第九話
今日は「出会う日」だと魔女は言った。
黄色のバケツの中で泳ぐ四匹の金魚に向けられる目は優しさを抱く。
リュカは自分の鞄とうたの鞄を右手にもち、うたの隣をゆっくり歩いていた。
魔女は運命の流れを読むことができ、生命あるものと会話をすることができる唯
一の存在。
西の魔女ガーナはうたより十歳以上年上で、リュカが初めて出会った魔女でもあ
り、魔女などろくな生き物ではないと思わせた人物だった。
北の魔女ビジャは雪山の奥深くに住む老婆だと言われている。
南の魔女ノクスはまだ八つの子供で、生命あるものと会話する力をガーナに奪わ
れ、そのショックで口がきけないらしかった。
そして三百年の時を経て東に生まれた魔女がリュカの仕える『小宮山うた』だっ
た。
東に魔女が生まれたことを魔女狩りに知られ、リュカの父であり、エルフの長で
あるオルガは暗闇からリュカを引っ張り出し「人に混じり、魔女を守れ」と言っ
た。
そしてリュカは日本に来て、うたに出会った。
“待ってたよ。”と玄関の前に立って笑う小さな少女に魔女を見た。あの日から
一年と半年が経つ。
西の魔女とは違う、人の中で人として生きる小さな魔女が幾つもの運命を変えて
いくのをリュカはずっと隣で見ていた。
そしてうたは今日もまた、いつもと違う道を歩き、運命を変えに行く。
いつかうたが魔女の存在する意味について「理不尽への対応策」と言っていたの
を思いだした。
全てに意味を持たせる神に創られた人間が、無意味なことをして理不尽を生み出
す。その理不尽に対して魔女が創り出されたのだとうたは優しく微笑んでいた。
「化け物。」
空が真っ赤に染まる秋の夕暮れ時、大きな道の向こう側の公園から笑い声が響い
てきた。
うたが見つめる先に変えなければならない理不尽が待っているのかとリュカはう
たを見る。
「行かないのか。」
なかなか動かないうたにリュカは不思議そうにきいた。うたは答えない。
公園の中をじっと覗きこむと、三人の少年がジャングルジムに登って、ある一点
へ笑い声を投げつけているのが見えた。
リュカはその笑い声がどの種のものかすぐに分かり、その先にいる泥のついた服
を着た少年が顔を覆って俯いているのを見た。
「人間は国を越えずに、平和を乱すことができるじゃないか。」
うたはリュカの冷たい声に顔をあげた。
リュカが今何を思っているのか、何故そんなことを言うのか、うたに分からない
はずがなかった。
人にはない白銀の髪を指差され、エルフにはない青い目を笑われて生きてきたリ
ュカの声が深くうたに響いていく。朝と同じ冷たい目が公園を映していた。
朝食を食べるリュカの目はテレビの向こう側の黒っぽいスーツを着て胸を張る男
をじっと見ていた。
“肌の色や目の色は違えど、同じ星に生まれた命だ。属する国は違えど、同じ地
球に生まれた命だ。差別などなんの意味もない。争う必要などないのだ。手と手
を取って平和を築こうではないか。”
朝日の差し込む静かな居間にテレビの中から拍手音が煩く響いた。
「人間は弱くて愚かだから、傷つけようと思っていようがいまいが、何かを傷つ
けてしまうんだよ。」
うたはバケツを覗き込みながらそう言った。
人を嫌い、憎んで生きる西の魔女とは違い、東の魔女は人を愛して生きているこ
とをリュカはよく知っていた。
「けど、お前はそれでも人間を愛している。」
「きっとそれだけじゃないって信じてるの。」
子供達はその信頼を簡単に裏切って笑い声をあげる。うたはまだ歩かなかった。
「助けなくていいのか。」
リュカがそう促しても、うたはただ首を横にふって、じっと耐えるように立って
いた。
「添え木、なんだよ。私はあの子のビニールハウスじゃなくて添え木なの。」
添え木とは裏庭の小さな植物をしっかりした棒に結んだあれか、とリュカはうた
を見た。
「人間はお前が信じるに足る生き物なのか。」
「足りるとか足りないじゃないんだよ。でもリュカは人間を愛する必要はない。
だからただリュカが愛するに足る存在を愛せばいい。」
自分だけは人を愛さなければいけない、うたはそう言っている気がした。魔女と
いう存在を最も重んじているのはうた自身だった。リュカは簡単に折れてしまい
そうなか細いうたの中に何が入っているのだろうかとほんの少し気味が悪くなる
。リュカでさえ知らないうたが静かに外の世界を覗いているように思えた。
それでも隣にその存在を感じていたいと思うのは、うたの言う『愛する』という
感情ではないだろうか。
うたが人を愛するなら、人を愛してみようとリュカがその青い瞳の中に人間を映
したのは、もうずいぶん昔のこと。うたはまだそれを知らない。
細く小さなうたが少年の添え木となる。自分が折れてでも支えるあの添え木にな
る。
うたがそう決めたのならそんなうたの添え木になろう。リュカは公園に目を戻し
、そう思った。
何か荷物のようなものを投げつけられ、さらに体を小さく丸めた幼い少年がリュ
カの青い瞳の奥に映る。
少年達は高く耳につく笑い声を残して公園から出ていった。
その瞬間。たっ、とリュカの隣から軽い足音がうたと共に駆け出した。
ずっとこの時を待っていたうたはバケツを大事そうに抱えて駆けていく。
人として生きる魔女は人を憎んでさえいたリュカを変えた。
そしてまた、彼女は一つの運命へ駆けていく。
リュカの耳に心地よく響くその足音は、小さな魔女の優しく暖かい運命を変える
足音だった。
勝手に夏休みをいただいてしまい、すいませんでした。
夏のこの期間は私情にて、更新が遅れてしまうことがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。