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仮面の初夜

「口をあけろ」

「……はい」


 唇が乾き、声が掠れました。


 董卓様の笑みには、残酷(ざんこく)愉悦(ゆえつ)が浮かんでおります。


 衣の布が荒々しく払われた音が、やけに大きく響きました。


「妙な真似をしたら殺すぞ」


 低く落とされた一言だけで、心臓が痛いほどに跳ねました。


「うぐっ……」


 込み上げる吐き気を必死に(おさ)えたとき、ようやく気づきました。

 ――これは、快楽のためというより、わたくしを辱めるための仕掛けなのだと。


 恐る恐る視線を上げると、董卓様の口端が冷たく吊り上がっておりました。

 氷のような瞳に宿る喜悦は、わたくしの涙と羞恥を映し取っていたのです。


 ですが、董卓様の顔を見た瞬間、ふと胸の奥が軽くなりました。


 ――羞恥や恐怖を(たの)しむ殿方もいる。


 桃房塾での教えが胸に浮かびました。董卓様はまさしくその類い。


 けれど、巨躯(きょく)に圧されながらも、結局は支配の快楽に溺れるひとりの男にすぎない――そう理解したとき、胸の奥にすこしずつ冷静さが戻ってきたのです。


 そして、涙に濡れた頬にも、演じる余裕がわずかに宿ってまいりました。


 桃房塾で叩き込まれたのは、声や息遣い、身のこなしの所作。そして、羞恥を美に変えるための礼法も含まれておりました。


 繰り返し鏡の前で稽古(けいこ)したその技を、今こそ役に立てる(とき)なのです。


 いま必要なのは、苦悶(くもん)を演じること。


 声を震わせ、吐息を乱し、わざと視線を泳がせる。


 ――それらは舞の一部のように、相手の印象を(あやつ)る技。


 羞恥に()れた表情そのものが、演じる仮面となるのです。


 ――董卓様の瞳には、苦悶に耐える従順な小娘が映っていることでしょう。


 実際には苦しさ半ば、演技も半ば。


 しかしながら、泣き声の調子や体の揺れまで自ら操っていると気づいたとき、心には奇妙な余裕が芽生えました。


 羞恥を装い、苦痛を仮面に変える。


 それこそが桃房塾で授けられた、(まこと)の房中術でございました。


 やがて董卓様は息を荒くし、わたくしの肩をつかむ手の力が強まります。


 乱暴な動きに振り回されながらも、わたくしはひたすら堪え、与えられた役目を果たすことだけに意識を集中させるのです。


 ――どこかで、すべてが終わる刻が近づいていることを、肌で感じながら。


「ふん……ようやくわしに相応しい顔になったわ」


 荒い吐息の合間に洩れた言葉に、わたくしははっといたしました。


 涙に濡れた頬も、震える唇も、すべて董卓様の愉しみとなっていたのです。


「ほほう、わしを前にしてなお取り繕おうとするとはな。面白い、実に面白い!」


 口角を上げた董卓様が笑い声をあげられました。


 わたくしは、胸の奥の震えを悟られぬように、床へ視線を落とします。


「褒美をくれてやろう」

「お出迎えの不調法をお許しいただければ、それだけで十分でございます」


 わたくしは言葉の真意を測りかね、わずかに首を傾げました。


 その戸惑いを見て、董卓様の眉がぴくりと震え、低い声がもどかしげに響きます。


「子種を与えてやろうというのだ。早く立て!」


 その一言に、はっと胸が跳ねました。

 ――これが褒美だと、ようやく悟ったのです。


 今宵、身をゆだねることが許されるのであれば、やがて子を授かる可能性が生まれる。


 わたくしにとって、それほどの恩寵はございません。


 熱に浮かされたように頷き、声を震わせながらも口を開きました。


「それこそ……願ってもない褒美にございます」


 わたくしの言葉に、董卓様の眼差しが鋭さを増したのを感じました。


「寝台へ行け」


 短く命じる声に、胸の奥で小さく震えが走ります。


 (あらが)うことなく、むしろ急ぐように寝台へ身を移しました。


 衣の紐を乱され、恥ずかしさに頬を熱くしながらも、わたくしは静かに目を閉じます。


 桃房塾で教わったすべてを尽くしても、今宵の痛みを和らげられる保証はございません。


 それでも――この夜を受け入れねば、未来は掴めないのです。


「……どうか、お優しく」


 指先がかすかに震えました。


 初めての営みを前にした娘の小さな願いが届くことを祈りながら、わたくしは深く息を吸い込みました。


 その後のことは、ところどころが霞んでおります。


 重い影が覆いかぶさり、息をするたび胸と喉が痛み、身体の芯まで冷たく強張っていく感覚だけが、やけに鮮やかに残りました。


 ――初夜とは、これほど苦しいものだったのですね。


 ただ、歯を食いしばり、耐えるのみ。


 演じる余裕はとうに消え失せ、声にもならぬ(うめ)きが漏れ出すばかりでした。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 どれほどの時が過ぎたのでしょう。やがて重みがふっと遠のき、寝台のきしむ音が静まりました。


「今度はもっと泣かせてやろう」


 満足そうに鼻を鳴らしながら洩らしたひと言を残し、董卓様は部屋をあとにされました。


 残されたのは、早鐘を打つ鼓動と、ひゅうひゅうと荒く乱れた呼吸音だけでございました。



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