かごの鳥
男に生まれたかった……
それは心臓に巻きつく黒い願望。
美しい顔は祝福だと、人は羨みます。
しかし、わたくしにとって美貌など、呪いでしかありません。
王允様によって献上されて以降、わたくしは董卓様の御屋敷に移されました。
絶世の美女──そんな飾り文句のついた、ひとつの贈り物。
気まぐれに訪れる館のご主人様に眺められ、呼びつけられ、気まぐれに抱き寄せられる。
わたくしはこの御屋敷で、籠の鳥のように飼われております。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その夜も、呼び出しは唐突でした。
侍女に促されて寝所へ向かう廊下は、やけに長く感じられます。
灯りに揺れる影が、ひどく歪んで見えました。
「来たか、貂蝉」
低い声が、薄暗い寝室に落ちます。
厚い胸板を持つ巨体が、当たり前のように手招きしました。
逃げ道はとうにありません。ここへ連れて来られたときから、一度も。
近づけば、衣の袖をつかまれ、強い力で引き寄せられました。
汗のにおいが鼻を刺し、肌にまとわりつく重みから逃げることはできません。
それでも、媚びた声がわたくしの口から絶え間なく漏れ出ていきます。
心は冷たいのに、身体は違うふるまいをする。
この矛盾が、いちばん嫌でした。
(やめて……こんな自分、知らない……)
強く目を閉じても、圧し掛かる董卓様の重みは消えてくれません。
太い腕が肩と背を押さえつけ、逃げ道をふさぐように力をこめてきます。
そのとき──
ふと、窓のすき間から月の光が差し込みました。
闇に沈んでいた寝所に、冷たい光が一筋。
乱れた衣の隙間から覗く肌を、容赦なく照らし出しました。
「ほれ、外からも見えておるぞ」
董卓様が、おもしろがるように囁きました。
寝所の外には、夜番の衛士たちが控えているはず。
薄い戸一枚の向こうに、人の気配があります。
その視線を想像した瞬間、稲妻のような羞恥が胸を貫きました。
「いやっ……見ないで……」
思わず胸元をかばうように腕を寄せると、荒い手がその腕を乱暴に払いのけました。
「隠すでない。見せよ。晒せ」
短い言葉が、鞭のように背中を打ちます。
抵抗できぬまま腕を下ろすと、月夜の冷気が胸元をなで、痛みに似た熱さが広がりました。
恥ずかしさで、顔が焼けるように熱くなります。
それでも逆らえば、もっと酷い目に遭うとわかっているため動けません。
(どうして……どうして、女なんかに生まれてしまったの……)
心の中の呟きは、誰にも届きません。
「ははっ。震えておるな」
董卓様は、わたくしの頬を指でなぞりました。
その指先には、やさしさも慈しみもありません。そこにあるのは、ただ玩具を見る目だけ。
「外では呂布が、耳を澄ませておるぞ」
耳元へ落ちた声に、心臓が跳ねました。
「……え?」
「扉の向こうでな。今夜の『なき声』、聞き逃すまいとな」
呂布将軍の顔が、脳裏に浮かびました。
董卓様の護衛隊長。
戦場では鬼神のように暴れ、百戦錬磨の猛将として知られる人。
その人が、扉一枚隔てた向こうにいると思うと──。
(そんな……いや……)
想像しただけで、全身がかっと熱くなりました。
恥ずかしい。情けない。消えてしまいたい。
それなのに、喉から押し出される声は止まってくれません。
「嫌がれば嫌がるほど、面白いわ」
董卓様は、わざとらしく笑いました。
「女の泣き声など聞き飽きた。もっと無様に鳴いてみせよ。豚のようにな」
「そ、そんな──」
言い返す前に、頬を軽くはたかれました。
痛みはさほど強くありません。
ですが、笑い声に混じる嘲りが、胸の奥を深く抉ります。
「ぶふうっ、ぶうぅぅ!」
命じられるまま、喉の奥から声を絞り出しました。
それは、自分でも耳を塞ぎたくなるほど、みっともなく震えた声でした。
「あーはっはっは。貂蝉よ、恥ずかしくないのか?」
わたくしの声を聞く董卓様は、心底愉快そうに笑うのです。
(恥ずかしくないはず……ないでしょう?)
叫びたくても、声になりません。
歌や舞を笑われるのは構いません。
未熟だった己を責め、さらに芸を磨けばいいのですから。
けれど、これは違います。
笑われているのは、わたくしの歌でも舞でもなく──
「女」という存在そのものなのですから。
どれほど長い時間が過ぎたのか、もうわかりません。
わたくしの震えも涙も、董卓様にとっては酒肴のひとつ。
そう思い知らされるたび、胸の奥で何かがすり減っていくのです。
長い、長い夜でした。
やがて、重くのしかかっていた気配がふっと遠のきます。
「ふん……よい具合であった」
耳元でそんなことを言うと、董卓様は、さっさと身支度を整えました。
わたくしのほうを、振り返りもしません。
このまま背を向けられたら、本当に「物」として使い捨てられてしまう──
そう思った瞬間、口が勝手に動きました。
「……いかないで……」
自分でも驚くほど、かすれた声でした。
しかし、その一言は、薄い空気にあっけなく飲み込まれていきました。
戸が開き、重い足音が遠ざかっていきます。
戸が閉まる音だけが、妙にはっきりと耳に残りました。
(ほんのひとときでもいい──)
そっと、胸の内で呟きます。
(女として、尊ばれたかった)
その願いは吐息に紛れ、夜の闇に消えていきました。
じんじんと痛む首筋に、先ほど強くつかまれた傷跡の感触が残っています。
その疼きだけが、わたくしがまだ生きている証のようでした。
――いっそ人であることを忘れられたなら。
女に生まれたこと。それは呪いなのでしょうか。
それとも、いつか祝福に変わる日が来るのでしょうか……。
服に手を伸ばす力すらなく、乱れた衣のまま枕を濡らす夜が、また訪れるのでした。




