第八話
暁が初めて小林さんに会ったのは、もうすでに彼女が体をなくした魂だけの姿に
なってからだった。
最初はただ猫が鳴いているのだなと思い二階の窓からその小さな毛玉のような彼
女を見かけ、毎日同じ時間帯になると鳴くことに気がついた。
それは決まって晴れた日の昼休み。彼女の前を一人の少女がかけていく度、一際
大きな声をあげた。
しかし誰も彼女に目を向けることすらしなかった。
もしかして、と暁は少女が歩いて行った後、小さな山茶花の木から動かない彼女
にそっと近づいた。
白と茶色の彼女の金色をした丸く鋭い瞳がぱっと暁に向けられる。
その瞬間、暁は「しまった」と思った。
小さな猫の姿に気を抜いていた暁に、ぶわっと強風がぶつかった。
暁は体を動かすことすらできず、その風に倒れそうな体を懸命に支えた。
魂だけの姿でこの世に残る霊と呼ばれるものたちの生きていた頃の記憶を見ると
き、暁は身体中に強い衝撃を受け、痛みに似たそれに耐えながら波がおさまるの
を待つ。
一つの命の一生分の記憶が流れ込むその感覚はいつになっても慣れなかった。
一番強く心に残る記憶があまりにも鮮明で優しい感情さえまとって入って来たた
めに暁は思わず涙を流した。
「…君…。」
ようやく全てを受け入れると、さっきと変わらずじっと暁を見上げる目が哀しげ
に見えた。
もう誰の目にも映らなくなってしまった小さな猫の記憶はどこか自分と重なるよ
うに思える。
校内で霊を見たことを口にすれば、きっと昔の日々に戻るだろうと考えつくのは
早かった。しかし暁は諦めるように決断し、そっと体育館の方へ続く道に目をや
る。
「待っていて。きっと連れて来るから。」
その約束を果たした先にあるのが、小さな猫の中に強く残るあの笑顔と同じ優し
いものだとは思いもせず、暁はまた泣きそうになりながら小林さんの記憶を語り
終えた。
「人を嫌う者や人に嫌われる者は生きにくい世界だから、きっと小林さんは疲れ
ていたんだ。でもね。」
結衣の細い肩や柔らかい手に触れて、世界は優しいと思った。だから暁は小林さ
んの記憶を受けとめたとき、決断できた。
「まだ生きていたいと思えたんだよ、きっと。」
僕がそうであるように、と心の中で付け足した。
記憶と共に流れ込んできた感情を、今どうしても伝えなければ、そう思った。
結衣はその言葉の中に暁自身の影を見た気がした。
ぼかしても浮かぶ、人には見せない苦しみや悲しみをこんなふうに溶かしこむこ
とでしか自分の影を捨てられない暁を抱きしめたいと思った。
きっと全てを受け入れることも、伝えることも怖かったはずなのに、暁の目はず
っと暖かいままだった。
「暁ちゃんは見えないふりをしようとは思わなかったの?」
何も言わずに知らないふりをすることだってできたでしょ、と結衣は眉を下げて
首をかしげた。
「ただ僕が知っていて欲しいと思っただけなのかもしれないけど、二人だけはす
れ違ってほしくなかったんだ。」
結衣はただ暁の全てを綺麗だな、と思った。少し長い黒髪や哀しそうな瞳、姿ば
かりでなく、澄んだ光が内から抑えきれずに溢れでているようにきらきらと輝い
て見えた。
「それに僕はこの道を歩かなきゃならないから。」
「どうして?」
「さぁ、どうしてだろう。」暁は可笑しそうに笑う。
あの日金魚が泳いだからか。魔女の隣で人と違うものを持って堂々と生きる男の
背中を「格好いいな」と思ったからか。
いずれにせよ自分の意志で魔女の言葉を信じて歩こうと決めたから、歩いて来た
し、これからも歩いて行こうと思う。
「辛くても苦しくても、この道を歩けって言われたんだ。僕と出会う日を待って
いる人がいるからって。」
決して平坦ではない道を、人は理由もなく歩いていく。きっとそれと同じなのだ
と思った。
「私待ってたよ。きっと、待ってた。だから暁ちゃんにそう言った人、大当りだ
ね。」
結衣の笑い声に暁もつられて笑った。大当りという表現がどこか可笑しい。
十年ほど前、この日が来ることをすでに知っていて、ここまで歩いてくる力をく
れたその人を暁はぼんやりと思いだしながら、赤い金魚を頭の中に泳がせた。
「魔女だよ。僕にそう言ったのは魔女のお姉さんだった。」
紺色のセーラー服が似合う、黒い髪と黒い瞳の日本人形のように綺麗だけど、優
しく暖かな笑顔を振りまいている心優しい魔女。
きっとあれは本物だと今でも、いや、今だからこそ、そう思えた気がした。