと目をあけた。
「オニ・・・・。」
「ここは・・・?」鬼塚は修平と若い医師の顔を交互に見た。
修平が肩をかして、鬼塚を立ち上がらせた。そっと背中に触れると、一抹の砂をのこして
傷は綺麗に治っていた。
「君が最後の一人だ。私が集められるだけ集めた。」
医師がそう言って東の方向を指差した。ふたりがそちらを見ていると、屋上の手すりのあたりが
ぼうっと霞みはじめ、徐々に形をつくってゆく。
老若男女の一団が、静かに微笑んで立っている。子供のようにみえるのは、先刻の小鬼たちだ。
「みんな・・・鬼?」修平が低くつぶやいた。
「そうだ。」医師が答える。
「オニの仲間が・・・あんなにいたんだ。」
「ほんま・・・?」鬼塚がうわずった声で尋ねた。
「ああ。」医師は鬼塚にやさしく笑いかけた。そして修平には厳しい顔を向けていった。
「鬼狩りが、また激しくなってきている。何百年も繰り返されてきた愚行が。」
「・・・どうする?」修平の問いに、医師は訝しげな目をした。
「・・・やっつけんだろ。やっつけちゃえよ。これだけ数いりゃ簡単だろ。
あいつらおかしいよ。なんとか出来るんだろ。」
「・・・君は人間なのに」
「あんなやつらと一緒にすんなよ。俺は・・・オニにつく。」
医師ははじめて修平に向かって微笑んだ。
「人間と争う気はないよ。」
「え?」
「住む世界が違うのだ。一緒にいてはいけないのだよ。・・・もう共存は無理だ。」
「そんな・・・。」
「もう人の心に、私たちを受け入れる隙間・・・ゆとりと言ってもいいかな・・。
それがないんだ。」
「じゃ、じゃあ、どうすんだよ。」
「泉くん」
修平の心のなかで不安がふくらんできた。鬼塚もそれを察したように哀しげな目を向けた。
「逃げんのかよ。」医師は黙っている。
「ほかの・・・他のやつらは知らねえよ。でも俺たちは友達になれたよ?
俺は一緒にやってけると思うよ? そ、そうだ。桜荘のやつらだって、きっと、
よく話してやれば・・・。」
「泉くん。」鬼塚が修平の言葉を遮った。
「でもな。僕は桜荘の人たちは大事にしてたけど、外では人間の血を吸うて生きて来た。」
「だって、それは・・・。」
「そうや。しゃあない。生きるためや。せやけど、やっぱり、ほんまはイヤやった。
血ィ吸われた人は、やっぱり僕らの事、許せへんと思う・・・。」
「いいよ。よそでやんなくても、月いちくらいだったら俺の飲めばいいじゃん。」
鬼塚はそれを聞くと、かえって辛そうな笑みを浮かべた。
「な?そうしろよ。」
「泉くん。」若い医師が修平の肩にそっと手をかけた。
「そんな風に言われたら、ますます傷つけるのが辛いんだよ。」
「でも・・・。」
「こんなに・・・仲間がいたんやな・・・。もう、さみしないなあ・・・。」
「オニ。」
「野生生物の保護のために、人の上陸を禁じた無人島がある。」医師が言った。
「私たちが住むのに、ちょうどいい島だ。鳥や動物たちと、ひっそりと暮らすのが、
私たちには似つかわしい。・・・・人を襲わなくてもいいように、少し現代医学も応用するよ。」
「・・・・・。」
「通力も衰えるかもしれない。が、人の生き血を飲まなくても、(人並み)に暮らし、
子を産み育て、細々と血を繋いでいくことはできるだろう。」
鬼塚は決心したようだった。修平の目を見て言った。
「泉くん、僕、行くわ。」
「オニ・・・。」
「僕、泉くんに会えて、ほんまに良かったて思てるで。」
「・・・・・。」
「ほんまに、おおきにな。」
大粒の涙をこぼしながら、彼はいつものように、にかっと笑った。
「僕、ほんまに、嬉しかったんやで。」
