外伝 張良編 第4話 **ポピュリストの「敵」は、なぜ便利なのか ―― 張良が語るスケープゴートと制度破壊**
その夜、図書館の自動ドアが閉まる音を背に、私は職員通用口の前で立ち止まった。
冷たい空気が、建物の外から押し寄せてくる。冬だ。
冬は、人の心の輪郭を鋭くする。寒さで感情が固まり、言葉が尖る。
昼間、閲覧室で起きた小さな騒動が頭から離れなかった。
高校生らしい数人が、席を占領していた。
誰かが「うるさい」と言い、誰かが「こっちは勉強してる」と言い返し、そこに第三者が割り込み、そして最後はスマホが出てきた。
撮影。
短い動画。
「マナー違反」
「図書館は誰のもの?」
「注意したら逆ギレされた」
編集された十数秒が、現実よりも強い顔で歩き出す。
それが、私の見ている世界だった。
利用者同士の揉め事は日常だ。
けれどSNSに乗ると、日常は「事件」になる。
事件になると、「敵」が必要になる。
高校生が敵になる。
注意した人が敵になる。
図書館が敵になる。
職員が敵になる。
あるいは「今どきの若者」や「老害」や「税金泥棒」みたいに、便利なラベルが貼られる。
敵ができると、語りが簡単になる。
複雑な事情も、前提の差も、過去の経緯も切り捨てて、怒りだけが残る。
私は鍵を回し、門を出ようとした瞬間、背後の空気がふっと軽くなった。
「司書殿」
張良がいた。
今日はいつもよりも早い。影が濃い。
「先ほどの騒動、見ていました」
「……恥ずかしいところを」
「恥ではありません。あなたの時代の“政治”は、あれと同じ仕組みで動く」
私はうなずいた。
嫌な予感がした。
張良が言い出すときは、だいたい核心を突く。
「張良さん。今日の話は“敵”ですか?」
「ええ。“敵”です」
張良はゆっくりと、言葉を選ぶように続けた。
「ポピュリストの最大の道具は、政策ではない。
予算でもない。
法律でもない」
そして静かに断言した。
「敵の設計です」
■ 敵は「説明の省略装置」だ
「司書殿。国家の制度は複雑です」
「はい」
「複雑である以上、説明が必要だ。
説明には時間が要る。
時間が要るなら、忍耐が要る」
張良は、職員駐車場の隅にある街灯の下へ歩いた。
明るい場所で話すのが癖なのか、それとも、暗い話ほど明るい場所に置きたがるのか。
「しかし大衆は、常に忍耐できるわけではない」
「生活が苦しいと、なおさらですよね」
「ええ。苦しいときに人は、複雑さを嫌う。
複雑さは、責任の分散を意味するからです」
「責任の分散……」
「誰が悪いのか、決められない。
だから苦しみが宙に浮く」
張良は、そこまで言って、私を見た。
「苦しみが宙に浮くと、大衆は何を求めるか」
「……原因」
「そうです。原因。
もっと正確に言えば、単一の原因」
私は背中に寒気が走った。
単一の原因。
それは、敵に都合がいい。
「敵は、説明を省略します。
『制度がこうだから』
『歴史的にこうで』
『国際環境がこうで』
そういう文脈を切り捨てて、こう言う」
張良が、短く言葉を落とした。
「あいつらのせいだ」
私は息を吸った。
自分でも驚くほど、ゆっくり吸った。
「敵は、世界を簡単にする」
「ええ。そして簡単になった世界は、必ず二色になります」
「味方と敵」
「善と悪」
「被害者と加害者」
張良はうなずいた。
「二色の世界は、動員に向いている。
動員ができれば、勝てる。
勝てると、人は“正しさ”を後から貼り付ける」
「勝ったから正しい、に」
「ええ。勝利が正義の証明になる。
それがポピュリズムの危険です」
■ スケープゴートは「怒りの処理場」になる
「司書殿。あなたの図書館でも、似たことが起きます」
