5.天敵は泥の中に
生後半年。普通なら寝返りだの離乳食だので親を喜ばせる時期だが、俺は庭園の特等席(ハンスが全身の筋肉を震わせながら運んできた、サスペンション付き超高級ベビーカー)の上で、そよ風に吹かれながら昼寝を決め込もうとしていた。
(……あー、平和だ。前世の今頃は、クライアントからの無理難題に胃をキリキリさせて、トイレの個室だけが唯一の安らぎだったっけ……。今は俺が無理難題をなすりつける側。人生、こうでなくっちゃな)
俺が半眼で空を眺め、「あの雲、パフェの形に見えるな……」なんて現実逃避をしていた、その時だ。
公爵家の自慢である、芸術的なまでに整えられた生垣を強引に突き破って、一人の「異物」が転がり込んできた。
「……あ、いた! きらきらの赤んぼ!」
それは、泥だらけの少女だった。
年齢は四歳か五歳。髪は手入れもされずボサボサで、色は煤けた亜麻色。着ている服は布切れを繋ぎ合わせたような、もはや「布の集合体」としか呼べない代物だ。だが、その瞳だけはやけに爛々と、獲物を狙う小動物のように輝いている。
名はリリア。城下町のゴミ捨て場の隣で、その日暮らしをしている、純度100%の「持たざる者」だ。
(……おいおい、なんだこの野生児。警備のハンスは何してんだ……あ、そうか。俺がさっき『昼寝の心地よさ』をあいつに全ツッパしたせいで、今頃門の前で白目剥いて爆睡してんだわ)
リリアは物珍しそうに、一台で家が建つレベルの超高級ベビーカーを覗き込むと、その爪の間にまで泥が詰まった指を、俺の白雪のような頬に伸ばしてきた。
「お前、いいもん食べてるなー。その服も、あったかそうだなー。ちょっと触らせろよ」
(……触んな。シルクに泥がつく。あー、ダルい。この『泥をつけられた不快感』と『話しかけられてる煩わしさ』、まとめてこいつに転送だ。ターゲット、ロックオン……!)
【固有スキル:厄災の転嫁】……決済エラー
【警告:対象『リリア』は、現在保有資産および魔力量が測定不能(実質ゼロ)です。あなたより『資産』を持つ者にしか負債は転送できません。転嫁条件を満たしません】
「……は?」
脳内に響く、無慈悲なシステムエラー音。
嘘だろ。なすりつけが……この「クズの盾」が、効かないだと?
俺が戦慄している間に、リリアはニカッと白い歯を見せて笑うと、おしゃぶり代わりに「その辺に生えていた、汁の出てる雑草」を俺の口に突っ込んできやがった。
「これ、栄養あるぞ。あげる!」
(……ぺっ! ぺっ! 苦い! 砂の味がする! うわああ、苦い! 舌が痺れる! この苦味を今すぐ誰かに! ……親父! いや、ハンス! 誰でもいいから近くの金持ちぃぃぃ!)
俺は必死にスキルを連打した。だが、リリアが目の前にいると、彼女の「圧倒的貧困」のオーラが一種のジャミング結界のように機能して、俺のターゲット選定を狂わせる。俺の不快感を受け止める「空き容量」が、この少女には1バイトも残っていないのだ。
結局、俺は人生で初めて、自分の「苦しみ(雑草の味)」を自力で咀嚼し、自力で飲み込む羽目になった。
(……クソッ、これが『自力で生きる』ってことか……。なんて残酷な、なんて非人道的な仕打ちだ……!)
リリアは俺の悶絶する反応を見てケラケラと笑うと、「またな、銀色の赤んぼ! お前、面白いな!」と言い残し、再び生垣を破壊しながら消えていった。
残されたのは、泥のついたシルクの服と、口の中に残る消えない苦い余韻。
そして、俺の胸に芽生えた、かつてないほどの危機感だった。
(……あいつだ。あいつが近くにいると、俺の完全無欠なニート計画が崩壊する……。あいつは危険だ。俺の不幸を押し付けられない、この世で唯一の『聖域(ゴミ捨て禁止区域)』だ……!)
こうして、史上最低のクズ貴族は、自分を「自分の足で歩かせよう」とする運命のヒロインと、最悪の形で出会ってしまったのである。




