第七話
どこへ逃げても暑さに襲われる夏、冷たい水のはるそこを吹く風は毛をまとう彼女にはとても心地のよい場所だった。
尻尾を水につけ、ぴちゃぴちゃと遊ぶ。
鼻につくつんとした匂いさえなければ、最高の場所だった。
しかし突然、高い声とたくさんの足音が響き渡り、彼女は音のするほうへ目をむけ身構える。
記憶の中の感情は明らかに怯えていた。
足音はすごい速さで彼女めがけてかけてくる。彼女は必死に逃げ場を探す。
ここへの入り口はたくさんの人間が立ちはだかり、周りを囲うフェンスは小さな彼女が飛び越えるには高すぎる。
気づけば前も後ろも足音がすぐ傍まで来ていた。
--―――― ぽちゃん ―――
尻尾しか入れたことのない水の中へ体を投げた。
冬の空のように淡く澄んだそこは、やはりひどく冷たいところだった。
しかしその中はごぽごぽという音だけで、静かだった。
外の世界の一切を閉ざして作られた世界。
彼女はもういいか、とその優しさに似た水の中に、外の世界で溜め込んだ悲しみと苦しみを気泡にして吐き出した。
温もりは求めないから、どうかここで眠らせて、と目を閉じる。
しかし闇は訪れなかった。
―――――― ばちゃん
大きな波と音が響き、暖かく柔らかな温度に包まれて、光差す外の世界へ連れ戻された。
そう気づいたのは、息を荒げて心配そうな顔をする少女が、ふわりと笑ったときだった。
「よかったあ。」
暑い地が水に濡れてちょうどいい温度になり、ゆっくり目を閉じる。
「平気?」
そっと触れてくる手に、怯えることはしなかった。
ほかとは違う優しい手に頭を摺り寄せる。
「結衣いいなー。」
「私にも触らせて。」
「だっこしたーい。」
たくさんの声から守るように優しくなでながら結衣は言った。
「追いかけたら逃げるに決まってるでしょ?・・・死んじゃってたかもしれないんだよ。」
小さな命を懸命に守ろうとする言葉に、彼女はそっと目をあけ結衣を見つめた。
沈黙の中、彼女を白いタオルが覆った。
「ごめんね、怖がらせて。」
悲しげな目が向けられる。
助けてくれたのは貴女じゃない。どうして貴女が謝るの。
にゃぁと小さく彼女は尋ねる。
結衣はもう一度ごめんねと言っただけだった。
コバヤシサーン、煮干し持ってきたよー。
それから毎日のように、結衣はあの水辺の隣にある細長い野原で待っていてくれる。
にゃぁとしか鳴けないけれど、いつもありがとうと言っているんだよ。
生きていようと思えたんだ。
こんな世界をもう少しだけ生きて、君のような人間に出会うのも悪くない、と。
そう伝えようにも貴女は「まだ欲しいの?太っちゃうよー。」と笑いながらおいしい小魚をくれるから、それで貴女が笑ってくれるなら、たくさんねだって、たくさん食べて生きていこうと思ったんだ。