修平はなにも言い返せなくなった。悔しさで身体が震えるのを、彼は生まれて初めて経験していた。
鬼達がたたずんでいる、東の方角があかるんで来る。
医師が言った。
「夜が明ける前に、行きましょう。」
夜が、明けようとしていた。
医師にうながされて、鬼塚は後ずさりするように、ゆっくりと修平から離れてゆく。
修平はその場から動く事ができなかった。
鬼達が彼を迎え入れ、医師を先頭に、一塊になる。東の空が白むのにあわせるように、
その姿がゆっくりと霞みはじめた。
風のように姿をかえた鬼達はふわりとうきあがると、薄明の中に溶けはじめる。
最後尾にいた鬼塚が、修平の方を振り返った。
彼の唇がなにか叫んだようだった。が、次の瞬間、鬼達の姿は一陣の風になり、かき消すように、消えた。
修平は、何も言えず、手を振ることさえしなかった。できなかった。
鬼達の去った方角から、ひとひらの桜の花びらが舞い降りてくる。
くる、くるとまわりながらどこか名残惜しそうに舞う桜。
目の前に落ちて来た花びらを右手で受け止めた修平は、それを強く握りしめて拳を額にあてた。
そのまま、膝を落としてその場にうずくまる。
そのときはじめて、涙が彼の頬を伝った。
桜荘の住人たちは修平の部屋にあつまったまま、朝を迎えていた。
見るともなく、窓のほうを見ていた田口が、割れたガラスの間から異変に気づいた。
おい、あれ。」
窓の近くに座っていた本田が窓を開ける。
「!」
「なんや、どないした。」皆が窓際に駆け寄って驚きの声をあげた。
樹齢二百年の桜の老木は、一晩のうちに枯れ果てて、朽ち木となっていた。
「枯れてる・・・・。」広瀬がうめいた。
「あっ。」
桜の木の下に、修平が戻って来ていた。
「泉!」
「泉君!」
修平は自分の部屋の窓を見上げた。下宿仲間が窓際に重なるようにして自分を呼んでいた。
大井が尋ねた。「泉君、オニ君は?」
彼は弱々しく、首を横に振った。
鬼塚はそれきり、彼らの前に姿を現さなかった。そしていつしか彼らも、そのことを誰も、
口にしなくなった。
枯れた桜の木は切り倒され、桜の根を守る為に残されていた桜荘も、
老朽化に耐え切れず取り壊されることになった。
「おい、泉はまた鬼の絵か。」
白髪の教授があきれたような声をあげた。「ずいぶんとご執心だな。」
美術大学、洋画科の教室での合評会。修平は自分の絵のまえでうすく微笑んだ。
修平はあれから、鬼の絵ばかりを描き続けた。昔話も題材にしたし、風景画にも鬼の姿を入れた。
白いキャンバスに向かっていると、鬼の・・・鬼塚の姿がひとりでに浮き上がってくるのだった。
自分の絵をみて、誰か一人でも、彼らの気持ちを解ってくれたら・・・。
そう考えながら、彼は描かずにはいられなかった。
1987年
大学を卒業した春、修平は寺町の貸画廊で個展をひらいた。
鬼の絵ばかりが並ぶギャラリー。場所がよく、人気のある画廊を借りたせいもある。
まずまずの盛況ぶりだった。
展示スペースの奥に、ロールスクリーンで仕切られた応接スペースがある。
修平はそこに座ってかつてのゼミ仲間と談笑していた。
「ああ、俺下宿かわったから・・・。前の所古くなったんで、取り壊しになったんだよ。」
「ほんで行方不明やったんや。おまえなあ、引っ越ししたらちゃんと知らせえや。」
修平は友人に手を合わせた。
「ごめんごめん。・・・でも杉本には電話で言っといたんだけど。」
友人はぱたぱたっと手を顔の前でふった。
「あかんあかん。あいつなあ、マメそうで、マメちゃうねや。」
「へぇ・・・。」
「この個展のハガキもらえへんかったら、ずーっとわかれへんとこやったわ。
あ、ほんでおまえ、就職したんかいな。」
