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柳 霜華

 いよいよ房中術の実技を習う日になりました。わたくしは書机の前で背筋を正し、胸の鼓動をそっと押さえます。


「貂蝉様、準備はよろしいですか?」

「もちろんです、霜華(そうか)先生」


 開いた扉から流れ込む桃の香りとともに、(りゅう)霜華が姿を見せました。


 (かご)に押し上げられた豊乳が(あで)やかな曲線を描き、(すそ)が揺れるたび絹肌の腿がきらめきます。


(なんて(つや)っぽい歩き方なのでしょう)


 さすが桃房塾で教育を受け、一度は後宮へと送り出された霜華です。


 ただ歩くだけ。それなのにとても美しく、わたくしは視線を釘付けにされてしまいました。


 ――これが房中術……。殿方なら瞬きすら忘れるに違いありません。


 けれど胸の奥にひやりと影が差しました。


(わたくしでも霜華のような艶技が習得できるのかしら)


 霜華は微笑んで首を振ります。

「怖れなくても大丈夫。これは舞の応用ですわ」


 背骨に一本の芯を通し、指先から爪先まで緊張を張り巡らせる。そうすれば、殿方の視線を思うままに誘導できる、と秘訣を授けてくださいました。


 そして、いたずらっぽく微笑むのです。

「今回は、胸とふとももに目を吸い寄せてみたのですよ」


 なるほど、わたくしの視線は、霜華の思惑通りに誘導されていたのですね。


 しかし、とわたくしは霜華の肢体(したい)嫉妬(しっと)めいた眼差しを向けてしまいます。


 腰から胸へなだらかな丘を描く霜華の豊かな肢体に比べ、わたくしの胸は(つぼみ)のまま――この身でも本当に殿方を揺さぶれるのでしょうか。


「その心配はありませんよ。房中術を習えば胸も大きくなりますから。いえ、自然と大きくなってしまうのです」


 そう言いながら、霜華は持参した籠から(いびつ)な形をした木の棒をひとつ、また一つと机に並べていきました。


「これが房中術で使う陽の杖です」


 それらは長さも様々、太さも様々。太くて長い棒もあれば、人差し指ほどの短い枝もあります。


(あれが、殿方の……)


 百聞は一見にしかずとは言いますが、初めて目にすると驚きが勝ります。


 思わず目をそむけたくなるほどの大きさに、わたくしはすこし不安になりましたが、その感情はすぐさま上書きされました。


 杖を机に置いていく霜華の動きにわたくしは目を奪われたのです。


 その動作はうっとりするほど上品であり、木の棒に対する愛情が溢れ出ているように感じられました。


 陽の杖に対して、卑猥で恥ずかしいものという先入観を持つ自分が恥ずかしくなりました。


 すこし頬が熱くなったわたくしに霜華は優しく微笑みかけました。


 しかし霜華は、わたくしが陽の杖に恥ずかしさを感じたと勘違いしたようです。


「貂蝉様の抱いた感情は、まだ夜を知らぬ身であれば当然ですわ。その恥じらいは殿方の胸を高鳴らせましょう」


 霜華はやわらかく言い、並んだ陽の杖へ指をすべらせました。木肌が小さく鳴り、わたくしは息をのみました。


「……そういうもの、ですの?」


 わたくしは小声でたずね、熱くなった頬を押さえました。


 恥ずかしい姿を見て喜ぶなんて、いい性格とは思えません。

 けれど、それが男という生き物なら……いまは受け入れておきましょう。


「ええ。ですから初心(うぶ)な気持ちは貴重なのです。いま感じたその恥ずかしさを、覚えておくのですよ」


 霜華が耳もとでささやくと、香油に混じる桃の香がふわりと立ちました。


 本当は、杖が卑猥だからではありません。先入観に縛られていた自分が、恥ずかしかったのです。ですが、ここで言い直すのは無作法でしょう。


 それに「乙女の恥じらい」という装いも、技として身にまとう価値があるのだと。そう受け入れることにいたします。


「さて、実技に入りましょう」


 霜華は袖を整え、三本を選り分けて机に立てました。木肌がこつん、と澄んだ音を立てます。


 緊張のあまり、息が速くなるのを感じます。


「まずは大きさの説明をいたしますね。これは皇帝陛下を、これは皇子方を象徴する陽の杖です」


 中ほどの一本に指先が触れ、わずかに太い節が光りました。


 細い二本を並べ替え、霜華は穏やかに続けました。


「やがて成人を迎えられる頃には、それぞれにふさわしい形となるでしょう」


 思わず頬がゆるみました。王允様から、わたくしは弁皇子の後宮に上がる身だと聞いております。だから今、陽の杖を見るとどうしても意識してしまうのです。


「最初に一つだけ、守るべき約束をお伝えします」

 霜華の声が引き締まります。頬の熱がすっと引き、甘い桃の匂いが遠のいた気がします。


「この木でできた陽の杖を、決してご自身に用いてはなりませぬ」


「……用いたら、どうなりますか?」


 思わずたずねると、霜華は視線を落として答えました。


「後宮に入る娘は、清くなくてはなりません。一度でも掟を破れば、その場で道は閉ざされます」


 喉が乾き、指が冷えました。――桃房塾で積み上げたすべてが、扉の前で無に帰すというのですから。


「禁はそれだけです。他は恐れなくてかまいません。触れ方、匂いの合わせ方、視線の運び――すべて実地でお教えします」


 わたくしは息を整えて小さくうなずきました。守るべき一線を胸に刻みます。霜華は表情をやわらげ、台の前へ半歩進みました。袖の香りがふわりと揺れ、距離が縮まります。


「では、初めの教えに入りましょう」


 霜華は微笑み、わたくしの手の甲に(てのひら)をそっと重ねました。掌の温かみが、手首まで染みてきます。


「はじめての夜は、たとえ皇子でも緊張します。求められるのは、華やかな女でも迫る女でもありません。隣で『あなたがいい』と(うなず)く女です」


 霜華の手が肩に軽く触れ、甘い吐息がふっと耳でほどけます。


「声は半歩だけ低く、言葉は短く肯定。たとえば――『近くへどうぞ』『嬉しい……』『しあわせです』

 評価ではなく、許しと喜びを先に渡すのです」


 視線が合いました。霜華は黒目から目尻へ視線をすべらせ、睫毛がふるりと揺れます。


「目は責めない位置に。黒目を追い詰めず、目尻に置きます。頷きはゆっくり一度。深すぎず、はっきりと。それで『あなたの全てを受け入れます』が伝わります」


 呼吸が近づきます。霜華の胸がゆっくりと上下するのに合わせ、わたくしも静かに息を()きました。


「受け入れて導く者に、扉はひらきます。それがあなたの技です、貂蝉様」


 霜華の静かな声が胸の底に響きました。


 運命は預けません。開けるのは、わたくしです。



 それからは弁皇子の成人まで、わたくしは房中術の技を磨くつもりでした。


 ところが、時の流れが急に変わったのです。


 皇帝が崩御(ほうぎょ)し、ほどなく弁皇子も薨去(こうきょ)


 都は長安へと(うつ)り、わたくしに開かれていた後宮への扉は静かに閉じました。


 ――わたくしはいったい、どうすれば……。


 行き場を失ったわたくしに、新たな道をお示しくださったのは王允様でした。


 扉の向こうで、董卓様が待っています……


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