張良は、さっきの高校生の話に戻した。
「『若者が悪い』
『注意する人が悪い』
『職員が無能だ』
どれも、怒りの行き先を作る」
「……確かに。行き先がないと、怒りが残る」
「怒りは、残ると腐ります。
腐ると、他者への軽蔑に変わる。
軽蔑は共同体を壊す」
張良は、少しだけ声を低くした。
「だから政治は、怒りの処理場を作る。
それがスケープゴートです」
「身代わり」
「ええ。罪を負わせる羊。
実際に罪があるかどうかは二の次です」
私は言葉を選びながら反論した。
「でも……現実に不正をする人もいます。制度を悪用する人も」
「います」
張良は即答した。
「それを否定してはならない。
問題は、そこから先です」
「先?」
「不正の摘発を口実にして、
制度全体を攻撃しはじめる者がいる」
張良の目が鋭くなる。
「不正は、制度の穴です。
穴を塞ぐのは、制度を守る行為であるべきだ」
「でもポピュリストは、穴を塞がずに……」
「穴を拡大して、制度の正当性を壊す」
私は思わず言った。
「制度を壊すために、不正を利用する」
「そうです。
彼らは“改革”の名で、共同体の骨を抜く」
■ 「敵」を作ると、制度の修理ができなくなる
張良は、地面に落ちていた小枝を拾い、折った。
乾いた音がした。
「制度は、修理するものです」
「はい」
「修理には、どこが壊れているかの診断が要る」
「診断にはデータと証拠が要る」
「その通り。
だが敵ができると、診断が不要になる」
「……敵を叩けばいいから」
「叩けば“動いた感”が出る」
私は、現代の政治の言葉が頭に浮かんだ。
“やってる感”
“スピード感”
“断行”
断行は、しばしば診断を省略する。
診断を省略すると、誤診が起きる。
誤診は、制度の体力を削る。
「司書殿。敵を作る政治は、次の順番で壊れます」
張良は一本指を立てた。
「第一に、論点が単純化する」
二本指。
「第二に、相手を“人間”として扱わなくなる」
三本指。
「第三に、制度の運用者が萎縮する」
「運用者……官僚や現場、ですね」
「ええ。
彼らが萎縮すると、現場は安全側に逃げる。
新しい工夫をしなくなる。
そして硬直化する」
「硬直化すると、穴が増える」
「穴が増えると、さらに“敵”が必要になる」
張良は、静かに結論を言った。
「これは循環です。
敵を作るほど、制度は壊れ、
壊れるほど、敵が要る」
私は胸が苦しくなった。
循環が回り始めると、止めるのが難しい。
■ SNSは「敵の製造工場」になりやすい
「司書殿。あなたの時代のSNSには、特別な特徴があります」
「特別?」
「敵を作る工程が、分業される」
「分業……」
張良は、淡々と工程を並べた。
「ある者は切り抜きを作る。
ある者は煽る文章を付ける。
ある者は拡散する。
ある者は嘲笑で追い込む。
ある者は“正義”の看板を掲げる」
私は、思い当たるものが多すぎて、視線が落ちた。
「そして最も危険なのは、
この工程に参加した人間が、
自分を“加害者”だと思わないことです」
「……正義のつもりだから」
「ええ。
正義は、免罪符になりやすい」
張良は、ゆっくりと私に問いかけた。
「司書殿。あなたは本を分類しますね」
「はい。主題、著者、資料種別……」
「分類は、便利です。
だが分類は、対象を“ラベル”に変える危険もある」
「……人もラベルにされる」
「そうです。
SNSでは、人が“敵ラベル”に変換されやすい」
私は頷いた。
敵ラベルが貼られた瞬間に、個別事情が消える。
個別事情が消えると、攻撃しやすくなる。
■ 張良の処方箋:「敵」ではなく「問い」を置け
「では、どうすればいいんですか」
