子を願う夜の稽古
「……月のものが、また来てしまいましたね」
霜華の声に、わたくしはそっと下腹を押さえました。
初夜の日から、すでに幾月かが過ぎております。
その間、五日と空けず董卓様のお相手を務めてまいりましたが――今月も、子を授かることはかないませんでした。
お子を授かれば、董卓様とのつらい夜の営みから解放されるかもしれないのに。
「はぁ……」
おもわずため息がこぼれます。きっと暗い顔をしていたのでしょう。霜華が、そっと微笑みかけてくれました。
「貂蝉様は、まだお若いのです。董卓様があれほど貂蝉様をお求めになっているのですもの。すぐにお子は授かりますわ」
「……そうですわね」
口ではそう返しながらも、声には力が入りません。
(いっそ董卓様に嫌われてしまえば、この責苦から解放されるのに)
ほんの一瞬、そんな思いが胸をかすめました。
けれど、すぐにかき消します。子を授からねばならないのです。桃房塾で積み重ねた日々を、無にするわけにはいきません。
霜華は、わたくしの迷いを見透かしたように、静かに言葉を継ぎました。
「それでは、今日も董卓様との夜に備えて、お体を整えるお稽古をいたしましょう」
「……日々の継続こそ、肝要なり、ですものね」
分かってはおります。けれど、どうしても心は重くなってしまうのです。
霜華が小瓶の蓋を開けると、甘やかな香りがふわりと漂いました。
杏仁の油に蜂蜜を溶かし、蘭の花を沈めた香油――寝所に満ちるその香りは、清らかさと艶めきを同時に運んでまいります。
「まずは、こわばったところをほぐしましょう」
霜華は香油を両の手のひらになじませ、わたくしの肩や背へそっと触れました。
温かな手がなぞるたび、張り詰めていた筋が少しずつほどけていくのを感じます。
腰のあたりに触れられると、思わず身がこわばりましたが、それも霜華の穏やかな声に促され、やがて息とともに緩んでゆきました。
「大丈夫ですよ。息を吐いて……はい、そうです」
霜華の声に合わせて、わたくしは胸の内の熱を吐き出すように、ゆっくりと息を整えました。
「よろしいですか?」
「……はい。お願いいたします」
本日は董卓様の、あまりに性急なお振る舞いに備えるための稽古だと、霜華は言いました。
あのお方は、初めから荒々しく求めてこられます。その勢いに少しでも慣れるための練習――そう分かっていても、胸は強く脈打っておりました。
「まずは、表情からまいりましょう」
霜華は、わたくしの頬にそっと指を触れました。
「董卓様のお好みは、うぶな娘の恥じらい。羞恥に震え、頬をあからめるお顔です」
「……それは、存じておりますけれど……」
思わず視線を伏せると、霜華は軽く首を振ります。
「痛みや怖れで固まってしまうと、それだけでお体も締めつけられてしまいます。表情と呼吸を整えれば、少し楽になりますよ」
彼女はそう言うと、わたくしを鏡の前に座らせ、顎を軽く持ち上げました。
「貂蝉様、そのお顔は演技ですか? 本当に演じるのなら、全身で痛みと恥じらいを『見せて』くださいませ」
「ち、違います。これは芝居では……本当に、恥ずかしいのです」
わたくしは、首をふるふると振って否定しました。けれど霜華は、厳しくも優しい眼差しで見つめてきます。
「たとえ本当に辛くとも、演じなさい。董卓様の前では、羞恥に震えつつも、なお美しくあらねばなりません」
霜華はわたくしの両肩に手を置き、呼吸に合わせて軽く押し下ろしました。
「顔を覆って、息を震わせてごらんなさい。『いやぁ』と声を零す時は、苦しさだけでなく、『それでも従う』覚悟も滲ませるのです」
促されるままに、わたくしは両手で顔を覆い、小さく息を震わせました。
「……いやぁ……」
「その調子ですわ」
霜華の声音がやわらかく胸を打ちます。
わたくしの震えはいっそう大きくなり、それを見つめる霜華の瞳が、どこか誇らしげに細められました。
「羞恥に揺れるその姿――なんと綺麗な震えでしょう」
その言葉に導かれるように、わたくしはもう一度、鏡の中の自分を見つめました。頬は赤く、唇はかすかに震えています。
(これは……演技? 本当の姿?)
自分でもわからなくなったその瞬間、霜華は軽く息を吐きました。
「ほら、ご自身で背筋を伸ばし、胸をひらいて」
「はい……」
ためらいながら姿勢を整えると、ひやりとした空気が肌をなでました。夜の支度というだけで、人目に晒したくない部分まで意識してしまいます。
「貂蝉様、その表情……とても愛らしいですわ。そのまま演技を続けましょう」
「これは……演技ではなくて……」
声を絞り出すと、霜華はわたくしを見透かすように目を細めました。
「……体が、恥じらいに応えるように少し火照っておられますね。それは、心が揺さぶられた証――。もしかして、心まで揺さぶられているのでは?」
「霜華、いじわるは……おやめくださいませ」
抗う声を出した途端、胸が焼けつくように熱を帯び、わたくしは思わず吐息を止めました。
霜華は、ふっと微笑みます。
「いいえ、これは素晴らしいことですわ。羞恥の感情を、美しい震えへと変えられた瞬間に他なりません」
おめでとうございます――そう告げる声は、甘くやさしく、心に染み入りました。
けれど、違うのです。霜華でなければ、こんな感覚は生まれません。
その視線に包まれると、羞恥は苦痛ではなく、胸の高鳴りへと変わっていく。自分でも知らなかった感情が、静かに目を覚ましてゆくのでした。
しかし、董卓様に強いられる羞恥はまるで違います。
嘲りとともに押しつけられるそれは、痛みと恐怖に支配されるだけ。
心地よさなどひとかけらもない、魂を砕くはずかしめ――。
――同じ「羞恥」でありながら、なぜこれほどの隔たりがあるのでしょうか。
それでも、わたくしが折れずにいられるのは、霜華が傍にいてくれるからです。
霜華の声を思い浮かべるだけで、闇に沈む心が、ひととき光に照らされます。
その光を支えにしなければ、董卓様を待つ夜を耐え抜くことなどできません。
今宵も寝所に灯をともして祈ります。
――どうか早く子を授かれますように。
そう願いながら、わたくしは霜華とともに、いつものように静かに夜の支度を整えていきました。




