出仕
すこし肌寒い朝のことでした。司徒府の廊下に白い息がほどけます。
「董卓の妻となれ」
王允様の声は静かで、手に持つ扇の骨がかすかに鳴りました。
董卓様の妻……
小さく復唱するたび、意味がじわりと身に沈みます。
長安の支配者。相国として政を握るお方。その妻になるということ。
「董卓には嫡子がおらぬ。貂蝉よ、その意味が分かるか?」
王允様の細い光の瞳がわたくしを射るように注がれました。わたくしは裾を正し、ゆっくりと頷きました。
「はい。わたくしが男児を授かれば、後継となりましょう」
声に翡翠の耳飾りが小さく触れ合い、桃の香が胸もとで淡く揺れます。
皇帝位は協皇子が継ぐことになりました。しかし御年はまだ九つ。後宮があらためて開かれる頃、わたくしは適齢を過ぎていることでしょう。
――だからこそ、今しかないのです。
歩みの気配に帯の玉佩がことりと応え、心が静かに定まりました。
「董卓様に、持てる技のすべてをお見せいたしましょう」
わたくしの意気込みを天が寿いでくださったのでしょうか。朝の冷気が熱い頬を心地よく撫でていきました。
「よい、では早速支度をせよ。昼過ぎには董卓のもとへと連れて行く」
本日中に移動?!――時間がありません。わたくしは一礼して踵を返しました。
王允様には深く感謝しております。ですが、一点だけ不満を述べてもよろしいでしょうか。
――女性の外出には、準備時間が必要なのですよ! 心の中で叫びました。
とはいえ、王允様のご命令は絶対です。
昼食の時間を削り、なんとか時間を稼ぎます。
香を焚き、髪を結い、もとは帝へのお目通りに備えて仕立てた最上の薄絹に袖を通し、文字どおり身一つで馬車へ飛び乗りました。
「妻になるというのに、家具の準備はどうするのでしょうか」
「調度品は落ち着いたら送る。ひとまずはあてがわれた部屋にあるものを使えばよい」
王允様は静かにそうおっしゃいます。
必要なものは後から送ると言われましても、そこはかとない不安が募りました。
「貂蝉様、ご安心ください。わたくしがついておりますから」
霜華がそっとわたくしの手を握りました。指先の温もりが、わたくしの不安を和らげてゆきます。
幸いだったのは、房中術の師範を務めてくれた霜華が侍女に付けられたこと。
見知った顔が身近にあることが、どれほどわたくしを勇気づけてくれたことでしょう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「司徒・王允様、ただいまご到着いたしました」
朗々とした声が広間に響き、扉が左右に開かれました。昼の光を背に、わたくしは王允様の後ろで歩を進めます。
広間の奥。高々と築かれた段の上に、董卓様が轟然と腰を据えておられました。
その巨躯は玉座を圧し潰すかのように重々しく、視線ひとつで人を屠りかねぬ気配が漂っております。
段へと続く通路の両側には、びしりと整列した兵士らが長槍を並べ、槍先がわずかに揺れるたびに、胸の奥が冷え冷えとしてまいります。
――ここを通らねばならないのですね。
顔が引きつりそうになるのを必死に抑え、わたくしは王允様の背に従いました。裾を整え、磨かれた板の間を一歩ずつ踏みしめます。
やがて董卓様の御前に至り、王允様が膝を折られました。
わたくしはその斜め後ろに控え、額を床へ預けるように身を伏しております。
本来なら王允様は立ったまま拱手の礼で足りるはずです。三公のひとり、司徒たるお立場であれば、なおさらのこと。しかしながら、今や相国・董卓様の前では、その威すら影を失っております。
――まさか、王允様ほどの御方が、ここまで身を沈められるとは。
胸がざわめき、息を呑みました。
もし司徒にあっても地に屈するのなら、わたくしのような娘など、ひときわ軽い羽のような存在にすぎません。
板の間にこもる冷気が、膝頭へじかに染み込み、薄氷の上に立つように肩が震えました。
「董卓様、どうかこちらの娘を日々の慰みにご利用ください」
王允様が深く頭を垂れ、声を低めました。
「漢王室を支えているのは、ひとえに董卓様の御手腕にございます。洛陽に迫る反乱軍どもを駆逐するには、英気を養うことが肝要。そのためには、女子も欠かせぬことでございましょう」
言葉の端々まで、王允様の慎ましさがにじみます。
けれど、その文言にわたくしの胸はざわめきました。
(……慰み者? わたくしは妻ではなかったのですか?)
心の奥で呻きが洩れそうになりましたが、ここで表情を曇らせてはすべてが終わります。
――これはただの言葉の綾。そう言い聞かせ、ひとまず飲み込むことにしました。
「貂蝉よ、顔をみせよ」
低く太い声が広間に落ちました。
わたくしは胸の奥で息をひとつ整えます。――桃房塾で学んだとおりに。
ただ顔を上げるのではありません。
うなじの曲線をゆるやかに描きながら、肩をひらき、袖の先に春の風を宿すように。
視線をゆっくりと持ち上げ、瞳には夫に巡り逢えたよろこびをにじませ、微笑みをひとしずく。
顔だけでなく、身のこなしすべてで「お慶び」を演じるのです。
広間の空気がぴたりと止まりました。
董卓様の視線がわたくしを射抜き、重々しくひとこと。
「……面は悪くない」
低い声が広間に沈み、董卓様の口元にいやらしい笑みが浮かびました。
「さすが王允殿よ。国の柱石は女の扱いにも通じておるな」
重々しい言葉に混じるのは、下卑た響き。
「とんでもございません。すべては董卓様のため……」
王允様は背を折り、声をかすかに震わせました。
「ははは、ならば王允殿の顔を立てて、今夜はこの娘をたっぷりかわいがってやろう」
広間に響く笑い声は低く濁り、わたくしの肌をなぶるようです。兵士たちは槍を握ったまま石像のように沈黙しておりました。
――漢の忠臣と称される王允様までが、これに黙して頭を垂れておられます。
わたくしは人ではなく、ただ男の欲を満たす器にすぎないのでしょうか。
内奥に凍りつくものを抱えながら、唇を噛みしめました。