私は、半分苛立ち、半分救いを求める声で言った。
「敵を作らない政治なんて、可能なんですか」
張良は、首を横に振った。
「敵を作る誘惑は、常にあります。
だから完全には消えない。
だが——」
張良は、言葉を強くした。
「敵を中心に置かないことはできる」
「中心に置かない」
「敵を置く代わりに、“問い”を置くのです」
「問い……」
「例えば、こうです。
『誰が、どの条件で、どれだけ困っているのか』
『困り方は、地域で違うのか』
『制度のどこで詰まっているのか』
『予算はどこに流れているのか』」
私は、その問いの並びに、図書館のレファレンス・インタビューを感じた。
相手の怒りをそのまま受け取らず、背景を聞き、目的を確認し、必要情報へ導く。
それと同じ構造だ。
「司書殿。あなたの仕事は“問い”を扱う仕事です」
「……確かに」
「だからあなたは、敵の物語に飲み込まれにくい」
張良は、少し柔らかい声になった。
「ただし、油断してはならない。
敵の物語は気持ちがいい。
単純で、速くて、勝った気になる」
私は、静かに言った。
「本当は勝ってないのに」
「ええ。勝っているのは、感情だけです」
■ 司書の現場でできる「敵の物語」への対抗
「張良さん」
「はい」
「図書館で、私にできることはありますか。
政治家じゃない。参謀でもない。
現場の司書として」
張良は少し考え、明確に言った。
「三つあります」
「三つ」
「第一に、一次資料へ戻す」
「元の資料、根拠ですね」
「第二に、数字を“文脈”で示す」
「数字だけだと、煽りに使われる」
「第三に、対立を“人間の問題”に戻す」
「人間の問題?」
「敵の物語は、相手を人間から外します。
だからあなたは、相手を人間として扱い続ける」
私は、その言葉が重く、同時に具体的だと感じた。
司書の仕事は、しばしば人を「利用者」にしてしまう。
だが、利用者は人間だ。
怒る人も、煽られる人も、疲れた人も。
「……それでも、反発されることはあります」
「もちろん」
張良は頷いた。
「敵の物語を信じている者にとって、
文脈や一次資料は“邪魔”です」
「邪魔者扱いされる」
「ええ。
だが司書殿。邪魔者であることを恐れてはいけない」
張良は、私の目をまっすぐ見た。
「共同体を守る者は、往々にして邪魔者です」
■ 結び:敵を叩く快楽の先に、何が残るか
私は、さっきの閲覧室の光景を思い出していた。
スマホの画面が、誰かを切り抜き、誰かを“敵”に仕立てる。
それは、短い快楽を与える。
正義の気分。勝利の気分。仲間の気分。
でも、その先に残るのは、
より脆い共同体だ。
信頼が削られ、
運用者が萎縮し、
制度が硬直し、
穴が増え、
さらに敵が必要になる。
張良の言う循環は、現代にぴったり当てはまる。
「司書殿」
張良が、最後に言った。
「敵を叩く快楽は、麻薬です。
最初は少量で効く。
だが次第に効かなくなる。
もっと強い刺激が必要になる」
私は、小さく息を吐いた。
「だから、止められない」
「ええ。
だから必要なのは、“遅さ”と“問い”です」
張良は、静かに背を向けた。
「次は、もう少し具体的な話をしましょう。
敵が作られるとき、
どの集団が狙われやすいのか。
そして参謀は、どこで止めるべきか」
影が薄くなり、張良は夜の空気に溶けた。
私は、門の外に出た。
冬の風が頬を刺す。
けれど、歩みは少しだけ確かになっていた。
敵の物語が世界を二色に塗りつぶすなら、
司書として私は、
その二色の間に残っている灰色の厚みを守らなければならない。
灰色は退屈だ。
でも、灰色の中にしか、制度の修理も、共同体の回復もない。