修平は苦笑した。
「ううん・・・なんかさ、気がついたら4回生終わっててさ・・・。
教職はとったから、田舎帰って口があったら美術の先生かなあ。」
「ちゃー!!呑気やなあ。この不景気に。」
「呑気じゃないよ。親はギャーギャー言ってるし。」
「まあ、お前はほんまに画家向きやな。洋画でもほんまに絵ぇばっかり描いとったん、泉だけやもんな。
俺は美術と全然関係ないとこに就職してしもたし、杉本はパソコンの会社やろ。
なんやゲームソフトのキャラクターデザイン、とか言うとったけど、ほんまのところは営業らしいわ。」
「へえ。」
友人が身を乗り出した。「画家なるんか。」
「まさか。プロじゃ通用しないよ。」修平は笑った。
「そんなことないで。なんやおまえ、びしいっと一本テーマが決まっとるやんか。
そういうのん、なかなか持たれへんもんやで。」
修平は、ないない、というように手を振りながら、何気なく展示スペースのほうを見た。
とたんに顔色をかえて立ち上がる。
「なんや、どないしたん。」
スペースを仕切っているロールスクリーンに、映っている影。逆立った髪、頭上に角・・・。
「ちょっとごめん。知り合いがきたんだ。」
いうなり修平はスクリーンの反対側に飛び出した。絵を鑑賞していた人々が驚いて振り返る。
そのなかにそれらしき人物はいない。
修平はいそいでギャラリーの外にでた。
扉の向こうは繁華街の人波。見渡していると、少し離れた人ごみのなかに見慣れた猫っ毛の頭が見えた。
あ、と思った瞬間、その頭がついとこちらを向いた。
にかっ。
なつかしい笑顔を見せて、鬼塚の姿は消えた。修平は追いかけようとしたが、人ごみに押されて進めなかった。
あきらめてギャラリーに戻ると、芳名録をみる。
一番最後の欄。
『お元気そうでなによりです。ぼくらも、平和に暮らしています。
・・・逢わずに行きます。泉くん、全部、どの絵も素敵です。ありがとう。』
修平は桜荘の跡地に立っていた。アパートのあった場所は綺麗に整地されて、砂利敷きの駐車場になっている。
桜の木の切り株も取り除かれて跡形も無い。
自分の部屋があったあたりに立った修平は、しばらく目を閉じて、当時のことを思い返していた。
なにもかも懐かしく、そして少し胸がいたくなる思い出だった。
ふいに、背後から風が吹いた。目を開けて振り返ると、自分の肩に桜の花びらが乗っていた。
「あれ、どこから・・・。」気づくとうしろに小さな子供が立って、修平を見つめている。
修平もじっと子供をみて言った。
「かくれんぼ・・・しようか。」
子供は目を大きく見開いて修平の顔を見、やがて嬉しそうににっこり笑った。
「君、このへんの子?」
子供は答えずにただ笑っている。
「ねえ・・・。」修平が子供に向かって歩き出したとき、ひときわ強い風がまた吹いた。
思わず目をつぶった彼が再び目を開けると、子供の姿は消えていた。
子供の立っていたのが、桜の木のあった場所だったと気づいて、修平は思わず駆け寄った。
かがんで、地面をよく見てみた。
砂利のあいだから、ちいさなちいさなひこばえが、顔を出している。
空を見上げる修平。
脳裏に満開の桜がうかぶ。
「オニ・・・・。」
彼らは、もう二度と戻ってこないのだろうか。もう人の心には、鬼の棲む場所さえないのだろうか。
彼らのいないこの世界は、ほんとうに幸せなのだろうか。
快適という名の空虚が、そこにはあるような気がする。
修平はそんな事を考えながら桜荘跡をあとにした。
俺はきっとこれからも、彼らの絵を描き続けるのだろうな、と思った。
そうすることでしか、
もう彼らに逢えないのだ。
完