見守る月、見惚れる影
昼下がり。帳を透かして差す光が、室内に淡く揺れておりました。
その静けさを破るように、衛士がひとり足を踏み入れてまいります。
「相国様は、本日夕刻に貂蝉さまのもとを訪れます」
武骨な声音に、胸の奥がどきりと跳ねました。
「まあ、珍しいこと」
霜華が栗色の目を瞬かせました。
「普段は言伝もなく、急においでになることが多いのに……」
わたくしは息を整えながら頷きました。
さらに衛士は続けました。
「中庭の東屋にて、歌と舞を披露せよとの仰せです」
衛士は頭を垂れ、足音を残して遠ざかってゆきました。
扉の向こうに気配が消えたのを確かめ、わたくしたちはようやく顔を見合わせます。
「歌と舞……?」
「董卓様が?」
思わず声にしてしまい、すぐ唇を押さえました。
――あの無骨なお方が舞を楽しまれるなど、にわかには信じられません。
霜華は苦笑を浮かべ、ひと息ついてから真顔に戻りました。
「おそらく王允様が取り次がれたのでしょう。貂蝉様は桃房塾きっての名手、と」
その言葉を聞いたとたん、胸の奥に小さな灯がともり、指先へじんわりと広がってまいります。
羞恥や恐怖とは違う――確かに女として尊ばれたのだという感覚。
わたくしたちは思わず笑みを交わしました。
「嬉しいことですわね」
霜華が目を細めました。
「本当に……初めてですわ。体ではなく、技を求められたのは」
わたくしも頷き返しました。
その言葉を口にしたとき、肩の内側から力がすっと抜け、心がほのかに震えました。
まるで舞台に上がる前のように、胸の奥に静かな高鳴りが満ちていったのです。
「さっそくお稽古をいたしましょう」
霜華がわたくしの手を取り、まっすぐ見据えて声を重ねました。
「夕刻まで時間がございません。歌舞の衣装も整えなくては」
そう促され、わたくしは胸の鼓動を押さえました。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
西の空に沈みかけた陽が池を朱に染め、水面は紅と藍とが交じり合って揺れておりました。
わたくしは東屋に立ち、恋歌を口ずさみながら舞い始めます。
「河辺の草は青々と
園の柳はゆらゆらと
楼の上には、輝く乙女の姿あり」
――董卓様の御前で舞を披露するのは、これが初めてですわね。
胸の内でそう呟くと、自然と背筋が伸びてまいります。
声は夕暮れの風にのって東屋の柱の間を抜け、中庭に柔らかく広がってゆきました。
西空の光はすでに薄れ、天空の半月が白く庭を照らしています。
――その光に祝福されているようで、胸が弾みました。
久方ぶりに人前で舞える喜びに心が熱を帯び、袖をひるがえす手にも自然と力がこもっていきます。
けれど視線をちらりと送れば、董卓様は酒盃を手に、どこか退屈げなご様子。
――困りましたわ……不興を買ってしまったのでしょうか。
胸の奥で小さく嘆きつつも、舞の手は乱さずに踊り続けました。
曲が終わるころには庭はすっかり闇に包まれ、半月の光だけが石畳を照らしておりました。
――そのとき。
「カンッ」
石畳を叩く甲高い音が響きました。
はっと音の方を向くと、木陰で人影が揺れています。董卓様の護衛が手元を誤り、槍を倒したのでしょう。
「誰じゃ!」
董卓様が怒声をあげました。
「せっかくの舞を台無しにしおって……興醒めじゃ!」
その叱責とともに、酒盃が投げつけられました。
月明かりの下、その影は身をすっと引き、杯をかわして低く応じます。
「御不興を被りましたゆえ、これにて御前を下がらせていただきます」
その声音を耳にした董卓様が一瞬たじろぎ、口ごもられたのを、わたくしは見逃しませんでした
「お……おう……下がれ、下がれ」
さきほどまでの剣幕が嘘のように、どこか遠慮がちな響きでございます。
その人影が庭を離れようとした刹那、目が合ったように思いました。
すぐに逸らされましたが、そこには董卓様にも王允様にもなかった眼差し
――ものとしてではなく、わたくしを一人の人として映すような温もりが感じられたのです。
去りゆく背を、董卓様もわたくしも無言のまま目で追っておりました。
やがて姿が消えたとき、董卓様が小声でつぶやきました。
「ちっ……呂布だったとはな」
――呂布様?
耳を疑い、思わず問い返しました。
「いま、呂布様と……?」
「誰でもよいわ」
董卓様は吐き捨てるように背をのけぞらせました。
そして、ぎろりとわたくしを睨んだのです。
「それよりも、貂蝉よ。わしの目の前で、他の男の影を追うとは……いい度胸をしておるな」




